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迷走する指令部 日露戦争・運命の一日 ~東郷平八郎の日本海海戦~

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NHK 英雄たちの選択
日露戦争・運命の一日
東郷平八郎日本海海戦 迷走する指令部

20世紀初めロシア帝国は、強大な軍事力を背景に満州を占領、中国から租借した旅順を拠点に南下政策を進めていた。朝鮮半島を狙うロシア、それを阻もうとする日本、明治37年2月、日露戦争が始まった。

日本軍は半年に渡る攻防戦で莫大な犠牲を払って旅順を陥落させた…更に満州を北へ進軍する陸軍、しかし伸び切った戦線の果てで兵力は消耗、限界に達していた。

一方、バルト海を出発したロシアのバルチック艦隊は、日本を対岸から睨む軍港、ウラジオストクを目指していた。

戦艦8隻をようするバルチック艦隊ウラジオストクに配備されれば日本海制海権が脅かされる。そうなれば大陸への補給路が断たれ、満州の陸軍は孤立する。

しかもロシアは開通したばかりのシベリア鉄道で続々と兵力を輸送、これ以上、戦争が長引けば日本の敗北は見えていた。

バルチック艦隊ウラジオストクに入れてはならない、敵艦隊殲滅が至上命令!…東郷が背負ったのは、日本の命運を賭けた崖っぷちの戦いだった。

 

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対馬隠岐能登津軽、どこだ

消えたバルチック艦隊
対馬津軽か!

万全の態勢で対馬海峡、鎮海湾で待ち受ける東郷、ところが敵艦隊の行方が消えた。

明治38年5月14日、インドシナ半島東海岸の港を出た後、バルチック艦隊は忽然とその消息を絶ったのだ。

バルチック艦隊が消えた

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バルチック艦隊最大出力
・戦艦 18ノット
駆逐艦 26ノット
・運送船 10ノット
…参謀・秋山真之は敵艦隊のスピードを10ノット、時速18.5キロと推定して7日で対馬海峡に到達すると計算した。

5月22日には対馬海峡に姿を現すはずだが来ない。5月23日になってもまだ現れない…敵はどこに行ったのか、ここから東郷と参謀たちの焦りと迷走が始まった。


完全勝利の影に
東郷と参謀たちの焦りと迷走があった

現在国内には、明治天皇に献上された一組のみ存在している『極秘 明治三十七八年海戦史』は膨大な日誌や公文書を記した150冊の日露戦争の記録…その存在は文字通り極秘扱いとされ、少数の関係者しか知らなかった。

海上自衛隊 幹部学校教官 倉田昌伺
「当時この資料は極秘でした。これが手に入った事で三笠の艦上での 『軍議』、『密封命令書』、などの存在が明らかになりました」

『極秘海戦史』には敵を待ち受ける根拠地として対馬海峡・鎮海灣意外の可能性が記されている。
・鎮海湾、対馬海峡
隠岐能登日本海中央付近
津軽海峡

5月23日、敵が消息を絶って9日目、海軍軍令部から鎮海湾で待機する三笠の元へ、一本の電報が打電された。

「4日前、フィリピン沖でノルウェー商船がバルチック艦隊と遭遇、ロシアの士官は対馬に向かう」…と告げたという。この情報から連合艦隊の意見が割れた。


第一案『移動策』

参謀・秋山はこれを敵の策略と考えた。…「バルチック艦隊は太平洋を北上している。即刻北へ向かうべきだ」…これが第一の選択、津軽海峡への 『移動策』 幕僚の多くがこれに賛同した。

 

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秋山真之

津軽海峡で待ち受ければ敵艦隊殲滅は無理だが何隻か撃沈可能
・敵が対馬海峡を通った場合も逃げ切られる前に補足、敵艦隊殲滅は無理だが何隻か撃沈可能

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(各艦に配布した津軽海峡待ち伏せ配置図)

5月24日、『極秘海戦史』には、この日の東郷の命令が記されている…

連合艦隊司令長官 東郷平八郎
「相当の時期まで敵を見ざる時は、北海方面に迂回したるものと判断し、連合艦隊津軽方面に坑して要撃せんとす」

…いわゆる『密封命令』、指定された時刻に開封、実行される機密命令書です。


第二案『待機策』

この方針に驚き、異を唱えたのが第二艦隊、藤井較一参謀長と島村速雄司令官…藤井、島村は海軍同期のベテランだ。

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(島村司令官、藤井参謀長)

 

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(外れた場合は、ウラジオストクに逃げ込まれる)

 

5月25日 午前、緊急に招集された三笠での会議で二人は、 ”このまま対馬海峡で待つべきだ” と力説。

・しかし、待機策では、津軽に来てしまった場合、ウラジオストクに逃げ込む敵に追いつけない
・一方、対馬に来れば万全の準備の元、作戦を実行でき、敵の殲滅が可能となる

…天才参謀・秋山の意見か、二人のベテランの言い分をとるか東郷の心は揺れた。


第三案『両にらみ策』

更にもう一つの選択肢も突きつけられていた。…秋山に並ぶ参謀・佐藤鉄太郎を代表とする意見である。

敵の位置が不明の場合、どこから来ても対応可能な作戦、…隠岐能登など中央まで移動して情報を待って動くという、最も柔軟な策である。

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隠岐能登 両にらみ策)

海上自衛隊の幹部学校、倉田教官は、『両にらみ策』 を最適な選択と考えている。

海上自衛隊 幹部学校教官 倉田昌伺
「『両にらみ策』なら、どちらに転んでも追いついて少しは撃破できる…他の作戦では、最悪、無傷でバルチック艦隊ウラジオストクに入港させてしまう」

・両にらみ策なら南北どちらから来ても敵を捕捉できる
・それから二昼夜ぐらいの戦闘が可能となる
・しかし、日本海の広範囲をカバーするので敵が分散すれば、苦しい追撃戦となる

津軽
対馬
その中間か
…議論を戦わせる間もバルチック艦隊は密かに進み続けている。


日本の命運を左右する
東郷の選択!!

5月25日 午後、三笠での会議を受けて、ついに東郷の決断が下された…

連合艦隊司令長官 東郷平八郎
「明日正午までに当方面に敵影を見らざれば、夕刻より北海方面に移動す」

…北に移動する『密封命令』 の開封は翌26日まで一日延期になった。つまり現時点では、島村参謀たちの ”待機策” …だが一日待っても敵が現れなければ、秋山参謀の ”移動策” をとって津軽に向かうという決断だ。

即刻、移動すべきとする大多数の意見を抑えて選択した一日の猶予、このたった一日がやがて運命の一日となる。

5月26日夜明け、三笠に一本の電報が飛びこんだ…前日バルチック艦隊の石炭を積んだ運送船が上海の港に入ったという情報だった。

”敵は未だ東シナ海にいる”

…ここで運送船を手放すという事は、最短距離の対馬海峡を抜ける目算に違いない。北への移動を指示した密封命令は廃棄された。

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バルチック艦隊

5月27日 午前4時45分、五島列島にいた哨戒船から待ちに待った一文が打電された…

”敵艦見ゆ”

…北に移動するため満載にしていた石炭は海に捨てられた。身軽になった連合艦隊は、鎮海湾から出撃した。

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連合艦隊・旗艦三笠)

三笠に乗る東郷は、対馬海峡東でついに敵艦隊の姿をとらえた。…日本海海戦の始まりである。

直前まで訓練をつんだ連合艦隊の砲弾は次々と敵に命中、通信システムを駆使し、全力を結集し、日本はロシアを圧倒した。

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バルチック艦隊の戦艦8隻の内、6隻を撃沈、2隻を捕獲、1隻の戦艦もウラジオストクに逃さなかった。

”殲滅” という東郷の使命は果たされた。

すでに国力の限界を超えていた日本は、アメリカに講和を依頼、バルチック艦隊を失ったロシアは、これに応じ日露戦争は幕を閉じたのです。

たった一日、待つ事を選んだ東郷の選択がこの国の命運を決めたのだ。


司会 渡邉佐和子
歴史家 磯田道史