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こうして国が生まれた 第1回 卑弥呼の外交戦略

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NHK さかのぼり日本
こうして国が生まれた 第1回 卑弥呼の外交戦略

紀元3世紀の中国、魏・呉・蜀の三国が覇を競う戦乱の時代です。圧倒的な戦力で中国を統一しようとする魏、…この魏の皇帝に時機を見計らっったように使者を送り、外交で外交で渡り合った女性が日本にいました。


邪馬台国の女王
 ”卑弥呼” …

国立民族博物館 教授 仁藤敦史
『…卑弥呼の都・邪馬台国の位置は古代史上最大の謎と言われています。北九州説、畿内説など議論が続いています。これだけで卑弥呼を語るのは間違いです。

1.卑弥呼は、「倭国乱」 を治める事が出来た
2.邪馬台国を中心とする小国連合をまとめる事ができた

これがどのように継承される事になったかを注目する事によって ”ヤマト王権” とのつながりも見えてくるのではないかと考えます。…』


卑弥呼誕生前の
日本とは…

紀元1世紀、九州の北部には多くの小国が乱立し、勢力争いが繰り広げられていました。その一つが 『奴国』 です。

紀元57年、奴国は貢物とともに使者を漢王朝に送りました。その甲斐あって奴国は皇帝から金印を授かることに成功します。

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”漢の倭の奴の国王” …諸国がしのぎを削る中、漢王朝から認められる事は極めて重要な事でした。しかしこの金印は、王があくまで奴国だけの王である事を示しています。

107年、こうした状況に変化が現れたのが紀元2世紀です。初めて倭国王を名乗る ”師升”(すいしょう)という人物が中国の記録に登場します。

しかし、師升等は倭国を一人で統治したわけではありません。この時、師升は複数の諸国の長と共に漢の皇帝に謁見を求めています。

師升はいわば小国連合の代表に過ぎなかったのです。…この使節は奴隷を160人献上しました。通常の使節では奴隷は10人ほど…皇帝に謁見するとしてもなぜ、これほどの数を連れて来たのでしょうか。

それは当時、奴隷が大量に生まれる事情があったからです。九州各地で戦が繰り返されて負けた相手が奴隷とされて大量に存在していたのです。

2世紀末、…こうした小国同士の争いは、やがて西日本全体に広がります。この時期は、『倭国乱』 と呼ばれる戦乱の時代だったのです。


3世紀の日本と
卑弥呼の外交戦略

後漢の都・洛陽、倭国からの使者は、師升以来100年あまり絶えていた。
238年、およそ100年後、皇帝の前に卑弥呼の使者が現れます。

倭国乱れて相攻伐すること年を歴たり
乃ち一女子を立てて
王となす
名付けて卑弥呼という
(『三国志魏志倭人伝』より)

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倭国の女王となった卑弥呼、…卑弥呼は魏の歴史に登場する前、どのような政治を行っていたのでしょうか。

その手掛かりとして注目されているのが、豪族・公孫康です。公孫氏は、遼東半島から朝鮮半島にかけて強い勢力を持った豪族です。帯方郡という鉄の生産地を拠点としていました。

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それ以前から中国本土は戦乱が続き、漢の皇帝は倭国と直接外交を行えませんでした。その代わりに倭国との外交を皇帝から任されたのが公孫氏でした。…この公孫氏と卑弥呼のつながりをうかがわせるものが、日本で出土しました。鉄の太刀です。

国立民族博物館 教授 仁藤敦史
『…その太刀には、中国の年号が刻まれていて、それは中平(184-189)です。卑弥呼倭国の女王として共立された時期です。つまり卑弥呼が使者を公孫氏に送ったと考えられるのです。…その認められた印として鉄剣などをもらってきたのです。…』

魏に使いを送る前、卑弥呼は、公孫氏と交流して海外の情報を得ていたと考えられます。しかし、この後、情勢が大きく変わります。

238年初頭、中原を支配下に置いた魏が朝鮮半島に進出、鉄の生産地である公孫氏の帯方郡を奪ったのです。

238年6月、同じ年、卑弥呼の特使・難升米が魏を訪れ、皇帝に貢物を捧げます。…遠路はるばるやってきた卑弥呼の使いを喜び、皇帝は卑弥呼に ”親魏倭王” の称号を与えました。

卑弥呼が魏から倭国の支配を認められた瞬間です。更に卑弥呼には…
・鉄の刀2組
・銅鏡100枚
が授けられ、皇帝は、「これらの物で人々を治めなさい」 と伝えました。

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この後、日本各地で出土する鏡の数が飛躍的に増えます。中には卑弥呼が魏に使いを送った翌年の年号が記されている物もあります。

卑弥呼は、魏の皇帝から得た権威を倭国の統治に活用したと考えられています。

国立民族博物館 教授 仁藤敦史
『…魏と卑弥呼の関係は、卑弥呼が亡くなる10年間ぐらいなんです…卑弥呼が共立されてからの期間を考えるとほんの僅かです。…ですから当然、その前から朝鮮半島とのつながりはあったのです。

それがあったからこそ公孫氏が亡びて、すぐ魏にタイミング良く使者を送れたんだと考えます。出かけていけたんだと考えます。…絶えず後ろ盾が必要だったという意味もあったかもしれません。

当時は、伊都国(代々の王国)、狗奴国(邪馬台国と対立)という小国連合の内と外に独立的な勢力を抱えていて邪馬台国が盤石という事はなかったのです。

卑弥呼にとっては、その危うい体制を維持するために中国王朝の後ろ盾、権威を必要としていたんです。特に魏から持ち帰った銅鏡100枚を諸国に配った事は有効だったと考えます。…』


卑弥呼
ヤマト王権

卑弥呼の死後、男性の王が後を継ぐと再び倭国は戦乱に陥ります。

248年、そこで卑弥呼の同族で13歳の少女・台与(とよ)を女王に据えてようやく戦乱がおさまりました。…女王・台与もまた魏に使いを送り、その権威を背景に国を統治します。

しかし、3世紀半ばを最後に倭国の使者は途絶え、倭国の動向はわからなくなります。…いわゆる空白の4世紀です。

空白の4世紀、倭国では近畿地方を中心に巨大な古墳が作られて行きます。

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中国の記録に再び倭国の使者が登場するのが5世紀です。
478年、倭国の王・武が国を統一したという状況文を皇帝に送っています。(『宋書倭国伝』より)

丁度その時代、古事記には雄略天皇が世を治めていたと記されています。