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坂本龍馬 暗殺の瞬間に迫る ~最新研究から描くミステリー~

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NHK 歴史秘話ヒストリア
坂本龍馬 暗殺の瞬間に迫る ~最新研究から描く 幕末ミステリー~

今から146年前、幕末の京都で大事件が起きた…
坂本龍馬 暗殺事件

その全貌は、いまだ
謎に包まれている


これまでドラマや映画で何度も描かれてきた坂本龍馬暗殺、龍馬のいた部屋に大勢の刺客たちが侵入、龍馬と盟友の中岡慎太郎は、なすすべもなく斬られました。

しかし、現在残されている事件の資料を分析すると…掛け軸に残された龍馬のものとされる血痕の位置を分析すると龍馬は座ったまま斬られていたと分析されます。(上記写真…血痕の位置が床から60センチと低く、左から右に散っている)

その瞬間、何が起こったのか…掛け軸のミステリーから龍馬暗殺の謎を解き明かします。


坂本龍馬 暗殺事件

事件が起こったのは、慶応3(1867)年11月15日、…報せを聞いた土佐藩士が向かったのは、京都河原町の醤油商・近江屋。

被害者は3人、土佐出身で幕末変革の立役者となった坂本龍馬(33)はすでに絶命、…従者の山田藤吉(19)も出血多量で翌日亡くなります。…龍馬の盟友で土佐藩士の中岡慎太郎(30)も瀕死の重傷でした。

中岡慎太郎
「はがいぜよ!(残念だ!)…」

犯人は既に逃走しており、行方は分かりませんでした。

龍馬が暗殺された部屋は、屋根裏の隠し部屋は、天井が斜めになっており低く、刀を振り回す事が出来ない…つまり、敵の多い龍馬には最適な隠れ家だったんです。

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龍馬は更に強力な武器を携帯、慶応2(1866)年1発23日、旅館の寺田屋で幕府の役人とその手下に囲まれた際、龍馬は懐に忍ばせていたピストルを発砲、役人の手下2人を殺害し逃走しています。

暗殺時の遺留品から当日も鉄砲を携帯していた事がわかりますが、何故か玉が込められたままで発射された形跡がありません。

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刀を収めた ”鞘(さや)” も抜く間もなく割られています。…剣豪としても名を馳せた龍馬が殆ど抵抗てない点も奇妙です。


龍馬暗殺者の真実に迫る

11月15日におこった龍馬暗殺、一緒に殺された中岡慎太郎は、2日間息があったため、土佐藩士たちは実行犯の聞き取りを行っています。

中岡が襲撃犯と考えたのが新撰組、当時、幕府の元で京都の警備活動を行っていた剣豪たちの集団です。…新撰組犯行説は当時、広く信じられ、恨みを抱いた土佐藩士によって局長の近藤勇は、後に斬首に追い込まれています。

ところが明治3年、驚くべき証言が出てきます。…幕府の役人だった今井信郎という人物が 「龍馬暗殺に加わった」 といい出したのです。

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東京大学資料編纂所・維新史料室には新政府・兵部省で聴取した今井の証言記録が残されています。

坂本龍馬を殺害したのは、見廻組である…そしてその指図は組頭・佐々木唯三郎によるものである」…見廻組とは当時、京都の治安時事を担っていた幕府の役人たちからなる警察組織です。

今井の証言は、事件直後の状況と符合するところが多く、また当事者しか知りえない事も含まれていました。

更に別の見廻組隊士も詳しい証言を残していました…その為、今では多くの研究者が龍馬暗殺の実行犯は見廻組であると確実視しています。

暗殺事件の直前、佐々木は隊士の中から精鋭を選び出す作業をしています。…これは見廻組隊士の桂早之助という人物が佐々木に提出した記録、初公開資料です。

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書かれたのは暗殺の5か月前(慶応3年6月)自らの経歴を詳細に記した、いわば履歴書でした。…桂はこの中で自らの目覚ましい実績について記しています。

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「御城中(二条城)での剣術」…上様の前で良い結果を出し、褒美として白銀5枚をいただきました。

桂は3年前、二条城で行われた御前試合で一流の剣豪を相手に20人抜きを達成、400人いる見廻組の中でも飛び抜けた剣の腕を持つ事を示しています。

別の資料には、桂が用いた剣術についても記されています。

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(是心流兵法目録)

その流派の名は、西岡是心流西岡是心流は現在絶えており、どのような剣術かはわかっていません。…しかし、その記録には一つだけ興味深い記述があるます。

「右は小竹刀にて使うなり」 …通常は長太刀を持つはずの右手に短い小太刀を持つという、かなり特殊な二刀流なのです。

この短い小太刀が威力を発揮できるという場所、それは狭い空間、佐々木が龍馬暗殺の首謀者とすれば隠れ家での戦闘に備え、最適な人物を選んでいた事になります。

抜擢された桂にとっても名を上げるチャンスでした。…桂家は代々、二条城の門番を務めていた同心、役職としては高いものではありません。…この同心クラスの役人が家柄ではなく、腕だけで重要任務を任されるのは、大変名誉な事です。


龍馬暗殺
8畳間で何が起こったのか?

慶応3(1867)年11月15日、この夜、龍馬捕縛に参加したのは、7人(今井信郎の供述より)…事前の偵察から河原町通りの近江屋が龍馬の潜伏先だと分かっていました。

張り込みを担当したのが佐々木が抜擢した桂早之助でした。中には3人の来客があり、龍馬が一人になる機会を覗っていました。

夜8時を回った頃、2人が去りました…一人客が残っているようです。(中岡慎太郎

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この頃、近江屋内部では、二階奥に龍馬と中岡慎太郎、その下には主人夫妻、板の間には龍馬のボディーガードだった山田藤吉がいました。

9時過ぎ襲撃者たちは、リーダーの佐々木を伴い、客を装い近江屋の戸を叩きます。藤吉が対応、佐々木たちは偽名の名刺を差し出す、藤吉が龍馬のもとへ来客を告げぬ行く…桂らが藤吉の後を付け、龍馬の居場所を確認…

 

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部屋から出てきた藤吉を斬捨てる…ここから先、8畳間で何が起こったのかを証言と物証を元に再現してみます。

掛け軸に残された血痕から推測されるのは、龍馬は座ったままであったこと…小太刀の名手・桂早之助が客を装い8畳間に入る。

桂は長刀を右に置き、敵意がない事を示して龍馬と向き合います。しかし、小太刀は左脇差しのまま。

そして小太刀を抜き放ち ”一閃” …右手で振るった桂の小太刀は、座ったままの龍馬を確実にとらえ致命傷を負わせたのです。

更に、二度三度…防いだ龍馬の刀の鞘(さや)を割って中の刀身を削り取るほどの激しいものでした。

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見廻組隊士、の一人、渡辺篤の証言によれば、男たちは土佐藩士の追撃を恐れ、すぐに近江屋を後にしました。


龍馬が殺された後、徳川家を新政府から排除しようという動きが急速に強まります。

慶応4(1868)年1月3日、龍馬暗殺から1ヶ月半後、鳥羽・伏見の戦いが勃発し、新政府軍と旧幕府軍が激突します。…この戦いで見廻組の佐々木只三郎桂早之助など暗殺に関わった隊士の多くが命を落とす事になりました。

研究者の磯田道史さんは、龍馬暗殺は結果的に徳川家の滅亡を早めたと考えています。

静岡文化芸術大学 准教授 磯田道史
「龍馬は、徳川慶喜を新しい政府の中で位置付ける…その作業をやっていた人物です。龍馬は危険に見えて実は徳川家を守ってくれる人でもあったのです。…彼らは龍馬を斬ったと喜んでいるものの、実は徳川家の命脈を縮めていたのです」

「むしろ誤った誤爆、味方を討ってしまった、敵失、オウンゴールであった」

暗殺直前、龍馬はある人物と頻繁に会合をしています。徳川慶喜の側近であった永井玄蕃、恩師勝海舟の上役にあたる幕府開明派の重鎮です。…龍馬はその永井と何度も密会を交し、来るべき新政府の構想を練っていたのです。…この時、龍馬は永井に対し、新政府の中枢に慶喜を迎えるべきだと進言しているのです。


最後に龍馬は自らの暗殺を覚悟してある言葉を残しています…姉・乙女あて 龍馬書簡(文久3(1863)年6月29日

日本を今ひとたび
せんたくいたし申しそうろう

私を決して
長生きするものと
思ってはいけません

私が死ぬ日は
天下の大きく変わる時でしょう

生きていてもいなくてもよい
役立たずとなるまで
死ねません

すずめ貝のように
いつも鼻の先に土をつけ
頭を砂にかぶって
目立たぬように潜んでおります

ご安心ください