旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

日本三景 松島

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松島

江戸時代のはじめ、全国を行脚した儒学者林春斎(はやししゅんさい)が『日本国事跡考(にほんこくじせきこう)』において、卓越した三つの景観とした日本三景

松島、天橋立、宮島は、「海の青と松の緑が対象の妙をなし、その美しさは人々の心の琴線に触れる」と言われています。

それは誰もが一度は訪れて見たいあこがれの地であり、いつの世も変わることなく人々を魅了する、 日本人の旅の心の原点です。

 

世界三大漁場 三陸

世界に多数存在する漁場の中でも特に漁獲種の多い優良な漁場として、世界三大漁場と呼ばれる地域が存在します。

ノルウェー
カナダ・ニューファンドランド島沖のグランドバング
三陸金華山

…の3か所。

三陸金華山親潮(寒流)と黒潮(暖流)がぶつかる潮目であることに加え、三陸沿岸に連なるリアス式海岸や多くの島々の点在が魚の絶好の住処となるため、非常に豊富な種類の魚介類が水揚げされます。

さらにこのリアス式海岸は山地が海の間近まで迫るため、森のミネラルをたっぷり含んだ山水が絶えず海へ流れ込みます。そこで海水と混ざりあうことにより、世界有数の植物プランクトンの発生地となります。

かき」「ほたて」「ほや」などのプランクトンを食べて育つ極上の環境が整っています。このように様々な条件が重なり「三陸金華山沖の海の幸=美味しい」のです。

つまり、管理人が何を言いたいかというと ”松島に来たら牡蠣を食べましょう” って事なんですよ。

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松島牡蠣の旬のシーズンは10月から3月ですが、実は一年中食べることができます。もちろん旬の時期の牡蠣は、身も大きくもっともおいしいですが、シーズンを外れた牡蠣も十分おいしいのが松島の牡蠣。何といっても松島は、生牡蠣の生産量は日本一

「生牡蠣」「焼き牡蠣」「蒸し牡蠣」「牡蠣フライ」「牡蠣飯」「牡蠣汁」「牡蠣の天ぷら」…とにかく松島に行ったら牡蠣食べなきゃダメ!

 

歴史に名を残す偉人も絶賛!
日本三景 松島

松島の絶景は多くの旅人の心を魅了してやまない人気観光地です。戦国大名伊達政宗」や詩人「松尾芭蕉」など、歴史的な人物も松島に惚れ、現代にもその美しさを残しています。

青丸:駐車場」「赤枠:五大堂」「ピンク枠:福浦島」「青枠:観光桟橋」「ピンク丸:観瀾亭」「緑枠:雄島」「黄枠瑞巌寺」「グレー枠:円通院」

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駐車場(松島観光物産館)
松島観光をするのに最適な駐車場がここ!…松島最大の駐車場です。松島観光物産館は、どこに行くにも都合の良い立地。お食事、買物も出来て松島観光の情報収集にも最適。それにお食事、買い物をすれば駐車料金の特典もあります。

松島の駐車場の駐車料金は、統一されていまして、どこの駐車場も時間300円(以降30分おきに100円)となっています。

 

五大堂
松島観光の定番中の定番! …松島のシンボル的存在。五大島に建つ国の重要文化財  ”五大堂” …小さな朱色の二つの橋を渡り、五大島に渡ります。

この橋、線路の枕木みたいな橋床で足元に海が見えます。以前は枕木だけでした。これは五大堂に入るに際して集中して身を引き締めるためだそうです。(注意して歩かないと踏み抜きますよ…笑)

拝観料:無料

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現在のお堂は、戦国大名伊達政宗が造営したもの。屋根の下、蟇股には4方向それぞれの干支が彫られています。

五大堂は、遠景も見事。突き出した小島に朱色の橋が架かり、五大堂が佇む姿は、松島を象徴する風景です。

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福浦島(ふくうらじま)
松島観光の中心、松島海岸の東に浮かぶ島で、ひときわ目を引く252mの朱塗りの橋、福浦橋で陸と結ばれています。

福浦島は全島が県立自然植物園の指定を受けており、松林の中にツバキ・カエデ・竹など250種に及ぶ草木が自生しています。

島内ではゆるやかな道を歩きながら弁天堂や見晴台、天神崎などの見どころを30分ほどで廻ることができます

松島海岸と福浦島を結ぶ福浦橋は、別名「出会い橋」とも呼ばれています。松島海岸には赤い橋が3つあり、この福浦橋の他に五大堂の透橋(縁結び橋)、雄島の渡月橋縁切り橋)があります。

渡橋料:200円

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観光桟橋
松島の遊覧船発着所で「松島島巡り観光船」はここが出発地点です。観光船に乗ると、島々にまつわる話をガイド音声で聞きながら島々をめぐることができます。

お奨めは「仁王丸コース」です。全長約17キロのコースを周遊し松島湾内で有名な「鐘島」「仁王島」そびえ立つ岩肌の「陰田島」、縄文時代の遺跡が発見された「舟入島」、人が住んでいる桂島と野々島の間を通ります。松島海岸からでは決して見ることのできない松島湾独特の島々や風景を見ることが出来ます。

乗船時間は50分間 1時間に1本出ています。

乗船料:1500円

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「鐘島」「仁王島」「布袋島・恵比寿島・大黒島・毘沙門島

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1 雄島、2 双子島、3 千貫島、4 布袋島・恵比寿島・大黒島・毘沙門島、5 伊勢島・小町島、6 かぶと島、7 箕輪島、8 筆捨島、9 馬の鞍掛島・化粧島、10 在城島、11 ドーラン島、12 モンド島、13 材木島、14 火付島、15 馬放島、16 うさぎ島、17 夫婦島、18 鐘島、19 小藻根島、20 仁王島、21 鍋島、22 水島、23 桂島、24 石浜崎、25 舟入島、26 チリ島、27 陰田島、28 石浜水道、29 石浜、30 野々島、31 寒風沢島、32 大島、33 屏風島、34 犬島、35 経ヶ島、36 福浦島、37 福浦橋

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仁王丸

 

観瀾亭( かんらんてい)・松島博物館
「観瀾」とは、さざ波を観るという意味です。観瀾亭は元々、豊臣秀吉が築いた伏見桃山城にあった茶室を初代仙台藩主の伊達政宗が貰い受けたもの。政宗が江戸品川の藩邸に移築し、その後、二代目藩主の忠宗が一木一石変えずに現在の場所に移したと言われている。

歴代の藩主が納涼や月見に利用していた建物で、別名は「月見御殿」。茶室なのでさほど大きな建物ではないが、現在でも月見の名所として訪れる人は多い。

記録によると藩主姫君、側室等の松島遊覧、幕府巡見使等の巡視の際の宿泊、接待用の施設「御仮屋」として利用されていました。

江戸時代の終わりまで、この敷地内には藩主等に随行する侍の部屋、台所、馬屋など11棟あまりの建物が存在しており、観瀾亭はその中の一部分が現存している貴重な建物です。

入館料:200円

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雄島(おじま)
松島は ”本三景”景勝地として有名ですが、実は中世の頃までは ”奥州の高野” とも称される死者供養の霊場でした。

それを物語るスポットが「雄島」です。島のいたるところに岩窟群がみられ、中には仏像や石塔などが安置されています。

松尾芭蕉も『おくの細道』の道中で弟子の曽良とともに雄島を訪れており、島内には芭蕉と弟子の曾良の句碑が建っています。

雄島へ行くには、渡月橋(とげつきょう)という朱色の橋を渡ります。渡月橋は、かつて僧たちが雄島に入る際に陸地の俗世との縁を切ったことから「悪縁を断つ橋」とも呼ばれています。

入場料:無料

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雄島に入り先ず正面に「奥の細道」の案内標識。芭蕉曽良の句碑も並んでいる。弟子の曽良によると芭蕉は、松島の景色を前に「松島の絶景に感動するあまり、 句が浮かばない」と言ったと伝わっていますが…

芭蕉の句碑には、
「朝よさを 誰まつしまぞ 片心 芭蕉翁」

曽良の句碑は、
「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす 曽良

…と刻まれています。…芭蕉は句を詠んでいるじゃないですかね。

因みに芭蕉の有名な句「松島や ああ松島や 松島や」これは芭蕉が詠んだ句ではありません。(後世の創作だそうです)

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「神秘的な岩窟群」 古来、諸国から僧や巡礼者たちが足を運び、修業に励んだという松島の雄島。その形跡でもある岩窟群は島のいたるところで見られ、中には仏像や五輪塔(供養塔)などが鎮座しています。

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1104年に「見仏(けんぶつ)上人」が庵を結び、12年間、法華経を読誦して過ごした
という「妙覚庵」の跡です。この「見仏上人」は、雄島に住んだ僧の中で最も高徳の僧であると言われていました。

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全島が霊場のようなこの島には句碑も多く、南端には頼賢(けいらん)の碑が六角形の鞘堂の中に納っています。

ここに22年間住み、その間ついに一歩も島を出なかったという僧の頼賢は、見仏上人の再来とあがめられました。

高さ3メートルの碑の表面には、まわりに雷文と唐草が施され梵字とともに「奥州御島妙覚庵」「頼賢庵主行実銘並序」の文字があります。本文は、頼賢の徳をたたえたもので松島の古い時代の様子も書かれています。

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「頼賢の碑」・「坐禅堂」

 

瑞巌寺(ずいがんじ) 国宝・国重要文化財
天長5年(828)、慈覚大師円仁によって開創された奥州随一の古刹で、延福寺と呼ばれていました。延福の寺号は天台宗の総本山、延暦寺に由来します。正元元年頃(1259)臨済宗に変わり寺名も円福寺へと改名されました。

現在の建物は、慶長14年(1609)、伊達政宗が桃山様式の粋をつくし、5年の歳月をかけて完成させたものです。建築にあたっては、諸国から名工130人を集めたほか、建材も熊野山中から取り寄せるなど、奥州の覇者としての意気込みが伝わります。造営の縄張には政宗自ら縄頭を執ったことからも政宗が心血を注いだことが窺われ、奥州の覇者としての意気込みが伝わります。

伊達家の菩提寺である瑞巌寺は、桃山時代の真髄を表している荘厳な建物です。特に唐戸や欄間、あるいは襖や床の間の豪華な絵画は日本の自然美を代表する人工美の極致とされています。

瑞巌寺に関しては、これだけで1本記事を書かなきゃならないほどの名刹です。

入場料:700円

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円通院
伊達政宗の嫡孫光宗の霊廟として、正保4年(1647)瑞巌寺第100世洞水和尚により三慧殿(さんけいでん)が建立され開山されました。

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建物は宝形造、本瓦葺で、四周に高欄付の縁を巡らす。東北地方では数少ない 格式ある方三間霊屋の遺構であり、霊屋建築としては宮城県下最古とされ、3世紀半もの間秘蔵とされた国の重要文化財です。

本堂の大悲亭は光宗公の江戸納涼の亭として使われていた建物を解体移築されたもので、寄棟造萱葺で禅寺らしい落ち着いたたたずまいをしています。

山門は開山と同時に建てられたと考えられ、萱葺で一間一戸の薬医門です。
本堂と共に松島町指定文化財となっています。

拝観料:300円

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「三慧殿」・「大悲亭」

管理人の独り言

江戸時代はじめの儒学者林春斎(はやししゅんさい)が『日本国事跡考(にほんこくじせきこう)』において、卓越した三つの景観としたことにより、松島天橋立、宮島が日本三景とされました。

林春斎の生まれた日、1618年7月21日にちなみ、7月21日が「日本三景の日」となっています。…そんな林春斎について語ります。

林春斎は、林羅山の子供です。林羅山、名前だけは皆さんご存知です。歴史の教科書にも載っている有名な江戸時代初期の儒学者です。

羅山は京都に生まれ、藤原惺窩(ふじわらせいか)に弟子入りし、儒学こと朱子学を学ぶ。大変頭の良い人…というより天才です。

惺窩よりの推挙で徳川家康に仕える事になり、表舞台に登場します。

林羅山のエピソードを2つ紹介

エピソード1:慶長11年(1606年)イエズス会の修道士、イルマン・ハビアンと「地球論争」を行っている。この時、イルマンの天動説に対し、羅山は地動説を主張、展開して論争となります。…つまりガリレオが地動説を主張し「それでも地球は回っている」としてローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡されたのが1633年ですから、ガリレオから遡る事、27年前にはすでに羅山は地動説を確立していたんです。

エピソード2:慶長19年(1614年)大坂の陣、豊臣家滅亡にも関与しています。

方広寺の梵鐘に刻された『国家安康』(こっかあんこう)『君臣豊楽 子孫殷昌』(くんしんほうらく しそんいんしょう)の文言の件(方広寺鐘銘事件)で、家康に追従して、これを徳川家を呪詛するものとして問題視する意見を献じた。

『国家安康』→家康の ”家””康” を切り離している。家康の頭と胴を切り離す。

『君臣豊楽 子孫殷昌』と豊臣家の反映を願っている。

さらに羅山は「右僕射源朝臣家康」(右僕射は右大臣の唐名)を「家康を射る」ものであると無理にこじつけた見解を表明しています。 

頭は良いけど正義には欠けていたかも知れません…(笑)

武家諸法度」を想起したのも林羅山です。

そんな羅山の息子が…林春斎だったんです。