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ヒーロー列伝 宮本武蔵 巌流島ミステリー

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NHK BS歴史館
ヒーロー列伝 宮本武蔵 巌流島ミステリー

慶長17(1612)年 巌流島の決闘、剣豪・宮本武蔵VS.佐々木小次郎…一対一の真剣勝負、この決闘に勝った宮本武蔵は、史上最強の剣豪として語り継がれる事になりました。

しかし、この巌流島の決闘は、後世かなり脚色されたもの、肝心の決闘の時期や武蔵の年齢も史料によってまちまち…
慶長6(1601)年説
慶長15(1610)年説
慶長17(1612)年説

それどころか佐々木小次郎の名前は、歌舞伎や伝記で創作されたものでその正体は、何一つ分かっていないのです。

作家 加来耕三
「この巌流島の決闘だけをとらえれば、歴史小説推理小説があつかう世界であって歴史学があつかう世界では無いと思います」

決闘の舞台・巌流島は関門海峡に浮かぶ無人島、正式名は当時も今も船島です。小次郎の巌流にちなんで巌流島と呼ばれるようになりました。

武蔵野遅刻やニヒルな小次郎、現在広く親しまれているイメージは、昭和14年吉川英治が記した小説 『宮本武蔵』 によるもの、そのストーリーは実にドラマティックです。

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『… 諸国で武者修行を重ね、九州小倉にたどり着いた宮本武蔵、対するは小倉藩・剣術指南役で長い刀を操る天才美剣士・佐々木小次郎…決闘の場は、関門海峡に浮かぶ船島、試合当日、武蔵は約束の時間に大幅に遅刻、…刀の鞘を投げ捨てた小次郎に武蔵は言い放ちます。

「小次郎負けたり、勝つ身であればなんで鞘を投げ捨てむ」…小次郎の長刀一閃、…紙一重の差で武蔵の木刀が小次郎の頭を砕き、一撃で決した名勝負です。…』(吉川英治 著『宮本武蔵』より)

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実は、当の吉川英治も…「作家の創意と史実とが将来混交されてゆかれそうな恐れがある」 として 『随筆宮本武蔵』 にこう書いています。

「これこそ本当の史実だと信用できる武蔵の記録というものは、いくらもないのだ」(吉川英治 著『随筆宮本武蔵』)

信用できる記録、その一つが北九州市小倉に残る、通称『小倉碑文』…武蔵の養子・宮本伊織が聞いた話を元に作らせた一級資料です。決闘の様子は通説とかなり違っています。

 

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巌流島の真相その一
武蔵は遅刻していなかった!?

常識となっている武蔵の遅刻、小次郎を怒らせ平常心を失わせる作戦と考えられてきました。…しかし小倉碑文には、「両雄同時に相会す」 …つまり武蔵は遅刻などしておらず、勝負は礼儀正しく約束通り行われたというのです。

遅刻の設定は、巌流島の決闘から100年以上後に書かれた、『武公伝』(1755年)から始まっています。

巌流島の真相その二
武蔵は誰と闘ったのか!?
武蔵の対戦相手は若き天才剣士・佐々木小次郎…しかし小倉碑文には佐々木小次郎は一文字も出てきません。 ”巌流” とあるのみ。

実は、佐々木小次郎という名前は、完全な創作、巌流島の決闘から130年後、『敵討巌流島』(1737年)という歌舞伎が大ヒット、ここで初めて佐々木という名字が付けられたのです。

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巌流島の真相その三
小次郎は老人だった?

江戸後期に書かれた『二天記』(1776年)によれば、小次郎は戦国時代の剣豪・富田勢源の弟子だったと書かれています。

勢源に習っていたとすれば小次郎は決闘の時、70歳近い老人だったはず。…結局、世紀のライバル、佐々木小次郎を伝える史料はどこにも存在しないのです。

 

巌流島の真相その四
なぜ木刀で闘った?

小説では島に向う途中、船の櫂を削ったとされます。ところが小倉碑文には、「われは木刀をさげて秘をあらわさん」…武蔵は事前に木刀で闘うと申し送っていたのです。

武蔵は真剣でなく、不利な木刀を選び、なお且つそれを伝えたのか…その謎の手がかりが武蔵晩年の地、熊本に残されています。

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(木刀 宮本武蔵作)
この木刀、実は武蔵本人が後に削ったもの、小次郎を討った木刀に限りなく近い形だといいます。この木刀に勝敗を分けた秘密が隠されているのです。

八代市博物館学芸員 福原透さん
「小次郎の刀は三尺(120センチ)、武蔵の木刀は126.7センチ…長さで利があるのです。更に木刀は刀より軽いですから、早い速度で打ち下すことが出来るのです」

僅か6.7センチの差が勝負を分けたのです。小倉碑文からわかる巌流島の決闘の意外な姿、貴方はどう読み解きますか。


宮本武蔵伝説
史上最強の剣豪 誕生!

巌流島ミステリー、小次郎の戦歴がまったく残されていない一方で武蔵は晩年、『五輪書』 に戦いの記録を自ら書き残しています。

13歳:新当流 有馬喜兵衛
16歳:剣豪・秋山
21歳:都へ上り、天下の兵法者に勝って名をとどろかせた武蔵は、戦いをこう総括しています。

六十余度勝負す、一度も其の利を失わず
その程、年十三より二十八・九までの事なり
(『五輪書』より)

巌流島の決闘は、武蔵29歳の時、生涯闘った60戦の最後の闘いでした。…しかし、武蔵自信は巌流島について一文字も書いていません。…巌流島の決闘に至るまでの道のりを武蔵の半生からたどってみましょう。

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系図によると武蔵が生まれたのは、天正10(1582)年
・実父は、田原家貞…播州の名門だが合戦に敗れ農民の身分となる
・後に、剣術の達人・新免無二之助の養子になる
岡山県美作市宮本にて新免無二之助もと育つ
・平副(兵庫県)にて初対決(13歳:新当流 有馬喜兵衛)

 

吉岡一門との闘い

吉岡家は、代々・足利将軍家の剣術師範を務め、扶桑第一の兵法者と言われた名門中の名門、小倉碑文が全体の1/3を使って詳細を伝えるこの闘い、武蔵にとっていかに大きなものだったかを伝えます。

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3度に渡る死闘を小倉碑文からたどってみましょう…
1.当主の吉岡清十郎、武蔵は木刀の一撃で清十郎を打ち砕き勝負あり
2.弟・伝七郎が五尺の木刀で挑むも、木刀を奪い取り一撃で勝負あり
3.京都市左京区一乗寺下り松、二度も敗れた吉岡一門は、流派の存亡をかけこの地で武蔵との対決を申し入れました。

戦闘に立ったのが清十郎の幼子・吉岡又七郎、その助太刀で100人を超える門弟で武蔵を討ち取ろうというのです。

この対決を碑文は、「武蔵は猟犬が猛獣を追い立てるように大勢の敵を蹴散らした」 詳細は全く分かりません。…後世の人は武蔵の勝因を勝手に創造しました。

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150年後に書かれた『二天記』(1776年)には、今回は遅刻ではなく待ち伏せ戦術、吉岡一門が陣形を整える前に武蔵は、”まち得たり” と又七郎を一刀の元に斬り倒しました。

奇襲に慌てた門弟たちを切り崩し、死地を脱した武蔵、目的のためには手段を選ばない剣豪・武蔵の強さが印象的です。

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武蔵は、吉岡一門を破った翌年、『兵道鏡』(1605年)という書物を記し、この中で自らを ”天下一” と名乗ります。


宮本武蔵 伝説
巌流島 衝撃の真相!

もはや挑戦する相手がいなくなった武蔵は、今度は挑戦を受ける立場になったのです。…そんな天下一の武蔵がなぜ、わざわざ京都を離れ、小次郎と闘う事になったのか巌流島の決闘にはいったいどんな意味があったのでしょうか。

小倉藩・細川家の剣術師範をめぐる争い…これまではそう言われてきましたが勝った武蔵は師範に取り立てられていません。

この謎を解く重要な手掛かりが門司城・城代の沼田延元の史料から見つかりました。…『沼田家記』 巌流島の決闘に関する衝撃的な記述があります。

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闘いの発端は、…

双方の弟子たちが
互いに自分たちの流儀が
優れていると
兵法の勝劣を申し立て

師匠である武蔵と小次郎が
試合をする事に決まった
(『沼田家記』より)

なんと巌流島の決闘は、弟子同士のいざこざが発端だったというのです。…更に沼田家記によれば、武蔵は小次郎を倒し、その場を立ち去った後、驚くべき出来事が起こります。

「その後、小次郎は蘇生した」 …なんと小次郎は息を吹き返していたのです。

衝撃的なのがこの後の展開、…「隠れていた弟子たちが小次郎を打ち殺してしまった」 …密かに決闘の場に来ていた武蔵の弟子たちが小次郎にとどめを刺したというのです。

沼田家記はその後の顛末をこう記しています。

怒った小次郎の弟子たちは
武蔵を追ってきた

武蔵は門司城の
沼田延元に助けを求めた

武蔵は鉄砲隊の護衛うぃ付けられ
豊後にいる父・無二のもとまで
送り届けてもらった
(『沼田家記』より)

決闘の後、武蔵を保護したのは、養父・新免無二…その頃、無二は細川藩内の豊後地方で剣術指南をしていたといわれます。

決闘の背後には、武蔵の父親・無二と小次郎、細川藩内を代表する二人の指南役の対立があったと宮本武蔵研究家の福田正秀さんは考えています。

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宮本武蔵研究家 福田正秀さん
「小次郎と無二の流儀の争いでやむなく息子の武蔵が小次郎と闘った。…背後に武蔵の養父がいるんです」

不思議な事に武蔵は、巌流島以降、ぷっつり決闘を止めます…それは何故か?…武蔵にとっては動機のない、不本意な結末であった巌流島の決闘、武蔵はどんな思いだったのでしょうか。

 

宮本武蔵 伝説
巌流島後 どう生きた?

29歳で巌流島の後、闘いを止めた武蔵、その後どう生きたのか…

三十を越して振り返ってみると
私は兵法を極めて勝った
という事では無かった

その後は、朝に夕に鍛錬を続け
けっきょく、兵法の道に
やっと適うようになったのは
五十歳の頃であった
(『五輪書』より)

…30歳までの闘いを否定し、50歳で兵法を極めたと書いた武蔵、この間の20年に付いて史料は殆どなく、謎に包まれていました。

この武蔵野空白の20年は、戦国から太平の世へと移り変わる端境期、巌流島の数年後には大坂夏の陣(1615年)で豊臣家が滅び、徳川幕府の全国支配が確定しました。

2代将軍・徳川秀忠の時代には40余りの大名がとり潰しに合い、浪人たちが職を求め諸国を放浪しました。これまでは武蔵も士官先を求め全国を放浪したと考えられてきました。

しかし、近年その通説を覆す史料が発見されています。

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(大阪御陳御人数附覚)
大坂夏の陣、徳川軍随一の戦功を上げた水野勝成の出陣名簿に武蔵の名前が見つかったのです。武蔵は勝成の嫡男・水野勝重の護衛という大事な役目を任されていました。…武蔵の評価の高さが伺えます。

宮本武蔵研究家 福田正秀さん
水野勝成は、徳川家康の従兄弟にあたる名門の家で、こういう人が若い宮本武蔵を招くというのは大変な事なんです。武蔵は吉岡一門を倒し、名声は天下に鳴り響いています。それを聞いて召抱えたいという大名は沢山いたと考えます」

更に武蔵はその後、徳川名門の譜代大名のもとに身を寄せます。播磨の国の本多忠政や小笠原忠真の客分となります。

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特に播磨には、幕府にとってかかせない姫路城があります。武蔵は幕府の重鎮たちに一目おかれていたと考えます。そんな武蔵の重要人物ぶりを伺わせる貴重な史料があります。

武蔵は、明石城の造成に伴う 「町割」 という城下町の都市計画を任されていたといいます。(『明石記』より)

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明石城は幕府が西国の防衛の拠点として築いた要衝でした。武蔵が関わった明石の町割図が残されています。特徴は城の外堀の内側に武家屋敷、外側には港や街道、町屋を配して武士と町人の生活空間を分けている事、当時としては画期的な工夫です。

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播磨国明石城絵図)
武蔵は、太平の世に代わる時代の流れを敏感に察知、経済成長を想定した街づくりまでしていたと考えられるのです。

40代になった武蔵は、養子の伊織を小笠原忠真に仕官させました。武蔵は息子の伊織に新たな夢を託したのです。

宮本家13代当主 宮本廣二さん
「おそらく剣ではもう生きて行けない…時代の先読みとして文官として生き残った方が名を残せると考えて伊織に小笠原家へ出仕させたと思います」

その後、宮本伊織は若くして家老に抜擢されて、後に筆頭家老にまで上り詰めるのです。…闘わない剣豪となった武蔵、剣の力が必要なくなった時代で目指したものとはなんだったのでしょうか。

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国際武道大学教授 魚住孝至
明石城というのは、小笠原忠真が作るんですが西国に対する抑えとして非常に重要な地なのです。姫路にしろ明石にしろ。…譜代大名という有力な大名の客分ですから、それだけの社会的地位を持って武蔵は後半生を送ったと考えられます」

司会 渡辺真理
「フリーター的なものではない立場だったんですね」

国際武道大学教授 魚住孝至
「武蔵は仕官したら家臣団の序列の中に入るわけです…そういう事を嫌がったとも考えられます。小笠原家の客分になるとともに、自分の養子・伊織を…
15歳:小笠原家に出仕させ
20歳:家老に抜擢
…伊織はたった5年で藩の家老になっています…大出世です。」


五輪書
武蔵がたどりついた境地とは?

巌流島の決闘から30年、59歳になった武蔵は、最晩年の5年間を熊本で過ごしました。そして山深い洞窟にこもって人生の集大成として書き始めたのが 『五輪書』 …簡潔な言葉で兵法の極意を現したこの書物は、海外で哲学書やビジネス書として読まれ、1980年代世界的なブームになりました。

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地・水・火・風・空の5巻、繰り返し登場するのが ”鍛錬” という言葉です。水の巻の最後には、鍛錬の目指すところに付いてこう書いています…

太刀の道を覚えて
総体やわらかになり

身も足も心のままに
ほどけたるときに従い
兵法の良し悪しを知る
(『五輪書』より)

武蔵は、鍛錬を積み重ねる事で心も身体もリラックスして自由自在に動かせるようになると教えています。

人生の最後に記した五輪書、武蔵はその最後、空の巻をこのように締めくくっています…

真実の道を知らない間は
自分は確かなる道と思って
良い事と思っても
心の偏りによって
間違っていることがある

正しく明らかに
大きいところを思い取って
空を道とし、道を空とすべし
(『五輪書』より)

巌流島の決闘の事を何も書かなかった武蔵が空にこめた意味とは…

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出演
司会 渡辺真理
国際武道大学教授 魚住孝至
作家 加来耕三
俳優 高橋英樹