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小次郎敗れたり ~決闘巌流島・宮本武蔵の執念~

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NHK その時歴史が動いた
小次郎敗れたり
~決闘巌流島・宮本武蔵の執念~

関門海峡に浮かぶ小島・巌流島、剣豪・宮本武蔵燕返しをあやつる佐々木小次郎と世紀の決闘を繰り広げた場所です。

この決闘に武蔵は生涯の全てをかけて臨みました…父の厳しい稽古に鍛えられる幼い日のつらさ、立身出世を夢見て挑んだ関ヶ原合戦での挫折、そして幾多の武芸者たちと決闘を繰り広げる青春の日々、勝つためには手段を選ばず、相手が子供であろうと切り伏せる。

神仏を拝まず頼りとするのは自分の腕のみ…そんな武蔵の胸中に去来する見果てぬ夢とは何か沢庵和尚、お通など小説や映画に登場する人物たちとの逸話は果たして史実なのか否か…。

放浪の最中に生み出されたという二天一流の極意とは何か…諸国遍歴の末、武蔵は大名家の剣術指南役になれるかも知れないという機会を得て佐々木小次郎に試合を挑みます。

しかしその小次郎は秘剣・燕返しをもちいると言われる剣の達人でした…ともに真剣で立ち会うべしと申し入れる小次郎、我は木刀をと応じる武蔵、…どのようにして小次郎の剣を封じればよいのか、武蔵は生涯最大の危機に陥ります。

やがて迎えた決闘の日、その前日忽然と姿を消していた武蔵は約束の刻限を遥かに遅れて巌流島に姿を現しました…臆したかと言う小次郎に武蔵は言い放ちます。

「小次郎敗れたり」…この時すでに武蔵の胸には、小次郎打倒の秘策が抱かれていたのです…その時歴史が動いた…今回は戦国乱世の時代の終わりを象徴する戦いともなった巌流島の死闘、その瞬間に秘められた宮本武蔵の夢と挫折のドラマを解説します。

 

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武蔵が生きた時代背景

天正10(1582)年6月2日、今から420年ほど前、天下統一を目の前にした織田信長明智光秀に討たれる本能寺の変が起こります。

武蔵が生を受けたのがその同じ年、あるいは2年後の事と考えられています…その生国は武蔵が晩年に著わした『五輪書』によれば播磨の国(現在の兵庫県)…一方、『東作誌』という記録によれば美作の国(現在の岡山県北部)…武蔵の生い立ちは謎に包まれています。

江戸時代中期に書かれた武蔵の足跡を記録した『兵法太祖武州玄信公伝来』(丹治峰均筆記)には武蔵の父・無二は十手の妙術を体得した武芸者であったと記されています。…武蔵の幼少時代、それは父と二人、武術の稽古に明け暮れる毎日でした。

丹治峰均筆記によれば、ある時、父は手にしていた小刀をいきなり武蔵に投げつけました…父といえども決して油断はならない…そういう苛酷な環境で武蔵は育ったというのです。

北九州市小倉、ここに武蔵の死後、子孫によって建てられた石碑があります…そこには武蔵の生涯を記録した文書が刻まれています。

小倉碑文といわれるこの記事によれば、武蔵は13歳のとき初めて決闘をおこなったとされています…相手は神道流の使い手・有馬喜兵衛、…丹治峰均筆記によれば齢13の少年にもかかわらず武蔵は有馬喜兵衛を投げ飛ばし、手にした棒で滅多打ちにして勝利をものにします。…並外れた腕力と勇気、それが武蔵の最大の武器でした。

武蔵が初めて決闘をおこなってから4年の後、激動が日本を襲いました…豊臣秀吉亡き後の天下の覇権を狙う徳川家康とその野望を阻止しようとする石田三成が互いに軍勢を率いて出陣、関ヶ原で対峙したのです。

五輪書によればこの時、武蔵は17歳、三成方の武将・宇喜田秀家隊の手のものとして参陣したと考えられています。

武術の腕に自信を持っていた武蔵にとって戦乱の訪れは願ってもないチャンスでした…合戦で手柄を立てれば武将に取り立てられ、やがては一国一城の主となる事も夢ではないと思われたのです。

慶長5(1600)年9月15日、天下分け目の関ヶ原の戦いの火蓋が切って落とされました…江戸時代の中頃の武蔵の伝記・二天記…そこには戦場での武蔵の働きは抜群であったと記されています。

もしこの時、三成方が勝利していれば武蔵はいち早く立身出世を遂げていたかもしれません…しかし戦いが進むにつれ、三成方には裏切りが相次いで総崩れとなり、合戦は家康の大勝利となりました。

そして落ち武者として追われる事となった武蔵、関ヶ原の戦いの直後、武蔵がどこへ向かい何をしていたのかを示す記録はありません。

 

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関ヶ原に破れ、兵法者とし武蔵ついに動き出す
吉岡一門との死闘

小説や映画では関ヶ原の合戦の後、武蔵は沢庵和尚やお通に出会い、様々な遍歴を重ねることになっています。…しかしこれらは全て後世になって創作された物語です。

では実際の武蔵はどうしていたのかその行動を知る手がかりが五輪書にあります…関ヶ原の合戦の4年後、武蔵21歳の時、「都へ上り天下の兵法者に会い数度の勝負を決す」(『五輪書』)とあります。

合戦の手柄によって出世する望みが絶たれた今は武芸者との決闘によって名を上げようと武蔵は考えたのです。

小倉碑文によれば武蔵がまず挑戦したのが武芸の名門、吉岡家の当主・吉岡清十郎でした…決闘の場所は京の都の外れ、二人はたた一撃で勝負を決しようと言い交わしていたといいます。

その言葉通り、勝敗は一瞬にして決しました…武蔵の木刀が清十郎の体を打ち砕いたのです。…清十郎の仇を討つためその弟・吉岡伝七郎が武蔵に挑みましたが結果は同じでした。…武蔵は伝七郎をも一撃で倒してしまったのです。

復讐に燃える吉岡一門は、清十郎の子・又七郎を押し立てて三度武蔵に勝負を挑みます…今度こそ武蔵を倒す。

その為に数十人の門弟を又七郎の助っ人とし、数の力で武蔵を叩き伏せようとします…対する武蔵はたった一人、多勢に無勢、絶体絶命の危機に立ったかのように見えました。

京都市左京区にある八大神社、武蔵の伝記・二天記によれば吉岡一門との三度目の決闘はこの神社の近くで戦われたと思われます。

その日、夜明け前、神社の前を通りかかった武蔵はふと社殿に近寄りました…敵は大勢、我は一人、かくなる上は神仏にすがるしかないと思いったのです…しかし武蔵は思いとどまります。

「自分は日ごろ神や仏を敬ってこなかった今ここで急に祈った所で神や仏が聞いてくれるはずがない、なのに神仏にすがろうとするのは自分がおじけづいているからだ」…武蔵は結局、神に祈ることなく神社を後にしました。

決闘の場所は京の郊外、一乗寺下り松、武蔵は木陰に身を潜めて吉岡一門の到着を待ちます。…やがて吉岡一門が現れます。

弓矢、刀を持つ大勢の門弟に囲まれて進むのは清十郎の子・又七郎、…その又七郎が下り松に近づいた時、武蔵はすかさず又七郎に襲い掛かり打ち倒しました。…敵は大軍とはいえ、その中心となるのはこの少年、武蔵は敵の最も弱い中心部を狙ったのです。

対戦早々、当主の又七郎を失った吉岡一門は大混乱に陥りました…その期に乗じ、武蔵は門弟たちを叩き伏せ脱出に成功します…部門の誉れ高い吉岡一門を完膚なきまで破った武蔵、しかしどの大名からも武蔵を召抱えたいという話しはありませんでした。

 

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武蔵の旅
それは仕官を求める旅だった

関ヶ原合戦の後、天下は徳川家のものに定まりつつあり、戦乱は無くなっていた為、世間には職を求める武士が溢れていたからです。

武蔵は各地を旅して武芸者と勝負を繰り返す日々を送ります…大和の国では槍の達人と二度立会い二度とも勝利、伊賀の国では鎖鎌の名手と決闘、相手が鎌を振り下ろす瞬間、短刀で相手の胸を突き勝ちを収める…二天記にはそう記されています。

後年、武蔵の代名詞ともなる二刀流、刀を二刀使う二天一流はこうした一連の決闘の最中に編み出されていったと考えられています。

武蔵が22歳の頃に著わしたといわれる『兵道鏡』この書物の中で武蔵は自らを天下一と称しています。…もはや武芸においては自分が第一人者であると自負するに至った武蔵、ところがその耳に聞き捨てならない噂が聞こえてきます。

小倉の細川藩に佐々木小次郎という剣士がいる…小次郎は天下に並ぶことがない剣の使い手であり細川藩の剣術指南役として召抱えられているというのです。

二天記には、慶長17年4月、武蔵は小倉に赴き小次郎との試合を願い出たと記されています。…武芸で名を上げ大藩に召抱えられる…そういう自分の夢をすでにかなえている男がいる…天下一は自分のはず…その名にかけても小次郎を破らなければならない。

巌流島の決闘、その2週間前の事です…。

武蔵の好敵手、佐々木小次郎もその出身地や年齢は正確にはわからない謎の人物です…伝承によれば小次郎は『巌流』という流派を起し、「つばめ返し」という必殺の技を身に着けていたといます。

小次郎の業とはどのようなものだったのか…小倉碑文には小次郎は三尺、つまり90センチ以上の刀を使っていたと記されています。

これほどの長い刀を操るには強い腕の力を必要とします…小次郎は当事の剣士の水準を超えた技量と体力を持っていた事が伺えます。

当事普通に使われていた刀の長さは二尺三寸、70センチほどだったと考えられています…従って小次郎は相手よりも20センチ長い刀を使っていたということです。

この長さの差を活かし、相手の切っ先が届かない距離から刀を振り下ろす…次の瞬間身をかがめ刀を下から振り上げて一刀両断に斬り捨てる…それがつばめ返しという技であったと考えられています。

二天記によれば小次郎は豊前小倉の大名・細川家の剣術指南役でした…細川家は関ヶ原合戦の功績によりそれまでの18万石から40万石に加増されていました…細川家には新たに大勢の武士が召抱えられ、その武士たちの剣術指南役を置く余裕があったのです。

小次郎さえ倒せば自分が指南役を努められる…武蔵はそう考えたはずです。…武蔵は細川藩の家老に願い出ました。

「巌流・小次郎が小倉におり、その術は類まれであると聞きました。願わくば腕を比べさせていただきたく存じます。」


なぜ巌流島だったのか

しばらくの後、武蔵の元へ小次郎との絶ち合いを許すとの報せが届きました…しかしその決闘の場所に指定されたのは奇妙とも思える場所でした。…小倉と下関との間に浮かぶ無人島の小島・船島、現在の巌流島です。

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武蔵と小次郎の決闘は、藩主の許しを得た正式の立会いのはず…それがなぜ城下ではなく海上に浮かぶ無人島で行われなければならないのか…そこには関ヶ原合戦後の政治情勢が影を落としていました。

巌流島の決闘の1年前、家康が各地の大名に差し出させた誓詞、成約状に次のような一節があります。

「反逆者・殺人者を召抱えていてはならない」…反逆者とはかつて三成方に味方した者をさすと考えられます…この頃から大名が武士を召抱えるに当たってはその前歴が厳しく問いただされるようになっていたのです。

突然現れて試合を申し込んだ武蔵に対し細川藩は警戒心を抱いたのです…かつて関ヶ原の合戦で家康に敵対する三成方に組した武蔵の前歴が知られていた可能性もあります。

ここで大っぴらに武蔵に試合をさせて徳川家から咎めを受けることになってもいけない…そういう細川藩の思惑が決闘の地を無人の小島にさせたとも考えられるのです。

そういう政治情勢を知らぬまま武蔵は小次郎との一戦に全てをかける覚悟を決めていました。…その思いは小次郎もまた同じでした。…決戦を前に小次郎は武蔵に申し入れます。


計算しつくされた
武蔵の燕返し対策

「真剣を持って雌雄を決せん」(小次郎)…物干しさおとも言われる三尺の太刀を振るう小次郎、その燕返しをどうすれば打ち破ることが出来るのか…巌流島の決闘、その数日前の事です。

武蔵か小次郎か天下一の剣豪はどちらかを決する巌流島の決闘、その日を前に両者は互いに申し入れを行います。

“真剣によって雌雄を決しよう” という小次郎に対し武蔵は次のように答えたと小倉碑文に記されています。

「貴公は白刃をふるってその妙技を尽くされよ…我は木刀をさげて秘術をあらわさん」(武蔵)…小次郎の真剣に武蔵は木刀で応じるというのです。

常識的に考えれば木刀では真剣に太刀打ちできないはず…しかしこの時、すでに武蔵は小次郎のつばめ返しに対抗する秘策を編み出していました。…果たしてどのような秘術かその答えを知る手がかりがあります。

細川藩の家老であった松井家の遺品を集めた松井文庫、ここに武蔵が巌流島で使った物と同じ形であるといわれる木刀が残されています。

決闘の後、どのような木刀を使ったのかと問われた武蔵が自ら樫の木を削って作ったと伝えられる物です。…その長さは4尺、127センチ。

八代市立博物館 学芸係長 福原透さん
「小次郎の『物干し竿』は刃の長さ3尺、90センチほどでした…つまり武蔵が使った木刀は小次郎の刀より10センチ長かったのです…この10センチの差は技量、体格が拮抗していれば、このリーチの差は大きいと考えられます」

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相手より長い剣を使って敵の刀の届かない距離から攻撃する小次郎の燕返し、…武蔵はそれに対抗するため更に長い木刀を用意した武蔵、…かねてより木刀を使い慣れ、強い腕力を持っていた武蔵ならではの策でした。


そしてその時、巌流島の対決

そしていよいよ決闘の日がやってきました…その日何が島で起こったのか詳細は史料によって様々に異なっています。

「武蔵と小次郎が同時に島に到着した」(『小倉碑文』)
「武蔵が先に島に着いていたと」(『丹治峰均筆記』)
「島には武蔵の弟子たちが隠れていた」(『沼田家記』)
「武蔵が遅刻し、小次郎が怒る」(『二天記』)
…この内、どれが史実であったかは定かではありません…しかし武蔵が遅刻したという二天記の記述は注目に値します。

武蔵は自ら記した『五輪書』に剣術の極意として“ムカつかせる”という事、…つまりわざと相手を怒らせて心を乱れさせるという一行を挙げているのです。

武蔵の遅刻を記した二天記の記述はこの一行を実践したものだと考えることが出来、この点で二天記は五輪書と呼応しているともいえるのです。…ここではこの二天記と武蔵自身の作である五輪書の記述を元に巌流島の決闘を再現します。

慶長17(1612)年4月13日 朝7時、小次郎は細川藩の藩士たちとともに約束の時刻よりも早く島に着き武蔵を待ち構えていました。…手にするのは三尺の長刀・物干し竿、いまや遅しと武蔵を待ち構えます…しかし刻限になっても武蔵は現れません。

「さては武蔵は臆したか」

その頃、武蔵は下関の商家にいました…前の日からあえて単独行動をとり城下を離れていたのです。…当日は日が高く上って宿の主人に起されるまで布団にもぐっていたといいます。

約束の刻限を過ぎても武蔵は現れない…じりじりと待つ小次郎と藩士たち…武蔵の元には細川藩の藩士たちが現れ一刻も早く島に渡るようにと促しました。

すると武蔵は焦る使いを尻目に悠然と食事を始めたのです…「ほどなく参ると伝えておけ」
これが武蔵の言葉でした。

巌流島では小次郎の我慢も限界に達しようとしていました…元々この決闘は武蔵から申し込まれたもの、それを申しこまれた当方が刻限よりも早くきちんとやって来ているというのに遅れて来るとは何事か…それも尋常の遅れ方ではない、既に約束の時刻を2時間以上も過ぎている。

その時ようやく小次郎は武蔵の姿を見とめます…武蔵は小舟に乗って悠然と島に近づいてきます。…小次郎はいきり立って水際に進み武蔵に叫びました。

「武蔵よ なぜ遅れたか…気おくれしたのか」(小次郎)…武蔵は何も答えません。

無礼にもほどがある…この上はひといきに斬り捨てるのみ…そう思ったのか小次郎はいち早く三尺の太刀を抜き、鞘を投げ捨てました。

その刹那、武蔵は言い放ちます…「小次郎敗れたり、勝者何ぞその鞘を捨てん」(武蔵)…鞘を捨てるのは勝負に敗れた者のすることだと言うのです。

思いがけない武蔵の言葉に小次郎は虚を衝かれます…五輪書に記された剣術の極意の一つ、「ウロめかすという事」相手をうろたえさせて心に動揺を与えるという事の極意のとおり、武蔵は小次郎の平常心を失わせたのです。

心のバランスが取れないまま闇雲に振り下ろされた小次郎の太刀、…打ち込む武蔵の太刀、…そして次の瞬間、

慶長17年4月13日 巳の刻過ぎ、巌流島の戦いは武蔵の勝利にきしました…細川藩の藩士たちが唖然とするのを尻目に武蔵は再び小舟に飛び乗り島を後にします。

武蔵は下関の宿に戻りました…小次郎を倒したからには細川家から剣術指南として召抱えるとする報せが届くに違いない…武蔵はそう思っていたかも知れません。

しかしいくら待っても細川藩からは報せは届きませんでした…かつて関ヶ原で家康に敵対する三成方に組した武蔵を細川藩が召抱えるわけにはいかなかったのかも知れません…かくなる上はもう一度、自分の力を細川藩に示すしかないと思った武蔵は、今度は細川家の家臣と勝負をさせていただきたいと願い出ました。

しかしその願いが聞き入れられる事はありませんでした…やむなく武蔵はまたもや放浪の旅に出ることになります。…その胸中には夢破れた悔しさと悲しさがわだかまっていたかも知れません。

仕官・出世の夢破れた武蔵は各地を放浪し、なおも自らの剣に磨きをかけて行くことになります。

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      (五輪書