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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。…当ブログ記事は転載OK…リンクを貼っていただけるなら遠慮なくお好きにお使いください。

熊本城

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日本三名城の一つ熊本城

江戸時代以前からの天守が現存している12城という城があります…
弘前城青森県
松本城(長野県)
丸岡城福井県
犬山城(愛知県)
彦根城滋賀県
姫路城(兵庫県
松江城島根県
備中松山城岡山県
丸亀城香川県
伊予松山城愛媛県
宇和島城愛媛県
高知城高知県
…だから何だって事ですよ。

”え!一体こいつ何を言い出すんだ”
…って言う皆さんの心の声が聞こえてきました。…説明しましょう。

名城とは?
優れた城とは?
…こう考えた時に 「江戸時代から残っていることに関係はないでしょう」…という事が言いたいんです。

日本三名城と言われる城があります。
名古屋城
大阪城
熊本城
…この三名城は凄い!!(「また始まったよ」って感じですかね…笑)

日本三名城は、江戸時代の初期に、城造りの名手といわれた加藤清正藤堂高虎が普請した城のうち、とくに機能美にすぐれた城です。

今回は、日本三名上の一つ ”熊本城” をご案内いたします。

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城造りの名人
加藤清正の居城 最強の城、熊本城

熊本城は、別名銀杏城とも呼ばれ、名将加藤清正によって慶長6年(1601年)に着工され、7年の歳月をかけ築城されました。

城郭の広さは約98万平方メートル、周囲約9キロメートル(築城当時)、そのなかに天守3、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な構えで、美しい曲線で築かれた石垣や自然の地形を利用した独特の築城技術が生かされています。勝海舟は「築制他城の比にあらず。外周最大なり。郭城高く、堅牢おもうべし。」と感嘆しました。

明治10年西南の役では、西郷隆盛率いる薩摩軍を相手に50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮しました。

難攻不落!
最強の城、熊本城

西郷隆盛が起こした西南戦争勝敗の大きなポイントが ”熊本城攻防戦” だったんです。

ご存知の通り、西郷の最後は鹿児島で切腹をはかるんですが、直前に西郷が漏らした言葉が…「儂は官軍に負けたのではなく、清正公に負けた」 …でした。

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西郷隆盛

簡単に西南戦争を振り返りましょう…
中央での政争に敗れ、薩摩に帰郷していた西郷に刺客が放たれた事件をキッカケに、とうとう薩摩士族たちの不満を抑えきれなくなった西郷は、ついに1877年(明治10年)2月14日、鹿児島を出発し、東京を目指します。

しかし、反乱の理由が「暗殺計画の真相を問う」というあいまいなもので、この事が後ほど戦いの全体の流れに大きな影響を与えます。

西郷軍は、熊本城を素通りする事も出来たのですが、背後を襲われるおそれがあるので熊本城を落とさなくてはいけませんでした。(さほど重要視していなかったんです)

それと薩摩軍総攻撃の前日に原因不明の失火により、宇土櫓他12棟を残し焼失してしまい…防御力を失っていると甘く見たふしがあります。

両軍戦力
熊本城:熊本鎮台長官・谷干城(たにたてき)3,500名
薩摩軍:西郷隆盛 16,000名

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熊本鎮台のメンバーたち

熊本鎮台長官 谷 は、火災により防御力は、大きく損なったが、それでも熊本城の強大な石垣と城郭を頼りに籠城戦を決意し、薩摩軍を迎え撃ちます。(この時、谷を補佐したのが、後の日露戦争で総参謀長に就任する、若き日の児玉源太郎でした

西郷軍は、すぐ降伏させられると考えていたようです。西郷軍は戊辰戦争を京都から北海道まで戦った歴戦の勇士ぞろい。一方の熊本鎮台は農民兵出身が基幹で、天守が失火で炎上してしまうハプニングにも襲われていた。さらに兵力でも16,000対3,500と西郷軍は圧倒していた。

しかし、21日開戦し、3日間に及ぶ激しい城攻めにもかかわらず薩摩軍は、熊本城を落とすことが出来ず、逆に死傷者をいたずらに増やすばかりでした。

この時、熊本城を落とせなかったことが、西南戦争の雌雄を大きく左右する事になりました。

その間にも明治政府軍は後詰を送ってきます。新政府の援軍が博多に上陸、しかたなく薩摩軍は3,000人を熊本城に残し、政府軍に備えるべく北へ向かいました。兵力を分けざるを得なかった薩摩軍、ここから数に劣る薩摩軍は、各地で敗退を繰り返します。

熊本城はといいますと谷を大将とする3500は、粘り強く城を守り続けます。海軍を自由に使える政府軍は、南の八代に上陸して熊本を目指します。

このままでは、熊本城包囲軍は北と南からの政府軍によるはさみ撃ちにあってしまうため、撤退をすることを決断、これで50日におよぶ熊本城の戦いが終わります。

そして最後に西郷が残した言葉…
「儂は官軍に負けたんではなく、清正公に負けた」
…が語られたんです。

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西南戦争錦絵/国立国会図書館

薩摩軍敗退の理由
1.熊本城を落とせなかった
2.西郷が立ったにもかかわらず反乱の理由が「暗殺計画の真相を問う」だった

歴史にもしは無いけれど…
仮定として管理人が考えたのは、

1.熊本城が普通の城で簡単に落とせたなら
2.反乱理由が「新政府を倒すために我ここに立つ!」だったら

…多くの他の旧藩士族は立ち上がって西郷に合流し、日本の歴史は大きく変わっていたでしょう。当時の西郷には、それだけの人を集める魅力があったんです。

つまり、加藤清正関ヶ原の後、7年がかりで築城した熊本城が日本の歴史における重要ポイントだったんです。どうですか…熊本城の強さ…凄いでしょ…。

明治になって近代兵器を要した最強軍団、薩摩軍を撃退したんです。
熊本城が最強たる所以、わかっていただけたでしょうか。

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※熊本城は、平成28年4月に発生した地震により、大きな被害を受けました。現在、仮設の回廊を設置いたしましたが、多くの部分が立ち入ることができません。

波乱と栄華に満ちた
熊本城400年のものがたり(熊本城に関わった主な人物)

築城主 加藤清正

熊本城を築城した加藤清正
賤ヶ岳の七本槍
秀吉子飼い
虎退治
築城の天才
武者返し
戦国最強の武将
…沢山の伝説、異名を持つ豊臣秀吉に生涯忠義を尽くし続けた、武士道精神をもつ戦国武将として知られています。傑出した武力を持っており、武功を重ねて一介の兵士から大名にまで成り上がりました。

関ヶ原後は、肥後一国52万石の領主となり、名城、熊本城を7年の歳月をかけて築城した人物です。

武人としての逸話ばかりに脚光が当たっていますが、城造りの名人であり、領地経営にも長けていました。

肥後に入った後の清正は、長引く戦乱で荒れ果てていた肥後を立て直すために、治山治水工事や、水田の開発などに力を入れます。その工事の功績はたいへん大きく、現在でも現役で利用されているものがあります。

また、南蛮貿易に取り組むなど、領地経営を積極的に行うことで、肥後は豊かになりました。そのため、加藤清正はやがて領民から神様のように慕われ今でも「清正公(せいしょこ)さん」と熊本県民から親しみをもって呼ばれています。

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加藤清正(1562年-1611年)

城主 細川忠利

豊前小倉城の城主だった細川忠利は、2代にわたった熊本城主の加藤家が改易された後、肥後に入国しました。細川家は、織田信長(1534年-1582年)、豊臣秀吉(1537年-1598年)、徳川家康(1543年-1616年)に仕え、戦国の世の中をくぐり抜けてきた大名家です。

細川忠利の祖父である幽斎(ゆうさい)は、当代一流の文化人として名を馳せ、父の忠興(ただおき)は、茶人としても知られ、千利休(1522年-1591年)の弟子でもありました。その血筋を受け継いだ忠利も文人であり、武道にもすぐれた才能をもっていました。江戸時代の有名な武士のひとりである宮本武蔵(1584年-1645年)が晩年を熊本で過ごしたのは、この忠利が客人として招いたからです。

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熊本城主 細川忠利

宮本武蔵

海外でも知られる「五輪書(Book of five rings)」の著者であり、江戸時代の有名な剣豪宮本武蔵は、寛永17(1640)年57歳のとき、藩主細川忠利に招かれ、現在の千葉城(ちばじょう)町付近で晩年を過ごしたと言われています。

武蔵がここ熊本で創始した二天一流兵法(にてんいちりゅうへいほう)は現在も二刀流の剣術として継承されています。

また茶、禅、書画にも通じた文人として日々を送り、その作品は島田美術館や永青文庫などに所蔵されています。

正保2(1645)年62歳の生涯を閉じ、生前の希望どおり細川藩主の江戸参勤交代を臨む豊後街道の林の中に甲冑姿で葬られたといわれています。

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宮本武蔵(1584年-1645年)

西南戦争谷干城(たにたてき)

明治10(1877)年2月におきた西南戦争で、熊本城は50日あまりにも及ぶ籠城戦の舞台となりました。

城内には熊本鎮台司令長官 率いる鎮台兵3500人が籠城して薩摩軍13000人と戦い、熊本城は近代戦を経験した城となり、難攻不落の堅城であるということを名実ともに実証しましたが、開戦直前に天守と本丸御殿一帯が炎に包まれました。原因には放火・自焼などいくつかの説がありますが、いまだに特定はできていません。

熊本城二の丸広場や髙橋公園などでは西南戦争にまつわる石碑や銅像を見ることができます。明治の軍人を偲んで熊本城域を散策するのもまた一興です。

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高橋公園にある「谷干城(たにたてき)」の銅像

熊本城 解説

慶長12(1607)年、茶臼山と呼ばれた台地に加藤清正が当時の最先端技術と労力を投じた、名城熊本城が完成します。以後、熊本城は400年に亘る日本の様々な歴史の重要な舞台となっていきます。

加藤清正から細川氏宮本武蔵谷干城(たにたてき)など歴史に名を刻んだ歴史ドラマの主人公たちが繰り広げる熊本城400年の歴史をお楽しみ下さい。

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熊本城 石垣
忍者も登れない「武者返し」

とにかく熊本城が最強たる所以は…石垣です。

熊本城の石垣は、通称で武者返し(むしゃがえし)と呼ばれています。石垣は熊本城の特徴のひとつです。下はゆるやかで、簡単に登れるように見えますが、上に向えば向かうほど反り返りが激しくなり、登ることができません。武士はもちろん、身軽な忍者でさえも、登れないことから武者返しと呼ばれています。

近代になり熊本城の建物の大半が失われたのに対して、ほとんどの石垣は当時のままの姿で残っております。

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二様の石垣

二様の石垣は熊本城の見所のひとつであり、もっとも有名な写真撮影ポイントです。

上記写真は、二様(によう)の石垣。手前が加藤清正作、先が細川氏の作となります。
やはり、時代が後の細川氏の石垣の方が完成度が高いものになっています。

この石垣は、敵の進入速度を落とすため、ジグザグに何度も曲げられて作られています。現在は、存在していませんが、曲がった先には、その都度門があり、攻撃方は何度も堅牢な門を突破しなければいけませんでした。

そして石垣の上には、ビッシリと敵を迎え撃つ櫓が立ち並んでいたのです。

実際に訪問して歩くときに、桝形のジグザグな高い石垣に囲まれた道には、曲がるたびに門があり、石垣の上には櫓が並んでいると思って歩くと…これは、”この城は落とせませんよ”…って気になりますよ。

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何度も直角に曲がらせる桝形の石垣

熊本城 籠城対策

壁に埋め込まれた竹筒の展示があります。

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干ぴょうの埋め込まれた壁

これ、なにかと言いますと、この壁の中に干ぴょうが入ってるんです。籠城した際の非常食です。

他にも、熊本城内には異様な数の井戸があります…その数なんと120井戸!

加藤清正は、朝鮮出兵で1592年から6年間、籠城戦を行っているんです。この時、食料が無くて多くの兵をなくしています。その時の教訓を生かして熊本城を作っているんです。

銀杏の木がたくさん植えられているのも、銀杏の実を食料にする為。畳には芋のツルが編み込まれていました。

燃えやすく燃料になる楠もそこかしこに植えられています。
これ全て籠城戦を想定したものです。

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加藤清正は籠城に備えて、場内に120も井戸を作ったらせました

またの名を「銀杏城」

天守閣前広場には、熊本城の別名「銀杏城」の由来となった大イチョウがあります。加藤神社境内のイチョウとあわせて、加藤清正のお手植えと伝わっています。

しかし、明治10(1877)年の西南戦争直前に天守・本丸御殿が焼失した際に、このイチョウも焼けてしまいました。現在のイチョウは、燃えたあとから生えてきた新しい芽が成長したものです。

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熊本城の別名「銀杏城」

昭君之間(しょうくんのま)の秘密

平成19年に熊本城は築城から400年目の節目を迎えました。築城400年を記念して、平成20年に復元完成したのが「本丸御殿大広間」です。

江戸時代の絵図や文献、明治初期に撮影された写真、さらに発掘調査で出てきたものを手がかりにして、江戸時代の姿の本丸御殿大広間を復元しました。

その本丸御殿大広間のなかでも、一番格式が高い部屋といわれているのが「昭君之間」です。壁やふすまなどに、中国前漢元帝の時代の悲劇の美女・王昭君(おうしょうくん)の物語が描かれています。

「昭君之間」という名前は、実は「将軍之間(しょうぐんのま)」の隠語で、加藤清正豊臣秀吉の遺児である秀頼を熊本城に迎え入れるために用意したというがあります。(説というか、その通りだと思います。清正が自身の為に、このような豪華な部屋を作ったとは、想像できません…秀頼のためとしか思えませんね)

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本丸 昭君之間(しょうくんのま)

天守再建

熊本城の旧城域は約98万平方メートル、周囲約5.3キロメートルの広大な敷地に、大小の天守を始め、櫓(やぐら)49、櫓門(やぐらもん)18、城門29を備えていました。

西南戦争直前の火災によって天守を含め、多くの建物を焼失しましたが、宇土櫓(うとやぐら)や東竹之丸(ひがしたけのまる)の櫓群など、築城当時の建物も残っており、13棟が国の重要文化財に指定されています。

昭和35(1960)年に市民からの寄附金も受けながら鉄骨鉄筋コンクリート造で再建された天守は、明治時代初期に撮られた写真などをもとに、瓦の枚数まで忠実に外観復元されました。

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熊本城 天守

熊本城 利用案内

入場料:500円
共通券:600円(熊本城・わくわく座)
共通券:900円(熊本城・わくわく座・熊本博物館)
駐車場:200円(2時間まで200円、以降1時間毎に100円)
所在地:熊本県熊本市中央区本丸1-1

※注意点
熊本城は、平成28年4月に発生した地震により、大きな被害を受けました。現在、仮設の回廊を設置いたしましたが、多くの部分が立ち入ることができません。

復旧工事は20年間を予定しております。
復旧工事を見に行きましょう。
これも一つの歴史です。

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仮設の観覧用回廊

管理人の独り言

知ってるつもりで意外と知らないのが加藤清正です。
加藤清正は、一時、徳川家康につきますが、それも豊臣家存続のためで、死の直前まで秀頼を心配するなど、とことん豊臣家に忠誠をつくした武将でした。

加藤清正の生涯
秀吉の子飼いから肥後の大名へ

加藤清正は、1562年(永禄5年)6月24日、刀鍛冶「加藤清忠」の子として、尾張中村(現在の愛知県名古屋市中村区)に生まれました。

幼名は「夜叉丸」(やしゃまる)、のちに「虎之助」(とらのすけ)。

母の「伊都」(いと)は教育熱心で、虎之助に勉学をさせようと「妙延寺」(愛知県津島市)へ通わせ、和尚に勉学を教えてもらったと言われています。

1573年(元亀4年)、母・伊都と「豊臣秀吉」の母「なか」(のちの大政所:おおまんどころ)が従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であった縁から、豊臣秀吉の小姓として仕えることになりました。

豊臣秀吉には子供がいなかったため、正室の「おね」は、親戚である加藤清正や「福島正則」(ふくしままさのり)を実の子供のように大事に育てたとのことです。

幼少の頃より体が大きかった加藤清正は、武芸に優れ周りから将来を期待されていました。

のちに「加藤家三傑」と呼ばれることになる「森本一久」(もりもとかずひさ)と「飯田直景」(いいだなおかげ)と、幼少期に負けた方が家臣になるという約束で決闘をして、加藤清正が勝ち、2人は生涯の忠臣となります。

 

中国遠征で一番槍を挙げる
1576年(天正4年)に元服。「加藤虎之助清正」と名を変え、豊臣秀吉の中国遠征に従軍します。

当時毛利氏は、備中(現在の岡山県西部)に「織田信長」に対する最前線の備えとして、「境目七城」(宮路山城、加茂城、日幡城、松島城、庭瀬城、備中高松城、冠山城)を築いていました。

1582年(天正10年)4月、豊臣軍20,000・宇喜多軍10,000で冠山城を包囲。冠山城には3,500人以上の兵がおり、緒戦は豊臣軍と宇喜多軍は激しい抵抗に遭い、多くの犠牲者を出したと言われています。

この「冠山城の戦い」で、一番槍を挙げたのが加藤清正です。敵将「竹井将監」(たけいしょうかん)と一騎打ちをして討ち取っています。

このあと、庭瀬城、加茂城を落とし、備中高松城を水攻めにしている最中に「本能寺の変」が起こったため、毛利氏と和睦。「明智光秀」(あけちみつひで)討伐を掲げる豊臣秀吉にしたがって「中国大返し」を行ない、「山崎の戦い」で明智方の武将「近藤半助」(こんどうはんすけ)を討ち取る武功を挙げました。

 

賤ヶ岳の七本槍として大活躍
加藤清正の名が知れ渡ることになったのは、織田信長の後継者を決める「賤ヶ岳の戦い」です。この戦いで、豊臣方から柴田方へ寝返った「山路正国」(やまじまさくに)を討ち取りました。

賤ヶ岳の戦いで功績のあった武将のうち、特に大きな働きをした7人が、「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれるようになったのです。

実際は、賤ヶ岳の七本槍と呼ばれた武将と同じぐらいの知行(ちぎょう:武士に支給された土地)を与えられた武将は他にもいましたが、7人とした理由は、7人は語呂が良いから、または豊臣秀吉が特に目をかけていた忠臣の活躍を強調するため、などの説があります。

加藤清正は、賤ヶ岳の戦い以前は約500石の知行しかありませんでしたが、賤ヶ岳の戦いの恩賞で近江(現在の滋賀県)、山城(現在の京都府南部)、河内(現在の大阪府東部)などに所領を与えられ、約3,000石の武将になったのです。

 

一揆後の肥後統治で才覚を見せる
1586年(天正14年)、肥後(現在の熊本県)で、大名「佐々成政」(さっさなりまさ)が検地を急いで進めたため、国人の不満が爆発し一揆が起こりました。

それを自力で鎮めることができなかった佐々成政は責任を問われ、切腹を命じられます。その後任として加藤清正と「小西行長」(こにしゆきなが)が肥後半国ずつを任され、19万5,000石の大名になりました。

賤ヶ岳の戦い以降、加藤清正は戦での武功は挙げていませんでしたが、豊臣氏の蔵入地(くらいりち:直轄地)の代官や、新たな領主が入国するまでの代官などの臨時統治を任され、官僚として役目を果たすと、この働きが評価されて、統治が難しい肥後を任されたと言われています。

その期待に応えるように、加藤清正一揆後の難しい肥後を滞りなく統治しました。治水、農業政策、商業政策などで優れた手腕を発揮したのです。

 

石田三成小西行長との対立が決定的となった朝鮮出兵
1590年(天正18年)、小田原征伐で北条氏を討伐し全国を支配下に置いた豊臣秀吉は、朝鮮出兵の準備に取り掛かりました。

九州の大名は、朝鮮への出兵準備だけでなく、肥前(現在の佐賀県長崎県)に前線基地として「名護屋城」の築城なども命じられ、重い負担が課せられることになります。

文禄の役」では、二番隊を率いることになり、一番隊を引いた小西行長と別路で軍勢を進めました。加藤清正は、明へ豊臣秀吉の考えを伝える伝達役も任されていましたが、豊臣秀吉の和睦条件は明にも朝鮮にも受け入れられる内容ではありません。

しかし、朝鮮・明との戦を終わらせたい小西行長と、それを支持する「石田三成」にとって、あくまでも豊臣秀吉の命に従おうとする加藤清正は邪魔となりました。加藤清正が独断専行したなどと豊臣秀吉に訴え謹慎にしてもらい、明との交渉の場から加藤清正を除き、和睦を推し進めます。

一旦、和睦交渉のために撤兵を命じた豊臣秀吉でしたが、和睦交渉が決裂すると1597年(慶長2年)に再び朝鮮に出兵を命じ(慶長の役)、加藤清正小西行長が先鋒を任されました。

加藤清正は、「蔚山城の戦い」(うるさんじょうのたたかい)で大活躍をします。「蔚山城」を朝鮮・明連合軍56,000の兵に取り囲まれ、約13,000の兵で籠城し撃退しました。

この朝鮮出兵で、加藤清正福島正則などの武断派と、石田三成小西行長などの文治派の対立が決定的となります。加藤清正などの武断派は、戦場の働きこそ武士の本分と考えていましたが、石田三成などの文治派は官僚的な仕事も大切だと考えていました。

もともと、少し考え方が異なっていた両派でしたが、朝鮮出兵における石田三成小西行長豊臣秀吉への讒言(ざんげん:人を陥れるための虚偽を目上の人に告げること)によって謹慎処分させられたり、戦場での働きを悪く報告したりされ、文治派に対する不満が爆発寸前にまでなっていたのです。

また、文治派の石田三成は戦場に出ることなく、筑前筑後(現在の福岡県)の蔵入地の代官を命じられ、筑前国「名島城」を与えられたことに対しての不満もあったと言われています。

朝鮮出兵時に加藤清正は虎狩りをしたり、セロリを日本に持ち込んだりしました。しかし実際には、虎狩りをしたのは「黒田長政」(くろだながまさ)とその家臣だったと言うことです。

また、加藤清正朝鮮出兵のとき、もち米や水あめなどを原料とした長生飴という非常食を携帯していたことが、現在熊本の伝統銘菓である「朝鮮飴」の始まりとされています。

 

徳川家康への接近
豊臣秀吉が死去し朝鮮から撤兵したあとも、武断派と文治派の対立は治まりませんでした。加藤清正は、まだ幼い豊臣秀吉の子「豊臣秀頼」が石田三成ら文治派に操られていると思い、豊臣秀頼石田三成らから離れさせたいと思っていました。

五大老筆頭の徳川家康は、豊臣秀吉死去後勢力拡大のために、豊臣秀吉により禁止されていた大名間の婚姻を勝手に進め始めます。加藤清正は、徳川家康の養女を継室として迎え、縁戚関係を結びました。

これに激怒したのが石田三成ら文治派ですが、所領も少なく奉行である自分達だけでは徳川家康の勝手をやめさせることが難しいと考えて、豊臣秀吉の幼馴染みで、豊臣秀頼の傅役(ふやく:教育の責任者)でもある五大老前田利家」(まえだとしいえ)を頼ります。

前田利家徳川家康は話し合い、その場は収まりましたが、1599年(慶長4年)3月に前田利家が死去すると、武断派と文治派の仲裁をする者がいなくなり、確執が激化してしまうのです。

前田利家死去後、加藤清正を含む七将が石田三成邸を襲撃しましたが、石田三成徳川家康邸に逃げ込み失敗。それ以降、加藤清正などの武断派は、さらに徳川家康に接近していきました。

加藤清正は、薩摩(現在の鹿児島県)を治める島津氏の筆頭家老・伊集院氏が起こした「庄内の乱」で伊集院氏を支援したことが徳川家康に知られ、上洛を禁止されてしまいます。

このため、加藤清正は「会津征伐」から始まる「関ヶ原の戦い」に参加することができず、「黒田官兵衛」と共に、九州の西軍勢を攻めることしかできなかったのです。

関ヶ原の戦いには参戦できなかった加藤清正ですが、徳川家康とは東軍に協力すると書状を交わし、九州の西軍勢である小西行長や「立花宗茂」(たちばなむねしげ)の城に侵攻し、九州の大部分の西軍勢を打ち破りました。

関ヶ原の戦いは半日で東軍が勝利し、九州で西軍勢と戦った加藤清正は恩賞として小西行長旧領の肥後半国を与えられ、肥後一国52万石の大名となります。

この論功行賞により、各大名の領地に含まれていた豊臣家の直轄地も恩賞として分配され、豊臣家は摂津(現在の大阪府兵庫県南東部)、河内・和泉(現在の大阪府)65万石のみを支配する一大名となったのです。

 

熊本城築城・肥後統治で手腕を発揮!
関ヶ原の戦い後、徳川家康の支配は盤石となり、1603年(慶長8年)には征夷大将軍に任命され江戸に幕府を開きました。

加藤清正は、関ヶ原の戦い以前から着手していた「熊本城」(熊本県熊本市)の築城を続け、1606年(慶長11年)に完成させます。

熊本城は、当時「日本一の名城」とも言われ、現在も「日本三名城」のひとつとされる立派な城です。

また、加藤清正は、肥後統治でも手腕を発揮します。城下町の整備・治水事業・農業政策・商業政策を推進し、肥後を豊かな国にする基盤を作りました。

頻繁に氾濫していた白川を熊本城の外堀として用い制御した治水・灌漑事業は、肥後の農業生産を増大させることに繋がり、領民に大変感謝されたと言われています。

豊臣家への恩義を忘れず豊臣秀頼徳川家康の会見を斡旋
加藤清正は、江戸時代になると徳川家が豊臣家に代わって国を治めることに納得はしていましたが、豊臣家への忠義も忘れていませんでした。

1611年(慶長16年)、徳川家康は「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)譲位、「後水尾天皇」(ごみずおてんのう)即位の儀式に参加するために上洛。このとき、徳川家康豊臣秀頼に「二条城」(京都府京都市)での会見を要請します。

この会見を断れば、豊臣家討伐の口実になりかねないと思った豊臣秀吉恩顧の大名達は、淀殿豊臣秀頼に会見の要請を受けるように説得しました。

そうして、加藤清正と「浅野幸長」(あさのよしなが)が豊臣秀頼を守って「伏見城」(現在の京都府京都市)まで付き添い、会見の場へは、娘婿「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)の護衛として臨んだのです。

加藤清正は懐に短刀を忍ばせ、万が一のときは徳川家康と刺し違える覚悟であったという逸話があります。

 

加藤清正死去後の加藤家
加藤清正は、二条城で徳川家康豊臣秀頼の会見を見届け、肥後へ帰国する船の中で発病。そのまま死去しました。死因は不明ですが、徳川家康豊臣秀頼の会見直後に発病したことから、家康一派による毒殺などの憶測もあったのです。

加藤清正死後の加藤家は、加藤清正の跡を継いだ「加藤忠広」(かとうただひろ)が治めた時代の1632年(寛永9年)、突然改易されてしまいます。

改易の理由は、藩主として普段の行ないが正しくないということでしたが、実際は、家臣団をしっかり統制できなかったことや、3代将軍「徳川家光」と確執があった弟「徳川忠長」(とくがわただなが)と懇意にしていたことなどの説があります。

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加藤清正

 

 

 

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