NHK その時歴史が動いた
兵法の道は人の道
~宮本武蔵『五輪書』完成への苦闘~
剣豪・宮本武蔵…生涯に60回以上、剣術の勝負をし一度も負けることがなかったと言われる剣の達人です。…その武蔵が晩年に記した『五輪書』、その中には長い苦難の末に武蔵がたどり着いた剣法の極意が秘められています。
「些細なことから大局を判断せよ」
「水を手本とし心を水のようにせよ」
五輪書は単なる剣術の解説書ではなく、人生の生きる知恵を教える哲学書としてのみならず海外でも多くの人に読み継がれています。
武蔵はいったいどのようにして人生の極意を会得するにいたったのか…実は武蔵は五輪書を書く前にもう一つ別の秘伝書を書いています。
『兵法三十五箇条』、五輪書の原型になったといわれる謎の書物です。…武蔵はなぜこの書物を書き直さなければならなかったのか…。
戦国の世に生まれ数々の合戦に出陣、しかし手柄を上げても認められず、また剣豪として無敵を誇りながらも職を求めて流浪せざるを得なかった武蔵、息子には同じ苦労を味あわせたくない…そう考えた武蔵は自分の息子にまったく別の道を歩ませます。
やがて迎えた最期の出陣のとき武蔵が吉原の遊女と契りをかわしたという逸話は果たして真実かどうか…齢50を過ぎた武蔵を戦場で待ち受けていたのは思いもよらない挫折と屈辱でした。
武蔵は一人洞窟に籠もります…自分にあるのはただ剣の道一筋、その道とともに我は死す…そう誓った武蔵は病に犯されながらも筆を取り続けます。
その時歴史が動いた…今回は、武士道の礎ともなった宮本武蔵の五輪書、その完成に至るまでのドラマを解説します。
下記は武蔵の一生と当事起きた大きな出来事を記した年表です。
1582年 本能寺の変(武蔵誕生)
1600年 関ヶ原の戦い
1612年 巌流島の決闘
1615年 大阪夏の陣
1637年 島原の乱
吉川英治が描いた宮本武蔵の小説は巌流島の戦いで終わっていてその後の武蔵は書かれていない…その後の武蔵は、巌流島以後、決闘らしい決闘はしませんでした。…何をしていたかというと大名系の仕官の道を探していたのです。
武蔵と小次郎の名勝負の場と知られる巌流島、両雄の決闘の地を見下ろす山の上に武蔵の生涯を記した石碑が残っています。
「武蔵の剣は百発百中、対戦相手は逃避することあたわず」…武蔵の人生、それは天に生き天に死んだ生涯でした。
武蔵の初陣は17歳の時の関ヶ原の合戦、武蔵は敗れた西軍に属していたといわれ、手柄を立てたものの立身出世はなりませんでした。
合戦が駄目なら決闘によって名を上げるしかない…以後、武蔵は名だたる剣豪たちと死闘を繰り返す道を歩みます。
慶長17(1612)年 29歳の時、武蔵は巌流島で佐々木小次郎と対決、小次郎は当事、細川藩の剣術指南役を努めておりました…秘術を尽くした試合は武蔵の勝利に終わり、武蔵は名実ともに天下一の剣豪と称されるようになりました。
ところが細川藩は武蔵を剣術指南役に迎えようとはしませんでした…関ヶ原の合戦で敗れた西軍に属していた武蔵はその前歴を問われたのです。
剣豪たちとの決闘により名を上げても仕官が叶わない、自分はどうすれば世に出ることが出来るのか暗澹たる気持ちでいた武蔵に思わぬ報せが届きます。
剣豪の世の終焉
慶長19(1614)年…徳川家康が大軍を率いて大阪城の豊臣秀頼を攻めるというのです…大阪の陣の始まりです…巌流島の決闘から2年後の事でした。
今度こそ合戦で手柄を立てねばならない…そう考えた武蔵の胸の内を知る史料が残されています…福山藩の記録、『大阪御陣御人数附覚』ここには武蔵が徳川方として出陣したと記録されています。
敗者の側についてしまった関ヶ原の教訓を活かし、今度こそは勝側について功績を認めてもらおうと武蔵にはそんな思惑があったと考えられます。…武蔵は奮戦します。
江戸時代中期の武蔵の伝記『二天記』には武蔵の戦いが次のように記されています…「慶長19年、大阪の陣、武蔵軍功証拠あり」
合戦は徳川方の勝利に終わり豊臣家は滅びました…勝った側についた武蔵は今度こそ手柄を認められ、しかるべき地位に取り立てられるに違いないと信じていたはずです。
ところが武蔵の願いはまたもや裏切られます…武蔵には目立った褒賞は何もなかったのです…豊臣家を滅ぼし、天下を完全に我がものとした家康は元号を元和と改め『元和偃武』という理念を唱えます。
元和(げんな)=平和の始まり
偃武(えんぶ)=武器を置くこと
これからは戦争の時代ではなく平和な時代であると家康は宣言したのです。
この家康の方針は武蔵のような剣豪たちにとっては大打撃でした…戦場こそが活躍の場であったはずなのにその機会を失うことになったのです。
武蔵旅にでる
仕官を求めて…
かくなる上は自ら大名家に赴き仕官の口を求めるしかない…そう決意した武蔵は各地の大名を訪ねる旅に出ます。…五輪書の完成の30年ほど前の事です。
各地の大名家を回っては御前試合を繰り返し、召抱えられる事を望む武蔵、しかし思うような士官の口はなかなかありませんでした。
世の中が平和になって働き場所を失った武士が巷に溢れ、空前の就職難が生じていたことに加えて武蔵の態度もその仕官を困難にしていた一因でした。
江戸時代中頃に書かれた武蔵の伝記、『兵法大祖武州玄信公伝来』(丹治峰均筆記)…この中に就職を行う武蔵の態度を記す記述があります。
第3代将軍・徳川家光の頃、武蔵の噂が将軍家に届き武蔵は江戸に招かれました…将軍家お抱えとなれば願ってもない仕官のはず…ところが武蔵はこの誘いを断ってしまいます。…当事、将軍家の剣術指南役の座には、柳生新陰流2代目の柳生宗矩が座っていました…武蔵が将軍家に仕えるとすれば柳生宗矩の下につく事になります。
「柳生の下になるくらいなら仕官をごめんこうむりたてまつる」…自分は佐々木小次郎をはじめ並み居る剣豪と60回以上戦って一度も負けた事のない剣士、その自分がたとえ柳生殿であろうと他の剣士の下につくことなどできぬ…剣豪としての武蔵の誇りは仕官の邪魔をする事にもなっていたのです。
仕官にあたって武蔵は3千石の禄を要求していたという説もあります…3000石といえば幕府の重臣並です。…戦争のない時代にそんな高額で剣士を雇う大名はいませんでした。
時代はあきらかに変わっていた…にもかかわらず武蔵は自分の流儀を変えようとしません…丹治峰均筆記には次のような一節があります。
「武州(武蔵)は異相なる者にて若き人の師匠にはなりがたし」(『丹治峰均筆記』)…武蔵の異様な外見が恐れられ、それが武蔵の仕官を難しくしたと言うのです。
武士の役割が戦場を駆け回る兵士から城に勤める役人に代わろうとしつつあった時代、…武士といえば髷を結い威厳をただすのが当たり前の風潮にもかかわらず武蔵は身なりに気を使おうとしませんでした。
武士とはたとえ平和な時代でも戦場にいる気概を失わぬもの…武蔵はそう思っていたのです。…旅から旅へ仕官の口を求め旅歩く日々、いつしか10年あまりの歳月が過ぎ去ろうとしていました。
養子・伊織に託した夢
40の坂を越えた頃、武蔵は養子を取りました…生涯妻を娶ることのなかった武蔵ですが家の名だけは後世に残さなければならないと思ったのかもしれません。…伊織と名付けたこの養子に武蔵は自分とは別の道を歩ませようとします。
かつて父・無仁斎から受けた剣士への道、それは結局自分が出世するには役立たなかった…ならば我が養子には新しい世にふさわしい学問を身につけさせよう…自分の生き方は変えられないものの武蔵は時代が変わってしまったことをはっきりと自覚していたのです。
伊織は武蔵の期待に見事にこたえました…15歳で武蔵の手を離れ、大名・小笠原家に仕官します…その後、順調に出世を続け、19歳で藩の重役である執政にまで出世しました。
伊織が武蔵の元を離れてから11年後の寛永14(1637)年 武蔵54歳、伊織が執政となっている小倉藩小笠原家から思いがけない報せが届きました。…島原で幕府に対する反乱が起きている、乱を鎮圧するために兵を出すので武蔵にも参陣してほしいというのです。
武蔵は驚いたに違いありません…豊臣家が滅んでから22年、家康の宣言どおり平和な時代が続き再び戦乱はないと思っていたのに今一度出陣の機会が訪れようとは…武蔵は島原に向かい伊織とともに戦列に加わります。
反乱の拠点、原城への総攻撃は間近にせまっていました…五輪書の完成、その8年前のことでした。
寛永14(1637)年、島原の乱は領主の暴政やキリシタン弾圧に耐えかねた九州・島原地方の農民や地侍、2万8000人が蜂起した大規模な反乱でした。…養子・伊織とともに幕府の鎮圧軍に加わった武蔵ですが二天記には、武蔵はこの時、後方で指揮を取っていたと記されています。
しかし武蔵ははやる気持ちを抑えかねて前線に飛び出してしまったようです…武蔵の書簡には「石に当たりて脛たちかえりもうす」とあります。…反乱軍が石垣から落とす石が足に当たり動けなくなったと記しています。
最期の戦場で思わぬ不覚を取るとは、武蔵の胸中は無念さでいっぱいだったに違いありません。…そんな武蔵とは裏腹に息子・伊織は抜群の功績を上げ、小笠原家の家老にまで取り立てられることになりました。
自分が兵法を極めるために生きて来た50年間はなんだったのか失意の底に沈んでいた武蔵に思いがけない誘いがかけられました。
ようやく掴んだ仕官への道
九州熊本の細川藩が武蔵を召抱えたいと申し出てきたのです…武蔵はその誘いに応じ、「細川藩の家臣になること承知つかまつった」と返事します。
そうしてそこに次のような条件を付け加えました…「自分はもはや老人でともに暮らす家族もいない孤独ゆえ高い給金は必要ありません…ただ戦いの時には武具一式と乗りかえられる馬を一頭だけはご用意ください」
かつては将軍家の誘いを断り、3000石の禄を要求した武蔵、…その武蔵が初老の身でついに就職が叶った時、望んだのは多額の給金ではなく武具と馬でした。…武蔵は老いて直、戦場に馳せ参じる気概を失っていなかったのです。
細川藩で武蔵を待っていた仕事は主君・忠利の剣術を指南したり、政治談義の相手を務めることでした。…初めて過ごす平穏な日々のうちに武蔵は書画に打ち込むようになります。
自分にとっては未知の世界、そこに当たる気持ちを武蔵は次のように記しています…「自分は兵法の道理にしたがってそれを諸芸の手本とそているから万事にわたって師匠はいらない」
そんなある日、主君・忠利から武蔵が会得した剣の極意を書物にまとめてくれまいかと頼まれます。…主君の命を受け武蔵は早速執筆を開始します。
やがて出来上がった剣術の指南書それが『兵法三十五箇条』です。…そこには剣を扱うものが心得る所作や心構えが35の項目にわたって具体的に記されています。
寛永18(1641)年、武蔵が兵法三十五箇条を完成させた翌月、主君・細川忠利が急死してしまいます…せっかく書いた兵法三十五箇条はささげた相手を失ってしまう結果となりました。
武蔵、『五輪書』執筆へ
忠利の死の後、武蔵は人々との交際を絶って熊本の郊外にある霊厳洞という洞窟に籠もりました…五輪書の完成まで1年7ヶ月前のことでした。
熊本の郊外・金峰山にある霊厳洞、その奥にこもった武蔵はひたすら思索の日を送ります…その脳裏に去来したのは自ら歩んだ半生でした…力が全ての時代に生まれ、自身もまた強いことが価値のあることと信じて剣の腕を磨き、剣豪と勝負を重ねてきた。
吉岡一門、槍の宝蔵院、鎖鎌の宍戸、そして佐々木小次郎、戦った相手は数知れない…合戦に馳せ参じた日々、そして職を求めての屈辱の数々、…晩年に至ってようやく亡き主君・忠利に遇せられ頼まれて剣の極意をまとめてもみた…だがなぜかむなしい…。
自分にとって剣とは何か…ただ太刀を振るい相手を倒すだけの技術の集成に過ぎないのか…違う、自分が極めた剣の道は全てに通じる道のはず。
ならばそれを書き残しておきたい…自分が極めた道を剣の使い手だけでなく、多くの人々にとっても役立つ形で伝えたい…この時、武蔵の胸には兵法三十五箇条に変わる新たな書物を執筆する構想が芽生えていたのです。
それは兵法三十五箇条を元にしながらも単なる技術書ではなく、深い知恵を秘めた人生の指南書ともなる書物でした。…暗い洞窟の中で思索を重ねながら武蔵は筆をとりました。
寛永20(1643)年、主君・忠利亡きいま、この書物を読んでくれる人がいるとも限りません…それでも武蔵は書こうとしました。
この書は誰に頼まれたものでもない…それでも自分は書く、…自分と同じく勝負に迷い尚且つ勝たねばならぬそういう人々の為に全ての人々の為に…そしてまだ見ぬ未来の人々の為に…。
2年近く蝋燭の明かりを頼りに武蔵は書き進めました…精魂傾けた仕事と不摂生は老いた武蔵の身体を弱めます。
正保2(1645)年4月、衰弱しきった武蔵は、洞窟で死ぬことを決意しましたが細川藩の家老の説得を受けて城下に戻ります…病床にあっても武蔵は執筆を続けます。
正保2(1645)年5月12日、ついに剣豪・宮本武蔵、筆勢の著作『五輪書』は完成したのです。
五輪、5つの輪の名の通り、その内容は、地、水、火、風、空、の五巻に分かれています。
第一巻『地の巻』武士の基本的な心構え
武士は何事においても人にすぐるることを基本とする…剣術のみを鍛錬してもまことの剣の道を知ることはできない。
大きな所から小さな所を知り、あるいは浅き所から深き所を知るがごとく、おのれの目指す道とはまったくことなる方向から本質がつかみ取れる事もある。
第二巻『水の巻』一対一の立会いの心得
第三巻『火の巻』戦場での実践的な戦いの極意についての書
第四巻『風の巻』他の流派と武蔵の剣術を比較した書
第五巻『空の巻』武蔵が会得した剣の道の真髄が説かれている
まことの道を知らない者は自分で正しい道と思っていても周りから見ると誤った道を歩いていることがしばしばある。
まっすぐな心を持ち、常に努力して学んでいけば、おのずと全く迷いのない心の澄み切った状態に到達することが出来る。
迷いのない澄みきった心、それが武蔵が伝える剣の極意、空の概念です。
自らの全てを搾り出すように書き綴った武蔵、執筆を終えた時、武蔵の身体は燃え尽きる寸前でした。
正保2(1645)年5月19日、五輪書完成の一週間後、不世出の剣豪・宮本武蔵 死去(享年62)
後に残されたのはかつて主君から賜った甲冑と五輪書、その身体は燃えつきましたが武蔵の名声と思想は時を経るにつれ、強い輝きを放つようになります。
執筆から300年のときを経た1974年の事、五輪書は武蔵が夢想だにしなかった遠い異国の地アメリカで大ベストセラーになります。
Book of Five Rings『五輪書』…それは日本人の心の最も優れたところを解き明かす本として、また洋の東西を問わず現代を生きるビジネスマンに知恵を授ける書物として今なお多くの人々に読み継がれています。