BS歴史館
側近がみた独裁者ヒトラー
私はヒトラーの愛人じゃない
映画監督 レニ・リーフェンシュタール
1933年から12年間、ドイツに独裁者として君臨したアドルフ・ヒトラー…彼の絶大な権力のもとでプロパガンダ映画を作り、ナチスの協力者として非難し続けられた女性がいます。
レニ・リーフェンシュタール…彼女はヒトラーの依頼により、ナチスの記録映画を3本作りました。
『信念の勝利』
『意志の勝利』
『自由の勝利』
なかでも意志の勝利はその出来栄えからヒトラーの神格化に最も効果を発揮したと言われています。
映画監督としての栄光と名声を手に入れたレニ、しかし、大きな成功の裏に付きまとうヒトラーの影が彼女の人生を翻弄して行く事になります。…本人が否定しても『ヒトラーの愛人』という噂は消える事はありませんでした。
1945年ナチスドイツ崩壊後、レニはナチスの協力者として連合国に逮捕され、政治責任を問われました。そして彼女は自ら生み出した映画、意志の勝利、オリンピアによってその後、映画監督として満足に活動できなくなったのです。
101歳で亡くなるまでナチスの協力者として非難され続けたレニ、…彼女はヒトラーに魂を売ったしたたかな女性だったのか…それともたぐいまれなる才能を持つ芸術家だったのか。
ドイツZDFが制作したドキュメンタリーを元に映画監督レニ・リーフェンシュタールの人生とヒトラーの時代を生きた葛藤に迫ります。
歴史とは
現在と過去との対話である
(E・H・カー)
レニ・リーフェンシュタールは第一次世界大戦後、21歳でダンサーとしてデビュー。
1923年 ダンサーデビュー(怪我によりダンサーを断念、映画界に転身)
1925年 『聖山』撮影開始
1926年 『聖山』封切り
1930年 『モンブランの嵐』封切り
1931年 『白銀の乱舞』撮影開始、『青い光』
この頃、アドルフ・ヒトラーが勢力を拡大していました。この自称救世主が開催する集会の一つにレニも出席します。…レニはこの時の事を運命の出会いと呼んでいます。
「まるで地球が真っ二つに割れてそこから凄まじい勢いで水が噴出したような衝撃を受けた…私は身動きが出来なかった」
ヒトラーに感銘を受けたレニ、ヒトラーもまた彼女に興味を持ちました。
1932年 『青の光』封切り、ヒトラーに手紙を出し、面会する
ヒトラーは『青の光』を高く評価します。ヒトラーには親しい芸術家がいませんでした。ヒトラーは芸術家に関心を示しているのに芸術家からは何の反応も得られなかったのです。
ですから自分から近づいてきたレニの存在はヒトラーにとってありがたかったのです。…運命共同体の誕生です。
(宣伝大臣 ヨーゼフ・ゲッベルス)
1933年5月17日、ゲッベルスは日記にこう記しています…「午後、レニ・リーフェンシュタールに会う。映画の製作を依頼、彼女は熱意を見せる。
ヒトラーのための映画製作が動きだしました。…ゲッベルスはこう書いています。「レニがヒトラーと話す。彼女は映画を撮り始めた」
1933年、ニュルンベルク…ヒトラー率いるナチ党が政権を取ってから初めての党大会です。レニはその様子をカメラでとらえ記録映画を作りました。
レニの伝記「美の誘惑者」書者 ライナー・ローター
「初めてのドキュメンタリー映画、しかもナチスのための映画の製作です。彼女の度胸が試された場面でした。自分の思い通りに出来なかったうえ、必要な数のカメラも揃っていませんでした…彼女は不十分な機材で我慢せざる得なかったのです」
「この映画を撮影した時、ヒトラーはカメラの前でどう動くべきかまだわかっていませんでした。他の党幹部達も同様です」
後に『信念の勝利』は闇に葬られる事になります…党大会の映画は作りなおされる事になりました。
1934年、レニは再びニュルンベルクで党大会の様子をカメラに収めていました。…今度こそ準備万端で…。レニは、完璧に仕事をやってのけました。
そうして出来上がったのが映画史上最大のプロパガンダ作品『意志の勝利』です。…レニは、ナチスの強大さを映像で現す事を見事に成功しています。
レニの監督としての技術は素晴らしく、40人のカメラマンと何千人ものエキストラを動かしました。そして彼女はこの映画でヒトラーを神格化したのです。
1935年、軍からの要望で作られたのが短編映画『自由の日』ドイツの軍事力を誇示するための映画でした。次々と映し出される兵器に世界が注目しました。…これらの兵器は4年後、実戦で使われる事になります。
レニは、ナチスのおかげで名声を手にしました。
宣伝省 副官 ヴィルフレート・オーフェン
「ヒトラーは彼女が要求するものを常に与えていました。ある時、レニは大規模な党大会の映画を作るためヒトラーにカメラマンを要求したんです。当時は今ほど大勢のカメラマンがいなかったため、レニがカメラマンを調達した事で他の映画の製作が全てストップしてしまいました…そしてそれらの映画はゲッベルスの責任下にあったんです…それ以来、レニを嫌うようになり、様々な嫌がらせをしました…その仕返しにレニは、ゲッベルスがスカートに手を入れたと本に書いたのです」
ヒトラーは、レニとゲッベルスを和解させるた二人をレニの別荘に集めマスコミを呼びました。二人は和やかに談笑し、庭を散歩しました。…最後にはすっかり仲直り、…表向きは…。
明治大学教授 瀬川祐司
「『信念の勝利』、『意志の勝利』、『自由の勝利』を一般に3部作と呼ぶんですが…意志の勝利はとてつもなく強力な作品だと思いますが後の2本は映像の寄せ集めですね」
「『意志の勝利』は、先入観のない若者を一発でまいらせてしまうような、一種の催眠術的力のある作品です。…ドイツではこの映画は、教育目的で直前に影響をうけないようレクチャーしなければ上映してはいけないとされているのです」
司会 渡辺真理
「レニは、この映画でヒトラーを神格化させ、輝かせたがその先におこる事までは感知しなかったってことでしょうかね」
東海大学教授 鳥飼行博
「ヒトラーにほれ込んでいたという事はあるとおもいます。完成までには働きづめで大変なエネルギーを使ったと思います。…その一つは芸術に対する熱意ですが、もう一つはヒトラーに対する忠誠心、崇拝、ナチ信仰、など思い入れがあるからこれだけの作品が出来たんだと思います」
ヒトラーに気にいられたレニは、1936年、ナチス政権下で行われたベルリンオリンピックの記録映画『オリンピア』を2年がかりで制作、ヒトラーはベルリンオリンピックを利用してナチスの残虐な民族差別政策から世界の目をそむけようと考えていました。
その狙い通り、レニは差別のない平和な世界を見事に表現、オリンピアは記録映画の最高傑作と今でも評価されています。
オリンピアは世界中から高い評価を受け、レニはワールドツアーに乗り出します。ヒトラーが併合したばかりのオーストリアも訪問しました。
その頃、ナチスは本性を現していました。ユダヤ人迫害政策が大衆にまで浸透していたのです。ユダヤ人は権利をはく奪され、職業を奪われました。
その頃、レミは新生ドイツの代表としてアメリカの地に降り立っていました。…記者たちは思い切った質問を投げかけます。
記者:「貴方はヒトラーの恋人ですか?」
レニ:「新聞がそう書いているだけです」
1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻しました。…ヒトラーが前線を視察します。その時、レニもヒトラーの後ろにいました。…ドイツ軍の戦いぶりを讃える為、彼女もポーランドに来ていたのです。
あるドイツ兵がレニの前線訪問を記録していました。彼女は勝利を撮影するために戦地へ赴きました。
しかし、数名のドイツ兵が撃ち殺されるという事件が起こります。
カメラマン グッツィ・ランチュナー
「私たちは、ドイツ軍兵舎を撮影しようと思っていました。しかし襲撃によって死者が出ていたため撮影する事が出来なかったのです」
ドイツ兵は現地のユダヤ人たちに遺体を埋める穴を掘らせました…そしてその後、彼らを撃ち殺したのです。(ユダヤ人31人死亡)…レニは戦場の現実に直面しました。
「遺体を見たレニが卒倒する」(ドイツ兵の記録)
カメラマン グッツィ・ランチュナー
「彼女には耐えられませんでした。もう限界でした。撮影を続けたくなかったんです」
レニは辞めたいと訴えましたが認められませんでした。
それでも彼女はヒトラーへの忠誠心を忘れません。
1940年、フランスに勝利したヒトラーにレニは祝電を打っています。…「今回は内容に議論の余地はありません。言葉に出来ないほどの喜びを感じています。我が総統、私たちは貴方の偉大な勝利を共に体験しています。お祝の言葉を述べるだけでは、この感動を伝えきることは出来ません」
彼女は映画の撮影に戻ります。タイトルは『低地』…善と悪の戦いの映画になる予定でした。彼女にとって2作目の長編映画です。
舞台はスペイン、しかしエキストラをつとめる事ができる地中海沿岸地域の風貌をした人がいませんでした。結局エキストラには、収容所に入れられていたロマの人々を使う事にしました。
戦後レニは、ロマの人々を強制労働したと書きたてられ、名誉棄損で訴訟を起こしています。…しかし、レニに選ばれ彼女の映画に出演したエキストラの多くが後に収容所で亡くなりました。
撮影期間の分、寿命が延びただけだったのです。
1944年、レニはヒトラーに呼び出され、彼の別荘を訪れます…それが彼女がヒトラーを見た最後でした。
1945年5月、連合国がドイツに勝利しました。勝利軍はナチスの協力者や共犯者を次々と逮捕、もちろんレニも例外ではありませんでした。
彼女は尋問を受けます…レニは、プロパガンダ映画を作り、ヒトラーの神格化に協力した罪に問われていました…しかし、彼女はかたくなに否定します。
アービング・ローゼンバウム 取調官
「レニは打ちひしがれていました…ナチの協力者というイメージとはほど遠く、とてもヒトラーの友人のようには見えませんでした。彼女は自分にかけられた疑いをはらそうとしていました」
「彼女は本当のところ自分でやった事を全てわかっていながら否定したんだと思います。否定し続ける事で自分には罪は無かったと思い込もうとしたのでしょう。…しかし、それは真っ当な無実のしょうめいではありません…自分の言っていることが全て真実ではないと彼女はわかっていたと思います」
戦後、長期に渡り、レニの政治責任を問う裁判が行われましたが最終的に彼女は、ナチの同調者だという判決を下されます。
それ以降、彼女は自分が不当に迫害されていると感じるようになりました。
司会 渡辺真理
「戦後、レニは映画の世界に戻ってるんですか?」
明治大学教授 瀬川祐司
「これは大きな問題なんですがナチ時代にもっと悪質なプロパガンダ映画を撮った監督は沢山いたんですが、そういった彼らはみんな、1950年には映画界に復帰しています。…しかしレニは、終戦前に撮り始めた『低地』をなとか完成させます。これで認められる復帰だと思ったんですが大変なボイコット運動にあってしまいます。…その後『黒い積み荷』というアフリカを舞台の映画を撮ろうとするんですが途中で挫折してしまいます」
東海大学教授 鳥飼行博
「なぜレニだけといいますと…芸術的には価値の無いナチス賛美の映画などは後になってみればクズの映画です。レニの作品は後後まで残ってくる…影響力の強さですよね」
司会 渡辺真理
「結果、彼女の作品が評価されたからこそ非難が長かったということなんですね」
長く映画界に復帰できなかったレニ・リーフェンシュタールは、70歳を過ぎて別の事で世間を驚かせます。
レニは、1973年、センセーショナルな再起を遂げます。今度は写真家としてアフリカのヌバの人々を撮った写真集は世界中で高く評価されました。
レニの伝記「美の誘惑者」書者 ライナー・ローター
「それでも彼女を批判する声は後をたちませんでした…しかし彼女に対する批判は、全て彼女によって反撃されました…ナチスと特別な間柄であったとうい疑いを彼女は徹底して否定したのです」
レニは晩年になって再び脚光を浴びる事になりました。
彼女の才能が眠る事はなかったのです。
レニは101歳で亡くなるまで、最後まで謝罪する事はありませんでした。