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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。…当ブログ記事は転載OK…リンクを貼っていただけるなら遠慮なくお好きにお使いください。

F1ドライバーズ暴れん坊列伝 レッドゾーンの男たち

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ドライバーズ暴れん坊列伝 レッドゾーンの男たち

非力なマシンを限界まで操り、雨の中を大胆なドライビングで走り抜け、前を走るライバルをコースアウトも恐れぬ走りで強引にパスするサーキットの暴れん坊たち。だから彼らの走りは決して無謀なものではなく、熟達したテクニックと豊富な経験から培われたものなのだ。観衆を熱くさせた彼らの武勇伝は永遠に消えることは無いだろう。
西山平夫=文
Nunber 269 1991年 6月20日

 

期待を裏切らぬ荒業師 ナイジェル・マンセル
Nigel Mansell

それまでモニターTVを観ながらワイワイガヤガヤやっていたジャーナリスト達が思わずお喋りをやめ、全員の視線が画面にくぎ付けになった。プレスルーム全体が、一瞬息を呑む、といった状態になったのだ。今季F1第3戦サンマリノGP予選でのことである。

画面にはたった1周のアタック・ラップに入ったマンセルが映っている。いつもどおり気迫に満ちた、誰の目にもすぐにマンセルとわかる豪快なコーナリングが続く。しかし、その前に1台、マンセルより明らかに遅いマシンが走っていた。コースのどこかで、マンセルが全車に引っかかるのは容易に想像がついた。そして、ジャーナリスト達は、その接近遭遇地点が、強いブレーキングを必要とすることを予見していたのである。

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「あの」というには理由がある。昨年のこのレースのこの予選で、やはりスローカーに引っかかったマンセルは、アクアミネラーリにさしかかった時に敢然としてコースを外れ、インフィールドのグリーンを突っ走り、ショートカット。再びグリーンに戻るという荒業を見せたのだ。ペダルに足が挟まって、ブレーキが間に合わなかった……というのが事後のコメントだったが、わかったものではない。

そのアクアミネラーリへ、同じようなシチュエーションでマンセルが突っ込んでくる。また、シケインをカットするのじゃないんだろうか?……いや、タイムロスにつながるあんな真似はもうすまい……マシンにダメージを与えるかもしれないし……でも、あのマンセルだから……ジャーナリスト達はそれぞれの期待と予想を胸に、画面を注視する。

アクアミネラーリまでにマンセルは前車にくっついたが、抜けない。やがてコーナー進入。マンセルのタイヤがロックし、ぱっと白煙は上がる。その一瞬後、マンセルのウイリアムズ・ルノーはコースを外れ、一直線に草の上を突っ走り、再びコースに戻っていた。そしてその間、マンセルは見事に前車をパスしていたのだ。

プレスルームはドット湧いた。悲鳴、歓声、口笛に指笛。クレイジー!インクレディプル!アンビリーバブル!そんな言葉がブラボーの声と一緒に、プレスルームの天井に跳ね返った。マンセルは期待に応えたのだ。

いま、こんな荒業をやろうと思ってやれるのは、レース界広といえどもマンセル一人である。レース入門を果たしたばかりのレーサーだって、結果的にタイムをロスし、危険が増えこそすれ何のメリットもないこんな馬鹿げた真似はしない。それはマンセル以外のF1ドライバーがそうしないのと同じく、考え方において正しい。真実、好タイムは出ないのだから。

だが、ファンが支持するのは圧倒的にマンセルの、常識を逸脱した走りの方だ。フェラーリ・ファンが圧倒的に多いイモラでも、マンセル人気は依然として群を抜いている。

マンセルの魅力は、こうしたケレンに満ちた走りと、衝撃的な行為に当たるが、最初のうちそれは悲劇的な行為にあるが、最初の内それは悲劇的な色彩を帯びていた。

86年最終戦アデレードでは、初のF1王座を99%手中に収めながら、時速300kmオーバーで走行中に突然のタイヤ・バーストに見舞われ夢を砕かれた。翌87年も王座寸前までたどりついたものの鈴鹿で予選中にS字コーナー中腹に大クラッシュ、決勝進出ならず、2度目のチャンスも宙に舞った。これ以降、マンセルは「タイトルを獲れない男」の烙印を押されるのだが、そのドライビングは衰えを見せるどころか一段と冴え渡り、豪快さを増して多くのグランプリでマンセルならではの名シーンを提供し続ける。

89年雨のスパ フランコルシャンでフェラーリを駆り、セナとプロストマクラーレン軍団を一人で追ったマンセルは、終盤プロストに追いつくと毎周第1コーナーでコースを外れ、縁石の向こう側を大きく回ってスピードを稼ぐ奇手を用い、周囲の失笑を買った。だが、プロストとの差は確実に詰まっていた。

同年のエストリルでは黒旗を無視、1コーナーでセナとヒットしてひんしゅくを買った。

ベルガーを追撃中に時速270kmで1回転の大スピンをやらかしたのは90年のイモラ。

チームメイトのプロストが大事なタイトル争いをしているというのに、スタートでホイルスピンしてプロストを窮地に追いやったあげく、自分が勝ったのは同じ年のエストリルだけだったし、最終戦アデレードの最終ラップでは、無理とわかっているのにピケにブレーキング競争を挑み、失敗している。だが、いま、速さで正面切ってセナに張り合えるのは、このマンセルだけだろう。

一瞬の芸に燃焼するがゆえに、16勝(モナコ終了時点)もして無冠のマンセル。しかし、そのマンセルがフェラーリを離れる時、熱狂的なイタリアのファン達は大トロフィーを贈り、そこにこんなメッセージを託していたという。

「俺たちの世界チャンピオンに!」

ナイジェル・マンセル生涯戦績
1980年 ロータス 3戦0勝
1981年 ロータス 14戦0勝 年間14位
1982年 ロータス 13戦0勝 年間14位
1983年 ロータス 15戦0勝 年間13位
1984ロータス 16戦0勝 年間10位
1985年 ウイリアムズ 16戦2勝 年間6位
1986年 ウイリアムズ 16戦5勝 年間2位
1987年 ウイリアムズ 15戦6勝 年間2位
1988年 ウイリアムズ 14戦0勝 年間9位
1989年 フェラーリ 15戦2勝 年間4位
1990年 フェラーリ 16戦1勝 年間5位
1991年 ウイリアムズ 16戦5勝 年間2位
1992年 ウイリアムズ 16戦9勝 年間1位
1993年 マクラーレン 2戦0勝

デビュー戦
ロータス 1980年8月17日 オーストラリアGP シュピールベルグ 結果リタイヤ

ラストレース
マクラーレン 1995年5月14日 スペインGP カタロニア 結果リタイヤ

 

不世出の猛きコンペティター ジル・ヴィルヌーヴ
Gilles Villeneuve

マクラーレンのナンバースリーカーに乗って77年イギリスGPにデビューしようというそのカナダ人の名前を、シルバーストーンに集まった数万人の観客のほとんどは、これまで耳にしたことが無かった。しかし、プレ・クォリファイトをトップで通り、多くのベテランを尻目に予選9位につけたこの男がただ者ででない事は、レースが始まってすぐにわかった。

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カーナンバー40のマクラーレンはレース序盤に7位まで浮上。6位入賞も決して夢ではないところまで来たのだ。しかし、その後ピットインして結果は11位。ピットインの原因は水温計の故障で、エンジンそのものではなかった。マクラーレンのマネージャーはメーターが異常でもエンジンが正常ならピットに入って来なくてもいい事を教えながら、この新人の才能に驚嘆していた。同チームのチャンプ候補、ジェイムズ・ハントがカナダから発掘してきた新人は、練習と予選中に何度となくスピンし、そのたびに「限界を試すにはこれが一番」などどほざき、いったいどうなることかと思っていたのだから、決勝になると速さの中に落ち着きさえ見せた。

その新人ジル・ヴィルヌーヴは、このあとフェラーリにスカウトされ、F1界で最もアグレッシブで、最も卓抜したマシン・コントロール・テクニックを持つ男として台頭する事になるのだが、77年の処女レースの練習と予選のスピンの中に彼のエッセンスの全てが現れていったといっても過言ではなかった。つまりジル・ヴィルヌーヴは、どんなレースでも限界ギリギリで走り、勝利よりも走りそのものに才能全てを注ぎ込んだのだ。

ジル・ヴィルヌーヴのマシンがまともに走っている姿を見る事は、奇跡を目撃するよりずっと困難だった。タイヤとステアリングを切る手は、マシンが行きたいと思っている方向の真反対を向いていた。

モナコのカジノ・スクエアは、ドライバーの度胸とテクニックが試されるコーナーだが、ヴィルヌーヴはそこで最も深く、アクセルを踏み、一番ガードレールに近づき、最も多くのカメラマンとコースマーシャルに恐怖を味あわせた。

ヴィルヌーヴのマシンがダメージを受けずに走っている姿を拝むのも、なかなか難しかった。ウイングの片方が無くなっている事など当たり前で、ノーズコーンが吹っ飛んだり、タイヤが一つないフェラーリで、彼はレースをやっていた。

ヴィルヌーヴは他人が嫌うものを決して嫌いはしなかった。たとえば雨である。路面のグリップが下がれば下がるほど彼のマシンコントロールが冴え渡った。

たとえば競い合いである。普通のドライバーなら、なるべくマシンに負担をかけずに楽に勝ちたいと思うだろう。しかし、ヴィルヌーヴは競い合って勝つことを望んだ。81年スペインGPで、意のままにならぬフェラーリ・ターボで首位を奪ったヴィルヌーヴは、5人もの強豪に背後を脅かされながら、ついにその座を守り通した。そしてコックピットを降りてこう言った。
「大変だったけどエンジョイしたよ」
彼は生まれついてのファイターだった。

彼が一番憎んだのは、卑劣な行為だった。82年のサンマリノGPで、彼はチームオーダーに従いトップを走行中チームメイトのピローニのだまし討ちに遭い、2位に終わった。同年のベルギーGP予選でヴィルヌーヴが散ったのは、そのピローニに負けまいとする意地からだったという。

かつてフェラーリのデザイナーだったハーベイ・ボスルズウエイトは、ヴィルヌーヴの事をこう回想している。
「安全な2位キープか、僅かな優勝のチャンスに賭けるか、どちらかを選ぶ事になった時、ジルは迷わず後者を選んだ。そしてクラッシュするのさ」

www.youtube.com

ジル・ヴィルヌーヴ(事故死)満32歳没(1982年5月8日)

かつて「史上最速」と言われた伝説のF1ドライバー。1997年のF1ワールドチャンピオン・ジャック・ヴィルヌーヴの父。1977~1982年の間、(初戦を除き)全てのF1キャリアをフェラーリに投げ打った。現在の基準からすればあまりに過激なドライヴィング、「ありえない!」と言われた低迷マシンでの優勝劇などは観る者を魅了。1982年5月8日予選2日目の走行中にマシンは大破。自身は外に投げ出されフェンスに叩きつけられて死亡。その壮絶な最期とともに永遠の伝説となった。

 

南アフリカからやってきた熊 ジョディ・シェクター
Jody Scheckter

レースがスタートして2周。グランプリ経験僅か4戦目のシェクターは、マクラーレンを操り、予選6位のグリッドから、4位までジャンプしていた。73年シルバーストーンで開かれたイギリスGPでのことだ。

もうすぐその周も終わろうとするウッドコート・コーナーで、ふいにコントロールを失ったシェクターはコースアウトし、姿勢を乱したまま再びコースに戻ってきた。スタートして間もない頃だから、各マシンはまだまだバラけていない。一瞬のうちにコース上はパニックとなった。タイヤのスキッド音。エンジンと観客の悲鳴。クラッシュ音。そして土埃が静まった後には、スクラップになった9台のマシンが転がっていた。F1史上に残る多重衝突事故の発生だった。もちろんレースは一時中断となった。

奇跡的に怪我人はたった一人で済んだが、事故の原因を作った若造にごうごうたる非難が上がったのは無理からぬところだった。

マクラーレンの大先輩デニス・ハルムシェクターのところへやって来てこう言った。
ジョディ、今日の事はお前が悪い」

南アフリカ共和国からやって来たジョディ・シェクターは、明らかにナチュラル・ドライバーだった。レースの何たるかをよく知らなかった。レースマナーや、頭を使って要領よく勝つことなど、フォーミュラー・フォードやF3を走らせている頃の彼の念頭にはこれっぽっちもなかった。

しかし、早い事は早い。マクラーレンポンコツ3号車を与えられて、72年のアメリカGPにF1デビューした時、彼は予選で8番手を奪い、決勝では一時3位を走った。

2戦目の73年南アフリカ、すなわちホームグランプリでシェクターは予選3番手となり、決勝ではなんとトップを走って見せた。

3戦目のフランスでは予選2番手となり、ここでもトップを引っ張った。そのままチェッカーをくぐれなかったのは、王者E・フィッティパルディ接触して宙を飛んだからだ。

そして4戦目の大事故である。ネガティブな目で見れば、シェクターはただの乱暴者としか言えない。しかし、ポジティブに考えれば、才能の宝庫と言えた。問題はこの破天荒な存在を誰が引き受けて、どう育てるかだ。

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それを買って出たのが、名伯楽のケン・ティレルである。シェクターはこのチームで3年間走り、レースの何たるかを学ぶ。さらに新興ウルフ・チームに移った後、1979年にフェラーリへ行き、タイトルを獲った。モジャモジャの頭髪、太い鼻と厚い唇を持ったシェクターは、ベビー・ベアと呼ばれ、最初は田舎者扱いされていた。だが、とてつもない速さに抑制を加える事で、全く違うスタイルのドライバーに変身したのだ。

112戦もしてポールポジションはたったの3回、しかし、その数の少なさの中に、稀代の暴れん坊が王者へと育って行った秘密が隠されている。

ジョディ・シェクター南アフリカ共和国)1950年1月29生まれ、72年アメリカGPにマクラーレンでデビュー、74年ティレル~77年ウルフと移籍し、79年にフェラーリを駆り王座に着き、80年引退 112戦10勝

 

レースはいつも戦闘態勢 ルネ・アルヌー
Rene Arnoux

パドックや、ピットですれちがってから、あれ?どっかで見た顔だな……と思うのだけれど、ピンと来ない。さらに数歩、突然その人物の名前がひらめく。振り返る。
「ああ、ルネ・アルヌーじゃないか」
ちょっと猫背だ。でも、マンセルほど上背がないから、どこかみすぼらしい感じがする。服装のセンスも、団体で観光バスに乗って初めてのモンテカルロに来たばかりのグルノーブル出身の兄ちゃんというイメージ。いつも何かにビックリしてるような、まんまるな目をしている。その目が、キョロキョロといっこうに落ち着かない。これが本当に、ルノー・ターボやフェラーリを駆って18回もポールポジションを獲り、7回も優勝したことのある、あのアルヌーなのだろうか?

そう、まぎれもなく彼はアルヌーだ。73年にフォーミュラールノー・チャンピオンになった時も、77年に欧州F2王座に着いた時も、78年にマルティにでベルギーGPにデビューした時も、80年のブラジルGPでルノー・ターボを駆り、初優勝を遂げた時も、彼はまったく垢抜けていない風体をしていた。

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アルヌーは根っからの野生児だ。山から出てきて、メカニックをやり、そしてレーサーへのチャンスをつかんだ。そのキャリアをそのまま反映するようなレースを、彼はやってのけたのだ。計算し尽くしたクールなレースなど、彼とは無縁だ。他人の持っているものをもぎ取るような、戦闘的なレースだった。

ポールを獲ること実に18回、フロントラインからスタートした事は34回もある。しかし、その好位置から、まともにリードして勝ったことなど何回もない。

今でもアルーヌの名レースとして語り継がれるのは、1979年、ディジョン・プレノアで開かれたフランスGPにおけるジル・ヴィルヌーヴとの壮絶な2位争いだ。このレースで予選2位を獲ったアルーヌはいつものように出遅れ、終盤追い上げた末にヴィルヌーヴに追いついたのだ。暴れん坊2人の戦いは終始テール・トゥ・ノーズ、そしてサイド・バイ・サイド。ボディとボディ、ホイールとホイールが何度もヒットし、ヴィルヌーヴが0.2秒差で辛うじてアルヌーを抑えた。主役と脇役の息が合った見事なショーだった。

そんなアルヌーの昔を、若いファンは知らない。彼らの知っているアルヌーはこんなドライバーだ。
「アルヌー?ああ、89年のモナコプロストを散々邪魔した周回遅れのあいつね」

ルネ・アルヌー(フランス1948年7月4日生まれ、フランス・グルノーブル出身、F1デビューは78年ベルギー、79年にルノー・チームに移ってから頭角を現し、83年にフェラーリへ移籍。この間、ポール18回、優勝7回をマーク。89年引退

 

無冠の帝王は愛国の士 スターリング・モス
Stirling Moss

歴代F1ドライバーのベスト5を挙げようとする時、人はベスト3まではなんの躊躇もなく指を折る。ファンジオ、モス、クラーク……あと2人は、まあラウダをやめてプロスト、それにセナでも加えておくとするか。

いずれ劣らぬF1界のキラ星だがここにF1界の七不思議がある。あれだけ早く、強かったスターリン・モスが1回もチャンピオンを獲っていない事だ。

資質という点では、ファンジオを凌いでいたかもしれない。マシンの力をどれだけ引き出せるかという事にかけては、明らかにモスの方が上だったという関係者が多いのだ。

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モスがフルシーズンF1を戦ったのは1952年からだが、61年に引退するまでの10年間で、66回走り、ポールポジション16回、フロント・ライン37回、優勝16回という目もくらむような成績を残しながら選手権ランキングの方は、55年から58年まで4年連続2位、59年から61年まで3年連続3位と、一度もタイトルを獲れていなかった。

ファンジオと違って、モスはチームとの巡り合い方がいかにもまずかった。当時最強を誇ったベンツ・チームに入ったのが55年。ナンバーワンはファンジオで、モスはナンバーツー。しかも、この年いっぱいでベンツはレースから全面撤退してしまう。

そのベンツの名監督アルフレッド・ノイバウアーの語るエピソードがある。あるレースでモスはファンジオにピッタリくっついて離れない。それをとがめたノイバウアーに対し、若いモスは、いたずらっぽくこう語ったそうだ。
「チョット先輩にくっついて勉強したんです」
モスは自分への信頼が、あまりにも大きすぎたのかもしれない。チャンピオンなんてその気になりゃ、その内獲れるさ……と。

またモスは愛国の士であり、イギリスの期待に応えてフェラーリに乗らなかったからタイトルを獲れなかったのだという説もある。

そんな男に最も相応しいのは、当時、相手より格段に性能の劣っていたロータスを与え、モナコで走らせることだった。相手より30馬力も少ないエンジンで、モスは60年~61年と2年連続でこのテクニカル・コースを制した。

また、世界スポーツカー選手権で12勝をマーク。オールラウンド・プレイヤーぶりをいかんなく発揮した。モスこそは、無冠の帝王という言葉に一番ピッタリはまる不滅のレーサーである。

スターリング・モス(イギリス)1929年9月17日生まれ、22歳の時にHWMを駆りスイスGPにデビュー。61年末で引退するまで、ポール16回を含む最前列37回、優勝16回、20回の最速ラップをマーク。

 

オーストリアの輝ける彗星 ヨッヘン・リント
Jochen Rindt

彼はクーパーに乗っていた。50年代後半のクーパーは軽くて俊敏なマシンだったが、60年代も後半になると肥満の限りを尽くし、他のフォーミュラーを鉛筆とするなら、まるで土管が走っているようなマシンとなっていた。

その純重なマシンを早く走らせようとすると、どんなことになるか?この物理力学上興味深い実験を、1969年から67年にかけて飽くことなく繰り返したのが、オーストリアの新人、ヨッヘン・リントだった。

まるでダンプカーのようなクーパーは、止めようと思っても止まらず曲げようにも曲がらず、前へ進めようにもいっこうに加速してくれない。それでも速く走らせようとすると、マシンはその限界を超えてつぶれてしまう。なに、チェッカーまでゆっくり走らせようとしてもいずれは壊れるマシンなのだから、リントの超人的なドライビングと速さが目立つがゆえに、はた目にはまるで彼が短気を起こしてマシンを壊したかのように見える。

それに、くしゃくしゃの髪、ひん曲がった鼻、薄い唇、エゴと自信……まるでビートルズの一人が走っているのかと錯覚さえさせられるような、その立ち振る舞いも、リントのワイルドなイメージを作りあげるファクターの一つになっていたかもしれない。

しかし、リントの速さは天性のセンスの賜物だった。彼もまた雨の中で自らの力を証明した。それも、非力ながらバランスの良いマシンでパワフルな相手に迫るというのではない。そうではなくて、話しは逆に、雨の中でさらに厄介な挙動を示すダンプカーで、軽快な相手を打ち破ろうというのだ。66年ベルギーでの2位、イギリスの5位、ドイツの3位などは雨の中でリントが巧みに走った結果だった。

そんなリントも、初優勝まで5年、50レースもまたければならなかった。ロータスへ移った69年のアメリカで、リントのマシンは初めてまともに走ったのだ。この1勝をきっかけに、突如リントは勝てるようになる。

翌70年はリントのものだった。モナコで奇跡の逆転優勝を遂げ、オランダ、フランス、イギリス、ドイツと破竹の4連勝を記録。初優勝したアメリカGPで、リントのチャンピオンが決まる。ただし、彼はその場にいなかった。アメリカの2レース前のイタリアGP予選で、彼は事故死していたのだった。

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※ヨッヘン・リント(オーストリア)1942年4月18日生まれ、64年オーストリアGPにブラバムでF1デビュー、クーパー~ブラバムロータスと渡り歩き、60戦、ポール10回、優勝6回、70年のイタリアGP予選で事故死、死後王座に着いた。享年28

 

壊し屋とよばれた男 ジェームス・ハント
James Hunt

ハント・ザ・シャント(壊し屋ハント)……これがF3時代のジェイムス・ハントにつけられたニックネームだった。

早い事はべらぼうに早い。が、マシンを壊すこと壊すこと。クラッシュ!の声が挙がると、関係者は現場を見もせずに言い放つ。
「きっとまたハントの奴に違いないさ」
しかし、とびっきりの魅力を秘めた素材は、いつの時代にも最初は不安定で、粗削りなものだ。まず、何をおいても早いこと。これがなければレーサーはものにならない。

壊し屋ハントの才能は、不遇なF3時代を経てF1に駆け上った時、大きく開花する事になる。ハントには小さなF3ではもの足りず、パワフルなF1がちょうど良かったのかもしれない。

意外な事に、ハントは雨のレースで重要な勝利やタイトルをものにする不思議な才能があった。粗削りなドライバーの果敢なトライが、かえってスリッピイな路面をとらえて放さなかったのかもしれない。

英国の貴族にして大富豪のアレキサンダー・ヘスケス卿が設立したチームに入ったハントは、グランプリ初年度の73年に早くも2度の表彰台をものにし、75年オランダで初優勝を遂げる。ウエットで始まったこのレースはすぐに路面が乾いてしまう難しい展開だった。

翌76年、ハントはE・フィッティパルディが去ったマクラーレンに若きエースとして迎えられる。そしてブロンドの髪を長く伸ばし、よれよれのTシャツとジーンズ姿で、時に裸足で街を練り歩く天性のレーサーは、瞬く間に王座争いに加わる。ライバルはオーストリア人のニキ・ラウダだった。

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ニキ・ラウダ(左)ジェームス・ハント(右)

ラウダ対ハントも戦いは、ちょうど現在のプロスト対セナになぞらえてもいいだろう。ハントの走りはあくまでもホット。一方ラウダの方は計算されたクーサを持っており、ことに同年のドイツGPで瀕死の重傷を負ってからは慎重さが目立った。

76年の2人の王座争奪戦は、最終戦の第1回F1日本GP(正式名称はF1世界選手権イン・ジャパン)に持ち込まれたが、この日戦場となった富士スピードウェイは土砂降り。スタート直後から一気にトップに立ち、首位を快走するハントに対し、ラウダは雨を危険すぎると判断して、コックピットを降りた。

その後、雨は上がり、ハントはタイヤ交換を強いられて3位でフィニッシュ。これでラウダを1点差にかわしてチャンピオンとなるのだが、てっきり王座を逃したと勘違いをしたハントは、マシンを降りるなりライオンのような吠え声を発して、マネージャーを怒鳴りつけたという。
「なんで俺をピットに読んだんだ!」
いかにもぶっ壊し屋ハントらしいドラマのフィナーレだった。

それから数時間後、ハントは仲間と飲めや歌えのドンチャン騒ぎの渦中にいた。

ジェームス・ハント(イギリス)1947年8月29日生まれ、60年代後半ミニ・クーパーでレースを始め、73年モナコでF1デビュー、76年にマクラーレンに移籍してその年王座に。92戦、ポール14回、優勝10回、79年引退

 

タフでヘヴィな無頼漢 ケケ・ロズベルグ
Keke Rosberg

チビのくせに驚くほど厚い胸板。レーサーには珍しいヒゲ。自分に対する絶大な自信。鋭い批評眼とユーモア。相手を叱りつけるようなハスキーな英語。ギンギラのブレスレット。ノン・スモーカーが多いF1界にあってところかまわずタバコをふかす。ひゅしょう台でもガソリンが何百シッターと置いてあるピットでも。そんな彼を誰も注意できない。レイバンのティアドロップ型サングラス。長い髪。上を向いた鼻。ケケ・ロズベルグは、マシンに乗って戦う前から、もう暴れん坊のムードたっぷりだ。

たとえば古代のバイキング。賞金稼ぎのガンマン。野球選手ならボブ・ホーナー。味方にすればこんなに頼りになる男はいないが、敵に回したらいつでもビクビクしていなければならないめっぽう腕の立つ用心棒。

フライング・フィン(天駆けるフィンランド人)と呼ばれるケケ・ロズベルグはさすらいのレーサーだった。生粋のペイド・ドライバー(プロ)を自認する彼は、金を稼ぐためにレースをやった。自分からスポンサーを取ってF1チームのシートを買う輩などレーサーの風上にも置けぬ、と思っていただろう。

食うために、レースのある所なら、どこへでも行った。扱いにくいマシン、初めてのコース、ほとんど詐欺に等しいような契約内容。そんなことおかまいなしに、武者修行時代のケケは世界を股にかけていた。ヨーロッパ各国、カナダ、アメリカ、日本、南アフリカ共和国マカオ、アルゼンチン。カテゴリーは、1.6ℓエンジンのFA、2ℓのF2、5ℓの2座席オープンスポーツ、時にはツーリングカーにも乗った。雑食もいいところだ。

初めてF1に乗った78年には、なんと38レースをこなした。1月に2レースをこなすなど当たり前で1,4,6月は各5レース、7月には6レースを走った。7月2日はフランスでF1、4日はアメリカでFA、9日はフランスに戻ってF2という具合だ。

F1デビューは78年のキャラミ。セオドールというまったく戦力の無いマシンで予選24位、決勝リタイアというみじめなもの。ところがノンチャンピオンシップながら2戦目のブランズハッチでは、大雨の中で優勝するという離れ業を演じた。雨がマシンのひどさを救ったのだ。けれど、そんなメッキはすぐにはがされる。3戦目のロングビーチからは4戦連続予選落ちの憂き目を見る。

それでもケケはめげない。セオドールからATS、ウルフ、フィッティパルディと貧乏チームを渡り歩きながら、じっとチャンスを待った。81年までの4年間で予選落ち10回。集めたポイントはたったの6点。F1ではまったく芽が出なかった。

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だが1982年。後のフォークランド戦争のあおりを食って故郷へ帰る事になるカルロス・ロイテマンのナンバーツーとして、ウイリアムズという一流チームのシートを手に入れた途端、ケケは黄金の光を放つ。台頭著しいターボ勢を相手に自然吸入式エンジンのウイリアムズでしぶとい走りを見せ、優勝1回を含む6位入賞11回で、ピローニ、ワトソンらを抑えて見事にチャンピオンになったのだ。前年0点だった男が、翌年44点をかき集めて王座に着く……叩き上げレーサーならではの快挙だ。

ケケはストリート・コースにめっぽう強かった。勝ったのは5回の4回がストリート・コースであり、その内3つのコースは初めてF1が開催される場所だった。大胆にして繊細。コースに対する高い即応性は、武者修行時代に培った彼の財産。それでいて超高速コースも得意で、85年のシルバーストーンで彼はF1史上初めて1ラップ平均1マイルの壁を破り、ポールポジションを得ている。86年いっぱいでF1を引退したケケだが、昨年から世界スポーツカー選手権に挑戦するプジョーの優勝請負人として、再びサーキットに戻ってきた。アクセル・ペダルを忙しく叩きつける、ワイルドな走法とともに。

ケケ・ロズベルグフィンランド)1948年12月6日スウェーデン生まれ、国籍はフィンランド、78年にセオドールでF1デビュー、86年に引退するまで114戦、ポール5回、優勝5回、82年にウイリアムズを駆り世界チャンピオンとなる。

 

暴れん坊の暴れん坊たる条件とは?

F1の歴史、ざっと40年、その間、幾多の暴れん坊が出てきたが、暴れん坊と呼ばれるには、いくつかの条件がある。ただ単に粗暴なだけのドライバーは泡沫のごとく消える。

まず、最初の条件は、他人の追随を許さぬ、得意技を持っている事だろう。

たとえばヨッヘン・リントはF1では中々勝てなかったが、F1登竜門のF2レース(60年代はF1ドライバーもF2に出た)では圧倒的な速さを見せ、さしものジム・クラークジャッキー・スチュワートもリントに度々敗れている。これはF2マシンがF1ほど性能に差がなかったためで、ドライバーの腕がいかんなく発揮できたからだ。F2キング……人々は畏敬の念を込めてリントをこう呼んでいた。

F1屈指の難コース、モナコのコーナーの中でも、右へ回り込みながらガードレールすれすれを下って行くカジノ・スクエアはドライバーの腕と度胸が試される最大の難所だが、ここでヴィルヌーヴの走りは観ている人々の目を覆わしめるほど激しかったと今に伝えられている。毎週必ずオーバースピードで突っ込んできて、リヤを大きく滑らせ、ステアリングはフル・カウンター。時には左リヤ・ホイールがガードレールをこすって火花を散らしたともいう。

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ストレート・コースとくればケケもはずすわけにはいくまい。濡れた路面に敢然とスリックで挑んだ83年モナコ。集中力がひどく低下する灼熱のダラス、デトロイトアデレードでの勝利。難条件のストリート・ファイトこそケケの最も得意とするところだ。

ナイジェル・マンセルの得意技はなにか?これはスピンだろう。時速二百数十kmの、身の毛もよだつようなスピンをやらかすのはマンセルならではのもの。そして、その後の処理がほれぼれとするほど上手い。スピン状態が収まらない内にすでに次の操作を準備し、何事も無かったように走り始める。ラップタイムもさほど落ちていない。

雨で早いことも暴れん坊の条件に数えていい。他人が一歩も二歩も限界を下げて走るところを、暴れん坊たちは逆に、ここがチャンスとばかりにアクセルを踏む。性能の劣るマシンに乗る事の多い彼らは、常に限界ギリギリの走りに慣れており、ラップタイムがガクンと落ち、結果的に各マシンの間の性能差を無くす雨は、暴れん坊たちの救いの女神である。

奇跡の持ち主であることも、条件の一つに挙げたい。一般道路上では安全第一と考えるドライバーが多い中、ヴィルヌーヴは一般道も、まるでレーシング・サーキットのようにカッとばした。助手席に乗っていた人間が失神したというエピソードがある。

ハントは、ドンチャン騒ぎの名手で、彼の乗る飛行機の中は、常に枕が飛び交っていた。コスチュームも奇態で、英国BBCのF1解説者としてパドックに現れるハントは、いまだにボロボロのタンクトップに、穴の開いたジーンズ、それにゴム長なんて格好を見せてくれる。

ケケは煙草と毒舌だ。いったい一日に何箱マルボロ・ライトを灰にするのか?引火性の強いガソリンのそばでかまわずプカプカ。マネージャーに注意されると、わかってるよと言いながら決してもみ消すのではなく、手をすぼめて、吸いさしの煙草をその内側に保護して、またプカリ。

あるジャーナリストが、F1名勝負15選といったようなタイトルの本を出した。その前書きをケケが書いたのだが、その内容がすごい。曰く、俺は5回優勝したが、それ以外に名勝負なんてあったっけ?

マンセルは最近インタビューの中でこんな事を言っている。
「意味のないテストなんかしたかないね。ただ走るだけならパトレーゼに任せとけばいいよ。テスト・ドライバーのデイモン・ヒルだっているんだし」
マンセルもまた毒舌の人である。ここには取り上げられなかったが、いつもマシンを斜めにして走っていた故ロニー・ピーターソンの趣味は熱帯魚の飼育と観賞だった。

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それにしても今のF1シーンでマンセルを抜かして、正統暴れん坊と呼べるようなドライバーが何人いるだろう?かろうじてジャン・アレジアンドレア・デ・チェザリスの名前が挙がるくらいだが、両人ともややスケールが小さい。結局今のF1ドライバーには、平均点の高い、良い子が求められるわけで、暴れん坊の出現しにくい、また生きにくい時代になっているのだ。

というのには、理由がある。一つは、コマーシャリズムの台頭で、清潔なイメージの正義の味方然としたドライバーが求められる事。また、コンスタントな成績を収められるクレバーなドライバーがもてはやされるのだ。

その象徴となったのがジャッキー・スチュワートであり、走るコンピュータと呼ばれたニキ・ラウダを経て、いまセナとプロストが我が世の春を謳歌している。それに燃費で勝負が付いたターボ時代という嫌な時代もあり、完走のためにアクセルをゆるめることついに出来なかったケケのようなドライバーは、このために引退に追い込まれた。

いまのF1はまるで銀行の利子競争のようなものだ。チームオーナーは、1ポイントをかき集めるのに必死で安全な6位か、イチかバチかで表彰台か、という場面ではドライバーに前者を指示する。これでは暴れん坊の出る幕はない。それにレースがなければテスト、またテスト。早起きが出来ないケケや、ゴルフの方が好きなマンセルは不満が募るだけだ。

しかし観客は、心の奥底で敗れても感動できる暴れん坊の一瞬の切れ味を求めている。レースとは人間の熱い戦いであり、コンピューターや神のものではないからだ。

 

 

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