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世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」

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長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産

2018年6月「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産登録がなされました。長崎、熊本2県6市2町にまたがる12の資産で構成されています。

潜伏キリシタン…改めて考えると ”これ凄い事” …驚きです。250年もの間、キリスト教禁教政策の下で、ひそかに信仰を伝えた人々がいたんです。宣教師は全て国外追放となり、厳しい禁教政策の下、独自で信仰を続けてきたんです。

いや…日本人って本当に凄い。(普通は途絶えます)

世界遺産は疑問を呈するものも中にはありますけど 潜伏キリシタン これは、世界に誇れる日本人の文化です。

潜伏キリシタンは日本にしかありません。…日本にしかと言うより、 ”日本人にしか” と言うべきでしょう。

 

隠れ続けて250年「潜伏キリシタン

1582年、天正遣欧少年使節団(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)をキリシタン大名の大友、大村、有馬氏が派遣。…使節団の少年たちが欧州各地で見た光景は、日本の女性が行く先々で、奴隷として市場で売買されているという衝撃的なものでした。

当時、鉄砲は国産に成功していましたが、日本では硝石、火薬を造る技術が無かったんです。戦国大名にとって新兵器である鉄砲の活用は死活問題、火薬は1樽、日本の女性50人でした。…積極的に奴隷売買をしていたのは、九州のキリシタン大名、大友、有馬氏です。

火薬100樽で5千人ですよ。…日本人女性は、肌も白く、勤勉でキレイ好き、身辺を清潔に保てて、素直で民度も高く、道徳心も高い。欧州では一番人気、高額で売買されていたようです。

当時、奴隷としてヨーロッパに連れていかれた日本人女性は50万人と言われています。

そこで秀吉がブチ切れたんです。 (1587年、キリスト教宣教師追放)でも、この頃になると日本でも火薬の国産の目途がついてきたのでキリスト教の宣教師追放が可能になったのだという説もあります。

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ここでようやく日本人女性の国外流出が止まりました。(まあ…秀吉もたまには、良い事するかもしれない…笑)

その後、キリスト教は禁止されますが、それでも島原周辺の百姓の多くは、改宗したと見せかけて、キリスト教徒のままでした。

そして、キリスト教禁止が徹底される、大きな転機となった島原・天草一揆島原の乱)が、1637年に起きます。幕府は12万を動員して1ヵ月をようして、ようやく反乱を収めます。思いのほかてこずった幕府は、危機感を高め、本格的な禁教を徹底する事となるのです。

そこから250年の 潜伏キリシタン の始まりです。

 

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
長崎、熊本2県6市2町にまたがる12の資産

1.原城跡、2.平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)、3.平戸の聖地と集落(中江ノ島)、4.天草の崎津集落、5.外海の出津集落、6.外海の大野集落、7.野崎島の集落跡、8.頭ヶ島の集落、9.奈留島江上集落、10.久賀島の集落、11.黒島の集落、12.大浦天主堂

 

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1.原城
禁教初期に島原と天草の潜伏キリシタンが蜂起した「島原・天草一揆」の主戦場となった城跡である。この出来事は、幕府に大きな衝撃を与え、2世紀を超える海禁体制が確立されるとともに、残された潜伏キリシタンが、密かに自分たち自身で信仰を続けていく契機となった。
多数の人骨に伴って出土した信心具は、禁教後も潜伏キリシタンが密かに信心具を保持し、組織的に結びついていたことを示している。

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2.平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
安満岳から伸びる尾根に挟まれた谷状の地形と海に囲まれた集落。指導者の家には「納戸」と呼ばれる部屋の中に、密かに潜伏キリシタンの信心具が伝承され、山岳など在来宗教の信仰の場や禁教以前にキリスト教徒の墓地があった丘などを聖地として密かに崇敬した。

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3.平戸の聖地と集落(中江ノ島
江ノ島平戸島北西岸の沖合2キロに位置する長さ400m、幅50mの無人島であり、この島では、禁教時代初期に平戸藩による潜伏キリシタンの処刑が行われた記録がある。殉教地として潜伏キリシタンが密かに崇敬した。岩からしみ出す聖水を採取する「お水取り」が行われた聖地でもある。

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4.天草の崎津集落
禁教期に潜伏キリシタンが組織的に信仰を続ける中で、アワビやタイラギの貝殻内側の模様を聖母マリアに見立てて崇敬するなど漁村独特の信仰を育み、在来宗教と信仰空間を共有した集落であり、キリスト教解禁後は﨑津諏訪神社の隣に教会堂を建築した。

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5.外海の出津集落
禁教期に小規模な潜伏キリシタンの信仰組織が連携し、聖画や教義書、教会暦などを密かに伝承し、自分たち自身で信仰を続けた集落である。
解禁後は、段階的にカトリックへ復帰する者と禁教期の信仰形態を継続するもの(かくれキリシタン)に分かれた。1882年にはド・ロ神父が集落を望む高台に出津教会堂を建てた。それは出津集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。

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6.外海の大野集落
禁教期に潜伏キリシタンが自分たち自身で組織的に信仰を続けている中で、氏子となった神社に密かに自分たちの信仰対象を祀り、オラショ(祈り)を唱えるなど在来宗教と信仰の場を共有していた集落である。禁教期の信仰の場であった神社近くに、解禁後、大野教会堂が建てられた。
それは大野集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。

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7.野崎島の集落跡
禁教期に移住した潜伏キリシタンが、表向き海上交通の守り神である沖ノ神嶋神社の氏子を装うことで在来宗教と並存しながら自分たち自身で組織的に信仰を続けた。解禁後はカトリックへ復帰し、禁教期の指導者の屋敷を「仮の聖堂」として振興活動を続けたと考えられるが、その後、舟森集落には1881年、野首集落には1882年にそれぞれも木造教会堂が建てられた。
それは野崎島の各集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。

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8.頭ヶ島の集落
禁教期に外海の潜伏キリシタンが、仏教徒の開拓指導者のもと、無人島に移住・開拓し、自分たちで組織的に信仰を続けた。解禁後、カトリックへ復帰し、海に近い谷間の奥にある仮御堂跡に自分たちの教会堂を建てた。
それは頭ヶ島の集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。

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9.奈留島江上集落
禁教期に外海の潜伏キリシタンが、海に近い谷間に開けたわずかな平地に移住して固有の信仰形態を続けた。 解禁後はカトリックへ復帰し、禁教期以来の指導者の屋敷を「仮の聖堂」としていたが、やがて、湧水があり防風に優れた場所に木造の教会が建てられた。
それは江上集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。

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10.久賀島の集落
五島列島南部にある久賀島。禁教期に外海から移住した潜伏キリシタンが、仏教集落と互助関係を築きながら自分たちで組織的に信仰を続け、「信徒発見」後の厳しい弾圧を乗り越えてカトリックに復帰し、海辺に教会を建てるに至りました。
それは久賀島の各集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴しています。

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11.黒島の集落
禁教期に外海などから移住した潜伏キリシタンが、仏教寺院から信仰はを黙認されつつ、自分たち自身で組織的に信仰を続けた。解禁後はカトリックへ復帰し、禁教期に宗教儀礼が行われた指導者の屋敷など2ヵ所を仮の聖堂としていたが、後に島の中心に自分たちの教会堂を建てた。
それは黒島の集落における「潜伏」が終わりを迎えたことを象徴している。

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そして明治…「12.大浦天主堂

居留地の外国人のために建設したゴシック調の国内現存最古の教会堂。
1864年に建設、1865年に献堂され、直前に列聖されたばかりの日本二十六聖人に捧げられた。 献堂直後、浦上の潜伏キリシタンが訪れ自分たちの信仰を告白した「信徒発見」の舞台です。
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19世紀、日本の開国に伴って長崎に居留地が開かれました。大浦天主堂居留地に住む外国人のために、フランス人宣教師によって1864年に建てられました。

建造直後の1865年、長崎近郊の浦上から、潜伏キリシタンが密かに大浦天主堂を訪れて、宣教師に自分たちの信仰を告白しました。

日本のキリシタンが250年ぶりに宣教師と再会したこの来事は、 ”信徒発見” と呼ばれています。

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この出来事は、直ちに各地の潜伏キリシタン集落に伝わり、集落の指導者は密かに大浦天主堂を訪れて宣教師と接触しました。

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そして宣教師との接触は、潜伏キリシタン集落に転機をもたらしました。禁教下にもかかわらず信仰を表明した潜伏キリシタンには、厳しい弾圧が加えられました。

しかし、諸外国の抗議を受けた明治政府は、1873年に禁教を解きました。

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キリスト教解禁を受けて宣教師たちは、邸内に羅典神学校、伝道師学校を設置しました。そして日本人の宣教師や伝道師を養成し、教理指導のため、長崎、天草の潜伏キリシタン集落へ派遣しました。

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羅典神学校や伝道師学校は、転機を迎えた潜伏キリシタンカトリックへの復帰を促しました。大浦天主堂は、潜伏キリシタンが宣教師と接触し、潜伏が終わるきっかけとなる ”信徒発見” の場所です。

管理人の独り言

管理人は、キリスト教という宗教を否定するものでもないし、拒否もしていません。誤解しないで、この記事及びこの後の「管理人の独り言」を読んでいただきたい。

歴史的事実として当時のキリスト教を先兵とした組織的な人身売買の事は知っていましたけど…あまり興味がわかなかったから、今まで突っ込んで調べなかった。

でも、今回の記事を書くに当たって、キリスト教、宣教師、キリシタン大名、人身売買の仕組みなどを調べて、あまりにもの事実にムカついてきましたよ。

つまり、キリシタン大名たちは、貧しい農家から娘を買ってきて、火薬と引き換えにポルトガル人に日本人女性を、二束三文で売っぱらっていたわけです。…薄々知ってたけど…キリシタン大名ってのは、ろくなもんじゃないね。

でも、日本は、よくぞキリスト教を追い出せました。

当時、江戸幕府3代将軍、徳川家光は、国内にとどまらない問題にも直面していました。…それは、西洋諸国のアジア進出、とりわけポルトガル、スペインはキリスト教宣教師とともに次々と植民地を築いていました。

インドのゴア、中国のマカオ、フィリピンのマニラなど次々と攻略、次は日本ではないかと国内では懸念が広がっていました。…そんな折、家光に外国の脅威を、まざまざと感じさせる大事件が起きます。…それが、島原の乱だったんです。

そして危機感を抱いた家光は、ポルトガルを追い出して、オランダのみを例外とする鎖国を決断したんです。

アフリカ、インド、東南アジア、中国とみんなやられちゃったけど、日本だけは植民地にされないで持ちこたえた。もう秀吉の時代から、西洋列強の植民地支配の帝国主義は始まっていたんです。

それと奴隷制度が無かった日本に「人買い」「人さらい」を生業としている人間がいたわけです。こういう事も大きく関係していたんじゃないですかね。

 

参考サイト:「【公式】長崎観光/旅行ポータルサイト ながさき旅ネット

 

 

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