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日本海軍400時間の証言 ”開戦あって国家なし”

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NHKスペシャル 太平洋戦争開戦 その鍵を握った9人の参謀

太平洋を疾走する大日本帝国連合艦隊・・海軍は開戦時、戦艦10隻、空母10隻を擁し世界3位の規模を誇りました。・・明治以来近代化を推し進めてきた日本の象徴でした。

昭和16年12月8日 真珠湾攻撃 日本はアジア、太平洋への勢力拡大を図りアメリカに挑みます。
この戦争で中心的な役割を果たしたのが海軍です・・その結果失われた日本人300万人の命・・「この戦争は、誰が何のために始めたのか」 戦後当事者の多くが沈黙を守り、詳しいいきさつが明かされる事はありませんでした。

去年、元海軍将校の遺品の中から大量のカセットテープ225巻、時間にして400時間が見つかりました 「海軍反省会の記録」 開戦時、海軍の中枢にいた人たちが戦後密かに集まり誰にも語っていなかった記憶を打ち明けていたのです。

元大佐 「責任は、東条英機一人じゃ無い むしろ海軍側にある」
元大佐 「陸軍は暴力犯、海軍は知能犯・・いずれも陸海軍あるを知って国あるを忘れていた」
元中将 「本当の事実を後世に伝えなければ本当の事はわからない」

反省会には、軍令部の参謀達が数多く参加していました・・太平洋戦争の作戦を立案した海軍の頭脳達・・戦争の大義を十分問う事もなく、勝算の無いまま開戦へと突き進んだのです。

軍令部作戦課 佐薙 元大佐 「本当に国力その他 検討して対米戦に勝てるのか勝てないのかという事を真剣に検討しなかった」
軍令部作戦課 三代 元大佐 「軍備拡張の為に、ずいぶん予算を使ったので戦えないとは一切言えなかったって事ですな」
元中佐 「明治末期から大正 昭和に進むに従い思い上がりおごりが高じ身の程を知らぬ暴走をやり、ついに日本を破滅に追い込んだ」

これまで決して明かされることの無かったエリート集団、軍令部の実像・・なぜ無残な結末をむかえる戦争を始めたのか当事者たちの告白記録です。

海軍反省会の会場は、東京原宿の水交会(海軍将校達のOB会)です。
反省会は月一度、130回に渡って行われ、参加者は元大尉から元中将まで40人、議論は毎回3時間におよび毎回カセットテープに録音されたのです。

 

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内容を公表しないまま会は、平成3年に終わりました。なぜ公表しなかったかは、「議論の内容は、正直に恥をさらす訳だから門外不出にしよう・・だから自由な発言をしよう」 という事だったようです。
しかし参加者のほとんどが亡くなり、テープを保管していた幹事が 「二度と間違いを繰り返さないように」 とテープを公表したのです。

このテープが貴重なのは、参加者の多くが戦争を指導した機関である軍令部の参謀だったからです。
海軍というと海軍省連合艦隊と思いますが、しかし一番実権を持っていたのが軍令部なのです。

海軍は主に3つの組織から成り立っています。
海軍省:予算人事などを統括する
軍令部:作戦立案
艦隊 :軍令部が立てた作戦を基に戦地で戦う

軍令部は、天皇が持つ軍隊を指揮する権利、統帥権を補佐する機関として絶大な権限を握っていました。総長をトップに4つの部からなり、70人の参謀が所属していました。

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軍令部は、天皇直属という権威を背景に政府や海軍省に対し強力な発言権を持っていました。
太平洋戦争直前、陸軍の参謀本部とともに政府に強く開戦を主張しました。

一方、政府や海軍省が軍令部の作戦に介入する事は出来ませんでした・・軍令部は、統帥権の独立を楯に国家を動かして行ったのです。

軍令部に配属されるのはエリート中のエリートのみ・・当時入学するのが最も難しいとされた海軍兵学校の中から極一部が軍令部に配属されたのです。
軍令部の中でも特に立ち入りが厳しく制限されていたのが作戦室、戦時中、数多くの作戦が同時進行で行われていたのですがその方針を決めたのが僅か10人ほどの参謀でした。

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参謀は、他の軍人と区別する為、肩から胸のあたりに 「飾緒」 と呼ばれる飾りを付けていました。
彼らが最大240万人の海軍軍人らの命を預かっていたわけです。
反省会には、この写真に写っている 「佐薙中佐」 「三代中佐」 が参加しています。
二人は、軍令部がどのようにして開戦を決断して行ったのか生々しく語っています。

第10回反省会 昭和56年1月30日
軍令部作戦課 佐薙 元大佐 「ある程度のリスクを冒すのは当然ですけども軍令部に勤務されたり、海軍省に勤務された偉い方がおられる。十分、日本の作戦計画の根本というのはご承知のはずであるけれども、それを本当に検討されづにどんどん勢いに流されていった」

昭和16年8月 アメリカの経済制裁 日本への石油輸出を禁止 
石油が無くなれば戦艦や戦闘機を動かせなくなる・・開戦の4か月前、軍令部はアメリカとの戦争の準備を急ぎます・・石油は日に日に減って行く事に対する焦りがあったのです。

一方、海軍省アメリカと戦争する事に慎重でした。
当時、海軍省で艦隊への兵站補給を手掛けていた保科善四郎元中将は、軍令部のずさんな作戦に驚き開戦に反対したと言います。
「私が実際、兵備局長をやらされて調べてみるとね、とても出兵準備なんていうのは、まるで夢みたいなもんだ・・作文は出来ておったんです。しかし計画が・・まるで使う事が出来ない兵器まで載せてる、帳面を合わせるために」・・・。
そして多くの将校は、アメリカとの戦争に不安をいだきながらも早期の開戦を主張する軍令部に引きずられて行きました。

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当時陸軍は中国との戦争で数十万人の死傷者を出しており今更撤退は出来ないと主張、東条英機陸軍大臣は、「撤退すれば陸軍はガタガタになる。統制が効かなくなる」 と警告しています。

軍令部が開戦を決断したのはなぜなのか軍令部総長永野修身大将は、真珠湾攻撃の4か月前 昭和天皇に 「このさい打って出るの他無し」 と開戦をを進言しています。

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軍令部作戦課 三代 元大佐は、永野総長からその真意を打ち明けられていました。
「なぜあなたは(永野総長)は戦争に賛成するような態度をとったのかと問いかけると、海軍が戦争できないと反対したら右翼や陸軍がですね これに対して内乱を起こすというんですよ」
「内乱が起こると人数上、海軍はかなわんから何ヶ月後には負けて結局そういう連中の右翼の内閣が出来て時期を失して日本としては不利な戦争をやらなきゃならない」
「どうせ戦争をやらなきゃならぬなら少しでも勝ち目がある間にやるべきだと言うのが僕の(永野総長)考えだ! とこう言われました」
永野総長は、陸軍の内乱、クーデターによって海軍が支配下におかれる事を恐れていました・・開戦を決断したのは、海軍という組織を陸軍から守るためでもあったのです。

”戦争は避けられたはずだ” ・・元中将が主張しました。
「軍令部は内乱が起こると言うが内乱が起こったって海軍が反対すれば戦争にはならない・・あれだけの人を殺して戦争するよりも若干譲歩をしてね・・そう言う事がたらなかった事を反省してもいいと思うんだ・・当然」

第46回反省会 昭和58年9月14日
軍令部の経験がない戦争中 空母の艦長として最前線で戦ってきた野元為輝元少将が議論の口火を切りました。・・誰も触れようとしなかった軍令部と皇族の関係に言及しました。
「永野、嶋田両大将の事をご批判するだけでは、はなはだ批判の範囲が狭い・・博恭王が9年間も軍令部総長をやっている・・ああいうのは妙な人事である・・殿下がひと言いわれると ”ハイ” しか言えない」
「言いすぎかもしれないけど皇族に対する考えにもう少しブレーキをかける空気がなかったのをはなはだ遺憾に思うのであります」

野元元少将が語った殿下とは、軍令部総長 伏見宮 博恭王元元帥の事です・・日露戦争にも従軍した海軍の英雄でした・・昭和天皇より26歳年長で厚い信頼を寄せられていたと言われています。
昭和7年に海軍軍令部総長に就任、在任中の9年間、海軍は急速に軍備を拡張しました。

伏見宮総長の副官 末国正雄 元大佐が質問に応える形で重要な言葉をもらします。

木山正義 元中佐
昭和8年に軍令部の権限を強化する事になる法案が通るんです。それはね バックが違うから・・バックが宮様ですもん・・私はそれがね大東亜戦争の最初の原因がその付近から出るんじゃないかとおもう・・末国さんどうですか?」
末国正雄 元大佐
「それ(法案)を通したい為に宮様を持って来たんだから・・これ謀略ですよ」

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軍令部が謀略によって通したと言う法令は、昭和8年 軍令部の権限を強化した法令の事を指しています・・この時から軍艦の数、装備といった兵力量の決定が海軍省から軍令部の主導へと移る事になるのです。
軍令部は当時、米英との軍縮条約に不満を持っていました。保有する軍艦の数が制限されていたからです。この条約締結は政府や海軍省が主導したものでした。
軍令部は、兵力量の決定を統帥権に取り込む事で軍備拡大を推し進めようとしたのです。

しかしこの改定と伏見宮総長の関係が反省会で開かされる事はありませんでした。・・末国元大佐が語った謀略とは、いったい何なのか・・防衛省防衛研究所に手がかりが残されていました。

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海軍の極秘文書 ”軍令部令改正の経緯” 軍令部が法律を通して行った過程を海軍省の課長が証言していました。
「××はこの案が通らねば○○を辞める」 取材を進めると××は伏見宮殿下、○○は海軍軍令部長を表わす事がわかりました。

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軍令部は、伏見宮元帥の辞任をチラつかせ海軍省に改定を認めるよう迫っていたのです。
しかし昭和天皇は、法令の改定が軍令部の権限拡大につながると強い懸念を示していました。・・今回の取材で入手した海軍省の極秘資料綴り、改訂への許しを求める海軍大臣に厳しい態度で臨む天皇の姿が初めて明らかになりました。
「陛下は、軍令部の権限が拡張せらるる結果、軍令部が勝手に外国に兵を出すがごときをごしんねんあそばせられたる・・陛下の御顔色が極めてシーリアスに配せられたる」

これに対し海軍大臣は、軍令部と海軍省の権限に大きな変更は無いと説明・・結局天皇は改定を認めるのです。

しかし、昭和天皇が懸念した軍令部の暴走が現実のものとなるのです。
昭和9年 伏見宮総長は、軍縮体制からの脱退を天皇に進言、それ以降、アメリカやイギリスとの軍縮条約は更新されませんでした。

軍縮の足枷が無くなった海軍は、戦艦大和の建造など軍備拡大を急速に進めてゆきます・・軍令部の意向に国家が引きずられた結果、アメリカ、イギリスとの対立は極めて深刻なものとなって行きました。

反省会で伏見宮総長にこだわった野元元少将、軍事力と皇族の権威が結び付いた事を反省すべきだと訴え続けました。

野元為輝 元少将
「これは我々の半生であり(伏見宮)殿下に対する批判も必要であるけれどもそれを将来の日本が同じような過ちを犯さないようにすることが大きなこの反省会の目的と考えなければならない」

元々軍令部は、作戦を立案するセクションであり、政治とは一線を隔していました・・しかし皇族を総長に迎え軍縮体制からの脱退という政治目的を達成しました。
政治への介入は次第にエスカレートしやがて国家を動かす強大な権力を手にします・・その象徴的存在と反省会が指摘しているのが第一委員会という特別な組織です。

昭和15年 第一委員会設立
第一委員会は、軍令部の作戦課で開かれました国家総力戦準備の中枢機関と位置付けられていました。
開戦の半年前、第一委員会は 「現情勢下において帝国海軍の取るべき態度」 という報告書を完成させます。
日本の自存上やむえなければ東南アジアに進出し石油など戦争に必要な物資を確保すべきだと提言しました。・・そして武力行使の条件を具体的に列挙しアメリカ、イギリスが日本に対して石油の供給を停止した場合と結論付けています。
その後の日本は、まるで第一委員会のシナリオをなぞるように敗戦へと向かって行きました。・・第一委員会の人々はどのような思惑でこの報告書を書きあげたのでしょうか。

第111回 反省会 平成元年4月24日
反省会は、海軍が戦争へ突き進んだ責任を問い直そうと第一委員会を検証しました。
第一委員会には、軍令部と海軍省からえりすぐられた中佐、大佐が集まっていました・・メンバーは、軍令部 富岡大佐、大野大佐・・海軍省 高田大佐、石川大佐など7人です。

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本来作戦を練るのが務めである軍令部員が陸軍や政府関係者と連携し政治への影響力を強めていったのです。
第一委員会が設立された当時、伏見宮総長の副官だった末国大佐は、第一委員会のメンバーが組織のルールを無視して次々と決済を得てゆくのを目の当たりにしました。
「強引に印を押させた」
「次長がハンコを押さないと言ったら直接総長へ持って行ってハンコを押す」
「一部の人は陸軍と通謀して政治をもて遊ぶ事に快感を感じていた」
「いわゆる中佐、少佐、あるいは大佐ぐらいの小僧にそういう事(政治)をやらせる制度を作ったこれに問題がある」

昭和16年4月 新たに軍令部総長の地位に就いた永野修身大将、この3カ月後、天皇に開戦を進言するのです。・・そのきっかけとなったのが第一委員会の報告書だと軍令部の佐薙元大佐は指摘します。
「永野軍令部総長は、第一委員会のメンバーは良く勉強していると言って彼らの作った報告書を鵜呑みにしてしまった・・この第一委員会の資料が出て以降、永野総長の言動がより強硬になった・・非常に影響を与えた事は間違いない」

第37回 反省会 昭和57年12月22日、第一委員会の目的とは何か反省会は一度、真意をただそうとメンバーの一人、高田利種大佐後の少将を招くも高田大佐は、昔の事は覚えていないなどあいまいな返答に終始し二度と反省会の招きに応じませんでした。

第一委員会の資料は、現在ほとんど残っていません・・しかし戦後、海軍関係者が委員会のメンバーにインタビューを行っていたのです。
高田元少将は、そこで戦争への準備を迫った当時の思惑を証言していたのです。
「それはねデリケートなんでね予算獲得の問題がある・・それが国策で決まると大蔵省なんかどんどんお金くれるんだから、それが国策として決まれば臨時軍事費がドーンととれる・・好きな準備がどんどんできる・・ですから海軍の心理状態は本当に日米交渉を妥結したいと戦争しないで片づけたいと・・しかし海軍が意気地がないとか言われたくない」 とまるで自慢するかのように快活に高田元少将は答えています。

アメリカとの軍事予算を出来るだけ獲得し、その後でアメリカと妥結する、それが狙いでした。
開戦の年、海軍は前年の倍以上の軍事予算を獲得しました・・しかしそれは国民の命を危険にさらす事と引きかえでした。

海軍が先端を開いたアメリカとの戦争、自らあおりたてた対立が予想を超えてエスカレートした結果でした・・しかし軍令部作戦課は、長期的な作戦をほとんど考えていなかったと反省会で告白しています。

軍令部作戦課 佐薙 元大佐
「軍令部の一課の定員は平時定員のままなんです・・平時定員のままで戦争が忙しくなって特に陸軍との折衝が頻繁にあると、それから作戦部隊との交渉その他もいろいろあると、あるいは戦地への出張もあると」
軍令部作戦課 三代 元大佐
「そればっかりじゃ無くて軍令部二課の部員を兼務させられた。その次に第12課が出来て ”三代君ひとつやってくれんか” と頼まれましたがとても余裕がないのでお断りしたが、名前だけでいいからと結局、名前だけ入れられちゃった」

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昭和17年6月 ミッドウェー海戦
ほころびは開戦の半年後に始まりました。ハワイ島 ミッドウェー島沖での開戦で海軍は大敗北を規すのです。空母4隻、熟練のパイロットなど3000人を失い日本は敗戦への坂を転がり落ちるキッカケになったのです。

ミッドウェー作戦を立案したのは連合艦隊でした・・連合艦隊 山本五十六司令長官は、日本海軍が優勢のうちにアメリカ海軍に決定的な打撃を加えようともくろんだのです。
軍令部は、この作戦を危険と判断しながらも連合艦隊を説得できる別の作戦を提示できませんでした。

ミッドウェー作戦を実行する決め手となったのが軍事上の理由ではなく海軍首脳同士の人間関係だったといいます。
軍令部作戦課 三代 元大佐
連合艦隊長官の意見に対しては、極めて反論して頑張ったけど永野総長が ”山本がそう言うならやらせてみようじゃないか” 言うようなところででしてね(ミッドウェー作戦を)決めちゃったんですよ・・真珠湾作戦が成功したもんですからね・・極めて残念な事だと思うんですがわしなんかそれでもって泣いちゃったんですよ。こりゃダメだと」

兵士の命を預かる立場にありながら無責任な決断を下していた軍令部、ミッドウェー作戦に参加した潜水艦部隊の元参謀が声を荒げました。・・準備期間を十分設けないまま作戦を強行し3000人の犠牲者を出したその責任を問うたのです。
第三潜水戦隊 元参謀
「とにかく航空艦隊も潜水艦隊もねミッドウェー作戦を延ばしてくれとあれほど言ったのにですね・・その辺りはどうなんですか・・1ヶ月延期してくれって事ですよ・・軍令部一部がどのくらい研究しておられましたか・・あなたは、わかっておったと言うけどわかってないですよ・・それを本当に知っておったらできないですよ・・それがですな本当の前線に実際にやってる人間と同じようにですね・・本当に腹に入っておったらですね。連合艦隊にミッドウェー作戦は駄目だと言えたはずなんですよ」

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軍令部は、ミッドウェー作戦が敗北に終わり多くの犠牲者を出した事を国民に伝えませんでした・・作戦を認めた軍令部、実行した連合艦隊、誰も責任を取ろうとしませんでした。

その後、海軍は敗北を重ね太平洋の制海権を失ってゆきました・・太平洋の島々には多くの兵士が取り残され餓死と玉砕が繰り返されていきました。

敗戦が決定的となっても日本は戦争をやめず海軍は若い兵士を特攻へと送り出して行く・・それぞれの仕事に埋没し、国民一人一人の命が見えなくなっていった将校達、その姿勢は 「海軍なって国家なし」 と言わざる得ません・・そうした内向きの姿勢は戦後になっても続き反省会の元将校達は、その記録を公開しませんでした。

しかし彼らを一方的に避難していいのでしょうか・・縦割りのセクショナリズム、問題を隠蔽する体質、ムードに流され意見を言えない空気、責任のあいまいさ、元将校達が告白した戦争に至るプロセスは、今の社会が抱える問題そのものであり、我々自身もそうした社会の一員であるのです。

元将校達は、二度と過ちを繰り返さないと為に反省会を始めたと語っていました・・彼らの言葉を真の教訓としていける社会で無くてはならないと強く感じます・・それがあまりにも多くの犠牲者を出したこの国に生きる私達の責任だと考えます。

 

『世界が語る大東亜戦争東京裁判
吉本貞昭 著 『はじめに』(ハート出版)