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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。…当ブログ記事は転載OK…リンクを貼っていただけるなら遠慮なくお好きにお使いください。

ひめゆりの塔

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両陛下

沖縄 ひめゆりの塔

47都道府県の最後になってしまった沖縄の記事です。
沖縄には、沢山の観光地がありますが最初に紹介するのは、ひめゆりの塔 といたします。

戦争は自分から起こしてはいけないが、侵略され、やむを得ず戦わなければならない時が来たら負ける事は許されない。

戦争に負けるって事がどういうことなのか
日本の常識は世界に通じない
世界はルールなど守らない。

沖縄地上戦

初めに…
沖縄戦日本人死者:18.8万人(内民間人9.4万人)
米軍死者:12520人
米軍負傷者:72012人

日本人死者18.8万(軍人94,000)人に対し、米軍死者12,520人という数字を見て「圧倒的な戦力差に日本軍はまったく米軍に歯が立たなかった」という人がいますが…とんでもない事です。

戦争というのは死傷者を見なければなりません…米軍の死者、負傷者を合わせると8万4500人…つまり米軍に大打撃を与えたわけなんです。

日本兵は負傷したらそのまま死ですが、米兵は負傷するとすぐに手厚い看護のある病院船に後送されるのです。

この違いなのです。

沖縄戦 戦闘開始

1945年4月1日、まだ明けやらぬ沖縄近海には、米軍中部太平洋艦隊の艦船約1300隻が集結を完了。

早朝から米軍機は北、中飛行場方面に対地攻撃を加え、07:00頃から熾烈な艦砲射撃を開始した。08:30頃から米軍の上陸用舟艇が嘉手納海岸に達着して上陸を開始した。

この射撃は過去最大の上陸準備射撃で、44825発の大口径砲弾、33000発のロケット弾、22500発の迫撃砲弾が集中的に打ち込まれた。


迎え撃つ日本軍
特設第一連隊第一大隊

読谷村喜名東側洞窟に大隊本部があったが、4月2日に米軍の攻撃を受けてほぼ全滅した。

賀谷支隊長、戦闘開始前の中隊長ねの訓示
「通常は防御は3倍の敵に対すると言うが、今度の戦闘は何十倍という常識を越えた敵に対する戦闘だ。自分と自分の部下の命、そして国を護るため最善を尽くさなければならない」

賀谷支隊は実質約1000名程度の部隊であり、兵力だけで10倍以上の差があり、火力に至ってはまさに圧倒的な差であった。

独立歩兵第12大隊 第4中隊 吉村馨中尉以下
正面に上陸した敵に対し熾烈な戦闘を交えた。平安山正面の第1小隊は、斬り込み隊として各1個分隊を砂辺及び平安山海岸に派遣したが、夕刻までに小隊長以下殆どが戦死。


連合艦隊
連合艦隊はすでに主力艦艇の多くを喪失していたが、4月7日、『戦艦大和』以下、生き残った主力艦艇が水上特攻作戦を実施した。

この作戦は「大和」以下の艦隊を沖縄本島に突入させて艦を座礁させたうえで、固定砲台として砲撃を行い、弾薬が底をついた後は乗員は陸戦隊として敵部隊へ突撃をかけるという生還を期さな特攻作戦であった。

豊田連合艦隊長官
「帝国海軍部隊は陸軍と協力、空海陸の全力を挙げて沖縄島周辺の敵艦隊に対する総攻撃を決行せんとす。皇国の興廃は正に此の一撃に在り、以て皇国無窮の礎を確立すべし」


航空機による特攻作戦

日本軍は連合国軍の沖縄諸島方面への進行を阻止する目的で特攻作戦を実施した。
作戦名『菊水』…第一号~第十号(4月6~6月22日)まで実施された。

沖縄諸島周辺での特攻作戦において、…
海軍機は940機 戦死者2045名
陸軍機:887機 戦死者1022名
…内、133機が命中、122機が至近弾となり、アメリカ軍の艦船36隻を撃沈し、主力艦艇の多数を損傷させた。

この特攻によるアメリカ軍とイギリス軍の戦死者4907名、負傷者4824名


内陸へ移った戦闘…
やられてばかりじゃない

歩兵第22連隊(愛知県) 連隊長 吉田勝中佐
連隊本部、歩兵大隊3 歩兵砲中隊1 速射砲中隊1 通信中隊1、からなる連隊人員2876名

定員数2900名弱、4月22日から5月10日までの「幸地の戦闘」において歩兵第22連隊の総実数は約250名程度まで戦闘力は激減した。加えて重火器等の殆どが失われた。

沖縄戦最大の激戦であったシュガーローフ(安里52高地)日米双方最大の死傷者を出した。
およそ10日間にわたる戦闘でアメリカ第6海兵師団は2662名の死傷者と1289名の戦闘疲労PTSD)の兵士を生じた。


押し込まれる日本軍

5月上旬の日本軍攻勢移転後の新陣地に於ける戦闘も、西の安里52高地や、中央の130高地・140高地・150高地が米軍に奪取され、東の運玉森もほぼ制圧されるという状況となり、日本軍はいよいよ首里を中心とする狭い複郭陣地に拠らざる得なくなった。

首里複郭陣地の激烈なる戦闘は20日ほど続いたが、ついにこれから撤退し日本軍は南下を始める。…日本軍は筆舌に現しがたい激戦を継続し、幾百の攻防戦を繰り返し、やがて消耗の度を増していった。

米軍も日本軍の激しい応戦により、精神に異常をきたす兵隊が続出した。(現代で言えばPTSDでしょう)

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各地で戦線が破られるも
…善戦!

日本軍陣地はいずれも前方に平野部が広がる台端を第一線陣地とした。

6月7日:新城前進陣地(第2歩兵隊第3大隊)が米軍に包囲され、馬乗り攻撃を受ける。

※馬乗り攻撃:洞窟の中にいる日本軍に対し、爆薬を投げ込み、入口から火炎放射機で噴きつけ抵抗が続けば洞窟の上部から掘削機でこじ開け、爆薬を投じるという凄まじい攻撃の事

6月8日:新城前進陣地(第2歩兵隊第3大隊)は敵中に孤立、各中隊とも死傷者増大したため大隊本部壕に集結。…前進陣地である独立混成第15連隊第2大隊陣地が米軍により、一部突破される。

6月9日:東部戦線では第17連隊第3大隊が日本軍主陣地の一角を確保するも、具志頭陣地の独立混成第15連隊第1大隊が重囲に陥り、分断孤立の状況地なる。

6月11日:具志頭陣地の独立混成第15連隊第1大隊は訣別電を発して総員斬り込みを実施。
東部戦線右翼の日本軍主陣地の核心であった91高地が米軍に占領される。日本軍主陣地の一部が突破された。

6月12日:西部戦線「国吉台地の戦闘」が開始される。米軍が歩兵第32連隊陣地に到達するが、損害は米軍側の方が大きい。
東部戦線の八重瀬岳南東側に霧にじょうじて米軍が侵入する。
東部戦線の日本軍(独立混成第44旅団)は一気に危機を迎える。

6月13日:東部戦線八重瀬岳台上に米軍戦車が進出。独立歩兵第23大隊第5中隊は全滅の危機に瀕する。…また玻名城の特設台3連隊が壊滅状態となり、独立混成44旅団の戦線破綻が現実味を帯びてくる。

6月14日:西部戦線「国吉台地の戦闘」において米軍が再再度日本軍陣地内に侵入するがことごとく撃退す。
東部戦線では岳頂上部がついに米軍に占領される。
八重瀬台上の独立歩兵第23大隊第5中隊が全滅。

6月16日:西部戦線国吉台地の戦闘において、米軍がついに日本軍陣地上に歩兵を確保する。
与座岳が米軍に占領される。これにより日本軍砲兵の観測点を失い、有効な射撃効果を得られなくなり、組織的な戦闘を発揮することが出来ない。

6月17日:西部戦線国吉台地の戦闘において、米軍が日本軍主陣地を突破、第24師団左翼戦線は壊滅した。
東部戦線の独立混成44旅団はほぼ戦力を失い、代わりに第62師団が第一線に進出するが、有効な機動力も戦力もなく、組織的戦闘はついに破綻する。

6月18日:西部戦線には組織だった日本軍部隊はなく、沖縄県民と日本軍将兵は南部喜屋武岬方面に向かって南下を続ける。
東部戦線には疲弊した第62師団隷下部隊が戦線を形成しようと企図するが、各部隊とも各個に撃滅されて壊滅状態となる。

日本軍は真栄平・真壁・摩文仁に封入される。
事実上、日本軍の戦闘は終結した。

6月20日~23日:この3日間は米軍の日本軍壊滅作戦である。
22日正午頃に摩文仁集落で沖縄第32軍司令部守備隊の銃声が消え、これで全ての戦闘が終結した。

 

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戦闘終了

民間人犠牲者9万4000名のほとんどが、日本軍の組織的抵抗が出来なくなった後の、米軍による攻撃の犠牲者となっています。



 

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ひめゆりの塔 石碑

ひめゆりの塔 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

ひめゆりの塔ひめゆりのとう)は、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑。現在の沖縄県糸満市にある。1946年4月7日除幕。

慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊にちなんでいる。「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉で、元来は「姫百合」であったが、戦後ひらがなで記載されるようになった。なお、植物のヒメユリとは関係がない。

「塔」と名はついているが、実物は高さ数十センチメートルでそれほど高くはない。これは、終戦直後の物資難な時代に建立された事と、アメリカ軍統治下に建立されたという事情によるものである。

また、この種の慰霊碑は、沖縄県(特に沖縄本島)には非常に多くあり、ひめゆりの塔はそれらのうちで一番古いものではない(最古のものは、ひめゆりの塔と同じく金城夫妻らが米須霊域に建てた「魂魄の塔」(こんぱくのとう)であるとされている)。しかし、1949年に石野径一郎によって碑に関する逸話が小説化されると、直後に戯曲化され、さらに同名の映画が作られ有名となった。沖縄戦の過酷さ、悲惨さを象徴するものとして、現在でも参拝する人が絶えない。

ひめゆりの塔から外科壕跡を挟んだ奥には慰霊碑(納骨堂)が建てられており、さらに、その奥には生存者の手記や従軍の様子などを展示した「ひめゆり平和祈念資料館」がある。また、敷地内や隣地には沖縄戦殉職医療人の碑など複数の慰霊碑や塔が建てられている。

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ひめゆりの塔 石碑

 管理人の独り言

戦争ほど馬鹿な事は無い
何の解決にもならない

もう一度言おう…
世界は、お人よしの日本人の常識が通用するような場所ではない
また戦争をせざるを得ない状況に追い込まれたならば… ”必ず勝たなければならない”。

 

 

 

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