
弥生時代を解き明かす貴重な遺構
古代ロマン薫る佐賀県の文化遺産「吉野ケ里遺跡」
50ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な集落跡で知られる、 ”吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき)” 。
1986年(昭和61年)からの発掘調査によって発見されまして、現在は、国営吉野ヶ里歴史公園として国が管理する公園となっています。
弥生時代ですよ…どんな時代か知らないでしょう…実は管理人もよく知りませんでした。でも、調べると、これがまた面白い時代なんですよ。
縄文時代・弥生時代
日本は、狩猟生活を基本とした平和な縄文時代が1万年続きました。縄文時代の終わり頃(紀元前553年)に孔子が誕生しています。
孔子が誕生した頃、弥生時代がスタートします。稲作が始まった事により、食料をストックすることが出来るようになり、貧富の差が生まれます。
すると争いごとが始まるんです。小国が乱立する時代が始まります。そしてついに紀元280年頃、小国を統治する大国が登場します。卑弥呼を女王とする邪馬台国です。


魏志倭人伝と邪馬台国
日本の歴史教科書って仏教伝来あたりから、蘇我氏、物部氏の争いとかで始まるんですけど、その前の歴史ってあやふやなんです。
その理由が…弥生時代を調べてみてわかりました。
当時の日本には字が無い。文字が無いんです。記録が残っていないんです。
つまり、弥生時代って…よくわからないんです。
そこがまた想像を膨らませる…ロマンがあるんですけどね。
唯一、文字として残っているのが中国の歴史書 ”魏志倭人伝” で、なんと2000文字もの日本に関する情報が書かれているんです。(2000文字って結構な文章量ですよ)
魏志倭人伝の魏とは、三国志の魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)…
魏の曹操
呉の孫権
蜀の劉備、関羽、趙雲、諸葛孔明
…らが覇権を争った時代の ”魏” です。(紀元240年当たり)
魏志倭人伝によると、その頃の日本は、多くの小国を支配していた邪馬台国という大国が存在していまして、女王卑弥呼が支配していました。
で…邪馬台国の場所が論争になっているわけですよ。…魏志倭人伝をそのまま読むと九州の東の海の上(太平洋)になっちゃいます。
という事で…
魏志倭人伝が、距離の記入を間違えたと考えると邪馬台国は九州
魏志倭人伝が、方角を間違えたなら近畿
…が邪馬台国となるんです。
魏志倭人伝を記した人を責めるわけじゃないですけど…困ったもんです。(でも、吉野ケ里遺跡の可能性は低いようですよ…笑)
そもそも…紀元240年っていったら大和朝廷が成立しています。
管理人の説は…
邪馬台国=大和朝廷(奈良)
卑弥呼=天皇のお妃、若しくは重用されていた巫女さん
…って考えるのが自然でしょ。
吉野ケ里遺跡 解説
紀元前5世紀から紀元3世紀までの弥生時代は、日本で稲作の文化が始まり、定住文化が根付いた日本の文化の原点ともいえる時代です。
弥生時代の遺跡の中でも吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡の旧神埼(かんざき)町・旧三田川(みたがわ)町・旧東脊振(ひがしせふり)村の3つの町村にまたがった我が国最大の遺跡で、弥生時代における「クニ」の中心的な集落の全貌や、弥生時代700年間の移り変わりを知ることができます。


吉野ケ里遺跡 堀・逆茂木
公園入口から入ってすぐ目にするのは、集落の周囲に張り巡らされた ”堀と逆茂木” です。弥生時代になると米が伝わった事により戦いが始まりました。敵から身を守る工夫が入ってすぐ見つかります。堀と逆茂木です。移籍の周りを一周するように堀が掘られ、敵が入りにくくなるように尖った杭を埋め込みました。


吉野ケ里遺跡 南のムラ
入口から入って進むと広場に出ます。ここは「南のムラ」といわれるエリア。竪穴式住居が点在しています。エリア内には、畑もあります。
このエリアは庶民の住んでいるエリアになりまして、吉野ケ里遺跡は、奥に行くにしたがって身分が高い人の居住エリアになります。
竪穴式住居は、石器時代から始まって縄文時代、弥生時代、平安時代まで使われ、優れた居住性を持った作りなんです。


吉野ケ里遺跡 弥生くらし館
北の方に行くと凄くキレイで近代的な建物「弥生くらし館」があります。中には吉野ケ里遺跡の模型、勾玉、土器の復元作業まで見ることが出来ます。


吉野ケ里遺跡 櫓門(南内郭エリア)
南内郭は、身分の高い人の居住エリア。この櫓門の上に兵士が登って不審者が南内郭に入って来ないか監視をしていたんです。

吉野ケ里遺跡 南内郭
南内郭内は、王の家や大人の家など身分の高い人の住居のエリアになっています。南内郭の中に更に堀が掘ってある家があります。それが王の家、守りが厳重なんです。
監視櫓も立っていて鉄壁のセキュリティーって感じです。(櫓には登れますよ)


吉野ケ里遺跡 展示室(南内郭に隣接)
弥生土器が展示されています。他には当時の方の服装、青銅器、勾玉、首なしの人骨などが見られます。


吉野ケ里遺跡 中のムラ
更に北に行くと「中のムラ」に出ます。酒造り、養蚕、糸紡ぎ、祭器造りの家などがあります。南のムラでは畑を作っていましたけど、中のムラはでは、機を織ったり、酒を造って祭りごとの準備をする人の村でした。


吉野ケ里遺跡 北内郭
北内郭は、今でいえば国会議事堂的な建物で会議、政をする場所です。門の上に立っている鳥、これは鳥の一番初めの姿で、昔の日本人は、お米の神様として鳥をあつかっていました。ですから弥生時代の遺跡は鳥を祀っています。吉野ケ里遺跡からは、実際に鳥の模型が発掘されています。

北内郭は神聖な場所なので中に入るとき複雑に曲げて侵入するような造りになっています。中には、東祭殿、斎堂、竪穴式住居、物見櫓、高床倉庫、高床住居、一番大きいのが主祭殿です。
主祭殿2階では、「いつ米を収穫するか」とか「市場はいつ開くか」などを取り決めていたと考えられます。3階は、祭りごとをする限られた人しか入れない神聖な場所です。(主祭殿、2階、3階は上がれます)


吉野ケ里遺跡 甕棺(かめかん)墓列
更に北に行くと甕棺墓列にでます。この頃のお墓は、カメを棺にしていました。これを甕棺墓といいまして、これが列になっていることから、甕棺墓列といわれています。


吉野ケ里遺跡 北墳丘墓
この北墳丘墓からは、ガラス製の勾玉、青銅の剣など貴重な副葬品が納められていました。北墳丘墓に入っている人は身分が高いことを証明しています。
この北墳丘墓は、吉野ケ里遺跡を治めていた歴代の王の墓と考えられています。中は発掘した当時のまま保存されています。復元ではなく保存です。
この北墳丘墓は必ず入らなきゃダメ!


吉野ケ里遺跡 利用案内
入場料:460円
駐車場:310円
所在地:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843
管理人の独り言
石器時代から…
1万年続いた縄文時代
700年続いた弥生時代
古墳時代
飛鳥時代
…と続きますが、文字、漢字が伝わった飛鳥時代以降からしか記録が無いんです。日本の歴史の一番残念な所です。
沢山の状態の良い古墳があるにも関わらず文字が無い。この間の時代は、古事記、日本書紀を分析するしか手立てがない。文字が無い時代を解明するには、遺跡発掘しかないわけです。
文字の無い時代を解き明かすために、吉野ケ里遺跡がいかに重要かつ貴重かを感じていただきたいと考えます。
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