天守が現存する貴重な城
松江城
日本のお城は、かつては2万5000以上ありましたが、現在は一般的に見学できるのは200城ほど。そのうち江戸時代以前からの天守が現存しているのは12城だけ。
弘前城(青森県)
松本城(長野県)
丸岡城(福井県)
犬山城(愛知県)
彦根城(滋賀県)
姫路城(兵庫県)
松江城(島根県)
備中松山城(岡山県)
丸亀城(香川県)
伊予松山城(愛媛県)
宇和島城(愛媛県)
高知城(高知県)
…これだけでも松江城が希少だとわかるでしょう。
松江城は、千鳥城とも呼ばれ美しい姿が鳥が翼を広げているようだと言われています。2015年、この松江城の天守がお城としては63年ぶりに、国宝に指定されました。上記の城で国宝は、姫路城、彦根城、犬山城、松本城、松江城の5城だけ…。
しかし、この松江城、明治初頭に民間に払い下げられ、取り壊される予定だったんです。でも…地元の豪農 勝部本右衛門、旧松江藩主 高城権八らの奔走により買取られ、破壊を免れました。
以来、清掃ボランティアなど松江の人々、市民の手で大切に守られて守られてきました。…今回は、そんな松江城を語ります。
堀尾吉晴
松江城を語る上で解説しておかなければならない人物が堀尾吉晴です。
慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦で東軍に味方した功により、堀尾吉晴、忠氏親子は、遠州浜松から転封し、出雲隠岐24万石を与えられました。
慶長12年(1607年)幕府の許可を得て松江城、築城を開始、5年の歳月をかけ完成させました。この時、当主だった子の忠氏は、築城開始前に急死しています。
吉晴62歳、後継者の孫・忠晴6歳を後見して、実質、吉晴によって松江城は、完成に導かれたのです。
堀尾吉晴とは…
彼は、蜂須賀小六などとともに豊臣秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた頃から仕え、秀吉が戦った殆どの戦に参加しています。
秀吉は城攻めの名人。秀吉の三大城攻めと言われる、三木城、鳥取城、高松城、攻めにも参加し、更に小田原城攻めにも参戦しており、戦国期の城の長所も弱点も知り尽くしていたのです。そして吉晴は、普請上手と言われ、加藤清正と並び称される城造りの名人でした。
秀吉が関白となってからは、三中老の要職に着きます…
五大老:徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元
三中老:生駒親生、堀尾吉晴、中村一氏
五奉行:浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以
…吉晴に対する秀吉の信頼は厚かったのです。
その後、関ヶ原の戦いでは、東軍について徳川方の勝利に貢献します。その功績によって堀尾忠氏には、出雲隠岐24万石が与えられたのです。
松江城
歴代城主は、堀尾家、京極家、松平家と移り、幕末明治維新を迎える。
現在は、公園として開放され、日本さくら名所100選や都市景観100選に選ばれるなど島根県の主要な観光名所となっている。
櫓3棟復元
かつて二の丸には、御門・東の櫓・太鼓櫓・中櫓・南櫓・御月見(つきみ)櫓があった。このうち、太鼓を打って時刻を知らせる太鼓櫓と御貝足蔵と呼ばれた中櫓、南東方面を監視するための2階建の南櫓の3基の櫓は、平成13年に約125年ぶり(明治8年取壊し)に復元した。
地階と井戸
地階(穴蔵の間)は、籠城用生活物資の貯蔵倉庫である。中央には、深さ24メートルの井戸があるが、北方の池の底とほぼ同底で常時飲料水が得られた。
包板(つつみいた)
天守を支える柱には、一面だけ、あるいは二面、三面、四面に板を張って、鎹(かすがい)や鉄輪(かなわ)で留められているものがある。これは「包板(つつみいた)」と呼ばれ、天守にある総数308本の柱のうち130本に施してあり、柱の補強のためと考えられている。
穴太衆(あのうしゅう)・・・石垣築成集団
穴太とは地名(大津市坂本町穴太)。この地には、中世から近世にかけ石垣の築成に優れた技能を持った達人がいました。松江城の石垣もこの「穴太衆」が招かれ築成しました。
※野面積・・・自然石や割石を積む方法
※打ち込み接(はぎ)・・・石切り場で切り出した石の、平坦な面の角を加工し、合わせやすくした積み方。
特長的な構造が一望
展示物を少なくしていることで、松江城天守の国宝化の要因の1つである特徴的な柱建築構造が鑑賞できる。内部の構造が良く分かるようになった。
松江神社
松江城の敷地内にある神社です。松平直政公を御祭神としています。彼は、徳川家康公の孫にあたり、松江松平家の元祖とされています。家業繁栄、厄除開運、交通安全のご加護が顕著なスポットです。
砂利が丁寧に敷かれていて、さっぱりした雰囲気の神社です。松江城に来たならば、是非、立ち寄ってみて下さい。
松江城の桜
松江城山公園は【日本さくら名所100選】に選ばれた桜の名所です。
園内は、ソメイヨシノ・ヤエザクラ・シダレザクラが約200本の桜が咲きます。
松江城 利用案内
入場料:680円
※2館共通券:1400円(松江城天守閣、松江歴史館)
城山西駐車場:1時間300円、2時間500円(以降30分100円)
質実剛健 歴史を刻んだ町
水の都 松江
松江に来て松江城だけでは、もったいなすぎる!…松江は1日かけて楽しむ場所。時間に余裕をもって来ていただきたい。 …城下町が、また素晴らしいんです。
松江は、”水の都” とも呼ばれ、宍道湖(しんじこ)や中海(なかうみ)が連なり、川が町中を流れ、水景が美しいエリアです。
また小説家・民俗学者の小泉八雲(こいずみやくも)が住んだ町。八雲は「雪女」や「ろくろ首」など、日本の様々な妖怪が登場する物語『怪談』を執筆したことで有名です。彼は宍道湖をはじめ、自然豊かな松江の暮らしを愛しました。
それでは早速、松江城、城下町巡りをご案内いたします。
移動手段は「堀川めぐり」
この船は是非、利用していただきたい…
終日何度も乗降自由な「堀川めぐり」という船。簡単にお伝えすると、バスの船バージョンというイメージ。
全長約8メートル、幅約2メートルの小船で、松江城の周囲を約50分かけて走っています。チケットを1回買えば一日何度でも乗り放題で、15分間隔で出航しています。好きな乗船場で乗降可能です。料金もリーズナブルで、優しいガイドさんも付いているので、いいことづくめ!
途中、橋の下を通る際、船の屋根が下がる仕組みになっています。まるでテーマパークのアトラクションに乗っているような気分を味わうことができます。
乗船場は3か所(カラコロ広場乗船場、大手前広場乗船場、ふれあい広場乗船場)。それぞれの乗船場にチケット売り場がありますので、一番最初に乗る際にチケットを購入しましょう。チケットは一度購入すれば終日使えます。
一日乗船券:1500円
宍道湖
宍道湖は、周囲約45km、全国で7番目に大きい湖で、わずかに塩分を含む汽水湖のため魚種が豊富。特にシジミ、白魚などの宍道湖七珍は松江を代表する味覚として有名です。
そんな宍道湖を全国的な知名度に押し上げたのが、空が茜色に変わる頃から始まる湖上の「夕日ショー」。日没30分前のドラマは、湖を赤く染める夕日に浮かび上がる嫁ヶ島のシルエットでクライマックスを迎えます。感動の風景は、日本の夕日百選にも登録。
宍道湖を楽しむおすすめポイント
湖畔の各所に鑑賞スポットがありますがお奨めは…
1.宍道湖大橋
2.千鳥南公園
3.白潟公園
3.島根県立美術館
場所は、堀川めぐりのカラコロ広場乗船場から「宍道湖大橋」は徒歩5分、「千鳥南公園」「白潟公園」は徒歩10分。
宍道湖を鑑賞するのに一番のおすすめポイントは「島根県立美術館」付近の湖畔なんです。ベンチもあり、ゆったりと落着いて沈む夕日に染まる宍道湖を鑑賞することが出来ます。…けど、町中からですと2キロぐらい離れています。
でも、わざわざ行く価値あり!…嫁ヶ島に残る悲しい伝説
美しい夕日をいっそう引き立てる名脇役が、湖上にポツリと浮かぶ「嫁ヶ島」。周囲240m の小さな島で、湖に落ちて亡くなった若い嫁の身がらとともに浮かび上がったという悲しい伝説が残されています。少しもの悲しい伝説が、暮れゆく日とともに、しんみりとした哀愁を演出します。
小泉八雲記念館
松江観光で外せないスポットといえば、こちらの記念館です。雪女、ろくろ首など、日本の妖怪にまつわる物語『怪談』を執筆した小泉八雲(こいずみやくも)の生涯が、詳しくパネル展示された記念館となっています。
音声でちょっぴり怖い怪談話を聞けるコーナーもあったりと、たっぷりと小泉八雲の世界に浸ることができます。
小泉八雲を紹介します。…ジャーナリストとして、様々な地域の取材や執筆活動を行うさなか、ニューヨークで読んだ英訳『古事記』が彼を魅了します。それをきっかけに来日を意識するようになり、1890年4月にようやく日本へと足を踏み入れます。8月には松江で英語教師となり、その後も熊本、神戸、東京などで仕事を積みました。
結婚相手は松江の士族の娘であった小泉セツです。著書『怪談』が生まれたのは、この妻が、昔から伝わる地域の妖怪話を何度も聞かせており、そこからヒントを得たからだとされています。
自然災害が多い風土が、国民性に与える影響に強い関心を持ち、日本人の自然観や審美観(美醜を見極める力のこと)に惹かれていたのだとか。松江のシンボル、宍道湖の夕陽を見ていると、不思議とその気持ちが分かるような気がしますよ。
入館料
小泉八雲記念館:410円
小泉八雲旧居(ヘルン旧居):310円
2館共通券:560円(小泉八雲記念館・小泉八雲旧居)
3館共通券:1100円(松江城天守・小泉八雲記念館・武家屋敷)
小泉八雲旧居(ヘルン旧居)
文学者・小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)が、松江で暮らしていた約1年3か月のうち、約5か月間住んだとされる屋敷です。
もとは、根岸家という旧松江藩士の武家屋敷でした。家主の根岸氏が出雲地方で暮らしていたため、こちらは空家となっていました。「庭のある侍の屋敷に住みたい」という八雲の希望を聞いて、屋敷を貸すことになったのだとか。
屋敷は1868年に造られたもので、庭は枯山水の鑑賞式庭園となっています。規模は小さいですが、屋敷の周囲にはめいっぱいの草木が丁寧に植えられていて、高い評価を受けているそうです。自然の山水を絡めた庭は小泉八雲の著書『知られざる日本の面影』のなかでもその魅力が書かれています。
武家屋敷
武家屋敷は、主屋、長屋門・塀などからなり、江戸期の面影を今に伝えています。塩見縄手の名前の由来となったとされる塩見小兵衛も住んだ屋敷で、500~1,000石程度の藩士が屋敷替えによって入れ替わり住んでいました。
主屋はおよそ67坪で、表側である式台玄関(来客用玄関)から座敷に至る部分と、裏側である私生活の部分では造りも材料も特に区別がされ、武家の公私の別の厳しさを示しています。また、築山式の庭園は、飾りを省いた素朴なつくりで、質実剛健の気風がうかがえます。
入館料:310円
3館共通券:1100円(松江城天守・小泉八雲記念館・武家屋敷)
塩見縄手
塩見縄手とは、簡単に言うと道路です。城下町では、縄のように長く伸びた道路のことを縄手と呼んでいます。この縄手に、かつて塩見氏という町奉行が居所を構え、大層栄えた家柄であったため、それをたたえて、「塩見縄手」と命名することになりました。
松江市伝統美観指定地区に選ばれています。武家屋敷の遺構としては、全国有数のものだそうで、今でもその名残を楽しむことができます。「日本の道百選」にも選定されています。
そば処「八雲庵」
お食事ならこちら…「小泉八雲記念館」から、徒歩数分の場所に位置するおそば屋さんです。人気があり、常に混雑しているため、早めの訪問がおすすめです。日本庭園が美しく、広い敷地で営業されています。
名物は「出雲割子そば」。割子そばとは、出雲地方独特のそばで、お弁当箱のように外に持ち運んで食べたとされるものです。そのため、そばはいくつものお椀に分けて、重ねて入れられています。一段一段に入っている薬味が異なり、様々な味わいを楽しむことができます。濃いめのつゆを少量ずつかけて頂くのが通常の食べ方です。
お奨めは、五色割子そば(1,350円)。五色とは薬味を指します。葉わさび、なめこ、山菜、うずらの卵、大根おろしの五種類を楽しめます。お椀のフタを開けると、次々と新しい薬味が出てくるため、食べることが楽しくなること間違いなしです。
カラコロ工房
カラコロ工房とは、2015年にリニューアルオープンしたばかりの様々な雑貨屋さんが集結した複合施設です。昭和初期に建設された、旧日本銀行松江支店を活用し、外観は当時のまま使われています。建物内は吹き抜けで、かつての銀行窓口がそのままあったりと、銀行時代の名残が感じられます。
ハンドメイドの雑貨屋さんやお洋服屋さんが多く、女子に人気の高いスポットです。屋外には休憩スペースも設けられており、長居ができるようになっています。
ここで一休みしましょう…。
御朱印帳専門店しるべ
常時100種類以上の品揃えという御朱印専門店です。店内のスペースは狭いですが、壁一面に御朱印帳が並びます。
こちらのオリジナル御朱印帳は、布の印刷や製本を国内で行っているそうです。御朱印帳は、筒状になっていて、両端にのりづけをする過程があるため、機械では製作できず、一冊一冊が手作業で仕上げられているのだとか。
人気ナンバーワンは、出雲大社とウサギが表現してある、ピンク基調の御朱印帳だそうです。松江市のお隣にある出雲市は、因幡の素兎(いなばのしろうさぎ)の逸話で有名です。ウサギモチーフの雑貨やウサギにまつわる場所が多数あります。また御朱印帳巾着など、珍しいアイテムも取扱っています。
白潟公園(しらかたこうえん)
宍道湖沿いに位置する長細い公園です。宍道湖の様子をよく見ることができます。ベンチもあります。晴れの日には、景色を遠くまで見通せて、気持ちの良い散歩道です。宍道湖にまつわるマメ知識が記載されたパネルがあちこちに飾ってありますので、ぜひチェックしてみて下さい。
早朝に訪問すると、朝霧がかかっており、神秘的な景色を堪能することができます。もちろん夕刻も宍道湖の美しい景色を眺めることができます。
島根県立美術館
宍道湖畔に位置する、「水との調和」がテーマの美術館です。世界的な建築家・菊竹清訓(きくたけきよのり)氏がデザインした設計です。ガラス張りで人気のロビーは無料で入場可能です。作品展示を鑑賞する際には料金がかかります。
美術館周辺には公園もあり、まさに自然と調和した世界観を感じ取ることができるスポットです。夕日鑑賞の時間帯は特に混雑します。
拝観料
企画展:1000円
コレクション展:300円
共通セット券:1150円
管理人の独り言
管理人は常々思う事があります。秀吉の出世のきっかけとなった ”墨俣の一夜城” 築城で蜂須賀小六との関りは有名な話です。
それに引き換え、堀尾吉晴、中村一氏も、秀吉が藤吉郎と名乗っていた時からの直属の家臣。秀吉の戦のほぼすべての戦場に参加している生え抜きの重臣です。その割には、注目度、取り上げられ方が少ないんじゃないでしょうか。
堀尾吉晴、中村一氏…この両名の手紙、発行した文書、指示書など統計だてて研究したら面白い人物像が浮き上がってくるような気がするんです。
二人ともまさに百戦錬磨の尾張の流れをくむ、戦国時代を生き抜いた武闘派、戦国武将ですからね。…まあ…研究が進むことを願いましょう。
そして、やはり最後は、城造り名人である堀尾吉晴が、どのような敵の攻撃を防ぐ方法を取ったのかを解説いたします。
松江が城建設に選ばれた理由
1.領地である出雲の中央にある
2.宍道湖を通じて大橋川、中海、日本海へとつながる海上輸送に適する土地
3.土地が平であったため、土地の開削が容易だった
※堀は水路としても、防衛施設としても機能しました
※宍道湖、中海、湿原に囲まれた天然の要害だった。兵隊を進めるうえで足を取られる湿原は、湖よりも厄介でした。
本丸の置かれた亀田山は、北側の尾根づたいに敵が侵入するのを防ぐため、切り割って内堀の役目を果たす北田川が造られました。現在の塩見縄手あたりがその場所です。
松江の町全体も、実戦を想定した防衛機能の高い構造になっています。
松江城の防衛線は、天守閣、三の丸を直接取り囲む内堀があり、その周囲に母衣町、殿町、内中原町などの武士の居住地が続きます。
西から四十間堀川、南に京橋川、東に米子川などの外堀が取り囲み、その外側を町人町としております。
さらに、その外側に宍道湖、大橋川、湿地帯が広がっておりました。
城下町には、大軍の進軍を防ぐための、鉤型路、丁字路、筋違橋などの仕掛けが、至る所にしつらえてあり、現在も町に残っており、クルマで走るのに面倒くさくてしょうがありません。
堀尾吉晴は、当主であった子の忠氏を失い、孫の忠晴6歳を後見して、5年の歳月を費やして、自分の生きた集大成として松江城とその城下を作り上げたんです。
そして吉晴は、慶長16年6月、松江城の天守完成後に亡くなりました。
堀尾吉晴 享年69
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