旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

足利義満 空前の混乱に立ち向かった権力者

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NHK BS歴史館
足利義満 空前の混乱に立ち向かった権力者

義明の素顔
悪役?優れた権力者?

司会 渡辺真理
足利義満といえば鹿苑寺金閣は浮かびます。絶対的な成功者であり権力者である…ただしその素顔は、…」

第一工業大学 教授 伊藤喜良
「現代は、ほとんどテレビドラマなど取り上げられていませんね。…まあ悪役的な立場で見られていますかね…今の義満の評価は低すぎます。義満にとっては心外だと思いますよ。」

 

義満の挑戦
克服!史上最大の内乱

義満が生まれた時代、それは史上最大の内乱、南北朝時代でした。鎌倉幕府滅亡後、次なる覇権をめぐって対立が起こります。

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政治の実権を天皇に戻そうとする後醍醐天皇、対立するのが武家政権の代表、義満の祖父・足利尊氏、…尊氏は京都から後醍醐天皇を追放、後醍醐天皇は奈良に逃れ南朝を創設します。

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一方、尊氏側は京都に室町幕府を開設し、北朝を推し立てます。長引く内乱は武家社会にも変化をもたらします。

悪党と呼ばれる武士団や ”ばさら” と名のる大名たちが台頭し、誰もが自分の私利私欲に走る世の中になります。武家社会の秩序は根底から崩れだしていたのです。

1373年12月、父・義詮が急死すると義満は、室町幕府3代将軍の座に就きます…この時、義満11歳、幼い将軍は盤石じゃない幕府の命運を一身に背負います。

当時幕府を脅かす大勢力が山名一族でした…山名は山陰を中心に11カ国の領国を治めていた守護大名でした。

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チャンスは義満34歳の時に訪れました…山名に一族の内紛が起きたのです。惣領と呼ばれる一族のトップをめぐる争いでした。惣領の地位をめぐって本家と分家に分裂、…そして分家の山名光幸が近づいてきました。

光幸は、本家が幕府に謀反と密告、義満はただちに山名本家に兵を向け、族滅…その後、山名光幸に朝廷の荘園横領の言い掛かりを付け光幸は激怒、幕府に反旗を翻します。

義満はこの時を待っていたのです…幕府軍は、光幸の軍を僅か1日で壊滅…幕府に勝る武力を持っていた山名側は内紛で統率力を失っていたのです。

そして山名の領国は、11カ国から3カ国に削減、…相手の隙をついて弱体化を図れ、若き将軍、義満の必死の戦略でした。

山名氏の力をそいだ義満、支配の総仕上げが南北朝の統一です…京都嵯峨野にある大覚寺、ここの正寝殿と呼ばれる場所で義満が仲介役となり、歴史的な南北朝合一が実現します。

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これからは二つの天皇家が、交互に即位するという巧妙な条件を出し、合一にこぎつけたのです。この南北朝の合一によって長きに渡った動乱は収束の道を歩み始めたのです。

第一工業大学 教授 伊藤喜良
「義満が出てくる直前には、足利が分裂して 『観応の擾乱』 が起こります。幕府が2つに分かれたので天下が3つに分かれて ”天下三分の情勢” 義満が出てくる前は政治的にもかなり無茶苦茶な状況、その中で自分が権力者として自立して最終的には動乱を治めて繁栄を築いたのです。」

 

公家になった将軍
朝廷の生き残り作戦

義満は公家の官位を欲し、次々と官位の階段を上って行きます…その昇進の早さは異例です。

21歳 右近衛大将源頼朝も手にした)
25歳 左大臣
26歳 准三后(皇后・皇太后に次ぐ官位)
37歳 太政大臣武家では平清盛だけ)
…公家でさえ稀といわれる義満のスピード出世、そこには一人の老練な公家の協力がありました。

二条良基、公家社会のトップに立つ摂関家の重鎮であり、優れた文化人、北朝の実力者です。…二条良基の後ろ盾を得て若く不慣れな将軍・義満は華々しく朝廷にデビューしたのです。

 

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なぜ二条良基
義満に協力したのか

南北朝の動乱で公家たちが直面していた危機的状況があったのです。…南北朝の動乱は、本来、天皇や公家たちに集まるべき荘園からの年貢収入を激減させます。

北朝後円融天皇も窮地におかれます。戦禍によって朝廷の荘園は荒廃、財政の悪化から北朝は、存続そのものが危ぶまれるほどでした。

実は、義満が公家社会に進出できた背景は、こうした朝廷の危機があったのです。

東京大学教授 小島毅
「私たちは、その後も天皇が続いたという歴史を知っていますが、当時の公家としては自分たちの存在が無くなりというぐらいの危機感があったのです。」

京都女子大学 准教授 早島大祐
「… 北朝天皇家があまりにも財政難にあって、朝廷の祭祀儀礼が中止に追い込まれます。
・公家たちの仕事が亡くなる
・財布も寒くなる一方
・祭祀儀礼が行われないので俸禄がもらえない
…その時に武家の義満が財政援助をしたのです。…」

こうして義満は、源頼朝平清盛を軽々と超え、皇族に次ぐ摂関家にも匹敵する立場へと上り詰めるのです。

その後、後円融天皇の側室と義満のスキャンダルが発覚、心を痛めた後円融天皇が病につくと…その後円融天皇を退位させ、当時まだ6歳だった息子の後小松天皇を即位させ、自らがその後見役となります。

かくして義満は老練な公家の力を借りながら、前代未聞のスーパー権力者となって混乱の世をまとめ上げていったのです。

 

スーパー権力者・義満
日明貿易の狙いとは?

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(明成祖勅書)
義満に宛てられた一通の国書があります…『明成祖勅書』、隣国の中国・明の皇帝から送られた勅書、義満を日本国王に認めるというものでした。

これこそ後の時代に大きな議論を呼ぶ事になる、いわゆる ”日本国王問題” です。

義満の真の狙いは、激動するアジアの中で明との交易・日明貿易でした。

1368年 義満11歳 明 建国…元に変わって明が誕生します…明は属国関係を結ぶ周囲のアジア諸国朝貢貿易を要求します。

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しかし、日本の朝廷は明との国交をかたくなに拒否しました。天皇が中国皇帝に従属するなどありえないと公家たちの強い反対があったのです。

更に明の皇帝が国交を認める相手は、その国の国家元首、国王と呼ばれる存在に限られました。義満が明と貿易を始めるには、明皇帝から日本国王と認められる必要がありました。

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(『善隣国宝記』)
室町時代の外交文書を記録した 『善隣国宝記』 この書物には、明との国交樹立を独自に模索し、明皇帝から日本国王と認められた義満の返書の内容が記されています。

「自分は明国王であり、明皇帝の家臣である」…そして明の皇帝に対して…「大明皇帝陛下」と崇め立てます。

こうした義満の態度が天皇の権威をないがしろにするものとされ、更に日本を明の属国に置く屈辱外交であると後世、激しい非難をあびる事になります。

しかし義満は、遣唐使廃止以来、500年に渡って断絶状態になっていた中国との正式な国家外交を再開し、日明貿易にのりだすのです。…では義満は、なぜ日本を属国という立場にしてまで明との貿易を望んだのか。

帝京大学 特任教授 今谷明さん
「永楽通宝(中国銭)は国際通貨、今のドルのような基軸通貨です。…それを全部手に入れてばら撒くわけです。…中国銭=富を配分して行くことが義満の権威、権力であったのです。」

義満が欲しがった永楽通宝は、当時アジア経済で流通していた国際通貨でした。…日本からの献上品に対して贈られる、この莫大な中国銭こそ義満の明との国交の狙いだったのです。

そしてその莫大な富が、動乱後の京都の北山文化を育てたのです。…北山文化を支えたのは唐物と言われる大陸伝来の品々でした。

当時中国の陶磁器は、世界最高水準の技術を誇っていました…海を渡ってやってくる芸術品の数々を義満はこよなく愛しました。

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更に義満は今の時代に通じる日本文化の立役者となります…能楽に新しい時代の息吹を感じ、創始者でである 『観阿弥世阿弥』 の親子を発掘して手厚く保護しました。

明との交易が引き金となって様々な経済活動が盛んになり、民衆の活気が新たな時代の気運を生み出してゆきます。…明との交易を実現する事によって義満は、文化と経済が花開く国造りを目指したのです。

司会 渡辺真理
「正式な国家外交として500年ぶりに日明貿易を始めるわけですが、どう思われますか?」

東京大学教授 小島毅
「… 私たち近代人の感覚からすれば属国になるかも知れません、明の皇帝は世界中を支配するという理念基づいています。その人と関係を持つためには、私は臣下ですと言わなければ外交を結ばせてもらえないのです。

国際情勢が大きく変わったわけです。…『貢物は持って行きません。民間交易だけやらせて下さい』 は通じない時代になってしまったのです。

現代に例えれば国連加盟です…国際秩序が変わり、新たに明という国を中心とした国連が出来たわけです。明から王にしてもらわないと国連の議席が無いわけです。

当時の国際情勢を考えると、後世から屈辱外交と言われるのは、義満としては心外だと思いますね。

義満が非難されるようになったのは、江戸時代からです。交易によって経済文化が栄えたわけです。江戸期以前は問題にされる事はなかったのです。…」

1408年5月6日 足利義満 死去(享年51)…義満絶頂期の突然の死です。

京都にある義満、所縁の寺院・臨川寺、…ここに義満の死を受け、朝廷から贈られた位牌が残されています。

鹿苑院太上法皇』、…武家の中で法皇の尊号を得たのは歴史上、義満ただ一人、朝廷が皇族の一員として認めた証しをこの尊号は伝えています。

しかし、息子の4代将軍・足利義持は、義満に太上法皇の地位が授与された3日後、あわてふためくようにその地位を朝廷に返上してしまいます。

動乱の時代をまとめ上げた足利義満、その義満の死から60年後、応仁の乱が勃発、戦火は京都の町を焼き尽くし、日本は戦国時代、再び動乱の世を突き進むのです。

東京大学教授 小島毅
「… 足利義満といえば金閣を造った人だよね…それだけですから認知されているのは、これは非常に悲しい事です。

坂本龍馬もいいですけど、織田信長も立派かも知れませんけど、もっと足利義満の事を学んで取るべきところを取ってもらいたいもんですね。…」

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司会 渡辺真理
第一工業大学 教授 伊藤喜良
作家 小林恭二
東京大学教授 小島毅