NHK歴史秘話ヒストリア 人はみな救われるべきもの~法然と親鸞 探究の道~
episode1 わずか6文字でなぜ? 法然 ”救い” の大変革
今年は日本の仏教の歴史を大きく変えた二人の僧侶、法然の800回忌と親鸞の750回忌に当たります。
法然 浄土宗
親鸞 浄土真宗
どちらも浄土という言葉がありますが法然が師で親鸞はその弟子…現在、両方合わせて1900万人の信者がいるほどの宗派の基を作った子弟です。
でもこの50年と言う差はチョット離れていると思いませんか…実はこの子弟の年齢差は40歳、親鸞が直接、法然の基にいたのは6年だったのです。
年齢が離れ僅かな時間しか重ならなかった二人、そんな二人が2代にわたって日本人の考えを大きく変えたのです。
貴族の世から武士の世へ…激動の中、法然と親鸞が日本にもたらした大きな変革、それは庶民が見はなされていた時代…その一人一人に光を当てる事でした。
念仏、それは『心に仏を思い浮かべその名をとなえること』一般的には、南無阿弥陀仏ととなえることをさします。…法然は、この6文字の念仏で時代を大きく変えたのです。
久安3(1147)年 法然15歳 比叡山延暦寺に入り僧侶として修行を始めます。上記写真は、国宝『法然上人絵伝』法然の生涯を235の場面に描いた584mにも及ぶ絵巻です。
そこに法然の原点とも言える場面が描かれています。…9歳の時、父親が武士たちに襲撃され殺害、父も彼らと争う武士でした。
父はこう言い残します「お前は殺し合い恨み合うことを永遠に繰り返す武士の宿業から逃れ僧侶となれ」・・武士に生まれたが故、救われなかった父・・父の無念を抱き法然は、延暦寺で懸命に学問に取り組みます。
並はずれた記憶力と理解力で模索するのは、『人はどうすれば救われるのか?』です。
時は、末法の世・・仏の教えが及ばないとされる不安の時代、武士の台頭とともに戦が増え社会は大きく揺らいでいました。・・日照りや台風などの天変地異の影響で多くの人々が命を落とします。
さらに庶民を怯えさせたのは恐ろしい世界、『たとえ、今の世を離れても別の世界で苦しみ続けるのが宿命だ』と考えられていたのです。
当時の世界観 六道
・人間道:人間が住む世界
・天道 :喜びも多いが苦しみもつきまとう世界
・修羅道:戦乱にあけくれる怒りと憎しみの世界
・畜生道:自分に意思が働かず動物として生きる世界
・餓鬼道:飢えと渇きに苦しみ続ける世界
・地獄銅:犯した罪を苦しみで償い続ける世界
人は、程度は違えど苦しみの世界をグルグル回ると考えられていました。
ここから抜け出る道は、阿弥陀仏が作った仏の世界…極楽浄土に行き仏となる…つまり ”解脱” するという方法です。
解脱するには、僧侶なら厳しい修行や学問を…貴族ならお寺や仏像を沢山寄進する事とされたが日々の暮らしに追われる庶民には、阿弥陀仏の名前を唱える念仏しか出来なかったのです。…しかし念仏だけでは価値が低く解脱には至らないと考えられていたのです。
法然は、庶民を救いたいと解脱の方法を探るもいくら修行しても自分自身も解脱に至らない…それなのに庶民を解脱に導ける方法があるのかと絶望する日々を送るのです。
出家から28年、法然43歳『なんとか庶民を助けたい』考え続けた法然は、ついに運命的な考え方に辿りつきます。
中国 唐代の高僧、善導『観無量寿経琉』の一文です。
『一心にもっぱら阿弥陀仏の名号を念じよ…歩いていても座っていても横になっていても構わない…時間や場所に関係なく念仏をやめない事…これは阿弥陀仏自身が選んだ必ず極楽浄土に行くことができる行いなのである』
南無阿弥陀仏…南無とは『すべてをゆだねる』…阿弥陀仏にお任せしますととなえる事が阿弥陀仏自身が選んだ極楽浄土に行ける行いだと言うのです。
そもそも阿弥陀仏が極楽浄土を造ったのは、全ての人々を救うためだと言われています…”すべての人々を救いたい” これが阿弥陀仏のもともとの願い、本願であるならば、その阿弥陀仏にすべてお任せする事こそ最もかなったやり方だ…と言う事です。
法然の悩みが晴れわたります…。
『人は皆、仏の前では至らぬ存在「凡夫」にすぎない…ならば修行や寄進など自らの力で解脱を目指すよりも「阿弥陀仏にお任せする」ととなえる事こそ本来の救われる道だ』
念仏をとなえさえすれば誰でも極楽浄土へ行けるという『専修念仏』…これまでにない画期的な思想でした。
佛教大学 中井真孝 教授
「念仏は価値の低い行為だと考えられていた。…それを逆転して念仏こそ最も価値のある行為だとした当時の仏教界の常識を覆し声を出してとなえる念仏の価値観を180度変えたと言えるでしょう」
安元元(1175)年 法然は、比叡山を下りて京の都で民衆に布教を始めたのです。…その教えは不安の中で生きる庶民の心をとらえ法然に従う人が増えてゆきます。
「たとえこの世での身分は違っても阿弥陀仏の前では、僧侶も貴族も武士も庶民もいたらない存在として等しく救われるものなのです」…これは庶民がかえりみられなかった人間観にまで影響を及ぼすものだったのです。
宗教評論家 ひろさちや さん
「お金が無い貧乏人でも ”あらゆる人” が法然の教えの基調 ”平等” という概念です」
人間と言う存在をどうとらえるのか法然の思想は日本人の考え方に新たな光を当てるものだったのです。
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episode2 法然・親鸞 苦難を越えて…
法然が都で専修念仏の教えを説き始めてから10年、その教えは様々な人に認められてゆきます。…他宗派の高僧や朝廷の権力者たちまで法然の教えに共感、弟子も増え法然の教団は都でその名を上げてゆきます。
建仁元(1201)年 親鸞(29歳)が比叡山延暦寺で修行の後、法然の下に入門します。…親鸞には越えられない苦悩がありました…それは仏の道を進む際、邪魔となる ”煩悩” をめぐる心の葛藤…貪り・怒り・奢り・疑い・迷い…人が抱く煩悩をどうしても消し去る事が出来ないと言うのです。
親鸞は、比叡山を下り都の一画にある法然の庵を訪れましす。…法然の教えは衝撃的なものでした「阿弥陀仏は、煩悩を断てない愚かな人間にこそ手をさしのべようとなさっている」と説いたのです。
「煩悩を消し去れないからといって仏の道から外れるものではない」というのです。…鸞は法然に心酔し後にこう語っています。…「法然上人にだまされ念仏して地獄に落ちたとしても決して後悔することはないであろう」
しかし教団が急激に拡大する中、問題が起き始めます。…罪を犯した者でも念仏で救われるという法然の教えを捻じ曲げ 「念仏をとなえれば罪を犯してもいいのだ」 という誤った教えを流布する弟子が現れたのです。
更に念仏だけという考えが修行などに重きをおく他宗派の否定と受け取られます。…比叡山延暦寺や奈良興福寺など権威のある仏教勢力は異をとなえ念仏をやめさせるべきだと朝廷に迫ったのです。
『七箇条制戒』これに危機を感じた法然は弟子を集め7つの戒めを言い聞かせたのです。…戒めには弟子たち190人が署名をしました。…入門4年目、親鸞の名も87番目に見られます。
他の宗派との軋轢を懸命に避けようとする法然、しかし思いもよらない事件が起こります。
承元元(1207)年2月9日 法然の弟子2人が処刑、日本の歴史上、僧侶が死罪になるのは初めての事です。…命じたのは後鳥羽上皇、都の最高権力者です。
当時二人の僧は、美しい声でお経に拍子や節を付けてうたう法要を行い都の女性の間で評判となっていました。…これに上皇つきの女官が上皇が都を留守にしている間に参加し出家してしまったのです。
これを知った上皇は激怒、女官と僧の間にふらちなことがあったのではと疑い断罪したと言われています。…20日後、教団をまとめる法然にも処罰が下ります。
法然は僧籍を取り上げられ都から遠く四国・土佐に流罪…死罪は4人、他7人が各地に流罪となったのです。…親鸞も僧侶の身分を奪われ越後に流されました。法然の下にいたのはわずか7年、親鸞は心から慕っていた師から引き離されたのです。
建暦2(1212)年 流罪の翌年、法然は罪を解かれやがて都に戻りました。…その2カ月後、体調を崩して入滅 享年80…専修念仏の教えはその後も法然の教えを継いだ弟子たちによって受け継がれてゆきます。
しかしその中に親鸞の姿はありませんでした。…越後の国、現在の新潟県居多ヶ浜…ここに流された親鸞は罪が許された後も法然がいない京都に戻ろうとしませんでした。
自分はこれからどう生きるのか悩んだ親鸞は、従来の僧侶とは異なる道を歩み始めます。…『非僧非俗』信仰において僧侶の身分や形式には意味が無い…庶民の暮らしの中に仏を求め続ける道です。
宗教学者 山折哲雄さん
「世俗の生活を送りながらそこから自立する…しかし厳しい戒律を守る出家僧の生活でもない…聖なるものを目指しながら俗の世界に生き抜く、そういう在り方を親鸞は生み出したのだと思います」
親鸞は、戒律で禁じられた妻をめとり、子供をももうけた。…法然の教えを受け継ぎながらも独自の道を切り開こうとしていたのです。
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親鸞の境地 苦悩の旅路の先に…
法然と親鸞が生きたのは、貴族の世、平安時代から武士の世、鎌倉時代にかわる激動の次期…社会の大きな変化の中、様々な僧侶が新しい宗派を生みだしました。
●一遍「時宗」:法然や親鸞と同じ浄土教の一派として登場し民衆に ”踊り念仏” を勧めた。
●日蓮「日蓮宗」:法華経を正しい教えとし、南妙法蓮華経という題目をとなえる事で救われるという教え。
●栄西「臨済宗」、道元「曹洞宗」:坐禅によって釈迦の境地に近づこうとする禅宗は武士などに広まりました。
鎌倉新仏教
念仏:浄土宗、浄土真宗、時宗
題目:日蓮宗
坐禅:臨済宗、曹洞宗
これらは、念仏や題目、坐禅といった一つの道に重きをおく事が特徴…こうした点が武士や庶民にも受け入れやすいと言う事で広まっていったのです。
鎌倉新仏教の登場は、平安から鎌倉へと時代が変わり武士や庶民が文化の担い手に加わってゆくまさに象徴のような出来事だったのです。
京の都に戻らず庶民の中に分け入り、誰もが皆、救われる教えを広めてゆく親鸞…従う人は次第に増えてゆきます。
しかし60歳を過ぎた頃、突然弟子達をおいて都へ戻ってしまいます。…後に残した一言があります『阿弥陀仏の誓いは親鸞ただ一人を救うためであった』一見全てを覆すような言葉には、苦悩の旅路の先に辿りついた境地が隠されていたのです。
episode3 親鸞の境地
苦悩の旅路の先に…
親鸞40歳前半、越後で暮らして4年、罪を許された親鸞は家族とともに関東へ旅立ちます。…当時関東は、新しい時代を動かす鎌倉幕府の武士たちが所領を持つ地域、広大な土地で多くの農民、漁民、商人が日々の暮らしを営んでいました。
親鸞は、都とは異なる世界で人々に専修念仏を伝えようとしたのです。…茨城県笠間市(現在は浄土真宗別格本山西念寺)親鸞はこの地に草庵を結び関東での活動拠点としました。
布教の範囲は、草庵から半径40キロ、千葉県や栃木県まで及んだと言われます。…しかしそれぞれの地域にはすでに根付いた宗派がありました。
その為、人々は、念仏だけで救われると言うなじみの無い教えを受入れようとはしません…いったいどうすれば良いのか…茨城県水戸市のお寺(真仏寺)には親鸞の工夫が伺えるものが残されています。
『お田植え歌』専修念仏の教えを農作業にたとえ歌にしたものです。
「阿弥陀様の思いを込めた苗代に ”おすがりします” の種を植えたゆまぬ念仏と言う水を流し極楽往生の秋を迎えればこの実をとることのうれしさよ…南無阿弥陀仏」
親鸞は自ら田畑に入り、この歌を歌いながら念仏の教えをといていったと言います。…自然とともにあるがままに生きる人々と接する親鸞、やがて独自の考えに辿りつきます。
布教のかたわら親鸞が自らの思想を記した『教行信証』の一節です。…「阿弥陀仏が全ての人を救ってくださると言う誓いを聞き、それを信じるまさにその時、極楽往生が確定する」
念仏をとなえるだけで救われると言う『専修念仏』…親鸞はそこから「必ずしも念仏をとなえなくともよい阿弥陀仏に全てをゆだねるのならそれを信じるだけでよい」 としたのです。
宗教評論家 ひろさちや さん
「法然上人は念仏をとなえる事が大事だと言った…親鸞上人は念仏もとなえなくていい阿弥陀仏への信心がもとだと変えたのです」
人は阿弥陀仏を信じた瞬間にすでに救われている…その救われた人生を日々の苦しみや悩みを受入れた上でどう生きるのか…親鸞の教えに従う人々は確実に増えてゆきました。
親鸞60代 関東に来て20年、親鸞は京都へ旅立ちます。経典の豊富な都で自らの思想を更に深めようとしたと言われています。
しかし親鸞不在の関東では、弟子や息子が教えを誤って解釈したり勢力争いをして混乱に陥ります。…弟子ばかりか息子までが自分の教えを正しく行う事が出来ない…親鸞は悲しみ苦悩を深めます。…親鸞は、彼らを手紙などで諭し導こうとしながらも関東に戻る事はありませんでした。
宗教学者 山折哲雄さん
「道を指し示そうとするんですが全ての人が細道を通ることは出来ない…そういうことから『宗教者のありかたとはいったい何か』という反省を深めてゆきます。…『問題を深めるのは一人一人だ』と弟子たち問題解決する側に投げかけたのです」
親鸞は晩年、自らの思想を体系として残す為、多くの著作をしたためその思想を深めてゆきました。…それは90歳で入滅するまで続くのです。
弟子の一人が伝える親鸞晩年の言葉です。
「阿弥陀仏の本願をよくよく考えてみると、それはひとえに親鸞ただ一人を救うためであった」
阿弥陀仏の救いは、人間一人一人と相対している…その一人一人は苦難の人生をどう生きるのか親鸞は問い続けています。
京都、法然800回忌(浄土宗 総本山知恩院)、親鸞750回忌(浄土真宗 本願寺派 西本願寺)、それぞれゆかりの寺では大規模な法要が行われています。…90万人が京都に集まり、二人の遺徳を偲ぶと言われています。
苦しみと不安から,
全ての人が救われるにはどうすれが良いのか法然、親鸞から長い年月を経た今もなお変わる事の無い人々の思いです。