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天皇に忠義をつらぬいた男 楠木正成

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THEナンバー2 ~歴史を動かした陰の主役たち~

時は鎌倉時代、幕府の権威は急速に失墜していた…原因は2度に渡る蒙古軍の襲来、元寇である。幕府は蒙古の侵攻を何とか防いだが、それ以来財政難に陥り政治機能を失っていた。

そんな中、これを打ち倒そうとする2人の男が登場する…革命の首謀者は、南北朝時代南朝を樹立した後醍醐天皇。…そして天皇を支えたナンバー2は、大阪河内で悪党と呼ばれていた楠木正成

天皇と悪党と呼ばれた男・楠木正成、天と地ほど身分が違う二人が目指した改革、それこそ大化の改新明治維新と並ぶ3大改革の一つ建武の新政(1333)である。

武家政権である幕府を倒し、天皇が政治を行う天皇親政を復活させる一大改革だった。

激動の中、私欲を捨て天皇に最後まで尽くした正成、その忠誠心から後に大楠公と呼ばれ、明治維新の志士たちに仰がれた。…正成が革命で夢見たものとは何だったのか、波乱の中世を駆け抜けた忠臣に迫る。

 

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天皇に忠義をつらぬいた男 楠木正成

正成が呼ばれた悪党という言葉ですがこれは権力側からの言葉で実際には、南北朝時代荘園領主や幕府に反抗した荘民や新興商人、有力農民、地侍などをいいます。

民衆の為に権力者の搾取行為を阻もうとか、時には年貢で納める物を強奪するような事をしたので幕府から見れば悪党となったのです。…ですから犯罪者という意味は全くないのです。

正成に言わせれば「何にもしないで年貢を取り立てる幕府や公家こそが泥棒だ」ということなのいでしょう。…農民たちから正成は慕われる存在だったのです。

正成の出生地、河内の国(大阪府南河内郡千早赤阪村)…正成は8歳から7年間、天皇家と結び付きが強い観心寺天皇を崇拝する思想を身に付けたのです。

当時幕府の実権を握っていたのは鎌倉幕府 第14代執権 北条高時、しかしその権力は陰りを見せ各地で悪党による略奪行為が横行していた。

そんな中、異例の天皇が現れる…第96代後醍醐天皇、幕府を倒し自ら政治の実権を握る、野心家の後醍醐天皇は幕府が決めた皇位継承に関する制度に不満を持っていた。

第88代後嵯峨天皇の死後、後継ぎ問題によって朝廷は分裂、大覚寺統南朝)と持明院統北朝)…この対立に幕府が仲裁に入り、両統が十年ごとに皇位を継承することに取り決めた。

”10年では短すぎる”反発した後醍醐天皇は倒幕に突き進む…だが兵を持たない天皇武家政権である幕府と戦うには武士ではない新たな兵力が必要だった。

そこで目を付けたのが悪党だったのです。幕府に反抗する悪党を味方にすれば大衆を味方に出来る…天皇と民とが直接結びつく政治の第一歩となると考えたのです。…そこで白羽の矢がたったのが京都に近い河内一帯で悪党を束ねていた正成だった。


幕府との戦闘開始
楠木正成の奇想天外な戦術とは

元弘元(1331)年9月、正成は倒幕の兵を挙げた…兵力を分散させるため後醍醐天皇のいる笠置山とは別に地元河内に城を築いた。(上赤坂城)

集めた兵は僅か500人、対して幕府側は大軍を繰り出した。太平記には幕府軍80万人と記されているがかなりオーバーな数字だろう。

幕府最強の武将・足利尊氏新田義貞も出陣…押し寄せた大軍は笠置山後醍醐天皇を包囲した。天皇は脱出を試みるが失敗、幕府軍に捕らえられ隠岐島に流されてしまう。

残るは河内の正成、数万の大軍が正成の城を取り囲んだ…山の上に築いた貧弱な城、それを見た幕府軍は1日で落とせると果敢に攻めのぼった。

これに正成が応戦、頭上から降ってくる石と丸太の雨、正成の奇襲に幕府軍は大混乱になる…さらに正成は金剛山に山城をいくつも築き幕府軍相手にゲリラ戦を展開、なかでも奇想天外の戦術を繰り出したのが千早城の戦いだ。

藁人形で幕府軍をおびき出して不意を突き殲滅させたり、水鉄砲で油を拭きかけ松明を投げ込む火攻めなどだ伝えられている。

当時の武士たちの戦いは一対一が名誉、だが勝つために智略をしぼる正成のゲリラ戦に幕府軍は苦戦、次第に兵を削られていった。…正成の活躍はたちまち天下に広まり、もたつく幕府軍を見て各地で反幕府勢力が動き出す。

元弘3(1333)年2月、後醍醐天皇を名和一族が隠岐島より救出…そして後醍醐天皇は全国の武士や悪党に倒幕の決起を煽る綸旨を大量に書き送った。

正成の活躍と天皇の綸旨、この二つがある男を動かした。…幕府最強の武将・足利尊氏だ…正成を攻めていた尊氏は2万5000の兵を京に向ける。幕府の出張所・六波羅探題を攻め落とし、京を制圧した。

更に上野国群馬県新田義貞天皇側に寝返り、鎌倉の幕府を直接攻撃、元弘3(1333)年5月22日、北条高時自害、…ここに150年間続いた鎌倉幕府は滅亡したのです。

 

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倒幕を果たした後醍醐天皇は新政権を樹立するために京に凱旋、その時、天皇の護衛という最高の栄誉を与えられたのが楠木正成だったのです。

1333年6月新政権を樹立、元号建武と改め親政をスタート…これが建武の新政です。


建武の新政
問題点が露呈する

後醍醐天皇による建武の新政は開始早々様々な問題を抱える。
1.恩賞(土地、身分)の配分などに慣れていないう公家たちが行ったものだから武士たちの不満が高まった。
2.正成などを取り立てたかったが後醍醐天皇が直接人事を行うわけでないので実力のある忠臣を重要ポストに配置できなかった。
3・源氏の血をひく武将・足利尊氏の所に不満を持つ武士たちが集まるようになってしまった。…親政への不満が高まる中、足利尊氏が反旗を翻します。


足利尊氏VS.後醍醐天皇

建武2(1335)年12月、後醍醐天皇新田義貞に尊氏討伐を命じ両軍激突、勝利を収めた尊氏は京に攻めのぼった。

後醍醐天皇は東北の公家、北畠顕家に尊氏を追撃させ京の正成にも出陣を命じた…正成・北畠軍は京で尊氏軍と激突しなんとか勝利し、敗れた尊氏軍は九州に落ちのびた。

しかし時代は、すでに武士の時代になっていたのです…鎌倉幕府を滅ぼす決め手となったのは足利尊氏鎌倉幕府を見限り、天皇側についたからです。

当然、武士たちは恩賞、役職、地位を要求する…天皇中心の政治ではなかったのです。

後醍醐天皇の親政を心から理解して忠誠を誓ったのは、悪党として武家政権鎌倉幕府に敵対した正成しかいなかったのです。

そしてやがて九州で体勢を立て直した尊氏は京を目指します。

延元元(1336)年4月、尊氏は九州で兵を上げ海路京に攻めのぼった。大義名分が欲しかった尊氏は後醍醐天皇と対立する光厳上皇から”敵将・新田義貞を討て”という院宣得ていた。

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これで官軍、賊軍という立場は無くなり、南朝北朝の戦いとなる。尊氏は進むにつれ、膨れ上がる西国武士を引き連れて正成と決戦しますが正成に勝ち目はありません。

後醍醐天皇の命で新田義貞とともに出陣したのです。大阪府箕面市桜井、次の決戦で死を覚悟していた正成は、この桜井で息子・正行に…「お前まで巻き添えになってはならない。楠木一族として生き残り、最後まで天皇を守り抜け」正成は息子を母の元へ帰した。これが今も語り継がれる桜井の別れである。

延元元(1336)年5月25日、正成は兵庫県湊川の丘に陣を置いた…正成軍、僅か700、眼下に見る数万の尊氏軍に突入した。6時間に及ぶ死闘、追い詰められた正成は28人の部下とともに民家に入り、弟・正季と刺違えます…楠木正成 享年43…。

戦いに勝利した足利尊氏は暦応元(1338)年征夷大将軍に任命され、ここに室町幕府が誕生する。

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一方、敗れた後醍醐天皇奈良県の吉野に逃れ、南朝を開いた…これより日本は皇室が真っ二つに分断される波乱の南北朝時代を経て国中で覇権を争う激動の戦国時代に突入して行くのです。