旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。…当ブログ記事は転載OK…リンクを貼っていただけるなら遠慮なくお好きにお使いください。

桜の名所 大垣城

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大垣城の桜遊び

別名、麋城(びじょう)、巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれる城で、桜の名所としても有名で3月下旬~4月中旬桜がみごろとなります。この時期、大垣公園の園内には、30種約200本のサクラが咲き誇り、地元住民、観光客の目を楽しませます。

桜の大垣城は、まさに絵に描いたような美しさ。勇壮な天守閣と桜をバックに、江戸期時代の城主、戸田公の銅像を撮影するのも良いですね。 (記事トップの写真)

 

「おあむ物語」
大垣城と言ったら、関ヶ原の戦いで三成の居城にもなった城として有名です。西軍に組していた大垣城は、東軍に包囲され落城するんですが、物語があるんです。

城の守りを任された武将の中に、石田三成の家臣で山田去暦(きょれき)という人物がいました。娘と共に城に籠っていた。この娘が後に出家し、歴史の生き証人として壮絶な籠城戦の様子を後世に残すことになるんです。それが「おあむ物語」。

関ヶ原から数10年を経たある穏やかな日、子供たちにせがまれ昔話を始めるおあむ。語られるのは、血と硝煙の匂いに満ちた凄惨な落城前夜の模様…

「城内の女性たちと城の天守にて鉄砲玉を作り、味方が討ち取った敵将の首に札を付けて天守に並べ置き、毎夜これに鉄漿(お歯黒)を付ける作業をし(戦においてお歯黒付きの武士は身分が高いとされていたため、のちの恩賞のため鉄漿首を作ったという)、寝泊まりもしたということ、目の前で14歳の弟が撃たれて死亡し、明日は落城という日には、父母や家来と共に梯子をかけて城を脱出し、逃亡の途中で母が女児を出産した際は田の水で産湯を使ったことなどが語られる。」

…でも、子供を前にしているからだろうか、文面からはおとぎ話のような穏やかさすら感じられます。

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父の去暦は、能筆家であったらしく、徳川家康の幼少期に手習いの師匠を務めていた。その縁である夜、一家に脱出を促す矢文が届く。すでに関ヶ原では勝敗が決し、大垣城が落ちるのも時間の問題。去暦は妻と娘を伴い脱出を決意するのだが、戦時のことで外堀(水門川)を超えようにも舟がない。そこで一家は…

「北の塀わきより はしごをかけて。つり縄にて下へ釣さげ。さて たらひに乗て。堀をむかうへ渉り…」

…とおあむが語ったように、たらいを舟の代わりに堀を渡り、城を抜け出すことに成功した。

大垣城天守閣脇には今もなお、おあむ一家が松の木を伝って城を脱出したことに由来する「おあむの松(現在は2代目)」が青々と枝を広げている。

「おあむ物語」は、戦国時代の武家の暮らしを女性の立場から描写した貴重な一級史料とされる。

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このたらい舟が再現されているんです。

 

桜まつり期間限定、舟下り
鯉の速さで川を下る30分
川といっても一般の河川と異なり、大垣城外堀の水門川の水は、ほとんどが地下からの湧水。15mほどの川幅いっぱいを、澄んだ水が満たしている。その川面を覆うように枝を伸ばしているのは、戦後に植えられた染井吉野の桜並木。

植樹当初からそう意図されていたのか、ここの桜は完璧に、水の上から楽しむための枝ぶり。

この水門川の舟下り大垣城、桜祭りの期間に運行されます。桜の下を…桜のトンネルを舟が進む…これ以上の贅沢はありません。

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桜が散った後は、たらい舟!
史実に基づき平成15年から始まったのが「水の都おおがき たらい舟」で、用いられるのは水に強い岐阜県産の椹(さわら)材のたらい舟。1.8m×1.5mの楕円形を成す現代のたらい舟は、大人3人が肩を並べて乗ることができる。

おあむ一家が脱出に用いたのは標準的な「洗いたらい」で、おそらく大人一人がようやく乗れるほどの大きさしかなかったでしょう。しかも時折銃声が聞こえる中、夜陰に紛れての決死行だ。楽しいということなど全くなかったと思われるのだが、現在のたらい舟はもう、楽しいの一辺倒!

たらい舟は、桜の後の新緑の時期限定。乗船時間30分。大垣城の外堀・水門川を大垣城北側(史実通り)乗場~奥の細道むすび地記念館を結びます。

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水の都おおがき舟下り
コース:大垣城北側乗場~奥の細道むすび地記念館
運行期間:大垣城さくら祭り
乗船時間:30分
運  航:1日8便
乗船料金:1200円


水の都おおがきたらい舟
コース:大垣城北側乗場~奥の細道むすび地記念館
運行期間:大垣城さくら祭りが終わった後
乗船時間:30分
運  航:1日6便
乗船料金:2000円

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奥の細道むすび地記念館

舟下り、たらい舟の終着地点が 奥の細道むすびの地記念館” なんです。

旅を楽しむためには松尾芭蕉を知る事です。芭蕉は日本各地に出没していまして、その都度、句を詠んでいるんです。

芭蕉を知れば、その旅が一層奥深いものとなります。…そして大垣は、奥の細道の終着地点です。(松尾芭蕉 奥の細道について書いた記事です「NHK 100分de名著 松尾芭蕉『奥の細道』 - 旅cafe」参考まで…)

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奥の細道むすびの地記念館

徳川幕府が繁栄を極めた元禄時代に、俳人松尾芭蕉は江戸深川を旅立ち、約5か月をかけて全行程約2400キロメートルを旅し、ここ大垣市で「奥の細道」紀行を終えました。

奥の細道」は、今からおよそ320年前に俳人松尾芭蕉が書いた紀行文と俳句を組み合わせた文学作品です。紀行文とは、旅行中に体験したことや感じたことなどを書き記したものです。この大垣でも、多くの人が俳句文化に接しています。

芭蕉は、元禄2年(1689)3月27日に、弟子の曽良とともに江戸を出発し、東北・北陸地方を巡り、8月21日に大垣で、『奥の細道』の旅を終えました。ときに芭蕉46歳。距離にしておよそ2400キロ、150日、生涯で最大の旅でした。

奥の細道むすびの地記念館』は、松尾芭蕉の紀行文「奥の細道」の解説をはじめ、芭蕉の人となりや旅に生きた人生を紹介しています。

入館料:300円

 

管理人の独り言

大垣城と言ったら、関ヶ原の戦いで三成の居城にもなった城として有名ですが。始まりは、16世紀前半まで遡ります。

織田氏、斎藤氏、織田氏と支配権が移った後、この地域の支配権を獲得した豊臣秀吉により、1583年(天正11年)に池田恒興が城主となった。所領は15万石。

翌1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いで恒興が戦死すると息子の輝政が継いだが、さらに翌年の1585年(天正13年)に輝政は岐阜城主になった事により、豊臣政権の宿老、一柳直末が、大垣城に配され3万石を領する事となる。

そして関ヶ原の戦いでは、西軍に組した事により、東軍に包囲され落城する。江戸時代に入り、徳川家康譜代大名として石川康通を城主にし、その後1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城となった。

 

大垣城を紹介して歴史好きの管理人が、このまま黙って終わるはずがない
歴史を語ります…。

 

大垣城で決断された二つの歴史重要ポイント
その1 天下分け目の大合戦 関ヶ原の戦い 

美濃・大垣城を舞台とした前哨戦

慶長5年(1600)7月、大坂で石田三成が「反徳川」の旗を掲げて挙兵。それを受けた徳川家康は、会津の上杉討伐を取りやめ、石田三成との戦いに目的を切り替えた。家康はじめ、東軍諸隊は小山まで進んでいたが、ここで軍議(小山評定)を開いて今後の方針を決めた後、西へ向けて続々と引き返しはじめた。 

家康は、まず自らは江戸城に留まり、味方の諸大名には東海道を西へ進ませておき、尾張、清州城で待機させる。その一方で、息子の徳川秀忠に総勢3万8000の軍勢を預け、中山道を進ませて信濃周辺の攻略に向かわせた。東海道中山道の二方面作戦だ。

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一方の西軍は、総大将の毛利輝元大坂城に詰めて豊臣秀頼を守護した。石田三成たち主力軍は美濃まで進出し、大垣城を本拠地とした。三成の居城・佐和山城がある近江や豊臣家の本営・大坂城へ敵勢を行かせないよう防衛線を張った。

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こうして両軍の最前線は岐阜、清州城を拠点とする格好となり、美濃・尾張の国境で睨み合いが続いた。しかし、東軍は8月23日に西軍の岐阜城を落城させ、美濃へ侵攻。西軍は石田三成が当初から大本営としていた大垣城に籠城し、東軍の侵攻を阻もうとした。

現在の大垣城は公園に櫓が2つ復元されているに過ぎず、知名度も高くないが、当時は東西をつなぐ街道沿いに位置する西美濃の要衝にあって、非常に重視された城だった。天守を備え、水堀を幾重にもめぐらせた堅城で、敷地にして現在の3倍以上、櫓の数も10を数える大規模な要塞だったという。

ここであれば東から来る徳川軍を足止めし、士気が下がったところで反撃すれば大打撃を与えることもできる。石田三成はそう考えたのだろう。実際、東軍主力は大垣城攻めにかかりきりで、それより西へ進めずにいた。

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関ヶ原合戦図屏風』(行田市郷土博物館所蔵)

大垣城での攻防中、予期せぬ知らせが!

攻防が続く9月1日、江戸城にいた徳川家康が3万の大軍を率いて出陣する。家康は信濃攻略中の徳川秀忠軍3万8千にも、急ぎ美濃へ進軍するよう使者を出した。それから10日あまり経った9月13日、家康が岐阜に到着した。

しかし、秀忠の軍勢は来なかった。西軍・真田昌幸の拠点である上田城(長野県)の攻略に手間取っていたこと、また家康が出した使者が、川の増水などの影響で遅れたことが主な原因だった。結局、秀忠軍は2日後の関ヶ原決戦にも加われずに終わる。

家康はやむを得ず、自軍のみでの進軍を決断。翌14日の夜明けに長良川を渡り、西美濃の赤坂に着陣。西軍主力が籠城する大垣城攻撃を家康は自ら指揮する形となった。

徳川家康が加わっても、なお西軍有利の情勢は変わらなかったが、同じ9月14日、「関ヶ原の南西にある松尾山に小早川秀秋が入った」との知らせが、大垣城にもたらされた。それを聞いた石田三成は焦った。 

小早川秀秋といえば、最初から西軍の一員と見なされることが多いが、実はこの日までその去就を明らかにしていなかった。しかも1万5000の大軍を連れている。その小早川秀秋が松尾山に布陣したという。 

松尾山城は非常に堅固な砦で、西軍が今回の旗揚げに際して整備や補修を行なっていた一大拠点だった。山上からは関ヶ原がよく見渡せるし、そこに布陣すれば京や大坂へ向かう軍勢を食い止められる要衝でもあった。西軍首脳陣は大坂城から毛利輝元を呼び、布陣させての長期戦プランも視野に入れていたという。

石田三成としては、大垣城より西に東軍の拠点が造られてしまうことは避けたいという思いがあった。大坂・京との連携が絶たれるからだ。そこで、いち早く大垣城を出て関ヶ原へ急行し、松尾山城の小早川秀秋を説得して西軍に取り込もうとした。関ヶ原には、すでに9月3日から大谷吉継の軍勢が待機し、松尾山城の北側に布陣していたから、急ぎ合流を図ったのだ。

かくして石田三成以下、西軍は9月14日の夜、7500の守備軍を残して…
慶長5(1600)年9月15日
この大垣城から決戦前夜(午前0時)、石田三成6,000、宇喜多秀家17,000、小西行6,000が隠密裏に関ヶ原に向かいます。

当事の天候は小雨、西暦に直すと10/21日ですから肌寒い中で足元の悪い夜間の行軍は、兵士たちの体力を奪ったんじゃないでしょうか。中山道(国道21号)直線で12、3キロですから、伊勢街道を大きく迂回したようですから15キロぐらいの行軍の計算です。

管理人は、三成びいきですから三成の気持ちになって当事を再現してきました。それに関ヶ原の戦いのおさらいをするためにも大垣城で再確認するのをお奨めします。(その場で見れるDVDなども用意されています。入場料200円

午前5時頃、全西軍が関ヶ原に布陣完了。
午前6時頃、全東軍が関ヶ原に布陣完了。

ここで両陣営の布陣で注目すべき点ですがご存知の通り、最後まで戦に加わらなかった西軍、毛利勢(毛利秀元15,000、吉川広家3,000、安国寺恵瓊1800)、長宗我部盛親6600、長束正家1500…計27,900が決戦場から遠すぎることです。4キロ近く後方だと思います。これでは、動かない毛利に三成も相当いらだった事でしょう。

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いずれにしても、西軍は関ヶ原に東軍を誘い出し、有利な陣形を敷いて一網打尽にしようとしたが、小早川秀秋の予期せぬ行動で目算が狂った。関ヶ原への移動のタイミングが、想定していたよりも早まり、準備不足のまま移動することになってしまったようです。

 

大垣城で決断された二つの歴史重要ポイント
その2 秀吉が天下に上り詰める決定打 賤ケ岳の戦い

秀吉が実質天下を手中に収めた戦。それが、 ”賤ケ岳の戦い” です。 

本能寺の変の後、中国大返しでいち早く、畿内にたどり着いた秀吉軍は、明智光秀軍を撃破し、信長の弔い合戦に勝利します。

清須会議織田家筆頭の柴田勝家と対立。しかし勝家は弔い合戦遅参の負い目もあり会議の流れを秀吉に持ってゆかれる。そして勝家は、北国街道を通って越前、北ノ庄に帰って行ったのです。

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でもここでは天下の趨勢は決していません。

秀吉はすぐに動きます。清須会議で勝家に渡した北国街道沿いの長浜城を攻め、奪い返します。雪で畿内に乗込めない勝家は歯噛みしますが雪には勝てない。

年明け、雪融けを待たず勝家は、雪をかき分け北国街道を畿内に向け進軍します。

秀吉軍5万が勝家軍3万を北国街道、木ノ本にて迎え撃つ。ここに賤ケ岳の戦いが開戦したのです。

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1ヵ月の対陣が続きます。秀吉も勝家も「先に手を出した方が負け」とわかっていたのです。

勝家もその間、何もしていなかったわけではありません。勝家の意向を受け、織田信孝が美濃、岐阜城で挙兵、秀吉軍を挟み撃ちにする作戦に出ます。

天正11(1583)年4月17日、秀吉は行動に移ります。自ら主力部隊2万を率いて北国街道を南下、岐阜城に向かいました。

ここで秀吉が岐阜城攻略の前線基地として入城したのが ”大垣城” だったんです。

すると秀吉軍の陣地はもぬけの空同然。

勝家軍内では、「今が攻撃の時」と攻撃を主張する雰囲気になり、勝家も渋々、条件付き(一撃後はすぐに撤退)で奇襲攻撃を許可します。しかし、その時、すでに勝家軍は秀吉の仕掛けた罠に、はまっていたのです。

天正11(1583)年4月20日、深夜2時、勝家軍攻撃隊、出発。夜明けとともに攻撃、砦を奪い取り奇襲は成功。攻撃隊は、秀吉方の陣中深くに入り込んでしまった。敵陣を突破しかねない勢い。攻撃隊の誰もが勝利を確信。

天正11(1583)年4月20日、正午、北国街道を駆け、伝令が「勝家ついに動く」の報を大垣城の秀吉にもたらします。

報せを受けた秀吉は言い放ちます。…”我勝てり、勝家の命、我が掌中にあり”

ただちに秀吉は出陣を命令。1万5000の兵を率いて大垣城を出発、北国街道を北上。沿道の住民にはあらかじめ秀吉の命令が出されていました。

「炊き出しをし、食糧を用意せよ」
「街道には松明をかかげ 進軍を助けよ」

天正11(1583)年4月20日、午後9時、秀吉軍は、北国街道を駆けに駆け、出発してからわずか5時間後、秀吉軍、賤ケ岳に到着、世に言われる ”美濃大返し” です。

大垣から賤ケ岳まで52キロ、当時の常識ではどんなに急いでも12時間はかかる距離でした。

勝家軍の攻撃隊は、秀吉がすぐには賤ケ岳に来る事は無いと考えていました。たとえ秀吉が引っ返して来ても夜明けの後。

「秀吉が天馬であるにせよ、鳥であるにせよ、まだここへ来られるはずがない」

攻撃隊は、勝家の撤退の命令を無視して、秀吉軍の陣中深くとどまり続けたのです。

天正11(1583)年4月21日午前2時、秀吉軍の総攻撃が始まりました。不意を打たれた勝家軍の攻撃隊は壊滅。勝家は、その主力を失います

勝敗は、僅か半日で決しました。勝家軍からは逃亡者が相次ぎます。勝家は僅か100騎の手勢とともに北国街道を越前へ逃げ帰ったのです。

秀吉は攻撃の手を緩めず北国街道を追撃し、勝家を自刃に追い込んだのです。

 

大垣城には、本当に物語が沢山あるんです。 

 

参考サイト:「城びと | お城を知って、巡って、つながるサイト。

 

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