旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。…当ブログ記事は転載OK…リンクを貼っていただけるなら遠慮なくお好きにお使いください。

耶馬渓

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大分を代表する景勝地
日本新三景「耶馬渓(やばけい)」

日本三景天橋立・松島・宮島)は有名ですけが日本新三景は知らない人が多いんじゃないでしょうか…知っておかなきゃダメ!

日本三景は江戸時代前期の儒学者林春斎(はやししゅんさい)が決めたもの。これに対し、大正5年、現在のブルーガイドブックで知られる実業之日本社が『婦人世界』の読者投票で決めたのが「日本新三景」(新日本三景)…
大沼公園(北海道)
三保松原(静岡県
耶馬渓大分県
…で、それぞれに日本新三景碑を建立しています。

耶馬渓は素晴らしいですよ。管理人は、日本新三景の中では、耶馬渓が一番見所のある景勝地だと考えています。

耶馬渓は広いエリアの総称で…
大分県最北部にある中津市から車で約20分の山国川中流域にある耶馬溪エリアは…
耶馬渓
耶馬溪
耶馬溪

耶馬溪
…と4つに分けられ、それぞれが違った顔、特徴をもって楽しませてくれます。

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距離感がわかるように縮尺も切取っておきました

耶馬渓

耶馬渓エリア 青の洞門(あおのどうもん)
禅海和尚の手彫りのトンネル

江戸時代、荒瀬井堰が造られたことによって山国川の水がせき止められ、樋田・青地区では川の水位が上がりました。そのため通行人は競秀峰の高い岩壁に作られ鉄の鎖を命綱にした大変危険な道を通っていました。

諸国巡礼の旅の途中に耶馬渓へ立ち寄った禅海和尚は、この危険な道で人馬が命を落とすのを見て心を痛め、享保20年(1735年)から自力で岩壁を掘り始めました。

禅海和尚は托鉢勧進によって資金を集め、雇った石工たちとともにノミと鎚だけで掘り続け、30年余り経った明和元年(1764)、全長342m(うちトンネル部分は144m)の洞門を完成させました。

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寛延3年(1750)には第1期工事落成記念の大供養が行われ、以降は「人は4文、牛馬は8文」の通行料を徴収して工事の費用に充てており、日本初の有料道路とも言われています。

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明り取りの為の横穴

耶馬渓エリア
競秀峰(きょうしゅうほう)

耶馬渓を代表する名勝で、山国川下流側から一の峰・二の峰・三の峰・恵比須岩・大黒岩(帯岩)・妙見岩・殿岩・釣鐘岩・陣の岩・八王子岩などの巨峰や奇岩群が約1キロに渡り連なっていて、その裾野には青の洞門が穿たれています。

競秀峰の名は、文政元年(1818年)に訪れた頼山陽が描いた水墨画の代表作「耶馬渓図巻」によって天下に紹介されました。

つまり、青の洞門が出来る前は、この峰々を人馬が伝って行ったわけです。…そりゃ落ちますよ。

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耶馬渓エリア 競秀峰探勝道

青の洞門が出来る前の道を散策する遊歩道が整備されているんです。(安全な道だから、落ちる心配は無いよ…笑)

少しは、昔の旅人の気持ちになれると思いますよ。
という事で、登り口は、青の洞門の両脇から、どちらからでもOK…
初級コースB~C 70分
中級コースA~B 70分
上級コースA~C 100分
…って感じです。
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尾根伝いの探勝道は、岩窟や鎖場、仏をめぐる祈りの道。途中の妙見岩の中の「妙見窟(みょうけんくつ)」と呼ばれる洞窟には、平安時代につくられた木造妙見菩薩坐像が安置されています。競秀峰の名は宝暦13年(1763年)に訪れた江戸浅草寺の金龍和尚に命名されました。

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それと散策路には、様々な石仏、お地蔵様がいますよ…神秘的な感じがする場所です。昔の人が旅の安全を祈願して立てたんでしょうね。

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本耶馬峡エリア 耶馬渓
青の同門の下流にある橋で1923年に竣工した「耶馬渓橋」。日本で唯一の8連石造アーチ橋で、日本最長の石造アーチ橋です。地元では、オランダ橋とも呼ばれているそう。

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本耶馬峡エリア 羅漢寺(らかんじ)
耶馬渓の荒々しい岩山・羅漢山の中腹に位置する「羅漢寺(らかんじ)」。今から1300年以上前、大化元年(645年)にインドの僧侶・法道仙人がこの地で修行したことが羅漢寺の始まりとされています。

岩山に埋め込まれるように建てられた寺の岩壁には多くの洞窟があり、洞窟の境内にある「無漏洞(むろどう)」には、さまざまな表情をもつ日本最古の五百羅漢が安置されています。栃木県の徳蔵寺や神奈川県の建長寺と共に、“日本三大五百羅漢”のひとつに数えられています。

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その他にも、室町時代に普覚禅師(ふかくぜんじ)という高僧が刻んだとされる千体地蔵など、3770体もの石仏が安置されており、平成26年(2014)には国の重要文化財に指定されました。

岩山に建つ羅漢寺への参道は少々険しく徒歩で20分程かかりますが、リフトであれば3分程で羅漢寺駅に到着します。羅漢寺の山頂にはちょっとした公園や展望台などがあり、耶馬溪エリアの広大な景色を眺めることができます。新緑や紅葉のシーズンは絶景が望めると特に人気です。

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徒歩で登れば参道途中にある「仁王門」も必見です。

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仁王門

羅漢寺 利用案内
拝観料:無料
駐車場:有り(無料)
リフト代:往復700円(片道500円)

 

耶馬渓

耶馬渓エリア 一目八景(ひとめはっけい)
新緑から紅葉期まで一年中鮮やかな景観を楽しむめる「一目八景」。一目で八景を一望できることから名づけられた深耶馬溪の代表的な景勝地です。夫婦岩や、烏帽子岩、仙人岩、海望嶺などの奇岩が連なる景観も醍醐味。

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一目八景

耶馬渓エリア 光円寺のしだれ桜
耶馬渓の小柿山集落にある光円寺のしだれ桜。3月下旬から4月上旬にかけての開花時期には、桜の花が滝のようにしな垂れる姿が見物です。

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奥耶馬峡 猿飛千壺峡(さるとびせんつぼきょう)

山猿が現れて岩から岩を飛び回っていたことから名付けられた「猿飛千壺峡」。
自然の激しい渓流が造りあげた大小無数の甌穴(おうけつ)が約2キロに渡って峡底に広がっています。(甌穴とは、長い年月のうちに水流によって石が岩にあけた穴)

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下流にある「魔林峡」は、猿飛甌穴群の下流1.5キロに延びる渓谷。
遊歩道が整備されており、散策しながら景観を楽しめますよ。

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魔林峡の上流に架けられたアーチ型の「念仏橋」。山国の「高千穂」とも称され、色とりどりの紅葉と橋が、まるで絵画のような景色を演出します。

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裏耶馬峡 後藤又兵衛の墓

戦国武将(豊臣家七人衆の一人)後藤又兵衛大坂城落城後伊福に潜居し、秀頼死亡後自刃した後藤又兵衛を偲んで近くの住民が冥福を祈る為石碑総高2.03mを建てました。

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後藤又兵衛
名前は知っていたけど、どんな人間か知らなかった 後藤又兵衛 …改めて調べてみましたら、実に興味深い人物でした。

黒田孝高黒田官兵衛)、仙石秀久黒田長政らに仕えた猛将。
不運な武将としても有名。

幼少期は資料に乏しく、幼名も甚太郎や弥八郎、弥太郎など諸説ある。
播磨にて黒田官兵衛に仕えるも、羽柴秀吉播州平定戦にて主君、黒田官兵衛織田家より離反した荒木村重の説得に向かい、そのまま有岡城に監禁されると、黒田官兵衛の主君である小寺政職荒木村重に同調した事もあり、自動的に連座して黒田官兵衛も逆心を企てたと見られる。

同様に後藤基次の父である後藤基国といった後藤一族も多くが播磨にて蜂起した別所長治に随伴した事から、主君も戻らず一族も離反した事より羽柴秀吉陣中で所在が無くなっていた所を、黒田家家臣団、纏めてソックリそのまま仙石秀久に召し抱えられる。

その後、黒田官兵衛有岡城落城と共に救出されると黒田官兵衛の元に帰参した。

朝鮮出兵では文禄の役慶長の役両戦役に参戦し、文禄の役では第二次晋州城攻防戦にて城壁を抜き加藤清正配下の森本一久らと一番乗りを競った。

慶長五年、関ヶ原の戦いでは黒田長政に従い、石田三成家臣の勇名轟く槍使い大橋掃部を一騎打ちで討ち取るなど兵として抜群の功績を挙げ、戦後は大隈城(益富城)一万六千石の所領を与えられた。

しかし黒田如水死後、2年が経過すると元々、犬猿の仲であった黒田長政といよいよ仲違いし慶長11年、一族揃って黒田家を出奔する。

黒田長政黒田長政で奉公構という再就職禁止令を上層部に提出し徹底した基次への追及を行い、その武勇を惜しんで引く手数多ながらも基次は無聊をかこつ事になる。慶長16年には京都にて浪人生活を送り、爪に火をともす生活を送っている。

その3年後、慶長19年に大阪にて浪人の募集が始まると基次は是に率先して応じる。後に云う大阪の役であるが、閲兵の折に指揮を任されその見事振りから「摩利支天の再来」とまで称された。

大阪城では大野治長と並んで最重要人物の筆頭として数えられ、対する徳川家康からも開戦前に注意すべき武者として御宿勘兵衛政友と共に評価されていた程である(大阪の役勃発前は、大坂牢人五人衆は高名でなかった)。

大坂夏の陣では先鋒として2800の兵を率い、寡兵にて徳川軍先鋒、奥田忠次らを討ち取りながら孤軍でおよそ八時間も奮戦し、敵味方から賞賛された。

一般的には霧で後続の明石全登真田信繁といった諸部隊が到着できなかった為、着陣した小松山にて奮戦の末に討ち死にしたとされるが、実際には各地に生存説が伝えられている。

その武勇から黒田二十四騎、黒田八虎、大坂牢人五人衆、大坂城七将星といった各筆頭に数えられている。

「槍の又兵衛」と呼ばれていた程武術に優れていたが、ある程度知略にも長けていた武将でもある。

この当時で身長が約六尺(約180cm)以上はあったという巨漢な武将。肖像画などでは甲冑を身に纏って満月(金色で丸型)の前立てが付いた兜を被っている場合がある。

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後藤又兵衛 肖像画

 

管理人の独り言

耶馬渓でお奨めの場所があります。
でも、…危険だと判断したら、迷わず引き返してほしい場所なんですけど…
”古羅漢(ふるらかん)”…です。

ガイドブックにも乗ってますけど ”特に注意が必要な場所” と考えたので別枠で説明しておきます。

羅漢寺の向かいに、怪奇な岩峰や天然橋を持った丘陵が屏風を拡げたように続いており、この一帯を古羅漢と呼びます。

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探勝道入口は、羅漢寺直下の駐車場から見て100mほどでトンネルがあります。そのトンネルの先すぐ右手に下記の写真駐車場があり、駐車場のすぐ脇が探勝道入口となっております。

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坂道あり、階段あり、ですが整備された、安全な遊歩道が続きます。お地蔵様も至るところに置かれています。

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石仏、毘沙門天磨崖仏、国東塔など、岩峰・岩窟に配置された石造文化財が現存しています。

このうち石造観音菩薩坐像は膝から正平17 年(1362)の年号が入ったお経と歯が発見されており、室町時代に作られたものということがわかります。

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奇岩の古羅漢に大正時代の草庵がよみがえりました!
古羅漢、中腹の岩窟「雲せん窟(うんせんくつ)」には、大正~昭和に活躍した日本画家「雲せんさん」が二年間暮らした草庵があります。

雲せんさんは広島県出身の日本画家で、同郷の思想家「頼山陽」に影響を受け耶馬渓を訪れ、たくさんの耶馬渓画を描きました。

「雲せん窟」の庵は老朽化で崩壊が進んでいましたが、雲せんさんのご子孫や地元の方々の熱い要望があり、このたび日本遺産事業として修復することができました。

古羅漢は耶馬渓随一の奇峰で、中世の石仏・石塔、雄大な天然の石橋や鎖場などが展開する祈りの道は絶景です。

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安全に歩けるのは、ここまでです。
この先は、絶壁沿いに鎖につかまって進むような道になりますので、無理だと思ったら、迷わず引っ返していただきたい。先には景色以外さしたる見物はありません。

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福沢諭吉耶馬渓

最後にチョットほっこりするエピソード…
皆さんご存知の福沢諭吉。「学問のすすめ」「脱亜論」などを発表し、1万円札にもなって皆さん大好きな福沢諭吉って、実は大分、中津川出身だったんです。

つまり、耶馬峡は地元なんです。そんな福沢諭吉は、木の乱伐によって、青の洞門一帯の風景がこわされて行くの憂いて、これを保存すべきだと考え、競秀峰一帯を個人のお金3万円という巨額の資金を投じ、約3年間の年月をかけて買収しています。

その後、本耶馬溪町(当時は東城井村)に寄付するという、すごく立派なことしてるんです。耶馬峡の自然美を見ることが出来るのは、福沢諭吉のおかげだったんです。だてに1万円札になってないって事ですよ。

その交渉にあたった曽木円冶は次のごとく回想している…
『先生は独り教育界のみならず、社会万般の向上発展に意を配られた。先生の郷里耶馬溪はわずか数里隔てて居るに過ぎず、同一郡内で人物物資の交流も頻繁であることにて、先生は晩年郷里耶馬溪の風景保存に乗り出され、心なき者の樹木の乱伐をされては、折角の天下の絶景もその風景も阻害される処、丁寧に先生御自身が之を買い取って永久に保存されることをおもいつき、当時其の斡旋を東城井村長であった先考に依頼してきたのである。』
…と、記述されています。 

福沢諭吉、いい事してるんですよ…見直した!!

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