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戊辰戦争最終決戦の地 函館 五稜郭

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函館 五稜郭

五稜郭といったら、歴史好きの管理人でなくとも函館戦争、旧幕軍の本拠地 戊辰戦争最後の戦場”  として皆様も記憶されているのじゃないでしょうか。

榎本武揚、率いる艦隊7隻(通称 榎本艦隊)を中心とする旧幕府勢力は、薩長を中心に打立てられた新政府に反発する勢力を取り込んで北海道を独立国にしようという壮大な計画を進めていたのです。

今回は、戊辰戦争最後の激戦地、函館五稜郭を語ります。

榎本武揚が目指したもの

北海道に着いた旧幕府軍は、1968年10月20日箱館の北、内浦湾に面する鷲ノ木に上陸し、箱館へ進撃、各地で新政府軍を撃破し、五稜郭を占領。12月15日、蝦夷地平定を宣言し、士官以上の選挙により、榎本武揚は総裁となった。

欧米列強は、何をしていたかといいますと…アメリカは中立を宣言し、新政府が要求していた旧幕府が購入した最新鋭装甲艦・甲鉄引き渡しを拒否していました。

イギリスとフランスは状況把握と自国民保護のため軍艦を箱館に派遣、榎本は11月8日に両国の艦長および在箱館領事と会談。両国は「不干渉」を公式な立場として公表していたが、現地の担当者が「事実上の政権として承認する」という、方針とは異なる内容の覚書を手渡してしまった。

それを知ったパークスらは、この覚書を否認する文書を作成し11月30日に旧幕府軍へ渡したが、榎本らは事実上の政権として認められたと「喧伝」しました。

榎本は、1968年12月1日、新政府宛の嘆願書を英仏の艦長に託すが、12月14日、新政府に拒絶されます。

これらの榎本らの行動を鑑みると、万国公法(国際法)に明るかった榎本は、本気で北海道を独立国として、函館政権樹立を考えていたふしがあります。

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榎本武揚

①万国公法では、内戦中の一方の勢力は、必ずしも賊軍や在野ではなく、外交交渉権を持つことが出来た事を知っていた。

天皇を新政府にとられたが、国際的には共和制、民主国家が主流であることを知っていた。

③強力な海軍力を持っていた。(新政府には無し)

④仕事が無くなる幕臣を、広大な大地が開ける北海道開拓で救済する事が可能。

⑤函館は、ペリー来航以来開港していて、大きな利益を生んでいた。また、北洋の漁業も儲かる。江戸時代後期、函館に近い江差の町は、ニシンやイワシの干物を肥料として全国に出荷し「江差の五月は江戸にも無い」と呼ばれるほどの賑わいでした。

以上の条件のある北海道なら、榎本が夢を見るのも考えられると思います。

函館戦争へ

しかし翌1869年(明治2年)1月、中立宣言をしていたアメリカが、突然、新政府支持を表明。幕府が買い付けたものの戊辰戦争の勃発に伴い引渡未了だった装甲艦・甲鉄を新政府に引き渡したのです。

ここから一気に流れが変わり、函館戦争へ突入していったのです。榎本は、興味深い言葉を残しています。

「私は新政府軍に負けていない。イギリスの介入によって降伏したのだ」

欧米列強の支持を失った旧幕軍は、完全に孤立したのでした。

旧幕府軍、新政府軍、函館戦争戦力比較

彰義隊:185名 、新選組:150名、小彰義隊:54名、会津遊撃隊:70名、遊撃隊:120名、額兵隊:252名、陸軍隊:160名、見国隊:400名、伝習士官隊:160名、神木隊:70名、伝習歩兵隊:225名、杜陵隊:75名、衝鋒隊:400名、砲兵隊:170名、一聯隊:200名、工兵隊:70名、その他諸隊:100名、 海軍:800名 
旧幕府軍総勢:3661名

弘前:2,207 、松前1,684 、長州781 、備後福山632 、備前岡山541、熊本396 、徳山300 、薩摩293 、筑後、243 、黒石243、水戸219 、津199 、越前大野170 、箱館府200
新政府軍総勢: 8,108名

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榎本艦隊

開戦時で榎本艦隊はすでに、北海道の荒海に対応できず主力艦を失い、制海権を守ることが出来なかったのです。

対して新政府軍は、アメリカより最新鋭装甲艦、甲鉄を引き渡されており、艦隊戦力でも劣勢を余儀なくされていた。

函館戦争 開戦

海陸軍参謀・山田顕義率いる新政府軍1,500名が4月6日に青森を出発、1869年4月9日早朝、乙部に上陸。その後、新政府軍各隊が上陸し、総勢3300名が3方向から函館目指して進軍を始める。

各地で激戦が展開されるも、兵力、装備に上回る新政府軍の進撃を食い止めることが出来ず、5月18日、ついに五稜郭が開城。郭内にいた約1,000名が投降し、その日のうちに武装解除も完了した。ここに箱館戦争及び戊辰戦争終結したのです。

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ここで一人の人物の戦いを紹介します。
新選組、鬼の副長、土方歳三…といえば説明はいらないでしょう。

鳥羽伏見の戦いに敗れた土方は、近藤らとともに関東に逃れますが近藤が捕縛され処刑されてしまいます。その後、旧幕軍2000名を指揮する事となり、東北各地を転戦。

慶応4(1868)年9月3日 東北の諸藩は仙台城で軍議を開く、土方は東北全体を束ねる軍事総督就任を要請されました。

土方は答えます。「軍を指揮するには軍令を厳しくせねばなりません。背くものがあればいかに大藩の重役といえどもこの歳三が斬ってしまわねばならん。私に殺生与奪の権利をいただけるのであれば、お受けしますがいかがですか」と…。

東北の諸藩代表は言葉を濁します。「藩士の殺生与奪の権は、藩主のものであるからこの場で即答はできない」…これを聞いた土方は席を蹴って去ったといいます。

その後、土方は、榎本武揚と合流し、榎本艦隊とともに函館に入ったのです。

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函館戦争開戦、土方は奮戦するもジリジリと追い詰められる。
4月29日、二又口を死守していた土方隊に危険を知らせる報告が届きます。海岸線の防衛線が敵に突破されたというのです。敵の包囲を避けるため土方隊は退却を余儀なくされます。

函館・五稜郭に立てこもる旧幕府勢力の敗北が決定的になったこの時期、土方は「もし我が軍が官軍と和睦でもすれば地下で近藤と相見ゆるをえない」と語ったと言われています。

明治2(1869)年5月11日午前3時 軍艦からの艦砲射撃とともに官軍の総攻撃が始まりました。

土方達の本陣五稜郭は、函館市街から5キロ離れていました。
一方市街地の外れには海沿いに築かれた陣地「弁天台場」がありました。上陸した官軍は函館の市街地を占領、弁天台場と五稜郭は分断されてします。孤立した弁天台場の兵250、その主力はかつて土方と戦った新撰組の生き残りです。

彼らを救出するには市街地にいる官軍を突破しなければなりません。5月11日朝、土方は弁天台場の救出に出撃します。その時の様子を記録していたのが土方の補佐官、大野右仲です。

大野の記録によれば土方は、午前8時頃、大野とともに函館市街と五稜郭の中間の一本木関門に到着します。この時、一本木関門には官軍に敗れた旧幕府軍の兵士が次々と退却してきていました。土方は大野に命じます。「速やかに兵を進めよ、私はこの柵にあって退く者を斬る」大野は兵を率いて前進、土方が背後で指揮をとる事で旧幕府軍は少しずつ勢いを取り戻し始めました。

その時、官軍の兵士が放った一発の銃弾が土方を貫きました。

しばらくして前線に異変が起こります。それまで善戦していた旧幕府軍の兵士達が急に総崩れになって逃げ始めたのです。前線で指揮していた大野は戸惑います。逃げる兵を門で止めると約束した土方はどうしたのだ。急遽引き返した大野は土方の戦死を知らされます。

銃弾は土方の腹部を貫通、落馬して抱き起こされたとき土方の息はもう無かったといいます。

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土方歳三

明治2(1869)年5月11日 土方歳三 戦死 享年35

明治2(1869)年5月18日 土方戦死の一週間後、旧幕府軍は官軍に降伏。一年半におよんだ内乱の戊辰戦争は集結しました。日本は、薩摩・長州を中心とする明治政府のもと急速な近代化に乗り出します。

 

五稜郭 散策案内

五稜郭は江戸時代末期、日米和親条約締結による箱館開港に伴い、防衛力の強化を目的に築かれました。

五稜郭とは当時日本で建造された星形城郭の通称。現在は五稜郭公園として整備されており、箱館奉行所が復元されています。また、隣接する五稜郭タワーから五稜郭の全景を臨むことができます。

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五稜郭公園
箱館開港後の警備、蝦夷地防衛などを目的に元治元(1864)年に完成した一辺が255メートルある五角形の城郭。設計したのは蘭学者・武田斐三郎でオランダにあった一冊の築城書だけで完成させたという。

なぜ五稜郭が星の形をしているかというと、堀で囲んだ星型の先端に、砲台を設置できるようになっていて、本拠地である箱館奉行所を敵から守れるようにするためです。

実は、五稜郭は戦場ではなくて、あくまで本拠地であり屯所なので、土方歳三を始めとした新選組が実際に戦ったのは、その先の海岸線にある「弁天台場」や「一本木関門」なんです。「弁天台場」は、現在の「函館どつく前駅」付近にあり、箱館戦争新選組らの最後の戦場になりました。

少し離れた場所には、五稜郭の補助のために作られた支城の「四稜郭」もあります。五稜郭は「北海道遺産」と「国の特別史跡」に選ばれ、現在は「五稜郭公園」として、中央にある「箱館奉行所」と、隣接している「五稜郭タワー」と共に観光スポットになっています。

入場料:無料

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箱館奉行所
箱館奉行所は、箱館戦争後に一度取り壊されて、2010年に当時の建築方法で、瓦1枚にいたるまで忠実に復元されました。内部は当時の部屋が再現されていて、資料や映像などを見学できます。

拝観料:500円

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五稜郭タワー
なんといってもメインは展望台からの眺め。全面ガラス張りの展望フロアから、星形五稜郭の外郭を見て取れる。展望1階には、強化ガラスでできたシースルーフロアがあり、タワーの高さを実感できる。5月上旬のサクラの時期の眺めも美しい。

入館料:900円

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四稜郭
最後に穴場スポットを紹介します。

1868(明治元)年10月に五稜郭を占拠した旧幕府軍は、新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築きましたが、五稜郭の鎮守である北海道東照宮を守るため、五稜郭の北方約3kmの函館を一望できる緩斜面台地にも洋式の台場「四稜郭」を急造しました。

四稜郭は、蝶が羽を広げたような形の堡塁で東西約100m、南北約70mの範囲に、幅5.4m高さ約3mの土塁が巡り、その周囲には幅2.7m深さ0.9mの空濠が掘られています。

四稜郭は、女性の間では人気の高い城郭跡です。それは函館出身のロックグループ「GLAY」のメンバーが、幼い頃この四稜郭で遊んでいたと伝わったことに影響されています。

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管理人の独り言

北海道の南の玄関、函館、幕末から国際貿易港として栄え、今も異国情緒あふれる街並みが残されています。…商店街には、『中島町』とあります。

”中島三郎助親子が戦死した場所という事で決めた町名です”

町の一画にひっそりと立つ小さな石碑、刻まれているのは ”中島三郎助父子最後の地” 浦賀に黒船が来た運命の日から16年、三郎助の数奇な人生、北の大地で向かえたのは、まさしくサムライとしての最後でした。そんなラストサムライ中島三郎助に触れて記事を終わらせたいと思います。

徳川250年の泰平を揺るがした黒船来航…中島三郎助は偶然、この歴史的大事件の最前線に立つ事になります。

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嘉永6(1853)年6月3日 中島三郎助33歳、この日、浦賀の沖合に日本の海に始めて出現した蒸気船、マシュー・ペリー率いるアメリ東インド艦隊の来航でした。

この時、三郎助は月ごとに交代する応接掛、つまり外国船に退去命令を伝える掛にたまたま当たっていました。さっそく小さな船で黒船に向かいます。

黒船に漕ぎよせた通訳の役人と三郎助は、「速やかに退去せよ」とフランス語で書かれた紙をかかげました。

船上からは「我々は地位の高い役人でなければ話をしない」との事。三郎助は窮地に追い込まれます。…一介の与力にすぎない自分では対話をしてくれない。

かと言って戦闘体制の軍艦を前に目的を確かめずに引きさがるわけにもいかない。そこで三郎助は思わぬ行動に出ます。

通訳に『私が”浦賀の副奉行”だ』と言ってくれと…もちろんこれは真っ赤なウソ…何としても役目を果たそうと言う責任感から生まれたとっさのハッタリでした。

三郎助は、切腹も覚悟の上で「副奉行である」と名乗ったのです。しかしこれは最上にして唯一の策だったと現代の歴史家は考えています。

この必死のハッタリが功を奏します。アメリカ側は三郎助の言葉を信じ乗船を認めたのです。浦賀の副奉行、三郎助とペリーの副官コンティー大尉との間で交渉が始まりました。

三郎助:「外交窓口の長崎へ向かって欲しい」
コンティー大尉:「開国を求める大統領からの国書を渡したい」
コンティー大尉:「拒否すれば艦隊は江戸へ向かう」

それは幕府と戦争にもなりかねない危険な事態です。再び窮地に立たされた三郎助、とっさに副奉行と名乗ったもののこれ以上踏み込んだ交渉は、与力と言う自分の立場をはるかに超えてしまう。考えた末、三郎助の答えは、…
三郎助:「上司の奉行と相談するので明日まで時間をいただきたい」
…でした。歴史的な日米交渉の初日はこうして危機を免れたのです。

嘉永6(1853)年6月9日、その後、幕府は浦賀に近い久里浜での国書受取りを決断、日本は開国へと向かい幕末と言う時代が動き出します。

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数奇な運命に導かれて日本人で初めて黒船に載った男、中島三郎助。
桂小五郎勝海舟吉田松陰榎本武揚、幕末の英雄たちとの出会いと別れ、その意外な顛末を紹介します。

嘉永7(1854)年5月 中島は、着工から僅か8ヶ月で、国産初の西洋式大型軍艦・鳳凰丸を完成させます。

その後、中島は、幕府内で造船、軍事の専門家としての地位を固めます。桂小五郎に造船の知識を教え、勝海舟とは犬猿の仲だが、お互いの方法で幕府を支え合う事になる。勝は政治、中島は軍事の専門家として、…そして大政奉還鳥羽伏見の戦いを経て、榎本艦隊と合流、函館の地に入ったのでした。

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      (中島三郎助)

三郎助は2人の息子と浦賀奉行所の同僚たちとともに旧幕府海軍の艦隊に参加します・・艦隊を率いるのは榎本武揚、当時、東洋最強と言われた軍艦、開陽丸を中心とし圧倒的な戦力を誇ります。

慶応4(1868)年8月19日、榎本艦隊は江戸・品川沖を出港、一路北へ向かいます・・目指すは函館、北の海の要衝です。榎本は西洋式の城、五稜郭を本拠に強大な海軍力を活かして新政府に対抗しようとします。

明治元(1868)年10月20日、北海道に上陸した旧幕府側は、元新撰組土方歳三らの活躍により、新政府側を撃退・・更に開陽丸を新政府側の拠点・江刺に派遣します・・海から強力な砲撃を加え江刺を制圧しようという作戦でした。

明治元(1868)年11月15日、夜にわかに天候が悪化します。北の海特有の激しい風、開陽丸は江刺沖の岩礁に乗り上げてしまいました。

この時、三郎助は岩から引き離そうと大砲を一斉に発射させたとも言われています。
必死の努力もむなしく開陽丸は江刺の海に沈没、三郎助たちが開陽丸に託した勝利への希望が失われたのです。

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明治2(1869)年5月 三郎助49歳、明治新政府の大軍が函館に押し寄せました。迎え討つ旧幕府方、三郎助は、千代ヶ丘陣屋という砦の指揮を受け持ちます。

千代ヶ丘陣屋は、本拠地・五稜郭の南西、1.5キロ、五稜郭を守る最後の拠点です。ここを守る兵士の中には、三郎助の2人の息子や浦賀時代の同僚達も共にいました。

ここで三郎助は、浦賀の知人に宛て最後の手紙を送っています。
「いよいよ討ち死にと覚悟いたし候・・ついては留守宅、婦女子共、この上何分ご温情願い奉り候」(浦賀の知人への手紙 明治2年5月7日)

明治2(1869)年5月11日、明治政府軍の総攻撃の中、土方歳三が戦死。敵は次第に三郎助の千代ヶ丘陣屋に迫ります。

この頃、五稜郭で指揮をとる榎本は、千代ヶ丘陣屋の三郎助に使者を送り、五稜郭への引き上げを提案しました。しかし三郎助親子はこれをキッパリと断ります。

幕府の一員として、そしてサムライとしてどうしても譲れないもの、三郎助はそれを最後まで貫こうとしたのです。

明治2(1869)年5月16日未明、新政府軍は千代ヶ丘陣屋に猛攻撃をしかけました。三郎助の戦いは様々に伝えられています。

押し寄せた大軍にさかんに砲弾を浴びせかけた
傷ついた身体で敵の中に斬り込んだ

中島三郎助 戦死 享年49

千代ヶ丘陣屋は陥落、三郎助の息子2人も戦死しました。これを最後に本格的な戦闘は終結、2日後、五稜郭は降伏します。

激動の幕末、三郎助は、この歴史の大転換の中のほとんどの大事な場面に係ってきた人間、それを見事に1本の筋を通して生きた男です。…ラストサムライ本当に最後の侍だった。

始まりに立ち会った男の死とともに函館戦争は、終結したのです。

三郎助が2人の息子とともに戦死したことで後には、妻と3人の娘、更には生まれたばかりの幼い息子、与曾八が残されました。

男手を失った家族の暮らしを三郎助と強い絆で結ばれた友人たちが助けたと言います・・明治政府の重役となった木戸孝允桂小五郎)、函館戦争の後・明治政府の要職を歴任した榎本武揚、そして故郷・浦賀の町の人々です。

こうした周囲の温かい支援を受けて成長した与曾八は、やがて海軍に入り、エンジンの専門家として活躍、中将にまで上りつめました。

近代造船のパイオニアだった父・三郎助の意志を見事に継いだと言えます。三郎助の人柄や生き方は後々まで人の心を動かし続けたのです。

それは現代でも・・・
函館では、三郎助が亡くなった5月に毎年開催される中島三郎助祭。ここで静かに続けられてきた行事が地元の人たちによる三郎助親子の法要です。

毎年、三郎助の故郷・浦賀からも参列者が訪れます。

 

 

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