NHKさかのぼり日本史
幕末、日本は危機に直面します。アメリカから巨大な軍艦を率いてペリーが来航、武力を背景に日本に開国を迫りました…欧米列強の脅威は、日本中に広がります。
開国か攘夷かをめぐり、幕府・朝廷・大名たちが対立、国は混乱を極めました…これを乗り越えるため幕府と大名が協力し、合議で政治を進めるべきだという声が高まります。
しかし、幕府は、これまでの威光にこだわり、この要求に応じようとしません…そうした中、幕末の朝廷で活躍した岩倉具視は、革新的な構想を打ち出します。…それが幕府に代わる天皇中心の新しい体制、王政復古でした。
幕末史を多角的に研究している東京大学大学院教授 三谷博さんは、維新の歴史は今も多くの示唆を与えていると言います。
東京大学大学院教授 三谷博さん
「現在我々は、東日本大震災の後、挙国一致でやりたいと考えているが、なかなかうまくいっていない…しかし、かつての日本には、できたことである…その典型が幕末維新のじだいだったのです…当時の日本は、二百数十もの国があってバラバラになっても不思議ではなかった…しかし、最後には挙国一致に持って行けたのです」
幕末 危機が生んだ挙国一致、王政復古・維新の選択
公家に生まれた岩倉具視は、朝廷随一の政治家としての声が高く、坂本龍馬や大久保利通といった人たちも岩倉の家を訪れています。…まさに明治維新の舞台の一つであったのです。
その明治維新によって日本は、およそ260年続いた幕藩体制に終止符を打ち、近代国家として誕生したのです。なぜそれほどの大変革が出来たのでしょうか?
Q:明治維新を他の国と比較するとどんな特徴が?
東京大学大学院教授 三谷博さん
「明治維新は、西欧ならフランス革命に匹敵するほどの社会変革でしたが日本は犠牲がかなり少なかった…フランス革命は少なくとも60万人ぐらいは亡くなっています…明治維新は、ペリーが来てから西南戦争が終わるまで3万人ぐらいで犠牲が少なかったのです」
「犠牲の少なさの理由は、天皇の下に新しい制度を作るという王政復古という体制にかなりの支持が集まったからです…朝廷の下に綾らしい政府を作って国民を結集させるという考え方が浸透したからなのです」
王政復古の体制を構想し、実現の中心を担ったのが岩倉具視です。岩倉がどのように政局を動かしていったのか王政復古の大号令の直前までを解説します。
ペリー来航以来、開国政策を進めてきた幕府は、西洋諸国に港を開き、通商条約を結びました…これに対し、各地で外国人の排斥を唱える攘夷運動が激化、それが天皇を政治の中心にと考える尊王思想と結びつき尊王攘夷運動となって幕府への攻撃を強めていきます。
その急先鋒となったのが藩を上げて尊王攘夷を唱えていた長州藩でした。…幕府は長州藩を武力で制圧しようとします…しかし慶応2(1866)年の長州征討で幕府軍は、最新鋭の兵器を備えた長州藩に惨敗、これを見た諸藩も幕府を見限り始めます。
幕府敗北の知らせは、朝廷へもすぐに届きました…この頃、幕府に代わり、朝廷が政府の中心になるべきだと天皇に進言したのが岩倉具視です。
岩倉は身分の低い公家ながら有能な政治家として知られていました…『岩倉公実記』には、この時の意見書が記されています。…”天下一新策”です。…「もはや幕府自身も天下の人心が離れている事は承知しております。この機を逃さず朝廷を中心に政府を作るべきです。…また全国の諸大名を集めた議会を開き、意見を取り入れるのです」
岩倉は自らの構想を実現させるため、有力な藩に協力を求めました…慶応2年秋、岩倉に協力を申し出る人物がいました…薩摩藩の大久保利通です。
すでにこの時、薩摩は長州と密かに同盟を結んでいました…大久保は、薩長同盟を背景に討幕を視野に入れ始めていました。
一方、幕府も存続の道を探っていました…翌、慶応3(1867)年5月、二条城で会議を開きます。将軍徳川慶喜を中心に、薩摩・土佐・宇和島・福井の有力藩を政治に参加させ、幕府への支持回復を狙ったのです。
参加した諸藩は、これを機に将軍と大名の合議で政治を行う合議体制の実現を目指しました…しかし、長州藩の復権をめぐって薩摩藩と幕府が対立、慶喜は幕府の権威を損ねるとして長州の復権を受入れません…会議は1月足らずで解散します。
慶喜に失望した薩摩藩は、藩を上げて討幕を決意します…慶応3(1867)年10月6日、大久保は長州藩の藩士とともに岩倉を訪問しました。…この日の大久保の日記には、岩倉と秘中の話をしたと記されています…討幕がいよいよ目前に迫っていました。
Q:当時の政治状況は選択肢でいうと討幕しかないという流れだったのですか?
東京大学大学院教授 三谷博さん
「いや、3つほどあります。…1.幕府の専制を続ける(会津藩・旗本など)。2.徳川中心の公議体制(徳川慶喜・土佐藩ら雄藩)。3.徳川抜きの公議体制(薩摩・長州・岩倉具視)。…この中では、天皇の下に有力な大名の会議を開いて徳川が主宰する2.の案が大勢を占めていました」
「対して、薩摩・長州・岩倉具視らは、一旦は徳川を排除しなければ、根本的に新しい体制は出来ないと彼らは考えていまして、徳川が憎くてやったわけではないのです」
王政復古、維新の選択
政治状況が大転換を迎える中、岩倉たちが進める王政復古は、進みます…慶応3(1867)年10月14日、岩倉は薩摩藩主に向けた天皇の命令書を密かに大久保に渡しました。
幕府の失政の責任を問い、「賊臣慶喜を討て」という討幕の密勅です。…同様の密勅は長州藩にも渡されました。…ところが岩倉たちの思惑を覆す出来事が起きます。
慶応3(1867)年10月14日、同じ日、徳川慶喜が朝廷に政権を返上する大政奉還を行ったのです…実は、慶喜は大政奉還を行った後も政治の実権を握ろうと目論んでいました。
慶喜の側近が作った新体制の草案です。「天皇の下で諸大名が参加する政府を作る。…そこで徳川は、元首となり行政権を握る」(『新体制の草案』より)というものでした。
慶喜の思惑を阻止する為には、徳川抜きの新政府樹立を目指して朝廷にクーデターを起こすしかない…岩倉は、公家や諸藩の説得に動きます。
岩倉邸の書庫には、岩倉が賛同した公家とクーデターの手順を確認した手紙の写しが残されています…日付は決行の前日、12月8日・・。
東京大学大学院教授 三谷博さん
「この前日、4つの藩の協力をとりつけています。薩摩、土佐、尾張、越前の大名がクーデターの時は宮中の門を警護する…綿密に事を構え進めていたのです」
この頃、慶喜は天皇臨席の会議に呼ばれ、頻繁に御所を訪れていました…岩倉は、慶喜が退出した直後に御所を封鎖し、慶喜が入れないようにして新政府の樹立を宣言する計画を立てました。「万が一にもクーデターの邪魔はさせない」…徳川の排除に懸ける岩倉の執念でした。
慶応3年12月9日朝、慶喜の不在を確認した岩倉は、御所の回りを薩摩藩をはじめとする藩兵にとりかこまさせました。…午前10時、人影のない御所に正装した岩倉が入りました。
岩倉は、天皇の前で王政復古の断行を奏上します。…続いて岩倉は、倶箱に入った詔の文案を差し出しました。…その後、御所に朝廷の関係者と主な大名が集められました。
王政復古をして
国威挽回の礎とする
摂政た関白、徳川幕府は廃絶
新たな役職を作り、政治を行う
身分上下の別なく
公議をつくし
国に奉仕すること
岩倉の構想した天皇中心の新しい政権が王政復古の大号令によって実現したのです。
Q:なぜクーデターで新政権を作る必要があったのでしょうか?
東京大学大学院教授 三谷博さん
「天皇の下に公議体制を作るといっても徳川が中心にいますと旧体制をそのまま維持されてしまうのです。旧体制が残ると、続く廃藩や身分制度を無くすなどの大胆な改革ができなくなる」
「明治維新の重大な課題は西洋の侵略を防せいで日本を改革する事です…つまり挙国一致を達成する為にはどうしても徳川を排除する必要があったのです」
慶応4(1868)年1月、新政府軍は、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍を破り政権の基盤を固めます…江戸に敗走した慶喜は、やがて新政府軍に恭順、新政府は慶喜に寛大な処分を下しました。
明治元(1868)年3月、こうした中、明治天皇は王政復古の精神を広く知らしめる五カ条のご誓文を公布します。…公の議論を尊重した政治を行い国民が団結して国を繁栄させる事を掲げました。
こうした方針とともに新政府は、全国から有能な人材を集めます…徴士制度もその一つでした。…かつての敵味方に関わりなく、新政府の下では、等しく天皇の臣下とみなし、全国の諸藩から人材を登用しました。
新政府は、次々と改革を実行していきます…明治2年には、封建的な身分制度を撤廃し、四民平等を実現、…更に明治4(1871)年、廃藩置県を断行、江戸時代から続く藩を無くして中央集権体制を整えます。
王政復古の大号令から4年、日本は天皇の下で国民の力を結集させる近代国家へと変貌を遂げたのです。