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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。…当ブログ記事は転載OK…リンクを貼っていただけるなら遠慮なくお好きにお使いください。

日光東照宮 NIKKO TOSHOGU SHRINE

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世界遺産 日光東照宮

この日光東照宮は、無茶苦茶凄い!

「いきなりなんだよ…またかよ」…っていう皆んさんの心の声が聞こえてきました。でも今回は、本当にすごい!!

いつもなら、建設された経緯から、歴史的な背景を語るのが管理人のいつもの流れですが、今回は、しょっぱまから、前置きなし、つべこべ言わずに案内に入りたいと思います。

日光東照宮は、1999年(平成11年)世界遺産登録されています。
12月2日、モロッコのマラケッシュで開催された第23回世界遺産委員会において、「日光の社寺」が世界遺産に登録されました。

世界遺産に登録された「日光の社寺」の内容は、日光山内にある日光東照宮、日光山輪王寺日光二荒山神社の103棟(国宝9棟、重要文化財94棟)の「建造物群」と、これらの建造物群を取り巻く「遺跡(文化的景観)」です。

日光東照宮 基本知識

日光東照宮の御祭神は、徳川家康
創建したのは、徳川幕府三代将軍、徳川家光です。1617年に創建されました。
標高は634m。…「ん…634m?」そうです。東京スカイツリーと同じ高さなんです。

家康公は、1616年、75歳で亡くなります。
亡くなる2週間前に…
「自分が死んだらまず久能山に葬って1年たったら日光に小さなお社を作って神として祀るように」
…という遺言を残します。

問題は、なぜ日光を選んだかなんです。
石鳥居から見て参道の方向の中心線、真っすぐ南に行くと140kmピッタリで江戸城なんです。江戸城から見ると日光は真北に位置しています。

北を見れば北極星が見えるわけです。古代以来、北極星は宇宙の中心、宇宙には宇宙を支配する神、天廷が住む。その天帝から選ばれたのが地上の支配者、天下人なんです。

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Googleストリートビューで石鳥居の内側から南を映した画像(この140キロ先が江戸城

日光東照宮 境内案内

現在の社殿群は、そのほとんどがご鎮座から20年後の寛永(かんえい)13年(1636)に建て替えられたものです。陽明門(国宝)など55棟、その費用は、金56万8千両、銀百貫匁、米千石(『日光山東照大権現様御造営御目録』より)。

現代の金額に直すと2000億円。六本木ヒルズの総事業費が2700億円ですから、とてつもない費用を三代将軍、徳川家光は投入したんです。

六本木ヒルズは、東京の一等地の土地取得代も含んでいます。日光東照宮の土地代は、建て替え、改築ですから、ほぼタダでしょう。それを考えると、いかに巨費を投じたかがわかります。

集めた職人や大工の数、延べ650万人…天才絵師・狩野探幽江戸城本丸を手掛けた大棟梁・甲良宗広ら当代一流の人材を投入しました。

それでは、日光東照宮の境内を案内してゆきましょう…。

黒丸:駐車場」「赤丸:石鳥居」「グレー丸五重塔」「青丸:表門」「オレンジ丸:上神庫」「ピンク丸:陽明門」「緑丸:本殿・拝殿」「黄丸:奥宮」

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日光東照宮 石鳥居
駐車場から、参道を歩いてくると、まず皆さんを出迎えてくれるのが大鳥居。石でできているんです。どこの石で出来ているかといいますと、何と福岡から遥々運ばれてきたんです。

凄いでしょ。福岡から運んできたんですよ。…でもですね。実は、この石鳥居、15個に解体できるんです。でも…15個に分けられるからといっても大変な労力です。

石鳥居、なんと免震構造で出来ているんです。東日本大震災鹿島神宮の石鳥居は、破壊されてしまいましたが、この日光東照宮の石鳥居は、震度6の地震にもびくともしない。…素晴らしい!!

福岡といえば黒田官兵衛です。この黒田官兵衛の息子、黒田長政がこの石鳥居を奉納したんです。

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石鳥居・石鳥居に刻まれた黒田長政の刻印

日光東照宮 五重塔
石鳥居をくぐって最初に出てくるのが五重塔。地・水・火・風・空の五層になっています。でも五重塔っていったら神社ではなく、お寺の象徴です。明治に入って神仏分離の時に廃仏毀釈で徹底的に破壊されたのが五重塔だったんです。

もったいないことしましたね。昔は神社にも沢山の五重塔があったようです。日光東照宮五重塔は、その貴重な生き残りの一つです。

実は秘密があるんです。
よく見てください。干支が刻まれています。辰・兎・寅…。
辰(家光)、兎(秀忠)、寅(家康)なんです。

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この日光東照宮五重塔は、干支の方角通りに建てられているんです。

つまり先程、語った…
「真っすぐ南に行くと140kmピッタリで江戸城なんです。江戸城から見ると日光は真北に位置しています。北を見れば北極星が見えるわけです。古代以来、北極星は宇宙の中心、宇宙には宇宙を支配する神、天帝が住む。その天廷から選ばれたのが地上の支配者、天下人なんです。」
…がここでも再現されているんです。

北斗七星の天帝⇒家康(日光東照宮)⇒江戸城とつながっているんです。

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日光東照宮 表門
一番初めの門、表門の左右には仁王様、敷地を警戒するガードマンです。その他(上部の横柱付近)に地上最大の動物「象」、「ライオン」、端には、中国の伝説の生き物「獏(ばく)」がいます。バクは、悪夢を食べますが、調べてみると、実は鉄や銅を食料としていたんです。

現代で言えば軍縮のシンボル。つまり、家康公によって戦乱が収まり、武器の必要としない時代になったんで、バクが食料に困らないで生きて行けるという事なんです。

単なる飾りじゃないんです。全て意味があるんです。

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表門・バク(現実のバクの食料は野草です)

日光東照宮 神厩舎「見ざる・聞かざる・言わざる」
皆さんは、「見ざる・聞かざる・言わざる」の彫刻を見つけて満足してしまうんですけど…違うんです。正しく意味を理解していただきたい。

8個のパネルに16匹の猿が描かれています…これは人の一生を描いているんです。

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左から…
1枚目:お母さんが子供の将来を見ている
2枚目:世間に出たら余分な事は、見ざる、聞かざる、言わざる
3枚目:「旅立とうかな」って独立する一歩手前
4枚目:右の方の青い雲は青雲。…若者が青雲の志を持つ!
5枚目:社会に出ると色んな事がある。悩んでいる友を励ましている姿

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側面に移動して左から…
6枚目:いよいよ恋に落ちます。照れている…
7枚目:協力して世の中の荒波を乗り越える夫婦の姿
8枚目:最後は妊娠したお母さんの姿で親のありがたさを知る

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日光東照宮 上神庫
お祭りの道具を入れる倉庫なんですけど上を見ると象がいます。
象なのに爪が生えている。耳もおかしい。しっぽが4本。実は当時の日本人は象を見たことが無かったんです。

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ですから、想像で描いたの。だからチョットどころかかなり違和感がある。そこがまた魅力なんです。狩野探幽の作品です。

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日光東照宮 燈籠
境内には、至る所に燈籠が配置されています。全部で123基あって120基は全国の大名、各藩主が奉納したものです。

伊達政宗、島津家などお好きな大名の燈籠を探すのも楽しいと思います。間違いなく全国の全藩主が奉納しているはずですからね。

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石の燈籠、鉄製といろんな種類、形も様々な灯篭が並んでします。

中には変わり物もありまして、日光東照宮陽明門の上り口、鼓楼近くにあるのが廻転灯籠。寛永20年(1643年)、オランダ国(オランダ商館)からの奉納です。灯籠上部に取り付けられた葵の紋が上下逆さであることから「逆紋の廻り灯籠」と称されています。附(つけたり)・銅燈籠として、国の重要文化財に指定されています。

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オランダ国から奉納された「逆紋の廻り灯籠」

なぜ葵の御門が逆さまかといいますと… ”単なる間違い” だそうです。だから徳川幕府も細かい事言わないでありがたく受け取ったとの事です。

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逆さまの葵の御門

日光東照宮 陽明門
もう…この陽明門…呆れるほど凄い。「よくこんな物作ったな」と感心します。いつまで見ていても見飽きないところから「日暮の門」ともよばれています。(確かに!

故事逸話や子供の遊び、聖人賢人など500以上の彫刻がほどこされています。

不思議な事もあります。
何故か ”水色桔梗” の紋を付けた武将が座っています。水色桔梗っていったら、明智光秀以外考えられないでしょう。

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「膝の ”水色桔梗”」・「明智光秀

なんで光秀がこんな重要な場所に座っているのか…大変なミステリー、凄い謎を陽明門は問いかけているんです。

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陽明門

この陽明門をくぐったら振返って右から二番目の柱を見ていただきたい…渦巻模様が1本だけ逆さまになっています。

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日光東照宮 陽明門「魔除けの逆さ柱」

どういう事かといいますと…
「大工さんが間違えました」
…そんな事あるわけないですよね。

嘘です。…つまり、建物というのは、完成した瞬間から崩壊が始まるんです。崩壊させないためには、完成させない方が良いんです。だから1ヵ所、未完成の部分があるんです。

日光東照宮 唐門
陽明門のすぐ先にあるのが、同じく国宝に指定されている豪華絢爛な唐門です。唐門は東照宮の本殿を守護している真正面の門で、江戸時代の参拝基準となったとも言われています。

ここより先に行ける人は将軍に拝謁できる身分とされ、幕臣や大名に限られていたそうです。

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日光東照宮 唐門

日光東照宮 本殿・拝殿
本殿・石の間・拝殿からなり、東照宮の最も重要なところです。例祭をはじめ、年中の祭典が斎行されます。また拝殿左右には、「将軍着座の間」・「法親王着座の間」があります。

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日光東照宮・御本社(拝殿・石の間・本殿)

日光東照宮 眠り猫
家康公のお墓、奥宮に向かう207段の石段に向かう、門の真上にあるのが ”眠り猫” なんです。牡丹の花の下で寝ている猫の彫刻。

なぜ猫なの…
「ここから先は家康公のお墓があるんだから、汚れたものはネズミ1匹通さない」
「猫が寝ているって事は平和なんです。世を乱すものはいないんです」
「家康公のおかげで平和な世の中になったんだ」
…で、猫なんです。

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日光東照宮 眠り猫

日光東照宮 奥宮
日光東照宮の本殿の裏には、奥宮(奥社)が存在し、そこには、徳川家康公のお墓があります。
※国指定の重要文化財に指定

日光東照宮の中でも最も高い標高に位置しており、眠り猫が彫られた門をくぐり、森の中を進む神秘的な石畳と石段の道を5分ほど歩くと、奥宮の拝殿と、徳川家康が埋葬されている上に建てられた宝塔にたどり着きます。歩んでいく中で、徳川家康からの遺言が記された看板を拝見や、叶え杉、などもあり、パワースポットとしても有名です。

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奥社宝塔【重要文化財

日光東照宮 利用案内

拝観料
境内:1300円(表門・陽明門・拝殿・石の間・東廻廊「眠猫」・奥宮「鳴龍」)
宝物館:1000円
セット料金:2100円(東照宮拝観券+宝物館入館券)
美術館:800円

駐車場:600円

所在地:栃木県日光市山内2301

世界遺産日光の社寺

日光東照宮まで来たら、東照宮だけで帰ったらもったいない!
両隣に世界遺産が2つもあるんです!!

1999年(平成11年)12月2日、モロッコのマラケッシュで開催された第23回世界遺産委員会において、「日光の社寺」が世界遺産に登録されました。

世界遺産に登録された「日光の社寺」の内容は、日光山内にある日光東照宮、日光山輪王寺日光二荒山神社の103棟(国宝9棟、重要文化財94棟)の「建造物群」と、これらの建造物群を取り巻く「遺跡(文化的景観)」です。

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日光山輪王寺

日光山輪王寺は、徳川幕府、三代将軍、徳川家光のお墓、廟所の大猷院(だいゆういん)があります。

また輪王寺は、天台宗三山の一つにもなっており、天台宗天台密教のお寺となっています。

日光山は天平神護二年(766年)に勝道上人(しょうどうしょうにん)により開山されました。
以来、平安時代には空海、円仁ら高僧の来山伝説が伝えられ、鎌倉時代には源頼朝公の寄進などが行われ、関東の一大霊場として栄えました。江戸時代になると家康公の東照宮や、三代将軍家光公の大猷院廟が建立され、日光山の大本堂である三仏堂と共にその威容を今に伝えております。

 

日光山 総本堂 三仏堂(さんぶつどう)
重要文化財 世界遺産
輪王寺の本堂は日光山随一、東日本では最も大きな木造の建物で、平安時代に創建された、全国でも数少ない天台密教形式のお堂です。

現在の建物は、正保2(1645)年、徳川三代将軍「家光」公によって建て替えられました。

三仏堂の前には、推定樹齢500年という、天然記念物に指定されている「金剛桜」(こんごうざくら)が植えられています。 三仏堂の内陣には、日光三所権現本地仏(千手観音・阿弥陀如来馬頭観音)という三体の大仏さま(高さ7.5メートル)と、東照三所権現本地仏薬師如来阿弥陀如来・釈迦如来)という掛仏の、2組の三尊仏がご本尊さまとしてお祀りされています。

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大猷院(たいゆういん) 国宝
大猷院とは徳川三代将軍「家光公」の廟所(びょうしょ)(廟所=墓所)で、世界遺産にある境内では、登録された22件の国宝・重要文化財が建ており、315基の灯籠も印象的です。

祖父である「家康公」(東照宮)を凌いではならないという遺言により、金と黒を使用し重厚で落ち着いた造りになっています。

入口の「仁王門」から「拝殿、本殿」までの道のりは、天上界に昇って行くような印象を受けます。

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大猷院 仁王門 重要文化財
1つ目の門で、口を開いた「阿形(あぎょう)」と口を閉じた「吽形(うんぎょう)」2体の仁王像「金剛力士像(こんごうりきしぞう)」が安置されています。「阿吽の呼吸」はここから来ていると言われています。

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大猷院 二天門(にてんもん)重要文化財
世界遺産日光の境内で1番大きな門です。二天を安置している事から二天門と呼ばれています。正面の扁額(へんがく)は、108代天皇後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)」による筆です。

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大猷院 展望所
展望所から下を見ると、石灯籠がたくさん並んでいます。当時の大名からの献上品です。ここからの眺めは、天上界から下界(人の住む世界)を見おろした風景を想像させます。

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大猷院 夜叉門 重要文化財
四体の夜叉「阿跋摩羅(あばつまら)、毘陀羅(びだら)、烏摩勒伽(うまろきゃ)、犍陀羅(けんだら)」が、安置されていることから夜叉門と呼ばれ、霊廟(れいびょう)を守っています。夜叉門には、牡丹(ぼたん)の花が彫刻されているので、別名【牡丹門】とも呼ばれています。なかでも、【烏摩勒伽】は全国でもめずらしい仏様です。

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大猷院 拝殿・相の間・本殿 国宝
大猷院の中心となる建物で、拝殿・相の間・本殿と連なる独特な建造物の構造を【権現造り】と言います。この建物は国宝に指定されており、たくさんの金彩が使われているので、別名【金閣殿】と呼ばれています。内部には、狩野探幽の描いた唐獅子、天井には140枚の龍の絵、家光公が着用した鎧などをご覧いただけます。

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大猷院 皇嘉門(こうかもん)重要文化財
奥の院の入り口に当たる門は、明朝様式の竜宮造りで、別名【竜宮門】と呼ばれています。この門の先に、家光公のお墓所があります。

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日光山輪王寺 利用案内

拝観料
三仏堂:400円
大猷院:550円
セット:900円(三仏堂・大猷院)

宝物殿・逍遥園:300円

日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)

福の神・縁結びのご利益でも知られる神社

この二荒山神社の境内の広さにはびっくりさせられます。
男体山、隣の女峰山(にょほうさん)、太郎山(たろうさん)など8峰と…、中禅寺湖周辺、いろは坂も含めて二荒山神社の境内とされています。

その広さは、杉並区とおなじ3400ヘクタール、…伊勢神宮5500ヘクタールに次いで日本で2番目に広い境内となっています。

中禅寺湖畔には、二荒山神社中宮があり、男体山の山頂には、二荒山神社の奥宮があります。

東照宮ばっかり、有名なんですけど…実は、二荒山神社って凄いんです。因みに、主祭神は、因幡の白兎で有名なオオクニヌシノミコト…です。

でも、世界遺産に登録されているのは、二荒山神社の一部、二荒山神社本社だけになんですよね。

拝観料:300円

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管理人の独り言

日光東照宮、日光山輪王寺大猷院に行くと、徳川幕府、徳川家がいかに強大だったかを理解することが出来ます。

皆さん、日光東照宮メインで日光を訪れて…
「日光の街中を散策して、美味しいものを食べてお買物をする」
…って感じだと思いますが…。

管理人がお奨めするのは、朝から日光東照宮に入って、日光山輪王寺二荒山神社を見て一日過ごす。

そして市内に一泊して、2日目にいろは坂を上って中禅寺湖まで上って、二荒山神社中宮祠を参拝して、華厳の滝を見て、最後に日光の街中を散策して帰ったら、最高の旅になると思うんです。

このプラン、いかかでしょう…(笑)

 

それでは最後に歴史の話を簡単に…

日光東照宮は、歴史、背景を知らなくとも、見るだけで驚きと感動を与えてくれるほど凄い建物。十分楽しめると思います。

でも、管理人は歴史の話をしなければ気が済まないんですね…(笑)

日光山輪王寺は、天台宗三山” のお寺。やはり、開祖、最澄について知っておくと、また違った見方が出来ると思います。「最澄と空海 - 旅cafe最澄について語った記事です。

続いて二荒山神社は、ご祭神の大国主命について知っておいた方が良いでしょう。「古事記 第3回 出雲神話という謎 - 旅cafe」は、大国主命が大活躍する出雲神話と国譲りのお話しです。

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江戸幕府 三代将軍 徳川家光

そしてメインの日光東照宮のお話しです。
皆さん、三代将軍、徳川家光の時代に徳川家、江戸幕府”盤石な地盤を固めた” と思っている方がほとんどだと思います。

正解ではあるんですが、家光がどれほど苦労してその後、200年続く幕藩体制を築いたかを語りたいと思います。

そもそも日光東照宮の大改築は、江戸幕府の地盤固めのためだったんです。

慶長5(1600)年、天下分け目の合戦・関ヶ原の戦い…大勝利を収めた徳川家康は、天下の実権を握り3年後に江戸幕府を開きます。

慶長20(1615)年には、大阪夏の陣で豊臣一族を滅ぼし、天下人の地位は安泰かと思われましたが…この時、家康すでに74歳、体調を崩し駿府城にこもりがちになります。

家康は不安を感じます。…「自分が死んだら幕府はどうなってしまうのか」…全国には、伊達に上杉・福島などつい最近まで覇を争った武将がまだ健在でした。

息子・秀忠をすでに二代将軍にしていたものの、まだ30代、自分・家康のカリスマ性によってかろうじて納まっている幕府、死後もその権威を保つ方法はないのか・・。

元和2(1616)年4月4日、死の2週間前、家康はある奇妙な考えを側近に告げます…「死後、関八州の鎮守とならん」(『本光国師日記』より)鎮守とは守り神の事、死んだ後なんと神となって関東と幕府を守ろうというのです。

家康は、そのやり方についても詳細な計画を伝えていました。それは極めて謎めいたもの…「自分が死んだら遺骸は久能山に納め一周忌の後、日光山へ魂を移せ」(『本光国師日記』より)。

でも、家康は、この時点では具体的な規模までは考えていませんでした。

 

家光誕生

慶長9(1604)年、家光は江戸城に生まれました…祖父は家康、父は秀忠、母は江です。…幼名を竹千代といいました。…これ以上望めないほどの良い生まれでしたが過酷な運命が待っていました。

家光の眼の乳母・春日局が書いたといわれる文書に衝撃的な事が記されています…「竹千代を二親ともに憎ませられ」…なんと江、秀忠ともに家光を憎んでいたというのです。

生まれてすぐ乳母に預けられた家光、3歳の時には重い病にかかり、死にかけるなど大変身体の弱い少年でした。…一方、家光より、2年後に生まれた国松は、母・江の手によって育てられ、健康で武術にも優れた活発な少年でした。

江や秀忠の愛情も国松の方に向けられたといいます。周囲でも次期将軍は兄ではなく、弟がふさわしいとの評判が高まります。江戸時代の記録には、12歳の家光がこうした状況を嘆き、自ら命を断とうとしたとあります。

そんな家光に目をかけたのが祖父の家康でした。ある時、家康は二人の孫に会いに来ました。事実上、どちらが跡継ぎにふさわしいと考えているかを示す場でもありました。

人々が見守る中、家康が発した言葉は、「竹千代殿、これへ、けれへ…」(『徳川実記』より)家光をまず近くに呼び寄せたのです。

つられて前に出ようとした国松に対しては、「国松はそこにいろ!」(『徳川実記』より)…と呼び捨て、家康は優秀と評判の国松よりも、あくまで年長の家光を時期後継者と考え、それを示したのです。

 

まだまだ乱世の機運が続く
江戸幕府の草創期

家光は、家康の死から7年後、20歳で3代将軍となり、9年後には父・秀忠も亡くなって名実ともに将軍となります。…この時、家光29歳…しかし、その前途は多難なものでした。

居並ぶのは、伊達正宗ら歴戦のつわものたちばかり、一方、自分は戦場に立った事も無く、才能が認められた訳でもなく、将軍の子というだけで上に立っている三代目でした。

そこで家光が考えたのは、 ”祖父、家康をとことん利用しよう” でした。

日光東照宮の大改築です。
絢爛豪華に作り変えました。現在の金額で2000億円もの巨費を投じ、集めた職人や大工の数、延べ650万人…天才絵師・狩野探幽江戸城本丸を手掛けた大棟梁・甲良宗広ら当代一流の人材を投入しました。

日光東照宮大改築、ここまでの事をしなければならないほど、当時の幕藩体制は、小さな事でも揺らいでしまうほど、不安定で貧弱なものだったんです。

その後は、日光東照宮大改築によって ”祖父、家康の権威を最大限に利用して” 徳川幕府への求心力は高まって行ったのです。

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幕藩体制(大半が外様大名

しかし、…
簡単には体制固めは終わらなかった

全国300の諸侯を如何に統制するか…家光の世になるや不穏な動きを見せる大名が現れます。熊本・肥後52万石の大大名加藤家が謀反を働きかける文書を巻いたり、家光を侮蔑するような態度をとったりしたのです。

家光は悩みます…実質的に将軍になって間もないこの時期に、これを放置すれば幕府は瓦解しかねない…家光は加藤家を改易し、領地を取り上げるといった重い処罰を課します。

更に続けて家光は、全国の大名の改易に乗り出します。家光が一代の間に取り潰した大名は、48家…一つ間違えば大きな反乱になりかねない難しい決断、家光は薄氷を踏むような思いで進めて行きました。

更に家光は、国内にとどまらない問題にも直面していました…それは、西洋諸国のアジア進出、とりわけポルトガル、スペインはキリスト教宣教師とともに次々と植民地を築いていました。

インドのゴア、中国のマカオ、フィリピンのマニラなどを攻略、次は日本ではないかと国内では懸念が広がっていました。…そんな折、家光に外国の脅威をまざまざと感じさせる大事件が起きます。

寛永14(1637)年、島原の乱…九州の島原や天草諸島で重税とキリシタン弾圧に対する人々の不満が爆発、キリシタンを中心とする3万人が原城に立て籠もり、12万の幕府軍と戦いました…戦闘は5ヶ月にわたり、双方合わせて4万人に近い死傷者が出る事になりました。

その後も西洋諸国との緊張した状態は続きます。…幕閣の間では、アジアのキリシタンの拠点、マニラに兵を送るという強硬意見も出るほどでした。

家光は、決断を迫られます。…このまま西洋諸国と交易を続ければ脅威は広がるばかり、貿易を制限すべきなのか…しかし、一方、幕府ではこんな懸念も出ていました。ポルトガルがこれまでもたらしてきた生糸や絹織物はどうなる…重要な貿易ルートを断てば大きな損失ともなります。

国際社会での舵取りという困難な課題が若き三代目の背に圧し掛かっていました…。

寛永19年~20年、更に江戸時代最大の大飢饉にも見舞われました。寛永の飢饉、日照り、長雨、冷害などが重なって凶作が続き、多数の餓死者がでます。農業政策を根本的に立て直さなければなりませんでした。

次々と苦難に直面しながら生来病弱だった家光は、頻繁に体調を崩すようになります…最近発見された家臣宛ての手紙の中で家光は、当時の苦しい胸の内を吐露しています。

この天下は
権現様がお骨を折られ
矛先でお治めになったものなのに
不肖なる身で後を継いでしまった事は
恐れ多いことで
何としてでも
天下が続き治まるように
朝夕工夫しているが
あまつさえ近年は、病気になりがちで
はかばかしく天下のまつりごとを
務めかねる

こうした危機にあった家光に不思議な事が起こります…夢に祖父・家康が盛んに現れるようになったのです。家光は、祖父の夢を見ると大変感謝し、狩野探幽ら絵師にその姿を描かせるようになったのです。 

こうした霊夢画像は、20枚近く残されています…対外政策に苦しんでいたときや飢饉対策に頭を悩めていたときなど家康が夢の中に出てき、それを見た家光は、励まされたのです。

こうして祖父・家康の夢に励まされながら家光は、その後の幕藩体制の礎になる施策を完成させていきます。…大名に国元と江戸とを一年おきに行き帰させる参勤交代、オランダと中国のみに長崎での貿易を認めた鎖国…幕府の権威を制度として形にしたもので200年続く太平の世の土台となりました。

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参勤交代図

慶安4(1651)年4月20日、家光は力尽きたかのように江戸城で息を引き取ります。…享年48…死ぬ間際まで脳裏にあったのは、日光東照宮と家康の事でした。…家光は、こう言い残しています。

生涯 東照宮の神徳を仰ぐこと
並々ならず

されば死後も
魂は日光山中に鎮まり

朝夕 東照公の御側近くに侍り
仕えまつらん

その思いに従って日光東照宮から500mのところに家光の霊廟が建てられました。大猷院(日光山 輪王寺)です。東照宮とは異なり、過度な装飾は抑えられています。死して尚、家康を立てようとしているかのようです。

 

 

 

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