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危機が生んだ挙国一致、桜田門外の変・幕府専制の限界

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NHK さかのぼり日本史
危機が生んだ挙国一致…桜田門外の変・幕府専制の限界

東京大学大学院教授 三谷博さん
桜田門外の変を期に、それまで出来なかった幕府の批判が可能になった…尊王攘夷運動だけでなく、有力大名による公議運動への要求が公然と湧きおこります…それほど桜田門外の変というのは大きな事件だったのです」

文化12(1815)年、井伊直弼は、徳川家に代々仕えた譜代大名彦根藩主の子(14男)として生まれました…しかし世継ぎの望みは薄く、17歳で城の向かいにある屋敷に移り住みます。…ここで直弼は、能楽、和歌に熱中し、政治とは関わりの無い人生を送っていました。

弘化3(1864)年、32歳の時、転機が訪れます…兄の急死によって藩主の跡継ぎに決まり江戸出仕を命じられたのです。…直弼は、溜詰という徳川一門や譜代大名からなる詰所に入り、幕府の政治に参加します。

安政3(1856)年、溜詰の筆頭となって幕政の中枢に関わり始めた直弼に難題が持ち上がります…ペリー来航後、開国政策を進めていた幕府は、この頃さらにアメリカとの通商条約に踏み切ろうとしていました。

ところが条約に反対する朝廷が通商条約の勅許を拒否したのです…幕府は、やむなく条約調印を延期せざるを得ませんでした。

この条約勅許問題は、当時幕府が抱えていた別の問題に飛び火しました…将軍の後継者問題です。…時の将軍・徳川家定は、病弱で子どもがいなかったため世継ぎを定めるのが急務でした。

その際、条約問題が停滞しているのも将軍の指導力が足りないからだとして次の将軍に能力のある人物を望む声が高まります。

そこで候補に挙がったのが一橋慶喜でした…慶喜は、水戸藩徳川斉昭の息子でその英明さに期待がかけられました。…慶喜を推薦したのが福井・薩摩・土佐・水戸藩などの有力藩の藩主たち…いわゆる一橋派です。

 

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この動きに猛反発したのが直弼、老中、会津藩など徳川家に近い大名です…直弼たちは次期将軍候補として紀州藩徳川慶福を推した事から南紀派と呼ばれました。

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安政5(1858)年4月、一橋派の動きに危機感を抱いた南紀派は、将軍家定に働きかけ、直弼を幕政の最高職・大老に就任させる事に成功します。

大老就任から1月あまり、直弼は反対意見を抑え込み徳川慶福を次期将軍として朝廷に奏上しました…この結果、将軍後継者は慶福に決まり、南紀派は一橋派との抗争にひとまず勝利しました。

東京大学大学院教授 三谷博さん
南紀派、一橋派、この2つのグループの基本的な考え方は、一橋派は英明な将軍が必要だという考えかた…対して南紀派は現将軍・家定に一番近い血筋を選びたいという考え方、また外部の外様大名には口を挟まれたくないという考え方があったのです」

「将軍の跡継ぎじこうは幕府の専権事項であり、外様大名グループの一橋派の要求は本来論外のはずなのになぜ対立意見が出てきたかと言うと、ぺりーが来て以来、外国船がどの海岸に押し寄せるかわからない状態がしょうじた…そこで幕府は諸藩に対して海岸防備に努力するよう命じました」

「そうすると砲台を築いたり、軍隊を再編成するなどでお金ががかります。でも自分たちは発言できない…これはおかしいのではないかという事になったのです」

やがて一橋派と南紀派の対立は、悲劇的な政治抗争へとつながっていきます。

安政5(1858)年6月、幕府はアメリカとの通商条約調印という差し迫った課題に直面します…朝廷の説得のために設けていた期限が残すところ一月余りに迫っていたのです。

アメリカ総領事ハリスは、ここで条約を調印しなければ日本はイギリスなどにもっと過酷な条約を強いられると迫りました。…「もはややむを得ない」井伊直弼は、天皇の勅許が無いまま条約調印に踏み切ります。

6月19日、日米修好通商条約調印、この条約で幕府は神奈川など5港を開港した上でアメリカとの通商を進め開国政策を加速させます…しかしこれが一橋派との新たな抗争の火種となるのです。

6月24日、徳川斉昭松平慶永ら一橋派の大名たちが江戸城に押しかけました…そのばで直弼に勅許なく条約を結んだ責任を追及し、大老の辞任を要求します。しかし直弼は、要求を刎ねつけた上で事前の断りも無しに登城してきた斉昭らを強く非難しました。

直弼の側近が記した『公用方秘録』には当時の直弼の心境が記されています…「今日の事態をよくよく考えてみると陰謀の輩の術中に陥れられて」、天皇の勅許が得られなかったのは一橋派の陰謀だとみなして彼らの要求を断固拒否する姿勢を貫こうとしたのです。

直弼は、一橋派の一掃を図ります…徳川斉昭は蟄居、一橋慶喜松平慶永は隠居に上謹慎という厳しい処分を将軍に代わって命じました。

更に直弼は朝廷や大名の家臣を含む敵対勢力の徹底した粛清を断行、世にいう安政の大獄です。…安政の大獄では、7人の死罪を含む100人以上の公家や武士が処罰されたのです。

これを機に幕府専制に対する批判が急速に広がって行きます。

東京大学大学院教授 三谷博さん
「この政変が原因で幕府は、深い対立に巻き込まれていきます。第一は朝廷と幕府、日本政界の二つが正面から対立します…もう一つは、幕府と有力大名との対立…さらにそれを見ていた志士たちが湧き起こってきて批判をし始めたのです」

安政7(1860)年3月3日午前、井伊直弼を乗せた籠は大雪の中を江戸城へ進んでしました…一行が桜田門の外に来た時、直訴状を持った武士が行列を止めます…そして…。

銃声をキッカケに抜刀した武士たちが籠に殺到、警護の者を切倒し、直弼の籠に迫ります…引きずり出された直弼は首を刎ねられます。

襲撃したのは尊王攘夷を掲げる水戸藩薩摩藩の浪士たち…彼らは直弼の罪状として外国と通商条約を結び安政の大獄を行った事を掲げました。…桜田門外の変で権威が失墜した幕府は、以後独断で政治を行う事が難しくなります。

文久元(1861)年10月…天皇の妹・和宮を将軍の妻に迎えて朝廷との融和を図る「公武合体」もその表れです。…しかし、これも幕府が朝廷を操るための政略結婚だと志士たちの避難を浴びます。

文久2(1862)年1月、江戸城、坂下門外で今度は老中が襲撃を受けます…政治の混乱と治安の悪化は、もはや止めようがありませんでした。

10月、事態を憂慮した天皇は、薩摩藩の建白を受け、幕府に勅使を派遣します…天皇は幕府に政治改革を促すとともに一橋派の大名たちの復権を求めました。

 

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この結果、一橋慶喜将軍後見職松平慶永大老と同格の政事総裁職に就任します。…松平慶永はこの時、今後の方針をこう述べています。…「朝廷を無視し、諸大名を軽んじてきた幕府から私心を除き公に尽くさせる」。

桜田門外の変は、志士たちの尊王攘夷運動に火をつけ、彼らは京都に向かった…大名たちも同じです…権威が江戸から京都に移った…まさに桜田門の変で時代の歯車が大きく動き出したのです。