旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。…当ブログ記事は転載OK…リンクを貼っていただけるなら遠慮なくお好きにお使いください。

高知城

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一国一城の主
山内一豊と妻ちよが描いた夢

高知城と言ったら、山内一豊を語らないわけにはいかないでしょう。妻の ”ちよ” とともに ”一国一城の主” になる事を人生の目標として、賢妻ちよに助けられながら、一介の端武者から、手柄を積み重ねて、ついに土佐24万石の領主となったサクセスストーリー。管理人世代の男子が集まってこの話題に触れたら、一晩中語り明かせる!…それが山内一豊なんです。

山内一豊がこれだけ超有名人になったのは、司馬遼太郎歴史小説 功名が辻 の影響でしょう。実際に管理人も山内一豊の知識は、功名が辻以外はないです。

功名が辻は、司馬遼太郎が入念な取材に基づいて執筆した小説ではありますが、過度な誇張、演出だけでなく、創作も入っています。

でも 功名が辻 は、痛快で最高に面白い小説。

NHK大河ドラマでも 仲間由紀恵 主演で2006年に放送されました。

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山内一豊上川隆也)・ちよ(仲間由紀恵

仲間由紀恵がいい演技してるんですよ。管理人は、仲間由紀恵が大好き!

でもやはり、 功名が辻 司馬遼太郎の原作を読んでいただきたい。(ドラマと小説でかなり違う)

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司馬遼太郎功名が辻」全4巻

高知城の記事かと思ったら、功名が辻の話かよ…ふざけんな!」…っていう皆さんの心の声が聞こえてきました。(そろそろ本題に入ります…笑)

高知城

初代土佐藩山内一豊とその妻千代が礎を築いた土佐二十四万石の歴史ある城。関ヶ原戦の功績により徳川家康から土佐一国を拝領した山内一豊が、慶長6年(1601年)新城の築城工事を始め整備しました。

数多くある日本の城において、古くからの天守が残っているのは12城。そのうち、天守が国の重要文化財に指定されているのは、【重文7城】と呼ばれる城だけです。高知城は、そのうちのひとつで高知県高知市にある高知城は別名「鷹城」と呼ばれ、長年にわたって高知県民に親しまれています。

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高知城 ②追手門(おうてもん)

”追手門?” …大手門じゃないの?」…管理人は、まずここに引っかかってしまって先に進めなくなってしまいました。

で、調べてみると…実に興味深い!!

結論から言うと 高知城の「追手門」も「大手門」” です 。「大手」とは、城の表側、つまり正面のことです。

ということは、「大手門」とは、城の顔となる正面玄関のこと。多くは人や物の流れの中心となる街道や、防御機能も兼ね備えた城下町に通じています。

大手門は、最も重要な門となるため、見る者に威圧感を与える外観で、厳重な防御設備が敷かれています。

この「大手」は、もとは「追手」と書いていました。高知城郡山城奈良県)など、現在でも「追手門」「追手町」という表記が残っている城や城下町もあります。

ではなぜ城の正面を「追手」と言ったのでしょうか。敵が正面側から攻めてくると、裏側の出入口から守兵を出し、敵を正面に追い込んで攻撃・退却させ、場合によっては追撃するという、城に攻めてくる敵を迎撃する時の戦い方が語源になっているんです。

ですから、日本の城は、南側に正面玄関である大手門を配置する城が多いようです。

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高知城の表玄関 追手門(大手門)

高知城の表門(大手)にあたる追手門は、1801(享和元)年築、高知城にある15棟の国の重要文化財のひとつ。入母屋造本瓦葺で石垣を積み上げ、渡櫓をのせた櫓門で、侵入者に三方向から攻撃を加えることができる造り。追手門櫓の2階には石落としを設ける、塀の一部に武者隠しを配するなど実戦的な造りになっています。

天守閣と大手門(追手門)が揃って現存する場所は、日本広といえど高知城弘前城丸亀城の3ヶ所。そのうち追手門と天主のツーショット写真が撮影できるのはここだけ。…ぜひともパチリと1枚記念写真を…。

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画像中央に小さく映っているのが高知城天守

高知城 石垣

高知城では、石垣に注目していただきたい。…山内一豊は、前領主、長宗我部氏が、立地条件はいいのだが治水が難しいことで、築城を断念した大高坂山の地に、高知城を築く事を決断します。

それには、高度な築城技術を持つ技能集団が必要です。
一豊は、関ヶ原の戦いで豊臣方に着いて、京都で蟄居処分となっていた百々綱家(どどつないえ)の赦免と雇用を徳川家康に嘆願し、これが認められました。

百々は、石垣技術に優れた穴太衆(あのうしゅう)を配下に持ち、築城技術に優れていて、特に石垣の野面積み(のづらづみ)は有名で、穴太衆の手掛けた石垣は、穴太積みとも呼ばれています。

6千石で召し抱えた百々を総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ね、翌月より百々は大工頭、鍛冶頭、築壁造頭らを率いて、大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備のために鏡川・江ノ口川など川の治水工事に着手しました。

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穴太衆が手掛けた高知城三の丸石垣の野面積み

野面積みは自然石をそのまま積み上げる手法です。
そのため石の大きさや形はバラバラで、隙間や出っ張りもたくさんあります(隙間には小石を詰めて強度を高めます)。

欠点はこうした隙間や出っ張りによって、敵が簡単に登れちゃうということで、いまでいうロッククライミングのような感じになっています。一方の利点としては排水性が高いということで、大雨が振っても隙間から水が抜けるので石垣が崩れることは少ないのです。

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高知城本丸の石垣、野面積み

百々綱家(どどつないえ)

百々綱家は、小谷城主・浅井長政の家臣で、1548年頃に生まれたと考えられています。
姉川の戦いにて、浅井家が織田信長に敗れると、織田家に臣従します。

1582年、本能寺の変にて織田信長が横死すると、以後は羽柴秀吉に従って、山崎の戦いでも戦功を上げました。
そして、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が清洲会議にて織田信長の嫡孫・三法師を立てると、百々綱家が三法師の後見役を命じられ、小牧・長久手の戦い、九州攻めにも参加しました。

1588年3月に、三法師(織田秀信)が岐阜城主となると、百々綱家はの織田秀信の家老となって、約1万1千石を知行しました。

文禄元年(1592年)、文禄の役では、織田秀信の名代として6000を率いて朝鮮に渡っています。

しかし、転機が訪れます
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際、織田秀信は西軍の石田三成らに組します。

前哨戦で徳川勢(東軍)から岐阜城は攻撃され、百々綱家は御殿・百曲口を守備して抵抗しました。しかし、1600年8月23日、残すは本丸のみとなったときに織田秀信は、福島正則池田輝政とも)の降伏勧告を受け入れました。

関ヶ原の後、岐阜13万石は没収され、剃髪した織田秀信は、福島正則らの嘆願で命は助けられますが、高野山へと送られました。

多くの旧臣らは、福島家、池田家や浅野家などに拾われています。
しかし、百々越前守綱家は京都で蟄居を命じられていたのです。

 

高知城 石樋(いしどい)

高知城の石垣には多数の石樋が設けられています。
石樋は排水設備のひとつで、城内の水を外に流すためにつくられています。
また、その際に石垣に直接当たらないようにするため(直接石垣にそって流すと地盤がゆるんで崩壊を促進してしまうため)、少し突き出た形状になっています。

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こうした対策は雨量の多い高知城ならではの特徴です。
石樋は現在、高知城内に16か所確認されていますので、すべてチェックしてみるのもいいですね。

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高知城 ⑪詰門

この詰門は特殊なもので説明しておきます。
攻城戦で攻め手は、追手門を突破したら、⑦三の丸、⑥鉄門(跡)を突破して天守に攻め上るわけなんですけど…次の関門が⑪詰門なんです。

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鉄門跡から見る詰門

敵は詰門手前で天守の方角を確認するはずなんです。(天守は左手に見えます)

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詰門の手前からは、天守は左手

攻め手は当然、詰門に殺到します。でも詰門を突破できたとしても、先に天守はありません。搦手門(裏手)側に進んでしまいます。

正解は、…詰門まで進まずに手前の右手石段を登って、まずは二の丸に入ってから、Uターンするように詰門の2階を通って天守のある本丸に進むのです。

二の丸と本丸の間には、堀がありまして…つまり、詰門の本来の役割は、二の丸と本丸を繋ぐ橋なんです。

 

最強の防御態勢

詰門の手前の階段を上って左側に進んでも本丸に直接行けますが、そこには、敵に石垣を登らせないための忍び返しや、鉄砲や矢に応じて作られた⑮狭間、敵の動きを見やすくする物見窓など、あらゆる防御・攻撃手段が設けられています。

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石垣を登らせないための、本丸石垣の「忍び返し」

本丸北面の壁にある忍び返しは、現存天守で唯一残されているものなんだとか!先端のとがった鉄の棒多数出ています。これじゃ登れないよ…。

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本丸北面の城壁。左側の横長の窓が物見窓、丸や三角の小さな穴が狭間、右側の張り出している部分が石落とし

鉄砲撃たれたり、矢を放たれたり、とどめに石を落とされる…攻め手はたまらないよ。

さらに進むと、本丸の南側にある黒鉄(くろがね)門に着きます。柱・門・扉などには小鉄板が打ちつけられ、黒く塗られていることからこの呼び名がつけられたといわれています。

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重要文化財に指定されている黒鉄門

ようは、本丸に行くには、二の丸を突破しなければ行けないって事ですね。

高知城 本丸

15棟の重要文化財の内、11棟の重要文化財が集中するのが本丸です。

高知城15棟の重要文化財(整理のために)
天守
懐徳館
納戸蔵
黒鉄門
西多聞
東多聞
詰門
廊下門
追手門
天守東南矢狭間塀
天守西北矢狭間塀
黒鉄門西北矢狭間塀
黒鉄門東南矢狭間塀
追手門西南矢狭間塀
追手門東北矢狭間塀
天守をはじめ、懐徳館と呼ばれる本丸御殿や納戸蔵、廊下門や東西に設けられた多門など、本丸の全ての建物が完全に残っているのは、現存12天守の中でも高知城だけ!

ガイドさんに天守の構造を聞いてみると、「天守の外観は4重、内部は3層6階建てになっていて、入母屋造りの屋根の上に望楼(ぼうろう)を載せた形です」と教えてくれました。

石灰と発酵させた藁すさなどを混ぜて作る土佐漆喰の壁と、グレーの瓦屋根の色合いが鷹に似ていることから、高知城は、別名「鷹城(たかじょう)」とも呼ばれているんだとか…。

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標高44.4mの場所に築かれた本丸の敷地面積は約1,580平方メートル。中央の建物が本丸御殿である懐徳館、左が天守、右が納戸蔵

ここからは有料です。(420円)
お金を払って天守、懐徳館に入ります。

懐徳館は、本丸御殿です。藩主の御座所(ござしょ)である上段ノ間まで、四ノ間・三ノ間・二ノ間と呼ばれる部屋が続き、座敷飾りの位置や装飾などで身分と格式の序列を表現した、武家の権威を象徴する建築様式を見ることができます。

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シンプルですが、江戸時代に作られたとは思えないモダンなデザインが素敵!部屋ごとに異なる装飾を見るのもとっても楽しい。
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「山内家の家紋。三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎は、この家紋と岩崎家の家紋を統合させて、会社のロゴを作成したんだそう」・「天守1階の北側にある石落とし」
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「青銅製の鯱は珍しい」・「南側の景色。目の前の筆山には山内家代々の墓所があるそう。右側に見える緑色の屋上の建物は県庁」

高知城歴史博物館

高知城歴史博物館(城博 ジョーハク)は2017年(平成29)3月、高知城のふもとに開館しました。国宝や重要文化財を含む約67,000点に及ぶ土佐藩主山内家伝来の貴重な資料を中心に、土佐藩高知県ゆかりの歴史資料や絢爛豪華な大名道具や美術工芸品の数々を収蔵・展示しています。

実物資料の展示を基本とし、体験型展示や映像、メディア機器などで、大人から子どもまで楽しみながら歴史を学ぶことができるほか、年間を通してテーマや季節にそった多彩な企画展や催し物も開催。来館のたびに土佐の歴史文化の新たな魅力を体感できます。

迫力ある高知城の姿を目の前にのぞむ展望ロビーは必見。日曜市やひろめ市場で賑わう商店街にも隣接し、博物館とあわせて城下町をまるごとお楽しみいただけます。

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高知城 利用案内

入場料
高知城:420円(高知城天守・懐徳館)
共通券:740円(高知城高知城歴史博物館)
駐車場:1時間370円(以降30分毎に110円)
所在地:高知県高知市丸ノ内1-2-1

管理人の独り言

高知、土佐と言ったら山内一豊ですが、一豊は高知の人間ではありません。
しょせんよそ者ですよ…
”おいおいいったい何を言い出すんだ”
…っていう皆さんの心の声がまた聞こえてきました。

四国、高知、土佐といったら、長曾我部元親でしょ!!

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若宮八幡宮 長宗我部元親

長曾我部元親を語らせていただきます。

高知、土佐を語るに忘れちゃいけないのが長宗我部元親です。長宗我部家第21代当主で四国統一まで ”あと一歩” という所までいった人物です。

なぜ ”あと一歩” だったのか、統一できなかったかといいますと…ここでも信長が登場して邪魔されるんです。(ま…お決まりですね…笑)

関ヶ原の時点では、土佐の英雄、長宗我部元親は、既にこの世を去っていて、子である、長宗我部盛親が、長宗我部氏第22代当主として石田三成率いる西軍で参戦しました。

戦後、領地は没収、盛親は京で浪人生活を送ることになります。
その後、大坂の陣に豊臣方として参戦するも敗北、再起を図るため逃亡するも、捕らえられた後、処刑されました。

長宗我部氏の後、土佐は、関ヶ原での戦功を評価され、山内一豊が恩賞として土佐一国24万石を徳川家康から拝領しました。

で、長宗我部氏最後の当主、長宗我部盛親は、ダメ(イマイチ)な奴だったんですけど長曾我部家、第21代当主、長曾我部元親は大変な人物です。

 

戦国の世、「鬼国」と呼ばれた僻遠の地である土佐に生まれた長曾我部元親は、織田家に仕える斎藤利三の妹であり、織田家中でも随一の美貌といわれた菜々を娶る。 この頃まだ数郡を切り取った小領主にすぎない元親は、菜々の縁もあって同じく中央で新興勢力として台頭しつつあった織田信長と誼を結び、権謀術数の限りを尽くして土佐の切り取りを推し進める。

本山氏、安芸氏、一条氏らを次々に降して土佐の平定を果たした元親はいよいよ天下統一の野望を抱き、四国を破竹の勢いで侵略する。 ところが、既に京を押さえて天下の趨勢を握った同盟者の信長にとって、四国はもはや征服すべき対象でしかなくなっており、武田氏、上杉氏、本願寺といった難敵の脅威が去るや否や懐柔策から一転、長曾我部家に対して強硬な姿勢に出る。

取次ぎ役を担っていた明智光秀の奔走も虚しく両家の仲は決裂し、元親により阿波を追い出された三好笑巌を先鋒とする数万の四国平定軍が編成された。 二つの勢力が激突するかと思われたそのとき、明智光秀によって本能寺の変が勃発し、信長は道半ばで倒れる。

窮地を逃れた元親は反転攻勢に出るが、二十年来の戦乱によって四国の国土が限界を迎えつつある一方、明智光秀が信長を討ったわずか11日ののちに羽柴秀吉によって討たれ、さらに秀吉は柴田勝家を滅ぼして信長の後継者の地位を固めると、天下の情勢は刻々と変わりつつあった。

徳川家康を降して後顧の憂いを絶った秀吉は、かつて信長がそうしようとしたように、ようやく四国の平定を果たした元親を屈服させるべく大軍を送り込む。 再び存亡の危機に立たされた元親は徹底抗戦で玉砕する道を選ぶが、刃折れ矢尽き、ついに家臣の説得に応じて秀吉の軍門に降る。

彼が半生をかけて切り取った領土は土佐一国を除いて召し上げられ、また秀吉という人物に直接触れることでその器の大きさを思い知らされた元親は、彼の野望に幕を下ろした。

その後、元親は秀吉からかつて讃岐で戦った仇敵、十河存保とともに九州征伐の先陣を命じられる。 軍監(事実上の大将)にはかつて元親が数度に渡って敗北せしめた秀吉の部将、仙石秀久が付けられた。 しかし功にはやる仙石秀久は、本軍の到着まで守勢に徹せよ、という秀吉の命を無視し、島津家久率いる屈強な薩摩勢の大軍に寡兵をもって正面衝突するという愚を犯す。

早々と戦場から逃亡した秀久に取り残され、島津軍の壮絶な攻撃にさらされた四国勢は奮戦むなしく元親の嫡子である弥三郎(信親)、十河存保が討死、元親は危うく落ちのびる。

最も期待をかけていた嫡男・信親の死、それに追い討ちをかけるように訪れた愛妻・菜々の死によって元親は往年の覇気を完全に失ってしまう。

そして、彼が生きる気概を無くしたことは、長曾我部家そのものが指針を失うことをも意味していた。

そのまま迷妄状態の元親によって、跡継ぎに定められた盛親は、元親の死後、関ヶ原の戦いで判断を誤り、やがて大坂の陣終結をもって長曾我部家は滅亡するのです。

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槍の名手だった土佐国戦国大名 永禄3年、22歳の時に遅い初陣を迎えた長宗我部元親が、長浜の戦いに出陣する前夜、陣取った若宮八幡宮。この地に、元親公没後400年に当たる平成11年5月に、地元有志の発案により建立された銅像。槍の名手として武名を広げた勇猛果敢な元親の姿を再現している。

 

 

 

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