旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。…当ブログ記事は転載OK…リンクを貼っていただけるなら遠慮なくお好きにお使いください。

大阪城

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大阪のシンボルは、何といっても大阪城

大阪城、凄いよ!!

”いきなりなんだよ” っていう皆さんの心の声がきこえました…(笑)

大阪城、とにかく大きい!
大阪の一等地にこんな巨大なものを作ってしまった秀吉は凄いと思わざるを得ません。

という事でチョット調べてみました。

城郭敷地広さランキング
1位 江戸城:約230ha!(皇居+皇居外苑
2位 大阪城:約106ha(大阪城公園
3位 仙台城:約44ha
4位 名古屋城:約35ha
5位 姫路城:約23ha
6位 熊本城:約20ha
大阪城も大きいけど…さすがに江戸城(皇居)はかなわない。(千葉在住の管理人としては、チョット嬉しい)

外堀まで広げると更に広くなります。外堀の長さのデータも見つけました。
城郭、外堀の長さランキング
1位 江戸城:15,700m
2位 小田原城:約9000m
3位 大阪城:約8100m(豊臣時代)
4位 萩城:約5500m
5位 姫路城:約5200m
小田原城、さすがでかい…萩城とかも入ってきました。

天守閣の高さなんてのもありました
天守閣の高さランキング
1位 江戸城:約45m(焼失)
2位 大阪城天守:約42m(現在の再建天守
3位 名古屋城天守:約36m(外観復元)
4位 姫路城天守:約32m(現存)
5位 松本城天守:約25m(現存)

皇居は別格として、大阪城って凄いでしょ。

今回は、そんな大阪城を語ります。

大阪城といったら大坂冬の陣大坂夏の陣
日本史上最大の攻城戦!!

慶長5年(1600年)関ヶ原で勝利した家康は、東軍への恩賞という形で豊臣家の全国にあった220万石の内ほぼ4分の3を削減してしまった。これにより豊臣家の所領を摂津・河内・和泉の65万石程度まで削る事に成功した。

3年後の慶長8年、家康はついに征夷大将軍になり江戸幕府を開くが、まだまだ大阪にいる豊臣秀頼を担ぐ豊臣恩顧の大名も少なくなく、徳川家の天下は盤石とは、ほど遠い状態でした。

家康は、70歳を過ぎ、逆に秀頼は見事な青年に成長している。
慶長19年(1614年)8月、そんな中、家康は、まったくの言い掛りである「方広寺鐘銘事件」を作り出し、無理難題を要求、豊臣家に開戦を決断させるのです。

大阪方が勝っていた夏の陣

慶長19年(1614年)12月、家康は20万の大軍を率いて大阪城を取り囲むも、豊臣方の鉄壁な防衛陣を突破できないでいた。さすがに天下人・豊臣秀吉が、天下の総力を傾注して築いた比類なき堅城。とりわけ天下無敵と言われた、関東の北条氏の小田原城をモデルとした総堀(外堀)の威力は凄まじく、皆目、攻城方を寄せつけなかった。

大坂城は10万の兵が10年籠っても戦えるように、設計されていた。唯一、力攻めに弱いと見なされた城の南東にも、真田信繁の守る真田丸が築かれ、12月4日、前田利常(金沢120万石)勢がここへ押し寄せたが、手痛い反撃にあい、攻城方は多数の死傷者を出している。

同月16日、家康はかねて準備していた大筒で、一斉砲撃を開始させたが、大坂城を多少損傷することはあっても、落城させるまでにはいたらず、逆に、城内からの砲撃も激しく、将兵の損傷は寄せ手に多く出た。このあたりから、家康方に焦燥感がただよい始める。

なにしろこの年の冬は殊の外、寒気が厳しかった。特に74歳の家康にとって、10月以来の出陣の月日は長く、寒気はその身に堪(こた)えたことでしょう。

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そんな中、徳川方が放った砲弾が大阪城に着弾、運の悪いことに淀殿の侍女が弾に当たって死傷してしまう。

弱気になった淀殿を見て、ここをチャンスとばかり、大坂城内に潜入していたスパイ織田有楽、織田常真らに働かせ和議を結んでしまった。

大阪方は、勝ち戦であったにもかかわらず、和議の条件として外堀を埋める事に同意してしまったのです。

そして翌年、大坂夏の陣

徳川方は、外堀だけでなく、二の丸、三の丸に至る堀まで埋めてしまい。大阪城は完全に丸裸にされてしまいました。

翌年、家康は大阪に対し、またもや無理すじの国替えを命じるも、大阪方が応じられるはずもなく、夏の陣へと突入してゆくのです。

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外堀を埋められてしまった大阪方は、堀の外での野戦に出るしかありません。徳川方は、埋め立てた堀側に戦力を集中。大阪方も防戦を試みるも、野戦は家康が最も得意とする戦法、しかも戦力差が大きく、大阪方の勝てる要素はありませんでした。

結局、大阪城落城、淀殿、秀頼、自刃で豊臣家は滅亡となったのです。

大阪城の解説

大阪城は、織田信長に攻め落とされた石山本願寺が立っていた場所に秀吉が大阪城を建てて、その後、大坂の陣で焼失した後、徳川幕府直轄領になり、1620年(元和6年)に徳川秀忠の命により天下普請によって10年かけて再築されました。

豊臣時代の大坂城の跡に高さ数メートルの盛り土をして再建されたため、現在も地下深くに豊臣時代の石垣が埋まっています。

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現在ある天守は1931年(昭和6年)に復興されたものですが、櫓や門などは江戸時代のものが残っています。

天守を中心とした大阪城公園には梅1250本、桜4500本が植えられており、春には花見客で賑わいます。また夜間には天守がライトアップされるため、夜景の名所としても知られています。

なお豊臣時代の天守が32年、徳川時代天守が36年と、いずれも短期間に焼失したため、現在ある復興天守大阪城天守閣)がもっとも長命の天守となっています。

大阪城が失った鉄壁の防御態勢

大阪城にきて、まず皆さんを驚かせるのは、石垣と堀の長大さでしょう。でもこの鉄壁の防御と思われる石垣と堀は、大阪城防衛体制のほんの一部、大阪城の足元部分なんです。(この堀も大坂冬の陣の後、埋められてしまう

大坂冬の陣で徳川方20万を全く受け付けなかったのは、最大の防御態勢は、更に外にあった総堀(外堀)の存在だったんです。

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大阪城を訪れて見る巨大な石垣、堀まで攻め手の徳川勢はたどり着くことは出来なかったのです。

しかし冬の陣で和議の条件により、上記マップの外側部分総堀(外堀)の最強の防御態勢を失います。これによって大阪城は、防御力の80%は失ったと管理人は考えています。

徳川方は、さらに和議の条件に反して、大阪城の見学で一番初めに目にする、大阪城直下の堀まで埋めてしまいます。これによって大阪城は丸裸同然になってしまったんです。

大阪城 日本一高い石垣(高石垣)

大坂城には日本の城郭でもっとも高い石垣(高石垣)があります。

その場所は本丸東側面にある石垣(本丸東石垣)で、根石からの高さは約32mもあります。水面は時期によって変動するものの、おおよそ水面から天端石(てんばいし)までが24m、水深が6m、さらに根石まで2mほどあるそうです。(天端石というのは石垣の一番上にある石のことで、櫓と接するため水平にされています)

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徳川幕府による大坂城再築工事の際、2代将軍秀忠は普請総奉行に選ばれた藤堂高虎”石垣を旧城の2倍に、堀の深さも2倍に” するよう強調したといわれています。かつてここには3重の櫓や多聞櫓がありましたが、戊辰戦争時の大火ですべて焼失してしまいました。

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外堀に面した一番櫓などは2重櫓ですので、本丸を囲う内堀にはより強固な櫓を築いたのでしょう。

また、その一番櫓や六番櫓が現存する南外堀の石垣は城中2番目の高さを誇り、根石から天端石までの高さが約30mあります。
この南外堀は堀の最大幅は約75mもあるので、「高い石垣に幅広の堀」という藤堂高虎築城の特徴がよく出ています。

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大阪城 城内

1626年(寛永3年)に再建された徳川幕府天守は独立式層塔型5重6階(地上5階、地下1階)で高さは天守台石垣を含んで58.3mだったが、1665年(寛文5年)に落雷で焼失した。

現在の復興天守は1931年(昭和6年)に再建された鉄筋コンクリート製。この天守は1995年(平成7年)〜1997年(平成9年)にかけて大林組により「平成の大改修」が行なわれた(70億円を投じて延べ6万1000人が従事)。

青丸:一番櫓、六番櫓」「緑丸玉造口、大手門、青屋門、京橋口」「緑枠:豊国神社」「黄枠:千貫櫓」「黄丸石山本願寺」「赤枠:硝煙櫓」「赤丸:金蔵」「ピンク枠:秀頼、淀殿自刃の碑」「ピンク丸:大手門」

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一番櫓・六番櫓
二の丸の南外堀に面する石垣上には江戸時代、7つの隅櫓が建てられていました。
ほぼ同じ規模の櫓であったこともあり、名称は「一番櫓」から「七番櫓」まで連番でつけられていたそうです。
1628年(寛永5年)に創建されました。

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千貫櫓
千貫櫓は徳川幕府による大坂城再建の際に建てられた二重櫓で、重要文化財に指定されています。面積は1階が217m2、2階が163m2で、高さは13.5mです。大手門を北から防御する重要な役割を果たしていました。

それ以前の豊臣秀吉の時代にも、また織田信長の時代にも千貫櫓という名前の櫓はあったとされます。もともとの名前の由来は石山合戦の際に横矢が効果的に飛んでくる隅櫓に苦戦させられ、信長が「あの櫓を落とした者には千貫文の銭を与えても惜しくない」と話したことにあるとされます。

千貫櫓は1620年(元和6年)に小堀遠州の設計・監督のもと築かれた櫓で、現在の大阪城に残る建物の中では西の丸にある乾櫓と並び、もっとも古い建造物です。
1961年(昭和36年)に解体修理がおこなわれました。

堀の外から見た千貫櫓です。いちばん左が千貫櫓です。

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大手門
大坂城の大手門は1628年(寛永5年)、徳川幕府による再建時に創建された枡形門で、1783年(天明3年)に落雷により多聞櫓が焼失した際にも類焼を免れた貴重な建造物です。現在は大手門を取り囲む土塀二棟とともに重要文化財に指定されています。(なお幕末までは追手門とも称していました)

一の門は高麗門形式の門となっています。

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大坂城内の巨石
「蛸石」や「肥後石」のように、大坂城の石垣に使われている巨石には名前がついています。「肥後石」が肥後という名前が付いているものの肥後熊本藩の加藤家ではなく、岡山藩の池田家がもってきたものであることは知られていますが、こうして整理してみると瀬戸内海の島から持ち込んだものが多いですね。

大坂城の巨石の名前や大きさなど
石名 場所 高さ、横幅、(最長部) 表面露出、(実面積) 石の推定産地 担当大名
1 蛸石 桜門 5.5m 11.7m 59.43m2 備前 犬島 岡山藩主 池田忠雄
2 肥後石 京橋門 5.5m 14.0m 54.17m2 讃岐 小豆島 岡山藩主 池田忠雄
3 振袖石 桜門 4.2m 13.5m 53.85m2 備前 犬島 岡山藩主 池田忠雄
4 見付石 大手門 5.1m 11.0m 47.98m2 讃岐 小豆島(千家) 熊本藩主 加藤忠広
5 二番石 大手門 5.3m 8.0m 37.90m2 讃岐 小豆島(千家) 熊本藩主 加藤忠広
6 碁盤石 桜門 5.7m 6.5m 36.50m2 備前 沖ノ島北木島?) 岡山藩主 池田忠雄
7 二番石 京橋門 3.8m 11.5m 36.00m2 讃岐 小豆島 岡山藩主 池田忠雄
8 三番石 大手門 4.9m 7.9m 35.82m2 讃岐 小豆島? 熊本藩主 加藤忠広
9 四番石 桜門 6.0m 5.0m 26.90m2 岡山藩主 池田忠雄
10 竜石 桜門 3.4m 6.9m 約 23.00m2 備前 沖ノ島 岡山藩主 池田忠雄

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蛸石・大手見附石

石山本願寺推定地
大阪城の二の丸、大阪市立修道館のそばに石山本願寺推定地の石碑があります。
かつてこのあたりに本願寺教団の本拠、石山本願寺があったと考えられています。

あの信長を一番苦しめた石山本願寺ですから…歴時好きの管理人としては、感慨深いものがありますね。

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豊臣秀頼淀殿ら自刃の地の碑
大阪城天守閣の北側に碑が立っています。大坂夏の陣にて豊臣方が敗戦濃厚になり、秀頼と淀殿はここにあった櫓に隠れ、自刃しました。碑だけしかありませんが、大阪城の歴史の中では重要なところだと思います。

この場所は、チョット立ち止まってしまいますね。

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大阪城のマンホールのふた
管理人は、あまり興味はないんですけど、最近マンホールの蓋の写真を撮っている方をよく見かけます。

大阪市内のマンホールのふたには大阪城が描かれています。桜と天守の絵柄ですが、ほかにもあるかもしれませんね。

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金蔵
大坂城天守のすぐ近くには江戸時代に幕府の金庫として使われた金蔵があります。江戸時代、幕府の金貨、銀貨を保管した建物で、幕府直営の金庫として役割を果たした。
この金像は1751年(宝暦元年)に築造されたもので、重要文化財に指定されています。

いったいどれだけの金が入ってたんでしょうね…(かなり興味ある…笑)

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硝煙櫓
硝煙とは黒色火薬のことで、この硝煙櫓は江戸時代のまま残っている唯一の総石造りの火薬庫です。引火防止のために壁、床、天井のすべてが花崗岩の切石と漆喰で頑丈に固められています。

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桜門
桜門は二の丸から本丸に入るための門で、江戸時代はこの先に本丸御殿がありました。
秀吉時代にも桜門の名称で呼ばれており、徳川幕府による再建時もそのまま継承したようです。その由来はこの門の近くに桜並木が植えられたことによるそうです。

門の入口に向かって右側の巨石を「龍石」、左側の巨石を「虎石」、あわせて「龍虎石」と呼びます。文化年間に著された『金城聞見録』には「雨が降ると龍と虎の姿が浮かんでくる」と記されています。

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豊國神社(豊国神社)
桜門のすぐそばに豊國神社(ほうこくじんじゃ、豊国神社、豐國神社)があります。
1879年(明治12年)11月、京都市の豊国神社(とよくにじんじゃ)の別社として創建されました。創建当初は大阪市中之島に鎮座していましたが、何度か移転を繰り返し、1961年(昭和36年)に現在の場所に移りました。

主祭神豊臣秀吉豊臣秀頼豊臣秀長で、毎年8月18日には1592年(慶長3年)の旧暦8月18日に薨去した豊臣秀吉を慰霊する「太閤祭」が催されます。

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大坂城天守(徳川大坂城
大坂城天守は現在の復興天守を含めて3度造営されています。
大坂の陣」の際に豊臣時代の天守をはじめとした建造物はすべて灰燼に帰したため、1620年(元和5年)から、2代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建が始められ、3期にわたる工事を経て1629年(寛永6年)に完成しました。

このとき築かれた大坂城のことを「徳川大坂城」と呼び、また天守は「元和期天守」とも呼ばれています。

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管理人の独り言

ようやく大阪城をの記事、書けました。

大阪城、気になってたんですが、物語があまりにも壮大過ぎて、どこにスポットを当てて記事を書くか迷っていまして、こんなに遅くなってしまいました。

今回の記事は、大坂の陣にスポットを当てて大阪城の鉄壁の防御態勢をメインで書きましたけど、これで終わりにするつもりはありません。

なんせ大阪城ですからね。

楽しみに待っていてください。

参考サイト:「大阪府のお城一覧 | 攻城団

 

 

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