旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。…当ブログ記事は転載OK…リンクを貼っていただけるなら遠慮なくお好きにお使いください。

The Youngest Winners 若き天才たちの肖像

f:id:tabicafe:20200503173114j:plain

F1GP 若き天才たちの肖像

天賦の才能に恵まれ、若くして勝利を得たごく少数のF1戦士たち。
華々しいデビューを飾った彼らは、後にどのような足跡を残すのか?
彼らを天才と言わしめるその所以は、いかなるものなのか……。
初優勝当時の状況を振り返り、天才たちの姿を浮き彫りにする。
大串信=文
Number 304 1992年12月5日号

これまでF1グランプリには数多くの天才たちが登場し、去って行った。今回は初優勝の年齢に注目し、いくつかのタイプに分類しながら若くしてF1グランプリの勝った天才ドライバーたちがその後どんなレース生活を送ったかを検証してみた。

 

途上で倒れた男 

ブルース・マクラーレン
ブルース・マクラーレンは、F1グランプリチームの創設者として名を残しているが、実は彼が最年少でF1グランプリに優勝した記録を持っているということは、あまり知られていない。

f:id:tabicafe:20200503180501j:plain
f:id:tabicafe:20200503180340j:plain
f:id:tabicafe:20200503180206j:plain
1968年 ブルース・マクラーレンマクラーレンM7A)

マクラーレンの初優勝は、1959年のアメリカGP。22歳3か月だった彼は、ゴールするまで自分が優勝したことを知らなかった。彼はブラバムのナンバーツーとして活躍し続けたが、ついに自分の名を冠したマシンでレース活動を行う夢を実現させ、64年にまず2座席スポーツカーを生産し、66年にはF1グランプリに進出を果たした。

マクラーレンのF1マシンは徐々に戦闘力を付けグランプリの上位を狙うだけの実力を備えるにいたる。しかし、マクラーレン本人は自らの名のついたF1マシンに乗っての優勝は1回だけしか経験することは無かった。名作M23が完成し、マクラーレンが名実ともにグランプリのトップチームとなるのは74年のことだが、マクラーレン自身は70年の6月、新型Canamカーのテスト中に事故死してしまうのである。

 

エリオ・デ・アンジェリス
79年にシャドウからF1デビューを果たしたエリオ・デ・アンジェリスは、ロータスが大スランプにあった80年、コーリン・チャップマンに見いだされてこの名門チームにやってきた。

f:id:tabicafe:20200503180811p:plain
f:id:tabicafe:20200503180757j:plain
f:id:tabicafe:20200503180748j:plain

チームが低迷する中、デ・アンジェリスが82年に記録した24歳での初優勝は、価値あるものだった。確かにプロストの脱落に助けられての勝利ではあったが、デ・アンジェリスは堅実派として成長を果たしていたのだ。

この勝利をきっかけにしてロータスは徐々にその調子を上向きにする。しかし、復調し始めたチームが求めたのは、さらに強力なドライバーであった。

デ・アンジェリスはロータスの戦略構想から外れ、後輩のセナにエースの座を譲ってブラバムへ移籍した。ブラバムは、彼が加入した当時のロータスのような低迷状態にあった。移籍して僅か4戦走ったのみで、デ・アンジェリスはこの世を去った。テスト中にアクシデントを起こしたのである。それはあまりにも淡白なグランプリ生活ではあった。

 

ピーター・コリンズ
52年、F1グランプリにデビューしたとき、ピーター・コリンズはわずか21歳だった。この年齢でF1グランプリに関わる事が出来たのは、彼の父親が裕福な実業家であったことと無縁ではない。しかしコリンズは決して資金だけでのしあがった男ではなかった。それが証拠に56年、コリンズはあのフェラーリに招き入れられ、26歳のこの年、ベルギーGPでF1グランプリ初優勝を遂げて見せた。

f:id:tabicafe:20200503181140j:plain
f:id:tabicafe:20200503181131j:plain
f:id:tabicafe:20200503181122p:plain

このシーズンの最終戦イタリアGPは、コリンズの歴史にとって大きな意味のあるレースとなった。同僚でありチャンピオン争いの真っただ中にあったファンジオは、レース途中でマシンを壊してピットに帰還した。コリンズはそこへピットインし、自分のマシンをファンジオに差し出したのだ。このとき、コリンズにもチャンピオン奪取の可能性は残されていた。

結局ファンジオはレースを続ける事ができ、タイトルを奪い取る事に成功する。一方コリンズは快くチームの指示に従って同僚に勝ちを譲った男として讃えられることになる。コリンズは58年のドイツGPで転倒事故を起こし、王座を経験することなくこの世を去った。享年27、グランプリ32戦目の事であった。

 

ジム・クラーク
ジム・クラークはその生涯に僅か9シーズン、72戦のF1グランプリを戦ったに過ぎない。しかしこの間に33回のポールポジション、25回の優勝、2回のワールドチャンピオンを経験、初優勝は26歳の時だった。

 

f:id:tabicafe:20200503182800j:plain
f:id:tabicafe:20200503182907j:plain
f:id:tabicafe:20200503182750j:plain

彼がレースを始めたのは56年の事、その4年後にはロータスからF1グランプリにデビューしている。そして9シーズンを戦い、現在に至るまで様々な記録の上位に名を残すことになる華々しい戦果を挙げ、そして彼はあっさりとこの世を去った。あまりにも激しいレース人生である。

クラークは、コーリン・チャップマン抜きに語る事は出来ない。彼らは58年レースを通じて知り合い、それ以降二人はともにその才能を引き立てながらサーキットを突っ走るのだ。

68年4月、クラークは西ドイツ・ホッケンハイムで行われたF2レースの途中、突然コースを飛び出して立木に激突、この世を去る。F1グランプリでまさに全盛期にあったドライバーとしては、あまりに呆気ない最後であった。

 

ジル・ヴィルヌーヴ
伝説の男、ジル・ヴィルヌーヴは6シーズン、67戦のF1グランプリを戦い6勝を経験している。初優勝は19戦目。彼は26歳だった。ワールドタイトルの経験はない。こうしたヴィルヌーヴの戦績は必ずしも飛びぬけたものではない。

F1デビュー2戦目にして彼はフェラーリの抜擢を受ける。突然チームを離脱したニキ・ラウダの代役であったとはいえ、F1を1戦しか経験したことのない若者をフェラーリが招き入れた例は他にない。少なくともこの時のヴィルヌーヴは、明らかにドライバーとしては未完成だった。

しかし未熟なくせに荒い男、ヴィルヌーヴは、その才能を結実させる。翌年、本格的にフェラーリで戦い始めた彼は、シーズン最終戦で優勝を遂げると、翌年はエースのジョディ・シェクターを凌ぐ速さを見につけてしまうのだ。しかし、このシーズン、ヴィルヌーヴチームオーダーを忠実に守り、シェクターを王座に押し上げて自信はシーズン2位に留まる。

焦ることは無かった。次はヴィルヌーヴの番だったのだ。しかし彼に不運だったのは、フェラーリのマシンがこの年を頂点に戦闘力を落としてしまったことだった。彼はじっくりと構え、フェラーリが復調するのを待った。

そして82年、ターボ過給エンジンの熟成を終えたフェラーリはコースを突進し始めた。ところが、ヴィルヌーヴの思い通りにシーズンは展開しなかった。パートナーとなったディディエ・ピローニは、かつてのヴィルヌーヴのようにチームオーダーを忠実に守る男ではなかったのだ。

結果的にヴィルヌーヴとピローニは王座を争って格闘を始めた。その結果は悲惨だった。ベルギーGPの予選、彼のフェラーリは猛烈な勢いで前を走るマシンに乗り上げ、中に弾き飛ばされた。ヴィルヌーヴはコックピットから放り出され、路面に叩きつけられて致命傷を負ってしまった。恐ろしく早かったドライバーは、その才能を結果として記録に残す事無く、その人生を駆け抜けてしまったのである。 

www.youtube.com

ジル・ヴィルヌーヴ(事故死)満32歳没(1982年5月8日)
かつて「史上最速」と言われた伝説のF1ドライバー。1997年のF1ワールドチャンピオン・ジャック・ヴィルヌーヴの父。1977~1982年の間、(初戦を除き)全てのF1キャリアをフェラーリに投げ打った。現在の基準からすればあまりに過激なドライヴィング、「ありえない!」と言われた低迷マシンでの優勝劇などは観る者を魅了。1982年5月8日予選2日目の走行中にマシンは大破。自身は外に投げ出されフェンスに叩きつけられて死亡。その壮絶な最期とともに永遠の伝説となった。

  

流れを逃した男

ジャッキー・イクス
天才ドライバーとして若きジャッキー・イクスはF1グランプリに姿を現した。60年代、F1グランプリは出場台数が少なく、興行として成立させるためにF2やF5000など、格下のマシンと選手を混走させる事がよくあった。イクスがF1にデビューしたのは66年のドイツGPの事だが、そのとき彼が乗っていたのはマトラF2であった。

1年後のドイツGPでやはりF2に乗って2戦目のグランプリを経験したイクスは、17台のF1マシンを相手に激走し、なんと予選総合3位に値するラップタイムを記録してしまう。 

f:id:tabicafe:20200503184502j:plain

こうしてシーズンの終盤、イクスはとうとう本物のF1マシンに乗込むチャンスをつかみ、F1ドライバーとしての生活を始める。翌年23歳の彼はフェラーリの抜擢を受け、F1、3シーズン目とはいえ、僅か5レース目でF1の頂点と言われるマシンを手に入れる。優勝経験もないドライバーをフェラーリがチームに招き入れるのは極めて異例の事態ではあった。しかし、イクスは見事にそれに応え、移籍後5戦目で優勝を飾る。

しかし、それ以降の彼は勢いを持続させる事は出来なかった。ワールドチャンピオンへの可能性を抱えて臨んだカナダGPの予選で大クラッシュ、足を骨折してしまうのだ。財政難だった当時のフェラーリは翌66年には、イクスを戦力構想から外し、ここでイクスの人生の流れは、その方向を変えてしまう。

70年には、イクスは再びフェラーリに復帰して活躍を再開するが、もはや水平対向12気筒エンジンの性能だけでは、グランプリを勝ち抜くことのできる時代ではなかった。イクスは結局、延べ5シーズンにわたるフェラーリ生活で6勝しか挙げられず、タイトルを獲得することなくF1グランプリの一線を去る事になる。スタートが華々しかっただけに、その去り際は寂しいものだった。

 

ミケーレ・アルボレート
流れに乗り損ねた男として、ミケーレ・アルボレートは外すことのできないドライバーである。彼は本格的な4輪レースを始めて僅か5年目の81年にF1デビューを果たしている。F3レースで人並外れた活躍を見せ、F1チームから注目されたという点で、彼は天賦の才能を持つドライバーの典型的な道を歩んだのである。

アルボレートに声をかけたのは、ケン・ティレル。新人ドライバーを発掘し育て上げる名伯楽だ。惜しいことに、当時のティレルは低迷期にあった。それでも26歳のアルボレートは2シーズン目、26戦目にグランプリ初優勝を遂げて、その才能を証明している。

f:id:tabicafe:20200503184728j:plain
f:id:tabicafe:20200503184738j:plain
f:id:tabicafe:20200503184749j:plain

しかし、F1はターボ時代へと移り変わりつつあった。そしてティレルは、その変革の波に乗り遅れた存在だった。アルボレートは3シーズン目の83年に2勝目を挙げているが、これは自然吸気コスワースDFVエンジンにとって最後の勝利でもあった。

翌年、フェラーリに招かれてアルボレートはターボ過給エンジンを手に入れるが、不運な事に当時のフェラーリは下降期にあった。TAGポルシェやホンダなど、新世紀のターボ過給エンジンが登場し、戦力が相対的に低下しつつあったのだ。ここでもアルボレートは、時代に取り残されてしまったのだ。

結局アルボレートは、5シーズンに渡ってフェラーリに在籍したが、目立った成績を残すことが出来ないままフェラーリを離れる。当時フェラーリは新しい自然吸気エンジン時代に向けて改革期にあった。アルボレートがフェラーリを去った直後に登場する新しいマシンの性能を思うと、やはりここでもアルボレートは時代に乗り損ねてしまったのだと言わざるをえない。

 

自分で道を決めた男

エマーソン・フィツティパルディ
悲劇的な事故死を遂げたヨッヘン・リントの代役としてロータスに突如抜擢されてF1ブランプリにデビューした24歳のエマーソン・フィツティパルディは、デビュー後わずか4戦目にしてF1グランプリ初勝利を遂げて、初めて注目を浴びた。

 彼はリントを失って意気消沈したロータスのエースとなった。この時、リントの遺産である名作タイプ72がロータスにあった事は、フィツティパルディにとっては幸運だった。

彼は3シーズン目、とうとうワールドチャンピオンになって、ロータスを再び栄光の座につける。このとき彼は弱25歳と8ヵ月。彼は最年少ワールドチャンピオンとして、現在に至るまで破られていない記録を樹立したのである。

f:id:tabicafe:20200503185106j:plain
f:id:tabicafe:20200503185121j:plain
f:id:tabicafe:20200503185056j:plain

フィツティパルディは2年後ロータスからマクラーレンに移籍して、2度目のワールドチャンピオンになる。まだ彼は27歳。彼の前途には限りない未来があるはずだった。

しかしここで、フィツティパルディは思い切った選択をする。彼は自前のチームでの活動に踏み切るのだ。そして28歳の時、兄のウィルソン・フィツティパルディが故郷ブラジルの資本と技術を集めて準備したチームに移籍を果たす。

もちろんフィツティパルディの目標は、自前のチームで3度目の王座を獲得する事だっただろう。しかし、肝心のマシンは中々まともに走ろうとしなかった。彼は自分のチームで5シーズンを戦ったが、ワールドチャンピオンどころか、ただの1勝も挙げることができずに疲れ果ててF1グランプリ撤退を決める。

その後フィツティパルディはアメリカに移り、CARTシリーズの主要ドライバーとなり、第一線級で活躍している。自分のチームでの活動を選んだ決断が、その後のフィツティパルディにとってどんな意味があったのかを知るには、フィツティパルディ本人のみなのだろう。

 

ジョディ・シェクター
ジョディ・シェクターは、F1グランプリに登場するや、そのとんでもない速さで話題の男となった。彼にとって4勝目のF1グランプリにあたる73年のイギリスGPは、シェクターを語るために避ける事のできないレースである。このレースで彼はベテランたちを追い、4位で1周目を終えようとする最終コーナーでスピン、9台を巻き込む大事故を引き起こすのである。こうして速さと荒さはシェクターの代名詞となった。

しかし、翌年ケン・ティレルと組んでからは、そのドライビング・スタイルは変化を見せ、24歳で初優勝を飾った。

f:id:tabicafe:20200505172029j:plain

79年、フェラーリに移籍したシェクターは、かつての暴れん坊ではなかった。フェラーリの性能を堅実に引き出し、ポイントを重ね、そしてワールドチャンピオンになって見せたのだ。このタイトル奪取の陰にパートナーであるジル・ヴィルヌーヴがあったことは忘れてはならない。ヴィルヌーヴは往々にしてシェクターよりも早かったが、チームオーダーに従ってシェクターを王座に押上てくれたのだ。

ワールドチャンピオンになったシェクターは「ここまで何の問題も無かった。もし問題があったとすれば、それはパートナーが少しばかり早すぎた事だ」と言い残している。これは冷徹で客観的な見方だ。この姿勢がなければ、彼は翌年フェラーリ不本意なシーズンを送った後で潔くモーターレーシングから足を洗う事などできなかったに違いない。

 


トニー・ブルックス
トニー・ブルックスは56年、マイク・ホーソンの№2としてBRM入りしF1グランプリにデビューを果たした。しの走りは頭脳的で繊細だった、と当時のレポートにはある。初優勝はバンウォールに移籍した翌年のイギリスGPでのこと。F1グランプリにデビューして僅か4戦目のことだ。このとき彼は25歳。本欄ならばその後長くグランプリで活躍していいはずだった。

しかし彼は僅か6シーズン、38戦戦っただけでレースからの引退を決めてしまう。ブルックスはF1グランプリでの戦いに人生を賭ける事は出来なかったのだ。結局彼は29歳の時にレースを引退し、ビジネスマンとして人生をやり直す道を選ぶ。F1グランプリが一般社会に近い位置にあり、ドライバーにとっては人生の中の一つの要素に過ぎなかった時代の話だ。

 

スターリング・モス
スターリング・モスの経歴を見ると、あらゆる点でかれが稀代の天才ドライバーであったことが証明できる。26歳で初優勝を飾り、出走した66回のF1GPで彼は16回の優勝、16回のポールポジションを記録。その勝率、得点獲得率はちょうどアラン・プロストの持つデータと同等の数値となっている。

しかし、不思議な事に彼はF1グランプリを11シーズン戦いながら、一度もワールドチャンピオンになってはいない。55年から4年連続でシーズン2位、それ以降3年連続でシーズン3位につけたにもかかわらず、彼に残された最後の栄光であるワールドタイトルには届かずに終わった。

「モスがもし情熱よりも理性を優先させていたら、ワールドタイトルは彼のものになっていたはずだ」と故エンツォ・フェラーリは言ったと伝えられる。もちろんこれは、「モスがフェラーリに乗っていたら」と言いかえる事も出来るだろう。しかし、モスは、その時自分が走りたいチームで自分の望むままスタイルでレースをする事にこだわったのだった。

結局彼は62年に起こした事故で負傷したことが理由でレースから引退してしまう。彼にはレースを続ける意志がなかったわけではない。というのも事故からちょうど1年後、事故を起こした同じグッドウッドのコースで行われたスポーツカーレースに出場しているからだ。しかし、このレースを走って、モスは自分がすでに引退すべき時を迎えていることを悟り、戦いの日々にピリオドを打ったのであった。

 

ジャッキー・スチュワート
ジャッキー・スチュワートスターリング・モスをどれだけ意識していたか、知らない。しかし、彼の経験を振り返ると、まさにモスの切り開いた道をたどったのだという事がわかる。

f:id:tabicafe:20200505172232j:plain

スチュワートは9シーズン、99戦のF1グランプリを戦った。初優勝は8戦目。26歳の時だった。それ以降彼は27回の優勝、17回のポールポジションを記録する。この間、彼はスポーツカーやインディカー、あるいはF2など様々なカテゴリーのレースに出場しているが、そのいずれでもずば抜けた速さを見せた。マシンのコントロール能力にかけてスチュワートが得た評価は、現在でも語り草だ。

モスと異なるのは、彼がその9シーズンのうちで3回にわたってワールドチャンピオンに輝いた点だ。スチュワートはモスが手に入れられなかった物までを得て、そしてF1グランプリを去るのだ。

彼がサーキットを去る決意を下したのは73年のシリーズ最終戦。このレースの公式予選中、彼の愛弟子であったフランソワ・セベールが事故死を遂げたのである。彼は彼にとって100戦目に当たるレースを目前に、レースからの引退を表明し、サーキットを去る。この年スチュワートは3度目の王座に就いたばかりだった。しかし彼はモス同様退け時を悟り、自分の意志でマシンのコックピットを降りたのである。

 

マイク・ホーソン
マイク・ホーソンの場合は、その結果が自分で決めたものだったかどうか判断するのは難しい。彼はクーパーで52年にF1デビュー、翌年フェラーリに移籍して初優勝を遂げた。決して才能に溢れたドライバーではなかったが、その競争心は人並外れたものだったという。

f:id:tabicafe:20200505172404j:plain

彼はF1グランプリでの活躍よりも55年に起きたル・マン24時間レースの大事故の当事者として有名だ。ジャガーに乗ったホーソンが、ピットインのために進路変更をしたのがきっかけとなって、80人以上の人間が死亡するモーターレーシングの歴史に残る大惨事が発生するのだ。

ホーソン自身は無傷だったが一部世論にはホーソンの責任を追及する声も上がり、彼にとっても大きな事件となった事には違いない。もっとも彼はその後もレースを続け、フェラーリのドライバーとしてF1グランプリで活躍する。彼は58年いっぱいでレースから引退するが、このシーズンが彼にとって最良のシーズンであった。全10戦のうち勝ちこそ1勝だったが、8戦でフロントローに並び5戦でファステストラップを記録、ワールドチャンピオンになったのだ。

全てをやり遂げたことに満足したか、ホーソンはこのシーズンいっぱいでレースを引退する。しかし、その翌年、皮肉にも彼は何と交通事故に遭ってこの世を去ってしまうのである。

 

幸運を引き付けた男

ニキ・ラウダ
71年マーチからF1にデビューしたニキ・ラウダは73年BRMからの抜擢を受ける。BRMはその長い歴史の末期にあったが、最後の充実期にあった。ラウダはここでクレイ・レガッツォーニのセカンド・ドライバーとして経験を積む。

f:id:tabicafe:20200505172516j:plain

この過程のモナコGPでラウダはイクスの乗るフェラーリを押さえ込む活躍を見せた。それがエンツォ・フェラーリの目に止まった。そして翌年、ラウダはフェラーリへ来ないかとの願ってもない申し出を受ける。彼はBRMとの契約を打ち切ってフェラーリに飛び込む。もちろんこんな幸運を逃す手はなかった。

さらに幸運だったのは彼が飛び込んだのは上昇期のフェラーリだったことだ。フェラーリはその水平対向エンジンを熟成させ、エンジン性能を存分に引き出す事のできる新世代のシャーシー制作にとりかかったところだった。混乱していたチームも、ルカ・モンテゼモロの指揮の下、変身しようとしていた。全ての好条件がラウダの手元に転がり込んできたのだ。

こうしてラウダが24歳で初優勝、グランプリに勝ち始め、ワールドタイトルまでをもぎとるまでの男になったのは、当然だったのかもしれない。しかし、ラウダは幸運だけを武器に王座を手に入れたのではない。

有名なニュルブルクリンクでの大事故で、ラウダは文字通り死にかけた。体表だけではなく肺にまで酷い火傷を負ったラウダは、命を取り留めても、レースに復帰できる可能性はなかったはずなのだ。ところが、彼は僅か6週間でサーキットへ舞い戻ってきたのである。しかもその復帰レースで彼は4位入賞を果たす。77年には事故で取り損ねたタイトルを改めて取り直し、その7年後にはターボ過給マシンに乗って3回目のタイトルまでもぎ取っている。

F1デビュー後12シーズン目を迎えていたラウダにとって、この年彼が乗ったマクラーレン・TAGターボは世代を飛び越えたマシンであった。それを乗りこなして王座を奪ったラウダを超人と呼ばずに何と呼ぶべきだろう。

 

アイルトン・セナ
アイルトン・セナがF1にやって来た時、確かに彼は注目の的であった。前年度の英国F3選手権でセナは前人未到の9連勝という記録を作ってチャンピオンとなった男だったからだ。そして翌84年、F1進出したセナはその才能を決定的な形で証明して見せた。決して有力チームではなかったトルーマンに加入したセナは、雨になった第6戦モナコGPで、首位を走るプロストを激しく追い回して2位入賞を果たしたのだ。このレースは雨の為、レース途中で赤旗打ち切りとなったが、もしレースがそのまま続行されていたら、プロストはセナの追撃から、逃れる事は出来なかっただろうと言われている。

このセナの2位入賞は当時F1グランプリに王者として君臨していたプロストを追いかけ回した結果記録されたものであった上、その舞台はF1グランプリの象徴たるモナコであった。セナはまさにグランプリの申し子として未来のチャンピオン候補に名乗りを挙げたのである。

翌85年名門ロータスから誘いがかかった時、セナはトルーマンとの契約を途中で反故にして、その誘いに応じている。その結果トルーマンロータスはセナをめぐって訴訟沙汰になる。これは丁度ニキ・ラウダがBRMを蹴ってフェラーリに移籍したときの騒動と瓜二つの展開であった。

f:id:tabicafe:20200505172731j:plain
f:id:tabicafe:20200505172747j:plain
f:id:tabicafe:20200505172759j:plain

以後セナの経歴は、彼の成長が幸運に恵まれるとともに与えられた機会を強引に自分に引き寄せて成し遂げられたものだということを証明しているようだ。

 

アラン・プロスト
アラン・プロストが、セナとともに80年代を代表するレーシング・ドライバーであることは間違いがない。もちろんどちらもまだ現役であって、どんな形であれドライバー人生をまっとうはしていないから、断言するのはまだ早い。しかし、少なくとも現在までの経歴を較べたとき、その戦績の内容はともかくセナはプロストのスタイルを忠実に追いかける存在であり、プロストはセナの前にあって道を切り開き、今でもそれを続けている男であると言おう。

f:id:tabicafe:20200505172936j:plain

80年代、ターボ過給エンジンが登場してからF1グランプリは確実に変質した。グランプリの主体は人間であるドラーバーから機械であるマシンへと移ったのだ。ドライバーの優劣はマシンからいかに効率よく性能を引き出すかで決定されるようになった。ドライバーにとっては、サーキットを走る才能以外に、優秀なマシンとそれを支える優秀なチームを手に入れる能力が必要になる時代になったのであった。

26歳で初優勝したプロストは新しい時代における最初のヒーローであった。そしてセナは、プロストのスタイルを追いかける事の出来た最初の挑戦者である。

今年、プロストは1年間の休養に追い込まれた。それは言うまでもなく彼が望むだけの環境が得られなかったからだ。環境無くして栄光はありえない。プロストはF1グランプリを見事に割り切って見せたのである。そして彼は来年、望む環境を手に入れてF1グランプリに復帰する。この復帰に成功すれば、プロストはセナやセナに続く者たちに、また新しい道を切り開いて見せる事になる。

 

シューマッハー
シューマッハーを語らねばならない。彼は今年のベルギーGPで初優勝を遂げた。F1デビュー後、丁度1年、18戦目の事だ。この時彼は23歳7か月。勝利時年齢ではジャッキー・イクスに次ぐ歴代3位にあたる記録である。

f:id:tabicafe:20200505173103j:plain

彼はまだF1グランプリを戦い始めたばかりの若者だ。果たして彼はこれまで語った天才たちのうち、誰と似た人生を歩むのか。幸運に恵まれるのか、不幸に取りつかれるのか。流れに乗るか乗り損ねるか。ワールドチャンピオンになれるのかなれないのか。我々は今、天才の成長をリアルタイムで目撃するチャンスに恵まれているのである。

 

 

 

管理人お奨め記事

www.tabi.cafe