日露戦争を勝利に導いた2つの海戦 その2 日本海海戦
明治37年(1904)年2月6日 日露開戦・・以来、多大な犠牲を払いながらも日本は、ロシアとの戦争を優位に進めて行きます。
明治37(1904)年
2月24日 海軍 第一次旅順口閉鎖作戦
3月27日 海軍 第二次旅順口閉鎖作戦
5月 1日 陸軍 鴨緑江会戦
8月10日 海軍 黄海海戦
8月19日 陸軍 第一回 旅順総攻撃
8月30日 陸軍 遼陽会戦
10月9日 陸軍 沙河会戦
11月26日 陸軍 第二回 旅順総攻撃
12月5日 陸軍 203高地を占領
12月31日 陸軍 第三回 旅順総攻撃
明治38(1905)年
1月2日 陸軍 旅順開城
1月25日 陸軍 黒溝台会戦
3月1日 陸軍 奉天会戦
奉天会戦
日露、双方あわせて60万に及ぶ将兵が18日間に渡って満州の荒野で激闘を繰り広げ、世界史上でも希に見る大規模な会戦となった。
2月21日に日本軍右翼が攻撃を開始
3月1日から左翼の第三軍と第二軍が奉天の側面から背後へ向けて前進・・ロシア軍は予備を投入・・第三軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続けた
3月9日、ロシア軍の司令官クロパトキン大将は撤退を指示
3月10日に日本軍は、奉天を占領したがまたもロシア軍の撃破には失敗した
この結果を受けて日本側に依頼を受けたアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが和平交渉を開始したが、間もなく日本近海に到着するバルチック艦隊に期待していたロシア側はこれを拒否。
一方両陸軍は一連の戦いでともに大きな損害を受け作戦継続が困難となったため、その後は終戦まで四平街付近での対峙が続いた。
そして日露戦争の雌雄を決する・・ロシア海軍バルチック艦隊と日本海軍連合艦隊が激突する日本海海戦が始まるのです。
明治38(1905)年5月27日 午前4時45分 ロシアバルチック艦隊発見
長崎県五島列島沖 西北74キロ 連合艦隊の偵察船信濃丸は暗闇の中に船の明かりを発見します。
知らせを受けた連合艦隊参謀の秋山は、すぐに東京の大本営への電文を起草、「連合艦隊はただちに出動、之を撃滅戦とす・・本日天気晴朗なれども波高し」・・。
この ”天気晴朗なれども波高し” の言葉には秋山の苦悩が隠されていました・・波が高いと先制攻撃の為に準備した ”連携水雷作戦”(敵艦隊に機雷源への突入か砲撃戦かの選択を強いる)が決行できないのです。
水雷艇は非常に小さく3mを超える波では作戦行動がとれません・・先制攻撃 ”連携水雷作戦” が不可能となった今、丁字戦法を改良した並行戦の成否に日本の命運がかかっていました。
午後1時57分 バルチック艦隊との距離1万メートル
午後2時05分 距離8000メートル 連合艦隊はついにバルチック艦隊と並ぶ寸前の位置に達しました・・東郷の右手が上がりました・・旗艦三笠が猛烈に左に舵を切り150度のUターンを開始・・その後ろを第一戦隊、第二戦隊が一糸乱れづ続きます。
午後2時24分 三笠以下、連合艦隊第一戦隊は敵の進路を完全にふさぎました・・計63の砲門が敵の先頭艦スワロフに集中攻撃を開始、この砲撃の凄まじさをロシアの水兵はこう表現しています。
「日本の砲弾は、まるであられのように降ってきた」 バルチック艦隊水兵の回想
連合艦隊は敵の先頭艦スワロフに続く戦艦オスラビアにも集中砲撃を与え壊滅的な打撃を与えます・・ところが午後2時50分バルチック艦隊の3番手の戦艦ボロジノが突如進路を反対方向に転じたのです。
旗艦三笠にいた秋山の脳裏に逃走を許した黄海開戦の失敗がよぎります・・東郷、秋山らは直ちに追撃を決断、後続艦もこれに続きます・・一斉に逆ターンを決行した連合艦隊第一戦隊・・しかしこれを見たバルチック艦隊は、戦艦ボルジノを先頭に再び逆にターンをしたのです。
この時、東郷率いる第一戦隊は逆ターンを終えロシアバルチック艦隊を追う事は不可能になっていました・・日本の運命を担った秋山の作戦は再びついえるかに見えました。
その時、第一戦隊の後方、第二戦隊が驚くべき動きを見せました・・まだターンに入っていなかった第二戦隊は、秋山らの第一戦隊を追わず、そのまま直進、逃走するバルチック艦隊を追走し始めたのです。
これは第二戦隊司令官 上村彦之丞の判断によるものでした・・上村はこの不測の事態に 「敵の前方からの集中攻撃」 という秋山の作戦を達成させるために独自の判断で行動したのです。
その時、明治38年5月28日 午後3時10分、直進した第二戦隊は逃走するバルチック艦隊の進行方向を再び塞ぎ敵の頭を抑えたのです・・第二戦隊は集中砲撃を開始します。
この砲撃にバルチック艦隊の後続艦は次々に大破、やがて旗艦三笠以下、第一戦隊も体制を立て直して攻撃に参加、主力艦を次々に撃沈させます・・ロシアバルチック艦隊は、ここに壊滅したのです。
「司令官以下、全員が作戦を理解し不測の事態に対処する」 秋山が目指した近代海軍の理念に応えた第二戦隊独自の行動が日本を危機から救いました。
■日本海海戦は、あの有名な 「東郷ターン」 だけじゃ語れないんです。