旅cafe

旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

ケネディの残光『宿命の子供たち』(前編)

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NHK BS世界のドキュメンタリー
ケネディの残光『宿命の子供たち』

 

ケネディー家の子供たちはよく一緒に遊びました…愛らしい笑顔と魅力をたたえていました…そしてみな同じ宿命に縛られていました。

ロバート、ジョン、ジョセフといった父や祖父から受け継いだ名前とともに同じ物語を紡いでゆく運命を背負っていたのです。


ケネディ
野心と美と富の物語

ケネディー家の子供たちは、有名人である両親の桁外れな生活についてどう思っているのだろう…黒塗りの大きな車、サイレン、ヘリコプター、カメラの方列、大勢の警官、そして何故空気がピンと張りつめているのか。

幼い子供なら両親が子供に何を期待しているのかわからないのが普通でしょう…ところが小さなケネディーたちはとても社交的で順応性があり、与えられた役割を見事に演じて見せました。

どの映像や写真をとってみても非の打ちどころがありません…もちろん主役は親たちでしたがその脇で子供たちは引き立て役を完璧にこなしていたのです。


ケネディ一族の伝説

ケネディ一族の伝説は、アイルランドから移民が大量にアメリカに押し寄せた1840年代後半に始まりました。

ジョン(ジョン・F・ケネディ)は子供たちに話したもんです…海のずっと向うを良く見てご覧、晴れた日にはご先祖様の土地アイルランドが見えるんだよ・・でも子供たちにとって先祖と言えば祖父に当たるジョセフ・ケネディの事でした。

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(ジョセフ・ケネディ

1888年、ボストンに生まれたジョセフ・ケネディはやり手の銀行家になり、株・不動産・造船業・映画産業に投資して財をなしました。

敬謙なカトリック教徒で十分に裕福になってもジョセフの上昇志向はとどまる事がありませんでした。

ビストン市長の娘、ローズ・フィッツ・ジェラルドと結婚、ウォール街で株価を操作して莫大な利益を上げました…こうした投機が1929年の株価暴落の一因になったと言われています。

1930年代の大恐慌禁酒法は、ジョセフにとっては天の恵みでした。…酒の密輸、シカゴマフィアとの関係、サイレント映画の女優グロリア・スワンソンとの不倫、後に息子のエドワード・ケネディは、父親の悪評を全て否定しますが黒い疑惑を否定する事など到底できませんでした。

とうのジョセフは理想の父親を自負していましたが彼の野望が発端となり、ケネディー家の呪縛が始まります。子孫たちはまるで操り人形のようにコントロールされるようになるのです。

ジョセフ・ケネディーは、世界中が羨む伝説の一族を築こうとしましたがそのツケを払わされたのは息子達の世代、そして孫たちでした。

1938年8月、第2次世界大戦が近づく中、ジョセフ・ケネディアメリカの大使としてイギリスに渡ります。フランクリン・ルーズベルトへの長年の献金が実を結んだ形で任命されたのです。

ローズ夫人と子供達も父の後に続きました。イギリス人はケネディ一家に興味深々でした。何より9人という子沢山ぶりが話題になり、ジョセフはイギリスのマスコミからアメリカの父と呼ばれました。

地位も名声も子供も多い方がいい…ジョセフが子供たちに言い聡しました。

『人生は競争だ…私は勝利という言葉しか知らない』

ジョセフとローズは英国王室やロンドンの上流階級と交わり、長男のジョセフ・ジュニアを紹介しました。

ケネディー王朝の後を継ぐ存在として長男は特別な存在でした。ジョセフ・ジュニアが生まれた時、ジョセフ(祖父)は言いました。

「この子を大統領にする為、両親はあらゆる手を尽くすだろう」 …しかし戦争が状況を変えてしまします。

ヒトラーがヨーロッパを席巻するのを横目にジョセフは、見て見ぬふりをする路線を主張します。

ジョセフ・ケネディ
「妻と私は、9人の人質を運命に委ねている…私や皆さんの子供ほど尊いものはありません」

訪問先のドイツでは、反ユダヤ主義ナチス指導部と合意し、こう発言しました。 「ヒトラーの好きにさせるべきだ、アメリカにとって何が起きようと戦争をするよりましなのだ」 …この時ばかりはジョセフの読みは外れました。

大家族の絆のアピールもむなしく批判派にやり込められ、ルーズベルトからも見放されてジョセフは大使を解任されました…万事休すです。


ケネディ
子供たちの悲劇の始まり

父が果たせなかった野望は、息子達の方に重くのしかかります。悲劇の最初の犠牲者は、ケネディー家をホワイトハウスへ導くと期待された長男ジョセフ・ジュニアでした。

海軍のパイロットとなった彼は、父親の名誉を挽回する為、進んで危険な任務に志願しました。1944年、操縦する飛行機が爆発し帰らぬ人となったのです。

兄の突然の死で兄弟の最年長となったのがジョンです。ジョンは友人に話しました。

「おやじが何かたくらんでる…観念して言うとおりにするしかないな」

マサチューセッツ州・ハイアニスポートのケネディー家の屋敷には、専用の映写室があってジョセフは孫たちにアニメや冒険映画をみせてやったものです。

でも孫たちの一番のお気に入りは、1953年のジョンの結婚式のホームムービーでした。

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それはまさにケネディ一族の神話の始まりだったのです。

花嫁のジャクリーンは綺麗で賢く洗練されていて未来のファーストレディーとして理想的でした。ジャクリーヌを息子の花嫁に選んだのは、言うまでも無くジョセフです。


知られざる
キャスリーンの悲劇

1944年、戦死した叔父のジョセフ
1948年、飛行機事故で亡くなった叔母のキャスリーン…彼女は、母ローズの反対を押し切り、離婚歴のあるイギリス男性と暮らしていました。

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キャスリーン・ケネディー)

ローズはキャスリーンを勘当し、ジョセフの葬儀にも参列を許しませんでした。生前キャスリーンは言ったそうです。

ケネディじゃなくても生きて行けるってなんて素敵なの」

でもケネディー家の子供たちは、そんな話は耳にする事もなく育ちました。ケネディ一族には幸運の女神がほほ笑んでいる、だから国民にも愛されているのだと信じていたのです。


ジョン・F・ケネディ
大統領へ

ジョンが大統領を目指して選挙運動を始めた時、父親のジョセフは自分のイギリス大使時代の失敗が息子の足を引っ張るだろうとわかってわかっていました。そこでジョセフは、懸命にも表舞台から退きました。

しかしその実、舞台の袖からジョンの弟ロバートと共に一切を取り仕切りました。ジョンに絶えず助言し、スピーチ原稿に手を入れ、選挙参謀の人選をし、何をアピールし誰と手を組むべきか指示しました。

ジャクリーンの目には、夫が父親を超えようとするどころか言いなりになっている事は明らかでした。ジョン自身も僕は人形で父は腹話術師だと認めています。

ジョセフの妻、ローズは、もう少し言葉を選び 「夫は私たちの人生の設計者だ」 と表現しました。

1960年、共和党リチャード・ニクソンを破り、ジョン・F・ケネディー大統領が誕生したのです。

ジョン・F・ケネディの大統領当選を知った朝、長女キャロラインは、教えられた通り愛らしく挨拶しました。

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(ジャクリーンに抱かれるキャロライン)

「おはようございます。ミスタープレジデント」 とちょこんとお辞儀をしたのです。

ジョンの勝利は、ケネディ一族の勝利でした。弟のロバートは精力的に飛びまわり、避雷針が家を守るように兄を守りました。

1961年1月、一族の長老、ジョセフは息子が大統領就任演説するのに家を出るのを誇らしげに見送っていました。…でもすぐにジョンの方から引き返し、 『一緒に行こう』 と父を誘いました。

ジョセフは大使時代 「9人の人質を運命に委ねた」 と言いましたが20年ほど経ってようやく運命の女神は彼に微笑んだように見えました。

二男ジョンがアメリカ大統領になり、三男ロバートが司法長官に、四男エドワードも州の上院議員になったのですから…皮肉にもこの栄光がケネディ家の子供たちを苦しめる事になります。

彼らはケネディ王朝は偉大だと教え込まれて育ちました…なのにいざ自分の番になると父や叔父が残した華々しい業績の陰にすくんでしまうしかなかったのです。

1961年4月、大統領はCIAが支援した亡命キューバ人部隊による上陸作戦を許可します。しかしカストロ率いるキューバ軍の反撃にあって作戦は失敗、ケネディ王朝を揺るがした事件です。


ファーストレディー
ジャクリーンの影響力、役割

ケネディ大統領夫妻は外交に力を入れ世界を飛び回りました。外国に行く度に子供たちに山のようにお土産を持ちかえります。

キャロラインには、エッフェル塔のスノードーム
キャスリーンには、スコットランドのキルト
マリアには、ロシアのお人形

…しかし子供たちは見捨てられたように感じていました。

その頃、ケネディ大統領は腰痛の悪化に苦しむようになりました…でもアメリカの子供たちにとって大統領は世界一強い男であって病気でふせったり、痛みにもだえる姿などありえません。

大統領は痛みを悟られないよう努めました。テレビカメラの前では松葉づえを隠し、子供たちの出迎えを受けました…国民がケネディ一家に持つイメージを損なわない事がなにより大事だったのです。

1981年8月、ベルリンで危機が起きます。その後28年も東西冷戦の象徴としてそびえ続ける壁の建設をケネディ大統領は静観するだけでした。

一方、妻のジャクリーン夫人は自分の役割を良くわかっていました…いつも夫に寄り添い、タブロイド誌の一面を飾り続けたのです。

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大統領の父、ジョセフの目に狂いはありませんでした…ジョンの人気が陰り始めると非の打ちどころのないジャクリーヌそばにいて挽回したのです…国民は彼女に熱狂しました。

ケネディ家の子供達も、この美しい女性が身内である事を誇りに思っていました。

1961年12月19日、ジョセフが脳梗塞で倒れます。孫たちは養育係にすがってすすり泣きました…少し怖いおじいちゃんでしたが楽しい思い出も沢山ありましたから…ジョセフは半身不随になり話す事が出来なくなりました。

これ以降、ジョセフは物言わぬ番人となり、孫たちが祖父からケネディ一族の秘密を聞き出す事が出来なくなりました。

大統領は常に自分を鼓舞してくれた人生の師を失い動揺します。でもその役割を弟のロバートが受け継ぎます。

彼は妻、エセルと堅実な家庭を築き、既に7人の子を設けていました。ジョンは弟のロバートをまるで兄のように頼りました。

しかし、ロバートはジョンと違い潔癖で信念にそぐわない事には、決して譲らない人でした。これがトラブルの元になります。


大統領暗殺と
ロバート・ケネディのマフィアとの戦い

ジョンが大統領になる前の1950年代、ロバートは全米トラック運転手組合とその委員長ジミー・ホッファの不正の追及を始めました。

ホッファにはシカゴマフィアの資金洗浄をしている疑いがありました…この危険な戦いにジョンも巻き込まれていきます。

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(ロバートとジョン)

もし大統領暗殺が陰謀だとしたら、それが生まれたのは不正を追及する上院の廊下でだったのかも知れません。

司法長官だったロバートはマフィアの組織犯罪摘発にのめり込んで行きます。

60年の大統領選でジョンの父親ジョセフと旧知の間柄だった為、ケネディーを支援し、 ”これで安泰だ” と思っていたマフィアのゴッドファーザー達にとってこれは計算外でした。

”誰がジョンを暗殺したのか” … ”自分のせいで兄を死なせたのではないか” …後にロバートは何度も自問する事になります。

その事でケネディ家の子供たちが脅迫されるという事態が起こります。

危険な魔の手から子供たちを守るため警戒が一層厳しくなりました。


注目を浴びる
ジョン・ジョン とキャロライン

大統領はよく子供と写真を撮りました…子供たちをケネディ政権のシンボルにしようかのように。

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(大統領執務室でのジョン・ジョンとキャロライン)

 

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キャロライン・ケネディ

大統領執務室での写真は世界に配信されました…ジョン・ジョンと呼ばれたジョン・ケネディ・ジュニアは大人になってからも当時の写真を胸ポケットに忍ばせていました。

ジョン・ジョンはあるとき何でみんな僕の写真ばかり撮るのと聞いたそうです。外ではまだ字の書けないキャロラインにサインを求める人までいました。

ジャクリーンは出来れば、人目の付かないところで子供たちを育てたかった事でしょう…実際、夫・ジョンが亡くなると、子供たちを国民の好奇の目に晒さないよう努めました。

ジョン・ジョンとキャロラインは、成長するにつれて従兄弟たちとは対照的に、内向的で気難しくなりました。

自分たちの意志とは関係なく、世界で一番写真を撮られた子供たち、そんな過去から逃れようとしていたのかもしれません。


ジャクリーンの魅力と影響力
そんな中で子供たちがあこがれたのはジャクリーンでした。

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女の子たちはジャッキーを女神のように崇めていました。しかし彼女と肩を並べるのはとても無理だと考えていました。

男の子達もジャッキーほど魅力的な女性を奥さんに出来ないと諦めていました…だからこそ子供たちは大統領の女性スキャンダルを本気にしませんでした。

学校では大統領の浮気が噂になる事もありました…それでもジャクリーン夫人は神聖な存在でした…彼女が裏切られたり、ましてや彼女が夫を裏切るなどあり得ない事だったのです。

大統領が暗殺される前の年、ジャクリーンが夫と距離を置いた時も他の男性とクルーズに出かけた時もそう信じていました。

1962年10月、キューバ危機が勃発、大統領はその後、数日間朝の食卓に姿を見せませんでした…子供たちは不安がります。

キューバではソビエト製の核ミサイルがアメリカを睨み、核戦争の瀬戸際にあったのです…アメリカ国民は世界の終わりを予感しつつ大統領の決断を息をひそめ待っていました。

10日後、大統領はすんでのところで危機を回避し、ソビエトを撤退させる事に成功しました…子供たちは彼を英雄のように迎えいつもの生活が戻りました。

子供たちは、その時の恐ろしさをじき忘れてしまいました…緊張がピークに達した日は核シェルターで夜を明かしましたがその体験も間もなく冒険談に変わりました。

でもあの時、彼らは初めてケネディー家が担う責任の重さを知ったのです…アメリカの大統領はただカメラの前で笑っていればいいわけではない、重大な責任を負い恐怖にも立ち向かわなければならないのだと理解したのです。


ジャクリーン夫人の早産

ざっくばらんで気まぐれなケネディ家の大人たちは、自分を悪い親だとは思っていませんでした。

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子供たちは自分の偉大な物語の一部であることを喜んでいました…大統領は、ハイアニスポートの戻ると子供たちにお土産を分け与えました。

首脳会談の記念写真、条約に署名したペン、日が暮れると子供たちは大統領からもらった戦利品をそれはもう大事にしまっていました。

ロバート・ケネディは自分の演説原稿を装丁し、息子デイビッドや他の子供に贈ることもありました。

子供たちの絆は強く、一族に赤ちゃんが生まれる度に新しいケネディ家の一員として歓迎しました。

ロバートは息子・クリストファーの洗礼式で言いました…「我々はアメリカの地に誇らしく根を張る一本の木から別れ出た枝だ…この木に水を絶やしてはならない」

ケネディ一族が海を愛してやまないのは、そのせいかも知れません。広大な海は子供たちを浄化する清めの水だったのでしょう。

でも敬謙なカトリック教徒だったケネディ一族が洗礼の水には、生と死の二面性がある事をなぜ忘れてしまっていたのでしょうか…。

ジャクリーン夫人は三番目の子供の出産を10月にひかえていました。しかし1963年8月7日、病院に救急搬送され早産したのです。

大統領はワシントンから妻の元へ駆けつけました…入院は11日間におよびジャクリーンはひどく弱り、早産したパトリックの葬儀にも出られませんでした。

退院してハイアニスポートに戻ったジャクリーン夫人は次第に快方に向かいました…また海辺と船の生活が始まります。

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キャロライン・ケネディ

パトリックの死後、大統領は子供たちを以前より気遣うようになりました…家族でクルーズに出かけ、執務中でも日に何度も子供たちに電話を入れ、妻への愛情も深まったようです。


ダラスへ
ついにその時が…

テキサス遊説に出かける前、ジャクリーン夫人は、 「すぐに変えるからね」 と子供たちをなだめました。

戻ったらジョン・ジョンの3歳の誕生日とキャロラインの6歳の誕生日を祝う事になっていました。

1963年11月22日、ダラス…このパレードが大統領を19年前に死んだ兄・ジョセフ・ジュニアのもとに連れ去ってしまいます。兄の悲劇を受けて不本意にも一族の宿命を担った結果がこれだったのです。

キャスター:「沿道には群衆が溢れ、大統領を一目見ようと待ち構えています…」

その時、一発の銃弾が大統領の頭部を貫通…

反射的に飛び散った脳を集めようとするジャクリーン

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アメリカの時が止まりました…


大統領暗殺
その時、子供たちは…

ホワイトハウスで留守番のキャロラインとジョン・ジョンは、その日いつも通り朝7時に起きました。キャロラインは乗馬のレッスンを受けました。

午後になって大統領死亡の知らせが入りました…

ケネディ家の他の子供たちには、 ”ジョン叔父さんが亡くなった…皆でジャッキー叔母さんを支えてあげよう” …と告げられました。

でもキャロラインとジョン・ジョンには、ロバートの妻・エセルもジャクリーン夫人の母親も大統領の妹達も伝える事が出来ませんでした。

その辛い役目は養育係に回ってきました…私たちは幼い二人に説明しました。

「パトリックが天国で寂しそうだから、お父様が行ってあげることになったのよ」

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ケネディ家の子供たちは、星条旗に覆われた棺にも、最後のお別れをする儀式にも次第に慣れていきます。 

次々と身内を埋葬し、その死を悼む事に子供時代を費やす事になるのです。

家族が悲しむ姿を見ないで済むよう、固く目を閉じたままで…大統領を暗殺で失ったケネディ家の人々は、難破船の生き残りのように見えました。

ケネディ家の悲劇はこれで終わりではありません…


製作
Program33
(フランス 2010年)


 

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ケネディー家の悲劇(ウィキペディアより抜粋)
1941年 ローズマリーケネディは知的障害だと考えられていた。しかしいくつかの証拠によると、彼女は鬱病のような精神疾患に罹っていた。彼女の暴力性と気分障害が悪化したため、父のジョセフは秘密裏に、ロボトミー手術を彼女に受けさせた。この手術は彼女の認知能力をさらに損い、結果として、彼女は2005年に没するまで施設で過ごすことになった。

1944年8月12日 ジョセフ・P・ケネディ・ジュニアは第二次大戦中、イギリス東部で危険な飛行任務に従事している最中、飛行機の空中爆発で戦死し

1948年5月13日 ハーティントン侯爵夫人キャスリーン・キャヴェンディッシュは飛行機事故によって同伴者の第8代フィッツウィリアム伯爵ピーター・ウェントワース=フィッツウィリアムと共にフランスで死亡。

1956年8月23日 ジャクリーン・ブーヴィエ・ケネディは娘アラベラを死産した。

1963年8月9日 パトリック・ブーヴィエ・ケネディは6週間ほど早産で生まれ、2日後に死亡。

1963年11月22日 アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディテキサス州ダラスでリー・ハーヴェイ・オズワルドに暗殺される。

1968年6月6日 ロバート・ケネディはカリフォルニアでの民主党の大統領予備選挙に勝利した直後、ロサンゼルスでサーハン・ベシャラ・サーハンに暗殺される。

1969年7月18日 エドワード・ケネディの運転する自動車がマーサズ・ヴィニヤードに架かる橋から転落し、同乗していたマリー・ジョー・コペクニが溺死するというチャパキディック事件が起こる。

1973年8月13日 ジョセフ・パトリック・ケネディ2世の運転する自動車が事故に遭い、同乗者の一人パム・ケリーは麻痺の後遺症が残った。

1984年4月25日 デイヴィッド・ケネディフロリダ州パームビーチのホテルの一室でペチジンとコカインの過剰摂取により死亡した。

1997年12月31日 マイケル・ルモアーヌ・ケネディコロラド州アスペンにてスキー事故で死亡。

1999年7月16日 ジョン・F・ケネディ・ジュニアは飛行機事故で妻のキャロリン、義姉と共に死亡した。

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