旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。…当ブログ記事は転載OK…リンクを貼っていただけるなら遠慮なくお好きにお使いください。

幕末を訪ねて萩を歩く

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幕末に長州藩から派遣されてヨーロッパに秘密留学した面々。左から、井上聞多井上馨)、遠藤謹助、野村弥吉(井上勝)、山尾庸三、伊藤俊輔伊藤博文)、の5人の長州藩

幕末維新を動かした長州藩

吉田松陰桂小五郎高杉晋作久坂玄瑞井上聞多伊藤俊輔、山形有朋、大村益次郎…。

詳細は知らなくとも、何をした人かは皆さん、ご存知の面子です。幕末から維新に向けて長州藩を牽引した主だった人物。一人につき一つ記事が書けるほどの魅力的な面々。

全員、NHK大河ドラマの常連だが、特に主人公を務めた…
1977年「花神大村益次郎中村梅之助
…は、面白かった。

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周防の村医者、村田蔵六(後の大村益次郎)が蘭学の知識を実践化し、長州藩の軍事トップになり、長州征伐の幕府軍を返り討ちにする。そして新政府軍、倒幕司令官に就任、戊辰戦争全体の指揮をとる。

日本近代軍制の創始者大村益次郎を中心に、松下村塾吉田松陰奇兵隊高杉晋作といった、維新回天の原動力となった若者たちを豪快に描いた物語。

とにかく面白い…NHKオンデマンドで見る事も出来ますが、原作 司馬遼太郎花神」全三巻(上中下巻)原文で読んでいただきたい。

そして…唐突ですけど… 高杉晋作
このブログの読者が…「もういいから、早く、観光の話に入れよ!」と思っているのは十分わかっています。

でも…高杉晋作について一言だけ述べさせていただきたい。
管理人は高杉晋作、大好き!!

何が好きかっていいますと…高杉晋作ってバカですから!!
もう、高杉晋作のハチャメチャ度は、群を抜いてる。

歴史上の人物で言うと…信長に近いかも知れない…とにかく、高杉晋作、知れば知るほど無茶苦茶な奴。

高杉晋作は、あの時に死んでいて良かったと思います。
明治の世まで生き延びて新政府に入ったら、何しでかすかわからない。

高杉晋作は、幕末の動乱期だったから、良かったんです。
平時にあんな奴がいたら、まとまるものもまとまらない。
でも、管理人は、そんな高杉晋作が…大好き!!

今回は、そんな長州藩、維新の立役者が闊歩した、萩の町を紹介します。

世界遺産「明治日本の産業革命 製鉄、製鋼、造船、石炭産業」

世界遺産、「明治日本の産業革命」8県11市にまたがる23の構成資産が、2015年7月、世界遺産に登録されました。

内、萩では、5つの構成資産が登録されています。

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反射炉,恵美須ヶ鼻造船所跡,大板山たたら製鉄遺跡,萩城下町,松下村塾,旧集成館,寺山炭窯跡関吉の疎水溝韮山反射炉,橋野鉄鉱山,三重津海軍所跡,小菅修船場跡,三菱長崎造船所第三船渠,三菱長崎造船所ジャイアント・カンチレバークレーン,三菱長崎造船所旧木型場,三菱長崎造船所占勝閣,高島炭坑,端島炭坑軍艦島),旧グラバー住宅,三池炭鉱・三池港,三角西港,官営八幡製鐵所遠賀川水源地ポンプ室

いや、ほんと、日本人、日本という国は凄いですよ!
260年間も鎖国して刀差してちょんまげ結ってた侍が、黒船見ただけで…
藩主:「作れるか?」
家来:「どうでしょうかね」
藩主:「作れ」
家来:「えー!」
…そして村田蔵六(後の大村益次郎)が伊代の国に呼ばれて、大工と一緒に蒸気船作っちゃうんですから、凄いですよ。

長州藩でも、軍艦、大砲作ろうと思って鉄生産に乗り出して、反射炉作っちゃうんですから、日本人は、ほんと凄い民族です。

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世界遺産「明治日本の産業革命 製鉄、製鋼、造船、石炭産業」

世界遺産 大板山たたら製鉄遺跡

こちら、道が狭くて観光バスは入って来れませんから、ゆっくり見ることが出来ます。場所がまた萩市内から離れた、風光明媚な良い場所。山の口ダムとダム湖がとても素敵な静かで落ち着いたエリアです。

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大板山たたら製鉄遺跡は、日本の伝統的な製鉄方法である たたら製鉄 の遺跡。萩藩の洋式造船を支援しました。

砂鉄を原料に、木炭を燃焼させて鉄を作っていた江戸時代の製鉄所の跡。日本の伝統的な製鉄方法は、鉄の原料である砂鉄と燃料の木炭を炉に入れ鞴(ふいご)を用いて行います。この時に使う炉を「たたら」と言います。

宝暦期(1751~1764年)の8年間、文化・文政期(1812~1822年)、幕末期(1855~1867年)の3回操業していました。

原料の砂鉄は島根県から北前船を利用して奈古港に荷揚げされ、荷駄で運ばれていました。ここで作られた鉄は、幕末に萩藩が建造したことで有名な軍艦「丙辰丸」にも使用されています。

主要施設(元小屋・高殿・砂鉄掛取場・鉄池・鍛冶屋等)の遺構がよく保存されており、建物跡などの遺構が露出した形で整備されています。

入場料:無料
駐車場:有り(無料)

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世界遺産 恵美須ヶ鼻造船所跡

桂小五郎は、洋式船の建造を具申し、藩はそれに応え、萩城の北東3km、反射炉より西600mに恵美須ヶ鼻造船所を建設した。造船所では「丙辰丸」(1856年)と「庚申丸」(1860年)の2隻の洋式帆船を建造。「丙辰丸」の原型は、伊豆戸田村で建造された2本マストのスクーナー(ロシアの難破船ディアナ号の代船)で、君沢型と呼ばれている。船材には和釘、付属品や碇などの部材に鉄製品が使われた。

それらの部材は、萩の城下町から北東23kmに位置する大板山のたたらより供給された。大板山では足踏みふいごを使う日本古来のたたら製鉄法で鉄が生産されていた。

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世界遺産 萩反射炉

大砲鋳造を目指して建設された金属溶解炉

反射炉は、鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶解炉で、萩藩の軍事力強化の一環として導入が試みられました。

萩藩は安政2年(1855)、反射炉の操業に成功していた佐賀藩藩士を派遣し、鉄製大砲の鋳造法伝授を申し入れますが、拒絶され、反射炉のスケッチのみを許されます。現在残っている遺構は煙突にあたる部分で、高さ10.5mの安山岩積み(上方一部レンガ積み)です。

オランダの原書によると、反射炉の高さは16mですから、約7割程度の規模のものになります。また、萩藩の記録で確認できるのは、安政3年(1856)の一時期に試験的に操業されたということだけであることから、萩反射炉はこのスケッチをもとに設計・築造された試作炉であると考えられています。

反射炉の遺構は、萩のほか韮山静岡県)と旧集成館(鹿児島県)にあるだけで、わが国の産業技術史上たいへん貴重な遺跡です。【国指定史跡】

入場料:なし
駐車場:あり(無料)

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世界遺産 松下村塾

吉田松陰の志を継ぐ維新志士たちを数多く輩出した塾。
1854年、思想家吉田松陰アメリカ合衆国東インド艦隊2度目の来航の際、下田沖に停泊していたペリー艦隊に乗船を試み捕えられ国許蟄居となった。

後に松下村塾にて海防の必要性や、産業技術の重要性を説き人材育成にあたった。そこに日本の軌道を変える大きな渦が生まれ、輪は人から人へと広がっていった。やがてそれは明治維新の胎動となり、日本全土を巻き込んでいった。

松陰は身分や階級にとらわれず塾生として受け入れ、わずか1年余りの間でしたが、久坂玄瑞高杉晋作伊藤博文山県有朋山田顕義品川弥二郎など、明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を育てました。【国指定史跡】

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松陰神社
実は、松下村塾松陰神社の境内にあるんです。という事で松陰神社も一緒に見学してしまいましょう。

維新の先覚者 吉田松陰を祀る神社
明治40年(1907)に創建された、吉田松陰を祭神とする神社。
明治23年(1890)8月、松下村塾出身者などにより松下村塾の改修が行われ、松陰の実家である杉家により私祠として村塾の西側に土蔵造りの小祠が建立されました。

その後、門人の伊藤博文、野村靖などが中心となり、神社を公のものとして創設しようという運動が起こり、明治40年(1907)に県社の社格をもって創建が許可されました。現在の社殿は昭和30年(1955)に完成したもの。

御神体として松陰が終生愛用した赤間硯と父叔兄宛に書いた文書が遺言によって納められています。旧社殿は「松門神社」として、松陰の門人であった人々の霊を祀っています。

学問の神として信仰が厚く、境内には松陰ゆかりの史跡などが点在。近代日本の原動力となった数多くの逸材を輩出した松下村塾と、隣接して吉田松陰幽囚ノ旧宅があります。

拝観料:無料
駐車場:有り(無料)

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世界遺産 萩城下町

こんな事を言う人がいます。
松下村塾と萩城下町が、何故「明治日本の産業革命 製鉄、製鋼、造船、石炭産業」に入るの。…関係ないんじゃないの?

関係なくなんかありません!

吉田松陰は、黒船に乗込んだんです。
村田蔵六(後の大村益次郎)は、西洋書物を読み解くだけで伊予の国で大工と一緒に蒸気船を造ったんです。
桂小五郎は、藩に掛け合い、軍艦建造を進言して「恵美須ヶ鼻造船所」を造らせ
・井上門多(井上薫)と伊藤俊介(伊藤博文)は、鎖国の時代にイギリスに渡り、自分の目で産業革命後の工業生産体制を見て日本に導入した。

そんな奴らが闊歩した町を歩く事に意味がないわけがない!!

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①江戸屋横町
江戸屋横町は、黒板塀がつづく風情ある道です。通りには、維新の三傑の一人である木戸孝允の旧宅や、蘭方医・青木周弼の旧宅、高杉晋作伊藤博文ゆかりの円政寺などが並びます。

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②円政寺
境内には十二支の彫刻が施された珍しい形式の金毘羅社があり、神仏習合の形態が見られる貴重なお寺です。高杉晋作伊藤博文が幼少の頃に勉学に励んだことでも知られています。

境内には大きく迫力のある天狗の面があります。晋作は小さい頃病弱だったため、母親がこの天狗の面を見せて晋作を勇気づけたと言われています。

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木戸孝允旧宅
西郷隆盛大久保利通と並び「維新の三傑」と詠われた木戸孝允、別名“桂小五郎”の誕生地。当時の藩医生活様式を見ることができます。

この建物、通りからみると平屋建てのようですが実は2階建てなんです。参勤交代などで通るお殿様を見下ろさないようにとの配慮なのだそうです。

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④旧久保田家住宅
久保田家は、呉服商・酒造業を営んでおり、建物は江戸時代の後期に建てられました。意匠・構造・技術に優れ、酒造業で繁栄した往時の状況もよく伝えており、史跡萩城城下町を構成する重要な建物です。

意匠を凝らした欄間や天井、大きな欅(けやき)の板を使った縁側など、建物の細部にも注目です!お部屋の一部は映画「長州ファイブ」のロケに使用されました。

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⑤菊屋家住宅
藩の御用商人を務めていた豪商・菊屋家。屋敷は江戸初期の建築で、現存する商家としては最古の部類に属し、400年の歴史があります。主屋をはじめ5棟が国指定重要文化財に指定されています。

菊屋家に伝わる500点余りの美術品、民具等が常設展示されています。新緑と紅葉の美しい時期には、普段非公開の500坪の奥庭が特別に公開されます。

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⑥菊屋横町
美しい白壁となまこ壁がつづく通りには、藩の豪商・菊屋家をはじめ、第26代総理大臣・田中義一の誕生地、幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地があります。

菊屋横町は、江戸時代の町並みが残る城下町を代表する道で、「日本の道百選」に選ばれています。萩らしい風情が感じられる撮影ポイントです!

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高杉晋作誕生地
幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地。敷地内には、晋作ゆかりの品や東行と号した句碑・産湯の井戸などがあります。(現在は個人所有のため、不定期で閉館していることもあります)

伊藤博文から「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」と評された晋作の生涯が、イラストでわかりやすく解説されています。

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⑧晋作広場・高杉晋作立志像
高杉晋作誕生地の近くにある晋作広場。こちらに平成22年10月に「高杉晋作立志像」が建立されました。また、広場には晋作が好きだった梅の花も植樹されています。

銅像は、晋作が明倫館や松下村塾に通っていた20歳頃の若々しく凛々しい顔をイメージしており、ざんぎり頭ではなく髷を結い、両刀を差した羽織、袴の立ち姿です。

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管理人の独り言

今回紹介した世界遺産登録「萩城下町」区域から1キロほど離れた場所に、吉田松陰が投獄された ”野山獄跡” があるんです。

石碑と説明書きの看板が立っているだけなんですけど…時間があったら訪れていただきたい。

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吉田松陰は、従者の金子重之助とともに安政元年(1854)海外密航するために黒船に乗込むんですけど失敗に終わり…
松陰は、士分を収容する「野山獄」
金子は、庶民を収容する「岩倉獄」

二人は別々の牢獄に入れられます。そして衛生状態の悪い雑居房の金子重之助は、安政2(1855)年1月11日 病に倒れ獄中で命を落とします。享年25歳。

松陰は金子の死に衝撃を受けました。身分制度に疑問を持ち始めます。しかし松陰の国を思う気持ちに衰えはありません。

野山獄における松陰自身はというと…
「自分の信念でやって罪を得たのであるから、死を恐れないし、逃れようとも思わない。獄中にあっては、獄中でできることをやるだけである」
…との覚悟を決めました。

仲間の囚人たちに孟子の講義をするとともに自らも俳諧や書を学びました。また獄吏でさえも廊下で松陰の講義に耳を傾けたといわれており、前例のない教育活動を行いました。

1年3ヶ月の在獄期間中に読破した冊数は、なんと6百冊にものぼります。その内容は、倫理思想的なもの、歴史伝記もの、地理紀行、兵書、詩文、時務、医書などと多方面にわたりますが、やはり特に読んでいたのが歴史ものです。 

身につけた知識・学問が再び役立てる日が来るかどうかわからない獄中であっても松陰は「時間が足りない」と嘆くほど必至で勉強します。

松陰は、学問の道は死ぬまで続けるべきものであって、もしまだ死にもしないうちに途中で止めてしまったら、今までに積んできた学業を全部すてたことになる、と考えたからです。

これは「孟子」の尽心篇にある「井を掘るがごとし」です…
「井戸を掘るのは水を得るためであり、学問をするのは道を得るためである」
「水を得られなければ、どんなに深く掘っても井戸といえない」
…のと同様に…
「道が得られなければ、どれほど学問に努めても、学問に満足したとはいえない」
…というものでした。

学問に王道はない。
学問というものには、手軽に身につける特別な近道はない。

道を得るために生涯学び続ける・・・

このような学問観をもつ松陰であったからこそ、とくに実学的に活かさなければ、真に学問したことにはならないと考えたのです。 

その実践にためには、松陰は志というものを何より重視しました。 

つまり、志を持っていないと、学問は行為・行動のなかで活きてこないというのが彼の信念です。 

松陰にとって、「学問」と「志」は決して切り離せないもの。

「学問」は「志」を高めるためであり、「志」が高くなければ「学問」にもさらに力が入る、という関係となるのです。 

こうして野山獄の短い期間で、松陰の志はますます大きくなってゆくのです。

 

野山獄には維新前夜の文久・元治年間(1861~64)、藩内の論争に際して高杉晋作楫取素彦ら多くの志士も入牢し、また十一烈士など尊皇攘夷派だけでなく、保守派の坪井九右衛門や椋梨藤太など、多くの人が処刑されたところでもあります。
現在、当時の敷地の一部を保存して記念碑などが建てられており、萩藩の波乱に富んだ維新当時の姿を偲ぶことができる、維新史を語るうえでも重要な史跡となっています。
【市指定史跡】

所在地:萩市今古萩町35-6

 

 

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