
日本最古の公園「南湖公園」
福島県白河の南湖公園(なんここうえん)は、白河藩主、松平定信(楽翁公)により、1801(享和元)年に築造された日本最古といわれる公園。園内には日本庭園「翠楽苑」や茶室「共楽亭」がたたずむ。
約800本の桜が咲き誇るお花見の名所としても知られ、なかでも南湖神社境内の樹齢約200年の楽翁桜の美しさがひときわ目をひきます。


名君であり茶人、また優れた作庭家でもあった12代白河藩主・松平定信によって、武士も庶民も楽しめる行楽地として1801年に築造された公園。例年10月下旬から11月上旬には、1周約2kmの湖周辺にかけて、カエデなどの木々が色付き、湖面に映り込む紅葉が見事。また、南湖公園は小径に囲まれているので、紅葉を楽しみながらの散歩もおすすめ。


南湖公園案内
南湖周囲は、1周2キロの遊歩道が整備されています。南湖神社参道前にはお土産屋さん、飲食店もありまして桜、紅葉シーズンはにぎやかです。(南湖団子がお奨め!)
「赤⇒:駐車場」「ピンク⇒:楽翁桜」「青⇒:南湖神社」「黄⇒:翠楽苑」「グレー⇒:共楽亭」

駐車場
南湖周囲には何か所か駐車場がありますが、赤⇒駐車場がお奨め。観光バスも停められ、お手洗いも整備されている大きな駐車場です。南湖公園の核心部を散策するには最適な駐車場。
駐車料金:無料

南湖神社(なんこじんじゃ)
祭神は松平定信。…地元市民や松平定信を崇敬する人々、また渋沢栄一の支援もあり、1922年(大正11年)竣工し、御鎮座大祭が行われた。
楽翁桜 - 御神木。樹齢200年のシダレザクラ。定信が後に名乗った楽翁の号が命名の由来。



翠楽苑(すいらくえん)
1801年、楽翁公(白河藩主松平定信公)に よって築造された現在の史跡名勝「南湖公園」は、市の木となって いるアカマツを主景とし、楓、桜などの緑豊かな市民の憩いの場 となっています。この作庭は名君といわれ、その善政の手本を今日まで示し続けた楽翁公の手によるものです。
「翠楽苑」の名称は「南湖」の緑と、湖と水に通じる「翠」と楽翁公の 精神を受け継ぎ、日本の伝統文化の伝承と活動の拠点となるべき 施設であることから「楽」の一字を名称に入れ「翠楽苑」と名付けられました。
入園料:320円


共楽亭(きょうらくてい)
松平定信が南湖を造営した際に、眺めの良い鏡山中腹に建てた、奇棟造りの木造木端葺(こばぶき)平屋の茶亭です。
8畳2間の室内には鴨居や敷居がなく、これは定信の「士民共楽(武士も庶民もともに楽しむ)」という理念によるものと伝えられています。
「共楽亭」は南湖の十七の景勝の一つで、「共楽亭」と題した和歌は定信自身が詠んでおり、「山水の高きひきき(低き)もへだてなく 共に楽しきまどい(円居)すらしも」とあります。
拝観料:無料


管理人の独り言
江戸幕府8代将軍徳川吉宗の孫、白河藩主、松平定信は、広く領民から慕われる殿さまでした。神社までできてしまうんですから凄いです。
江戸期最悪の飢饉 ”天明の大飢饉” では、東北地方を中心に全国で2万人の餓死者を出しました。
白河藩ではいち早く対策に動き、余裕のあった分領の越後から米を取り寄せ、また会津藩や江戸、大坂から米、雑穀などを買い集めた。藩内の庄屋や豪農などからも寄付を募り、領民に配給した。藩を挙げての対策が功を奏し、領民から餓死者は一人とも出さなかったとの言い伝えが残っている。
というような見事な藩政を敷く、領民から慕われる大変な名君だったんです。

藩政に関しては、確かに見事でした。
でも…国政に関しては…???
天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となる。
そして寛政の改革を行い、幕政再建を目指したんです。
改革直前の状況は、田沼意次の政治により武士の世界は金とコネによる出世が跳梁しており、農村では貧富の差が激しくなり没落する貧農が続出していた。離村した農民は都市に大量に流入し社会秩序を崩壊させた。
定信の行った寛政の改革
○ 質素・倹約
○ 武芸の奨励
○ 棄捐令(きえんれい)
○ 囲米の制
○ 朱子学の奨励(寛政異学の禁)
○ 旧里帰農令(きゅうりきのうれい)
要約すると…質素倹約し、朱子学以外を禁じ、武芸奨励、旗本の借金帳消し、米を蓄え、都市の農民は地元に帰りなさい!
結果は、…
①幕府の政治に対して、商人が結束して対抗するようになり、商人の力がかえって強くなった。
②厳しいとりしまりのため、町人や農民の反感がいっそう強まった。
そして…松平定信の寛政の改革は、幕府の政治の立て直しにあまり効果を上げることができず、6年間で失敗に終わった。
有名な2つの歌を紹介いたします。
「田や沼や 濁れる御世をあらためて清く澄ませ 白河の水」
汚職にまみれた田沼時代を揶揄し、その後を託され、寛政の改革を進めた松平定信に江戸庶民が期待した歌です。
しかし、こんな歌も残されています。
「白河の 清きに魚も 住みかねてもとの濁りの 田沼恋しき」
定信の改革のあまりの引き締めに、庶民が辟易し田沼時代の華やかさを懐かしむ歌です。
財政改革に挑んだ田沼。寛政の改革で幕府を立て直そうとした定信。どちらの改革が幕府にとって真に必要なものだったのでしょうか?
厳格、公正、真面目な人であったことは間違いないようですが…国政に関しては、手腕を発揮できなかったようです。
でも、江戸三大改革の…
享保の改革
寛政の改革
天保の改革
どれも、質素倹約に走った政策は失敗に終わっています。
管理人の独り言