(キャロライン、ジャクリーン、ジョン)
NHK BS世界のドキュメンタリー
ケネディの悲劇から50年
ケネディの残光 『宿命の子どもたち』(後編)
1963年11月、ダラスで暗殺されたアメリカ合衆国、第35代大統領、ジョン・F・ケネディの葬儀がワシントンでしめやかに行われました。
アイルランド系移民の家系から、アメリカ一の権力者を生み出すという野望、そのシナリオを描いたのは、大統領の父ジョセフ・ケネディでした。
ようやく実現した夢は、僅か3年足らずで陽炎のように消えてしまいました。この日、3歳になったばかりの大統領の息子は、亡き父の後を継ぐ事が出来るのでしょうか。
製作
製作
Program33
(フランス 2010年)
私は、ケネディ家の子供たちの
養育係の一人としてその成長を見守ってきました。
暗殺されたジョンや同じく後に暗殺される弟・ロバートなど兄弟の子供たちの世代はみな歳が近く、同じような愛くるしい笑顔と魅力を湛えていました。
そして皆、祖父のジョセフから始まった、名門ケネディ家の呪縛に囚われていく事になります。
ケネディ家の先祖は、1840年代、アイルランドからアメリカに移住しました…ロバートは兄がそうしていたように水平線の彼方に目を凝らし、先祖の地アイルランドに思いを寄せていました。
そして深い悲しみの中自問していました、 ”自分とマフィアとの対立がこの悲劇を招いたのではないかと” …。
しかしケネディ家が背負う期待と責任を知り尽くしていたロバートは、この先、自分が一族の舵を取らなければならないと分かっていました。
ロバートは、バージニア州ヒッコリーヒルの屋敷に移りました。実の子だけでなく従兄弟たちも皆、ロバートを父のように慕い、この家はケネディ家の中心となりました。
映写室、プール、動物園まである広大な屋敷で子供たちは元気いっぱいに遊びました。ロバートの目標は、自分が育ったような家庭を再現する事でした。
今度は自分がケネディ家の家長として未来の大統領となる人物を世に送り出そうとしたのです。そんなロバートを支えたのは、妻のエセルでした。
プレーボーイの兄・ジョンとは対照的に兄弟の中で一番早く結婚し、一番早く子供を設けました。そして11人もの子供に恵まれます。
(ロバートとエセル)
エセルは、ケネディ家の女たちの誰よりも多く、未来の大統領候補を生んだのです。快活な妻に支えられ、ロバートは自宅をオモチャの国に変えました。
子供たちが早く悲劇を忘れ、伸び伸びと育つようにしたいと考えたのでしょう。
ケネディ家の家長として
ロバート始動
ケネディ家の家長としてロバートは悲しみに沈むジャクリーンにも気遣いをみせます…ジャクリーンの国民の励ましに感謝する挨拶は、彼の執務室で行われました。
ジャクリーンのそばにはいつもロバートか末の弟・エドワードがいました…ロバートは彼女がワシントンの高級住宅地に引っ越した時、当然のように荷物運びを自分の子供たちにも手伝わせました。
家の値段交渉も引き受け、キャロラインとジョン・ジョンの部屋がホワイトハウスにいたときと同じようになるよう、細やかに気を配りました。
ジャクリーンは感謝していました…そしてロバートが政界を離れたいと言いいだした時、…
「子供たちもそうですが、アメリカが何よりも貴方を必要としています。そろそろジョンの死を嘆くのはやめ、彼の思い出に敬意をはらう時です。」 …とジャクリーンが引きとめたのです。
(1953年11月24日、オズワルド射殺)
ケネディ暗殺の調査委員会は僅か1年で事件の背後に陰謀は無く、オズワルドの単独犯行だったと断定しました。
そのオズワルドも逮捕後射殺され、真相は闇に葬られました。でもケネディ家の子供たちは、暗殺はマフィアかCIAの陰謀に違いないと思っていました。
ロバート…
ケネディ家の呪縛に立ち向かう
子供たちは、いつも危険を感じていました…彼らにとって大統領暗殺は思いがけない災難ではなく、起こるべくして起こった事件だったのです。でも大人たちは、子供たちが抱く不安に気づいてやれませんでした。
ケネディ家の大きな過ちは、子供たちに一族の暗い面をひた隠しにした事だと思います。
・大統領の死
・ジョセフ・ジュニアの死
・キャスリーンの死
…数年後のロバートの死も話題にする事は、タブーでした。
一族にとって輝かしいケネディ家というイメージを、守り通す事が何よりも大切だったのです。
1964年、ロバート・ケネディは司法長官を辞任し、ニューヨーク州選出の上院議員を目指します…子供たちの胸に不安がよぎりました。
ジョンの亡霊に取りつかれたロバートは、演説の上手さ、容姿、ウイットの面でも兄にはとうてい及ばないと思っていました。
更に選挙運動中、上院議員だった弟・エドワードが飛行機事故に遭いました…幸い命は助かった物のロバートは思わずつぶやきました。
「天は、我々ケネディ家を嫌っているようだと」 …でもロバートの悲観的な見通しとは裏腹に彼の人気はウナギ登りでした。
(ジャクリーン・ケネディ)
再びジャクリーンが表舞台に立ち、国民はケネディ家に熱狂しました…彼女は、ニュージャージー州アトランティックシティーでの民主党大会での応援に駆け付け、民衆から拍手喝さいで迎えられます。
ロバートは家族、とりわけ子供たちを前面に押し出しました…ジャクリーンは夫のジョンが子供たちを政治に利用するのに反対していましたが、その点、ロバートの妻エセルにためらいはありませんでした。
子供たちはスターのように迎えられ、マイクの前でたどたどしく話しました…後ろの人たちにも見えるように高々と抱き上げられました。
繊細なデイヴィッドは父の手を離すまいとしていました…後に彼はケネディ家のこの世代で最初にこの世を去る事になります。
デイヴィッドは大好きな父親の身の安全を心配し、 「僕がそばにいてパパを守る」 と言っていました。
狼のように父に群がる群衆を見て不安でしかたないようでした。ロバートは見事、上院議員に当選しました。
しかしロバートは言います…「有権者は私ではなく、兄に投票したのかもしれない」
ケネディ家の暗部
ローズマリーの悲劇
子供たちはケネディ家には恐ろしい秘密があると薄々知っていました…親たちでさえ口に出すことをためらうような秘密です。
彼らは何度聞こうとした事でしょう…「ローズマリー叔母さんに何があったの?」
ジョンと1歳違いの妹ローズマリーは、大統領を目指す兄を邪魔しないよう、まさに生きたまま葬られる事になったのです。
ローズマリーには障害があると周りには知らされていました…それがどういう意味か分かりません…いずれにせよケネディ家の理想の娘ではなかったという事です。
ダンス好きのローズマリーは男の子にのぼせやすい所がありました…望まない妊娠でもしたらケネディ家の輝かしい未来が台無しです。
それを恐れた父ジョセフは、ローズマリーが23歳の時、脳の前頭葉を切除する、ロボトミー手術を受けさせました。
当時この手術は、心の病に効果的だと言われていましたが、結果ローズマリーの精神年齢は、3歳児程度になってしまったのです。
ロバートの息子デイヴィッドは亡くなる数年前、次のように書いていました…「もし祖父が生きていたら、僕もローズマリー叔母さんと同じ目に遭っていただろう、厄介者として一族の写真から消されていたに違いない」 …。
ローズマリーは、カトリック系の施設に入れられ、2005年にひっそりと息を引き取りました。こうしてケネディ家の体面は保たれていたのです。
ジャクリーンは不安でした…ロバートの戦いを後押しする一方で子供たちに危害が及ぶ事を恐れたのです。
(ジャクリーン・ケネディ)
ジャクリーンはロバートと距離を置き、ヨーロッパのギリシャの海運王、アリストテレス・オナシスの元へ行きます。
彼女はケネディ家が求め続ける聖女を拒んだのです…野心や競争心、嘘に満ちたケネディ一族から逃れたのです。
彼女は言いました…「私はアメリカが大嫌い…我が子が危険に遭う前にこの国を離れたい」
ロバート大統領選へ
荒んで行く子供たち…
1968年、ロバートは大統領選に立候補しました…ロバートはケネディ家の子供たちのお手本でした。
ジョンが大統領だった頃、子供たちは幼すぎましたし、女兄弟の夫たちはお手本とは言えませんでした。…子供たちがお手本と出来るのはロバートだけだったのです。
でも彼は、子供たちよりアメリカ国民に手を差し伸べる事を選びました。
ロバートがホワイトハウスを目指す事を知った子供たちは、怖くてたまりませんでした…いつもそばにいて励ましてくれたロバート叔父さんが導いてくれれば、未来のケネディ家を担う存在にもなれたでしょう。
そのロバートが自分たちを置き去りにしようとしていたのですから…ロバートの人気が高まる一方で子供たちは荒れていきました。
ロバート・ジュニア、デイヴィッド、クリスは特にひどく、自分たちを ”ハイアニスポートのごろつき” と呼んでいました。
・海岸の砂を瓶に詰めて『ケネディの砂』として売る
・車に轢かれたふりをし運転手を騙し、またケネディが殺されたと騒ぐ
・石を投げて窓を割る
・港で船を壊す
・黒ミサを開く
…子供たちの行動はどんどんエスカレートしていきました。自分たちは特別な存在で何をしても許されると思っていたのです。
アメリカの未来を論じていたロバートは、ケネディ家の子供たちの未来すら見ずにこの世を去る事になります。
・最愛の息子デイヴィッドは、麻薬の過剰摂取で命を落とし
・マイケルは、スキー事故で死亡
・甥のウィリアムはレイプで告発
・大人になったジョン・ジョンは自家用機で墜落死
ケネディ家は
再び舵取りを失う運命に…
マーティン・ルーサー・キングが暗殺されて2カ月、ロバートにも同じ運命が降りかかろうとしていました。
(ロバートとエセル夫人)
ファーストレディーになると笑顔を見せていたエセル夫人は、この数時間後、夫を失う事になります。
エセルとロバートの子供は10人、更にこの時、エセルのお腹には新しい命が宿っていました。記者たちに囲まれ、支持者と握手する、そんな毎日もあと僅かでした。
ロバートは全米最大の票田カルフォルニア州の予備選挙で勝利を手にしたばかりでした…
…銃声…1968年6月5日、ロバートついに凶弾に倒れたのです。
(ロバート凶弾に倒れる)
ジャクリーンは報せを聞くとすぐにジェット機をチャーターし、ロサンゼルスへ向かいます。
ロバートの母親・ローズも駆けつけます…彼女は4人の息子の内、3人目を失おうとしています。
ロバートは死の淵で懸命に戦っていましたが…
ロバートの遺体はニューヨークに運ばれ、子供たちが棺のもとに呼び集められました。
ケネディ家は過去の経験から何も学んでいませんでした…それぞれの世代の最年長者に重荷を引き継がせたのです。
男兄弟を全て失ったエドワードは、大きな音を聞くたびに恐怖に震えながら、その後の人生を過ごす事になります。
子供たちの世代では、祖父と同じ名前を持つ、ロバートの長男、ジョセフが僅か16歳でケネディ王朝の重荷を背負う事になります。
(ジョセフとエセル夫人)
亡き父の期待を裏切らないよう、彼は参列者一人一人に名乗り、握手を交わしお礼を言いました。
ジョセフは食卓で父の席に座り、父のスーツを着て父がそうしたように年下の子供たちを叱りました。
でもそれは、彼自信が苦難の道を歩み始める前の、つかの間の平和にすぎませんでした。
ロバート亡き後
ケネディ家崩壊へ…
ロバートの死後、エセル夫人は11番目の子供、ロリーを産みました…退院の後、ロリーの初めてのお出かけは、父親のお墓でその後、一族にお披露目されました。
当時、エセルの心は荒んでいました…思いやりが無く攻撃的で理不尽に子供を叱り、家庭は荒れていきました。
特に息子たちに手を焼いたエセルは、放任を決め込み、それが彼らを破滅へと向かわせたのです。
ジャクリーンはアメリカを離れ、ギリシャの海運王・オナシスと結婚しました…ジャクリーンは39歳、オナシス62歳、ケネディ家で育ったキャロラインとジョン・ジョンは、彼をパパと呼ぶ事になったのです。
ロバートが死んでようやくジャクリーンは、ケネディ家から解放されたのかも知れません。…結婚式は、オナシスが所有するイオニア海のスコルピオス島で行われました。
(ジャクリーン39歳、オナシス62歳)
1968年10月20日、キャロラインとジョン・ジョンは亡き父の思いでを抱えたまま列席します…挙式から僅か3日後、ジャクリーンはニューヨークに戻ります。
一人でアテネの屋敷に戻る事になり、頭に来たオナシスはジャクリーンを中傷しました…「妻の目当てはダイヤモンドだ。ロバートを忘れられないようで彼の話ばかりしている」
ケネディ一族はもちろん、多くのアメリカ国民もジャクリーンの行動に当惑しました。これを見た子どもたちは、 ”好き勝手に生きればいいんだ” と思うようになりました。
子供の一人は、こう言いました…「ロバート叔父さんが亡くなるまでは絶対にしてはいけないと思っていた事がたくさんあった。でも叔父さんが死んだ後は、もう良い子でいる理由は無いと思うようになった」
子供たちは、親たちの世代の悪い面ばかりを受け継ぎ、ガサツ、傲慢、異性関係も派手になりました。
1969年、ロバートとは正反対の大統領が誕生し、ケネディ家の理想は葬り去られます。
1960年の大統領選で敗れたニクソンが当選、ベトナム戦争の泥沼化の中、アメリカは自信を失っていきます。
歴史の流れが明らかに変わったというのに、ケネディ家では誰ひとり、新しいページをめくれずにいました。
その年の冬、半身不随となっていたケネディ家の長老・ジョセフが危篤に陥り、一族が駆けつけました。
ジャクリーンも枕元で夜通し彼を見守りました…ジョセフの死は栄光に満ちたケネディ家の終わりを象徴していました。
一族の柱と成れる男が全員この世を去ってしまったからです。
(ジョセフ・ケネディ)
末っ子のエドワードは、兄たちに比べ器ではありませんでした…1980年彼は民主党の大統領候補を目指します。しかしジミー・カーターにあえなく敗れ、ケネディ家は初めての敗北を喫しました。
子供たちは政界への道が閉ざされた事を思い知り、愕然としました…求心力を失ったケネディ家では、絶えず親戚同士での内輪もめが起きるようになります。
マスコミがエドワードについて取り上げる事と言えば、難病の息子の事、妻のアルコール依存症についてばかり、彼はケネディ家の栄光を受け継ぐには、程遠い存在だったのです。
ローズ・ケネディは104歳まで生き、1995年に亡くなりました…自分や子供の世代には思いもよらなかった、アフリカ系の大統領の誕生を見る事無く…。
ケネディ家の女兄弟が嫁いだ家の子供たちは、もっと穏やかな人生をおくっています。…プレッシャーや危険も少なく、祖父ジョセフの定めた運命に振り回される事も無かったからです。
ロバート3世は例外です…ロバート・ケネディーの息子、ロバート・ジュニアとともにヘロインの所持で逮捕されました。
ロバート・ジュニアは、自己顕示欲が強く、ある日、麻薬のLSDを持ち帰り、デイヴィッドに進めました。
デイヴィッドは痙攣の発作に襲われ、父のように死ぬんだという幻覚に襲われました。
子供たちは越えてはいけない一線をついに越えてしまいました。
彼らを救える存在がいたとすれば、それはケネディ家の女性たちだったかもしれません。
でも祖父ジョセフは、長女ローズマリーを一族から抹消し、次女・キャスリーンの死をろくに悼もうともしませんでした。
彼が描いたシナリオには、女性的な温もりが欠けていたのです。
私たち養育係は、アメリカのために人生を捧げた親の代わりにいつも子供たちのそばに付いていました。
でもこの悲惨な物語の一行すら変える事は出来ませんでした。
なぜでしょう…
ホワイトハウスに入るべく
天から使わされたケネディ家の子供たちには
苦難と不幸が付いてまわったのです。
まるで一人一人が
伝説の代償を身をもって
払わされることを…
宿命づけられているかのように
二ール・ダイヤモンド 『スイート・キャロライン』
Neil Diamond - Sweet Caroline
駐日大使になられた故ケネディ大統領の長女、キャロライン・ケネディ氏を歌ったものです。
単なるお嬢様ではなく、大変な人生を歩んできた人だという事も理解してあげたいですね。
ご活躍お祈りします。