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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。…当ブログ記事は転載OK…リンクを貼っていただけるなら遠慮なくお好きにお使いください。

世界遺産 二条城 Nijo-jo

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京の都で唯つの城
戦国から太平へ 二条城

今から150年前、徳川慶喜大政奉還を行い、江戸時代が終わった場所として知られる二条城。しかしこの城には、もう一つの顔があります。

1603年、時の権力者、徳川家康は、この二条城から宮中に参代、征夷大将軍となる儀式を執り行い、江戸時代の幕が上がりました。

二条城は、”生ける美術館” ともいわれています。戦国の世から太平の世へ、天下を統一し、戦国の世を終わらせようとする家康の野望の結晶、それが二条城です。

ピンク枠:唐門」「青枠:車寄」「緑枠:遠侍」「黒枠:式台」「青⇒:大広間」「赤⇒:黒書院」「緑⇒:白書院」「ピンク⇒:二の丸庭園」

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唐門

別名、日暮門とも呼ばれています。眺めていると日が暮れてしまうことから、そう呼ばれています。

テーマは、王者、覇者の長寿。鶴、牡丹、獅、寅、松を彫上げています。実はこの門、孫の家光が建てました。徳川の威光を天下に知らしめるために作られました。

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二の丸御殿

唐門をくぐると見えてくるのは、6つの国宝の建物からなる二の丸御殿。将軍の京都での居城でした。

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車寄
訪れる者を最初に出迎えるのは車寄です。二条城は、将軍が諸大名を集めるだけではないんです。公家も集めるんです。車寄の入口の大きさに注目。大きいんです。公家が牛車に乗ってそのまま入るようになってるんです。つまり、将軍は、大名、公家を一堂に呼び寄せる事が出来る力を持っていたんです。

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遠侍(とうざむらい)
まず大名が通されるのが遠侍、控えの間です。単なる控えの間、訪れた大名たちを待たせるだけの場所にこれだけの設えをしてるんです。
襖絵は虎。威圧感を感じさせるためです。徳川幕府は武威、武力の威力を見せ付ける政権ですので、いたる所に権威の象徴が見え隠れします。

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式台
次の部屋は式台。老中たちが将軍への取り次ぎを行った場所。松がはみ出している!…壁一面に巨大な松が描かれています。松は徳川家繁栄の象徴。常に青々と茂り、政権の永遠性を示しています。一々力を誇示するような無言の威圧、メッセージを感じさせます。

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二の丸御殿の廊下
人が歩くと鳥の鳴き声のような音がなることから、「鶯張り」と呼ばれています。音は図の通り、目かすがいと釘のこすれによって生じています。

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大広間
大広間は、将軍と謁見する部屋で二の丸御殿で最も格式の高い部屋とされています。部屋へは、何度も廊下を曲がらせます。曲がって曲がってようやくたどり着ける将軍を演出しています。護衛、セキュリティーとしての要素もあります。

一の間、二の間合わせて92畳。ここでも松。将軍が座る上座の後ろに権力の象徴である松が描かれていて、座った将軍を覆うような感さえあります。部屋の両脇にも松。松の枝を手前から奥に張り出すように描く事で奥行きを強調し、将軍をより遠い存在に感じさせる演出が施されています。

更に将軍が座る真上には、「二重折上格天井」(通常は仏像の上にあるもの)そこが最も大切な場所だと示しています。つまり、神仏に近い存在だという演出です。

畳が横一列に敷き詰められているのは、身分によって石高によって座る位置が決められていたのです。畳1枚何万石って感じですかね。

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二の丸庭園
大広間を抜けると開ける庭園が二の丸庭園。時代を代表する茶人、小堀遠州の最高傑作と言われる庭です。豪壮な石組、男性的な庭です。

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黒書院
将軍のプライベートエリアに入ります。親しい大名、公家などの対面の場。ここにも松が描かれていますが、これまでの雰囲気と明らかに違う。桜と松、早春です。絵のタッチが柔らかくなります。暖かく落ち着く空間です。
ここに通された人は、自分が大事にされている、信頼されていると思うでしょう。徳川の一員になれた。春を謳歌しようという気持ちになるんですね。

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白書院
そして御殿の一番奥にある白書院。ここは完全に将軍のプライベートエリアです。将軍の居室、身の回りの世話をする人のみが入れた場所です。

先ほどまでの煌びやかさは全くなく、水墨で単彩、静かな落ち着いた雰囲気に変わります。日常空間です。華美な物は何もない。武士らしく質素で質実剛健を表しています。描かれているのは水辺の景色。

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改めて二条城は、何のために作られたの?

1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦い
1602年(慶長7年) 二条城 建設開始
1603年(慶長8年) 二条城 完成 征夷大将軍 拝命

家康は、二条城から御所に行き、征夷大将軍、拝命の御礼を行いました。つまり、二条城は、江戸時代が始まった場所なんです。

驚くべきは、僅か1年でこれだけの城を作ったんです。
この工事を手掛けたのは、中井正清という大工棟梁でした。

この中井正清は、二条城を立てた後、江戸城大阪城名古屋城京都御所など名だたる建物を建てた人物なんです。今でいえばスーパーゼネコンですかね。

家康からも大変な信頼を寄せられていまして、官位は、”大和守” 禄高1000石と大名並みの録を食んでいました。

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なぜ二条城の建設を急がせたのか?
当時の時代背景を振り返ると関ヶ原に勝利した家康が天下を取ったと皆さん思っていると思いますが…さもあらず。

違います。いまだに大阪城には、秀頼がいるわけです。お正月ごとに日本中の大名は、秀頼に挨拶すべく大阪城に行くわけなんです。ですから徳川が盤石なわけでは全然なかったのです。

ですから万人に徳川の天下だと思わせるためには、京都に巨大な城を建てる必要があったんです。 ”あんな凄い城を造れる家康は天下人だ” と思わせる必要があったんです。

 

二条城は、文化の発信地
狩野派が描いた3600枚を超える障壁画

時に脅し
時に和ませる

部屋ごとに演出を凝らした
建築様式は武士たちの憧れ

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大広間四の間障壁画《松鷹図》

大広間の松は、狩野派の棟梁 探幽の代表作 当時25歳、その筆使いには、一門を率いて行く気迫が感じられます。

黒書院を担当したのは、探幽の弟、尚信。白い胡粉を厚塗りした雪と金箔と銀泥を駆使した柴垣。親しき人が集う場に華やかな細工を凝らした。

白書院を手掛けたのは、探幽の大叔父。将軍のプライベート空間を経験豊富な先達に任せた探幽。

狩野派一門総力を挙げての渾身の3600枚!
これを1年で書き上げたわけです。
どれだけの人員、技術、集中力、”想像を絶する” とはこの事を言う表現と考えます。

狩野派一門を上げて描き分けられた障壁画は、文化的な権威となり、各地の大名は、自らの居城でその様式を取り入れるようになったのです。

 

二条城は、単なる城ではなく、世界遺産という意味だけではなく。
大工の中井正清が城を造り、狩野探幽が障壁画によって内部を飾り、政治の舞台となった二条城は、家康の思惑通り、徳川家の権威の象徴として、徳川幕府260年を支え続けた城なんです。

 

管理人の独り言

二条城を造って大坂の陣で豊臣一族を滅亡に追い込んで、ついに盤石な体制を築いた徳川政権でしたが、まだまだ家康という、不世出のカリスマに頼るところが大きかったんです。

大坂の陣の1年後、1616年家康が没するとにわかに政権は、安定感を欠く事になります。そこで再び徳川の権威を天下に見せる必要に迫られます。

そして行われたのが ”二条行幸 です。行幸とは天皇の外出をさす言葉で、時の将軍、徳川家光水尾天皇を二条城に招いた出来事です。

1626年(寛永3年)二条行幸の壮大なスケールを今の世に伝えるものが、「二条城行幸図屏風」(京都 泉屋博吉館所蔵)です。f:id:tabicafe:20200706171513j:plain

二条城行幸図屏風 右隻

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二条城行幸図屏風 左隻

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幅7.7m、行幸の直後に描かれた屏風です。
御所から二条城への行列には、日本中の大名が参列しました。豊臣秀吉聚楽第天皇を迎えて以来、34年ぶりに行われた行幸。徳川家は、その威信にかけ、準備に2年の歳月をかけました。

二条城の正面玄関に当たる「東大手門」

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創建以来、2階建てであった門をなんと、この行幸の為に一度壊して平屋に作り替えたのです。理由は、「2階建てだと天皇の頭の上に人がいる事になる」ので不敬ということで、この時だけ平屋にしたのです。
確かに「二条城行幸図屏風」では平屋になっています。

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大改修は、二の丸庭園にも及びます。
もともと二の丸庭園は、武家好みの荒々しい勇壮さが特徴でした。しかし、行幸では武家だけでなく、天皇や公家も楽しめるように庭が作り替えられたのです。

行幸に先立ち、二の丸御殿の池を挟んだ反対側に行幸御殿が建てられました。行幸御殿の南側からは、石や木々が丸く穏やかさ、優雅さを表現する公家好みに仕立てられています。

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逆に池を挟んだ二の丸御殿、大広間からは、石が尖って荒々しく勇壮な武家好みの庭の景観となっています。

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そして出来上がった庭は、見る方向によって見え方が変わる、武家も公家も、あらゆる人が様々な方向から楽しむことのできる庭になったのです。

そして迎えた行幸本番、二条城では、5日間にわたり、蹴鞠や和歌、猿楽などの催しが繰り広げられました。

徳川の
威信をかけた
二条城 行幸

沿道には
世紀のパレードを
見ようと
各地から人々が詰め寄せた

長く続いた
戦乱が終わり
訪れた太平の世を
誰もが予感した
二条城行幸だったのです。

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