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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。…当ブログ記事は転載OK…リンクを貼っていただけるなら遠慮なくお好きにお使いください。

世界文化遺産 旧グラバー住宅


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世界遺産「明治日本の産業革命 製鉄、製鋼、造船、石炭産業」

世界遺産旧グラバー住宅は「明治日本の産業革命」8県11市にまたがる23の構成資産の一つです。…2015年7月、世界遺産に登録されました。

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反射炉,恵美須ヶ鼻造船所跡,大板山たたら製鉄遺跡,萩城下町,松下村塾,旧集成館,寺山炭窯跡関吉の疎水溝韮山反射炉,橋野鉄鉱山,三重津海軍所跡,小菅修船場跡,三菱長崎造船所第三船渠,三菱長崎造船所ジャイアント・カンチレバークレーン,三菱長崎造船所旧木型場,三菱長崎造船所占勝閣,高島炭坑,端島炭坑軍艦島),旧グラバー住宅,三池炭鉱・三池港,三角西港,官営八幡製鐵所遠賀川水源地ポンプ室

長崎港の大パノラマを見下ろす絶景
南山手の丘に位置する長崎ロマンの地「グラバー園

世界文化遺産「旧グラバー住宅」は、グラバー園の一画にあります。他には国指定重要文化財旧リンガー住宅旧オルト住宅を核に、市内に点在していた6つの明治期の洋館を移築復元したものです。

園内の説明の前に簡単にスコットランドの貿易商人、トーマス・ブレーク・グラバーについて説明します。

グラバーは、安政6年(1859年)に上海経由で長崎にはいり。1861年、グラバー商会設立。龍馬をはじめ長州や薩摩などの藩士たちと交流を深めつつ、日本の革命を予感。幕府や各藩に武器や船舶などを販売し、莫大な利益を得ました。

がしかし、明治3年(1870年)にグラバー商会は倒産。グラバーは土佐出身の岩崎彌太郎経営の三菱財閥の顧問となり、明治30年に東京に転居しました。

彼の功績は日本にわが国初のものをいくつも伝えたこと。蒸気機関車、小菅修船場(ドック)の建設、近代的な採炭技術を導入した高島炭鉱の経営、ジャパン・ブルワリ・カンパニー(のちの麒麟麦酒株式会社)設立に関わるなど日本の近代化に多く貢献しました。享年73歳。朝食のスープを飲み干した直後に倒れ、そのまま逝去。家族とともに長崎の坂本国際墓地に眠っています。

それでは「グラバー園」の案内に移ります。

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伝統的建築物
グラバー園では9棟の伝統的建造物を見ることができます。そのうち、旧グラバー住宅、旧オルト住宅旧リンガー住宅居留地時代に建築され、150年以上この地に建ち続けいる貴重な建物です。

これら3棟は国指定重要文化財に指定され、旧グラバー住宅は「明治日本の産業革命遺産」の構成資産にも登録されています。

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      (旧グラバー集宅・旧リンガー住宅旧オルト住宅

一方、6棟は明治中期ごろに長崎市内に建てられた洋風建築をグラバー園へ移築復元したものです。各建物に当時を思わせる特徴があり、明治時代の長崎を知る上で貴重な建物です。

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(旧ウォーカー住宅・旧自由亭・旧スチイル記念学校・旧三菱第2ドックハウス・旧長崎地方裁判所長官舎・旧長崎高井商表門衛所)

グラバー園 利用案内
入園料:620円
駐車場:なし(周辺駐車場は意外に安い。グラバー園からの距離によって30分、50円~200円)

グラバー園」周辺エリアの見所

実は、長崎、かなり楽しい町なんです。

グラバー園の周囲だけでも…
大浦天主堂(「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界遺産登録がなされた、長崎、熊本2県6市2町にまたがる12の資産で構成された中の一つ )
軍艦島デジタルミュージアム世界遺産軍艦島」を紹介)
・祈りの丘 絵本美術館(美術として絵本を楽しむ)
オランダ坂(異国情緒あふれる東山手に位置し、外国人居留地一帯の坂道)
・どんどん坂居留地の風情が色濃く残る南山手の静かな住宅地にある坂道)
旧香港上海銀行長崎支店(国指定重要文化財 長崎市の洋館群の中では最も大きい建物の一つ)
・東山手洋風住宅群(市指定有形文化財・7棟の木造洋館群 )
・長崎港松が枝国際ターミナル屋上緑地デッキ(大型クルーズ客船を間近に見られる)
長崎孔子廟中国歴代博物館(日本で唯一の本格的中国様式の霊廟 )
長崎新地中華街(横浜中華街、神戸南京町と並んで日本三大中華街の一つ)
亀山社中記念館坂本龍馬が立ち上げたカンパニー)
風頭公園展望台司馬遼太郎竜馬がゆく』文学碑 龍馬の銅像が立ち司馬遼太郎ファンが多く訪れる場所)

グラバー園の周辺は、長崎の町の魅力を知るためのスポットが密集しているエリア。事前準備して計画を立てて訪問すれば、かなり楽しめると思います。

管理人の独り言
幕末を駆け抜けた二人
明治維新の立役者 竜馬とグラバー

歴史好きの管理人が龍馬とグラバーの関係を語らないで終われません!!

明治維新は長崎から!という言葉を証明するようなグラバーと龍馬の交流、まさに知る人ぞ知る歴史物語です。

新しい時代への胎動が始まっていた幕末、日本を舞台に一大コンツェルンを築こうという野心に燃えるグラバーと、古い日本を洗濯し、広い世界に羽ばたきたいと考えて長崎を訪れた龍馬。二人は出会ってすぐに意気投合したに違いありません。

史実と想像をクロスさせながら、二人の交流に想いを馳せてみましょう。

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坂本龍馬」・「トーマス・ブレーク・グラバー

「長崎はわしの希望じゃ!」
龍馬を感激させたグラバーとの出会い

時は19世紀。鎖国下の幕藩体制のもと、生涯を一か所で終える人間が大半であった時代に、土佐藩を脱藩して放浪していた龍馬は、広く日本を見聞した数少ない一人。かといって当時は海外への渡航はご法度。

そんな時に赴いた長崎はまさに世界の窓。2度目の訪問で、龍馬はグラバー邸に赴き、グラバーと初めての挨拶を交わしますが、自分と大して年の違わない異国の青年が長崎を舞台に大きくビジネスを展開していることに驚きと畏敬の念を覚えました。と同時に長崎が自分の希望を後押ししてくれる地であることを直感。

グラバーも青雲の志に燃える龍馬を見て、この男が日本を変える!と確信したのではないでしょうか。これまでの日本人とは違うスケールの大きさを感じ、グラバーが思ったことは。『おもしろい。一国の運命が変わる画期的な瞬間に立ち会えるかもしれない』…。

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龍馬もお洒落で有名。グラバーから調達したブーツを愛用したともいわれている

青年グラバーは、細面のイケメン!
野望を胸に若干21歳で極東の地へ

開国前の日本は欧米から見れば未開の地。そこへ21歳の若さで赴いたグラバーとはどのような人だったのでしょう。母国はスコットランド

安政6年(1859年)に上海経由で長崎に。1861年、グラバー商会設立。龍馬をはじめ長州や薩摩などの藩士たちと交流を深めつつ、日本の革命を予感。幕府や各藩に武器や船舶などを販売し、莫大な利益を得ました。

ある意味で日本の混乱を利用して成功したやり手ともいえますが、時代を見る目があったということでしょう。何よりも危険を省みず未知の大海原を渡ってきた開拓精神、冒険心は特筆もの。その情熱に龍馬も魅了されたのでしょう。

明治3年(1870年)にグラバー商会は倒産。グラバーは土佐出身の岩崎彌太郎経営の三菱財閥の顧問となり、明治30年に東京に転居しました。

彼の功績は日本にわが国初のものをいくつも伝えたこと。蒸気機関車、小菅修船場(ドック)の建設、近代的な採炭技術を導入した高島炭鉱の経営、ジャパン・ブルワリ・カンパニー(のちの麒麟麦酒株式会社)設立に関わるなど日本の近代化に多く貢献しました。享年73歳。朝食のスープを飲み干した直後に倒れ、そのまま逝去。家族とともに長崎の坂本国際墓地に眠っています。

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若き日のグラバー。伝聞では洒落者で俳優張りのイケメンであったとか。

グラバーに憧れ、慕った若き藩士たち
長崎港を見下ろすグラバー邸には文字通り異国の風が吹いていました。商人だけでなく、その頃、長崎を訪れた各藩の藩士たちも、西洋の珍品が飾られた豪奢なグラバー商会に集います。

いずれも幕末から明治にかけて活躍した人物ばかりですが(明治時代の元勲のほとんどがグラバー邸に通っていた!)グラバーの何が彼らを惹きつけたのでしょうか。
もちろん、様々な人脈が集うサロンとしての魅力もありましたが、彼から伝えられる世界の情報が一番のおもてなしであり、ご馳走でした。欧米列強のアジア侵略、未知の国々の概要、グラバーの故郷、スコットランドの文化風俗、興味深い食生活、そして銃を筆頭とする精鋭武器の数々。

グラバーも日本の若い藩士たちに世界を見やる手助けをしており、グラバーの援助によって海外渡航を果たした藩士たちの多くがその後日本の政治・経済界を担っていくことになるのです。

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「大浦居留地から望む明治初期の長崎港 (長崎歴史文化博物館収蔵)」・「稲佐山から見る今の長崎港」

カンパニーを創った!ビジネスマン、龍馬
龍馬の商才と商業的活躍が花開いた地、長崎

薩長同盟締結の場となった京都が、龍馬の政治的な活躍の地であったとするなら、商業的な活躍の場が長崎。龍馬を""社長""とする亀山社中海援隊などカンパニーが生まれた背景には、グラバーの存在が影響していたように思います。

船による運送や交易など海運事業を業務とする亀山社中では、働きに応じて給与が支払われるなど近代的な雇用形態が導入されました。

勝海舟を師として船の操縦と航海技術を学んだ龍馬にとって、長崎を拠点とする海運事業は世界へ羽ばたく順風の帆…大きな翼でした。まだ片翼ではあるけれど時代が回天すれば、やがて二つの翼で広い世界へ、未来へ…。

様々な形で龍馬の希望の地となった長崎。龍馬の夢を具現化していく過程を描いた司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の中に、長崎はわしの希望じゃ!という一文がありますが、この一行を抜き出した文学碑が長崎市伊良林に建立されています。

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司馬遼太郎竜馬がゆく』文学碑 龍馬と司馬遼太郎ファンが多く訪れる。(所在地)長崎市伊良林 風頭公園

長崎を舞台に!
薩長の壁を壊し、討幕への流れを加速させたグラバー

龍馬は、武器を薩摩名義で購入して船で長州藩に送りました。この時、幕府軍の第二次長州征伐が迫っており、長州は早急に武器の調達を必要としていました。お礼として長州から薩摩へは飢餓で不足していた米が運ばれます。

これを機に、対立関係にあった薩長が慶応2年(1866年)、薩長同盟を結ぶに至ったことは有名ですが、武器調達を頼んだのが龍馬なのか、それとも既に手配してあったグラバーがもちかけたのかは歴史の謎。

分かることはあまりにタイムリーで、これをきっかけに討幕への流れが一気に加勢したことです。二人は武器調達を協力し合うことで新たな時代の扉を開けたといえるでしょう。

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龍馬にとってグラバーとは。
志半ばで倒れた龍馬。その生涯は長崎で輝いた!

勝海舟に伴われて初めて長崎を訪れたのが1864年。翌年、龍馬は「亀山社中」を結成して約2年間、長崎に滞在。海運業を手掛ける一方で討幕活動に奔走しました。薩長同盟への道筋を敷く、その活躍は日本の夜明けを導く礎となりましたが、1867年に志半ばにして京都で暗殺されました。享年32歳。

旧体制から新しい時代への過渡期を、激動の嵐の中を、龍馬自身が疾風のように走り抜けた、そんな感があるドラマティックな人生ですが、その生涯は長崎で最も輝いたような気がします。龍馬自身も姉の乙女にあてた手紙で『長崎へ来ると元気になる』と長崎への思いを綴っていますが、食いしん坊で大食漢でもあった龍馬は長崎の食べ物にも目がなかったようですね。

そして、長崎で得た多くの知己…。そのNO.1がグラバーでした。風頭公園に建つ龍馬の像は遠く長崎港の向こう、大海原を見つめていますが、龍馬が希求していたのは、グラバーのように世界の海を渡って未知へ向かうこと、様々な異国の地で自由に生きること、思うがままに冒険すること…だったような気がします。

二人の青年が共有したキーワードは自由と冒険と自己実現。その余りあるエネルギーが日本の近代化の導線になりました。新たな時代はいつも人と人が出会い、結び合って開かれていくのですね。長崎は今日も希望の地です。

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長崎港を一望できる公園に威風堂々と建つ 坂本龍馬象(風頭公園内)

参考サイト:「長崎市公式観光サイト「 あっ!とながさき」

 

 

 

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