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巨大組織 陸軍 暴走のメカニズム 日本人はなぜ戦争へと向かったのか(2)

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NHKスペシャル 日本人はなぜ戦争へと向かったのか(2) 「陸軍 暴走のメカニズム」

大日本帝国陸軍、国家を戦争へと導いたといわれる巨大組織です・・明治以来の陸軍の組織が変質をきたしたのは太平洋戦争の20年前、南ドイツのホテルの一室に3人の若き日本人将校が密かに集いました。

議題は、新しい時代の戦争でした・・第1次世界大戦(1914-1918)圧倒的な破壊と殺戮、遥かに劣る日本の現実に彼らは危機感をつのらせました。

そして同志を集めました・・会の名前は、『一夕会』古い体質の陸軍を刷新するという改革の理念に共鳴した40人のエリートでした。

しかしその改革は思いもよらぬ結果を生みます・・中国の要人暗殺、日本が国際社会から孤立するキッカケとなった謀略、日中全面戦争の戦端を開く事となる事件、そして太平洋戦争の開戦…
1928年 張作霖爆殺事件
1931年 満州事変
1937年 盧溝橋事件
1941年 太平洋戦争開戦
合理的な改革を目指したはずの彼らは、なぜ無謀な戦争へと向かっていったのか・・戦争へ至った理由を当事者たちが語っていました。

その肉声テープの存在が今、次々と明らかになっています・・残された証言記録は約100人・・そこから浮かび上がるのは派閥抗争や肥大化など巨大組織特有の負の側面でした。

最大550万人 巨大組織陸軍・・発掘された肉声証言を手掛かりに戦争に至った暴走のメカニズムに迫ります。

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日本陸軍は戦前の最大の官僚組織ともいうべきものです・・日本を戦争に引きづり込んだ元凶・主犯とも言われていますが新しい資料で浮かび上がってきました。

戦争への道を陸軍が一丸となって一糸乱れず真っすぐに突き進んだわけではなく、いくつかの誤算が重なって戦争へ突き進んでしまったんだという事がわかってきました。

まずは、1920年代の陸軍改革運動はなぜ起こったのか・・そしてそれは陸軍全体の組織にどんな影響を与えたのでしょうか…。

千葉県山武郡、ここに陸軍の組織を知る上でカギとなる人物が晩年を過ごした場所がありました・・戦後A級戦犯となった鈴木貞一元陸軍中将、対米開戦の責任者の一人として終身刑を言い渡され10年間服役しました。

亡くなってから22年間開けられる事の無かった金庫が残されていました・・鈴木は昭和の初めから常に陸軍の中枢を渡り歩いて来ました。

遺族 鈴木光範さん
「御前会議で報告する原稿がありましたね・・開戦前夜の開戦を決定する・・戦争を遂行するに際して資源の調達とか陛下に上奏した・・・」

資料からも陸軍の転機となる多くの場面に立ち会っていた事が伺えます。

金庫に保管されていた日記には、鈴木が若手将校として活躍し始めた1920年代、すでに組織の改造を議論していた事が記されていました。

鈴木は肉声テープも大量に残していました・・ここでも改革の始まりについて語っています。

元陸軍中将 鈴木貞一(肉声テープ)
日本陸軍というものは、ほとんど山県さんがやっていた・・目を開いてモノをやるという事が無いのだ・・だから下の方の永田とかいうような優秀な人から見ると『ああバカらしい』という事になるのですよ」

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元老が支配する古い組織に疑問を抱いていたという永田とは、永田鉄山・・その明晰な頭脳から永田の前に永田なし、永田の後に永田なしと言われた陸軍きっての逸材でした。

永田は軍事研究のため6年間ヨーロッパに駐在、改革への思いを募らせました・・彼は改革についてホテルで同志と密会します。

集まったのは、ロシア駐在武官・小畑敏四郎 少佐、欧州出張中の岡村寧次 少佐、・・この時、彼らは何を語ったのか・・資料を基に再現しました。

1921年10月27日 ステファニーホテル
スイス駐在武官 永田鉄山 少佐
「陸軍の装備は日露戦争当時から進歩が無い」

ロシア駐在武官 小畑敏四郎 少佐
「しかし山県元帥の息がかかった古い考えの上層部に改革は出来ない」

欧州出張中の岡村寧次 少佐
「国民と軍が乖離している現状では、新しい時代の戦争に備えられない」

話題は祖国の立ち遅れに集中して部屋中に危機感がみなぎった…そして3人の考えが一致した・・古い陸軍を刷新する。

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彼らがヨーロッパで目にしていた第1次世界大戦は、国家同士が全ての資源を投じてぶつかり合う総力戦でした・・視察を終え帰国した永田は、国家総力戦に向けた装備を急ぐべきだと報告します。

それは国内産業を軽工業中心から重工業へと転換させるなど国家全体の改造を含む急進的なものでした・・そして彼らは一夕会を発足させます。

永田鉄山陸軍士官学校16期生を中心に40人のエリート将校が結集しました・・政治の混迷が彼らの行動を加速させました・・当時、民政党と政友会の二大政党は、選挙目当ての政争に明け暮れ贈収賄事件が相次いでいました。

国際日本文化研究センター教授 戸部良一
「彼らが議会政治を見て何に本質があるかと思ったかというとやはり、2つの間の政党のつばぜり合い、なすり合い、党利党略・・議会政治、政党政治というのは私の利益を掲げて自分たちの権力欲のためにやっているのではないかという見方が強く出てしまった・・だから彼らはあれに期待しちゃ駄目だと思ったのです」

一夕会は陸軍改革を実行に移して行きます・・その為に着目したのが人事でした。
1.予算を握り、政治と軍をつなぐ陸軍省
2.戦争の際、作戦を立案する参謀本部
防衛省には、この2つの組織の明治から太平洋戦争終戦に至るまでの人事記録が残されています。

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そこから見えるものは、幾重にも張り巡らされていた人事上のルールです・・たとえば大臣や次官に出世した人のほとんどが軍務局・軍事課長のキャリアを積んでいたという事実、一夕会はこうした人事のルールを一つ一つ調べて行きました。

元陸軍中将 鈴木貞一(肉声テープ)
「だいたい大佐以下の人事というものは、ほとんど課長のところで決める・・それだから我々に本当につながって仕事をして行く人間を我々の思うところに行ってもらうためには、まず課長をそこえ持って行く工作をやらなければならない・・という事になって岡村寧次をそこえやった」

岡村寧次・・かつて永田らと南ドイツのホテルで改革を誓い合った同士の一人です・・計画通り岡村は人事局の課長に就任、早速その影響が現れます。

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翌年8月にはリーダーの永田鉄山が軍務局・軍事課長・・そして参謀本部動員課長に東条英機が就任します・・この横のつながりを更に別の人事に利用しながら一夕会は実質的な権限を上の世代から奪ってゆきます。

元陸軍大佐 西浦進
「人事も皆の協議でもみながら自然に決まって行くというのが本当だと・・ですから憤慨して首を切ろうと思っても八方にクモの巣のように張っておりましてそれが制肘するから首一つ切れない・・ある意味において非常にせん越なことも出来た」

結成以来、何度も勉強会を開いてきた一夕会、しかし重要なポストを抑えた後は意見の相違が目立ち始めた・・上の世代を取り払うという改革の目標だけは一致していたが具体的な中身は一人一人バラバラ・・一本化にはほど遠かった。

人事の改革では一致した彼らも一人一人の思惑はバラバラ・・この一夕会のいびつな構造が戦争へと続く歴史の駒を速める事になります。

満州の日本の権益を守るために旅順に置かれていた関東軍司令部、一夕会はここの参謀にグループきっての中国通の板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐を配置します。

石原は一夕会の中でもひときわ過激な戦争観を持っている事で知られています。

関東軍参謀 片倉衷(肉声テープ)
「石原中佐は満州というものを確実に領有する事が国防的には大事なことである・・この線を確保する事によってソ連の侵略を止める・・それがひいては支那の安泰にもなる・・ところが当時、支那では排日運動が激化していた時期で交渉によっていろんな問題を解決していく事は至難である・・武力を背景にした解決をせざる得ないという考えに到達したわけなんです」

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『武力による満州の領有』この石原が考えた過激な構想がにわかに現実味を帯び始めます・・なぜなら関東軍は組織の層が薄いため一夕会の板垣と石原は、すぐに作戦の責任者に着けたからです。

東京の一夕会のリーダー永田軍事課長とのつながりが石原の関東軍での地位を確固たるものとしていました・・しかしここでも過激化する石原や板垣と永田との間で考えを一本化する事は出来ていませんでした。

立場上、現実路線を歩む永田・・一方、信念を曲げない石原に現場の支持が集まって行きます。

国際日本文化研究センター教授 戸部良一
「過激な人たちと問題意識を共有しながら常識や合理性の範囲内でできるか考えていた人たちとが両方混在していた・・でもどっとが魅力的に見えるかというとファイナルアンサー(最終回答)を出した人たちだよね・・きっと)

そして石原は、一夕会のメンバーたちに語ってきた構想を本当に実行に移します・・石原率いる関東軍南満州鉄道の線路を爆破、中国人の仕業として武力により満州を制圧します。(満州事変1936年(昭和6年))・・中央の命令なき独断攻撃でした。

この時、三宅関東軍参謀長と本庄関東軍司令官は、これを追認・・一夕会のメンバーを前になす術はありませんでした。

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エリートたちの机上の理論が実際に国家を戦争へと引きずり始めました・・上の重しが無くなり一夕会世代が実験を握った陸軍、メンバーの間では方針の一本化が出来ずまたもや意見対立が始まりました。

あの南ドイツのホテルで改革を誓い合った永田鉄山と小畑敏四郎です・・満洲国成立後の路線をめぐる対立でした。

国境を挟んで向き合う事になったソビエト、駐在経験からその脅威を知りぬいていた小畑はソビエトへの先制攻撃を主張します。

1933年4月中旬 陸軍省参謀本部首脳会議・・小畑と永田は事あるごとに対立した。
永田鉄山
「今は戦争よりも満州を安定させ総力戦に向けた改革を急ぐべきだ」

小畑敏四郎
「いや、ソビエトが軍備増強する前に叩くべきだ」

彼らを信奉する若手軍官僚を巻き込み論争は陸軍を二分していった・・この対立を更に激化させていたのが一夕会が担ぎあげた荒木貞夫軍事大臣による人事でした。

荒木は本来、軍事課長から軍務局長に上がると見られていた永田を出世コースから外すなど強引な人事で陸軍の要職を自分の息がかかった人材に次々と変えて行きます。

特に同じロシア駐在経験のある小畑を重用しました・・この時、とりたてられたのが皇道派です・・冷遇されたのが永田らの統制派・・そしてその後、組織内で激しい権力闘争をおこなうようになって行きます。

元陸軍大佐 西浦進(肉声テープ)
「いつも私は笑っていたんですが・・小畑第三部長の車は朝出勤してくると必ず陸軍大臣官邸へ必ず朝寄ってからくるんです・・だから小畑さんというのは荒木さんの本当の意味での幕僚長をもって任じていました」

永田たちは外のパイプを使って巻き返しに出た・・国際関係の修復に乗り出していた外務省…。

永田鉄山
ソビエトと平和外交を進めようとする外務省の考えに賛成です・・出来れば陸軍もその考えに協力したい」

他にも宮中や元老、政党と支持を広めた永田たちは皇道派を追い詰めていった・・そして皇道派の荒木陸軍大臣は政府でも孤立しついに退陣、永田に近い林鉄十郎が陸軍大臣に就任します。

今度は、永田が軍務局長に取り立てられる一方、皇道派は次々と中央から遠ざけられてゆきます・・ここから陸軍中央は派閥抗争一色に染まります。

組織の内部には怪文書が飛び交いました・・主導権を握った永田らを皇道派は執拗に攻撃しました。

1935年8月12日(昭和10年)白昼の陸軍省で事件が起こります・・永田が突然、皇道派の将校に日本刀で惨殺されたのです。

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関東軍参謀 片倉衷(肉声テープ)
「大変だという声が聞こえてきたんです『局長がやられた』と刀が永田さんの肺を貫いて突き刺さったんですね・・それで私は馬乗りになって人工呼吸やったんですよ・・40分ぐらいやりましたが生き返らなかった」

まもなく小畑も失脚、派閥抗争の結果、全体を取りまとめるリーダーがいなくなり陸軍は百家争鳴となります。

この統制の不在が陸軍を迷走させ国家を戦争へと近づけて行く事になります・・鈴木貞一は永田の死についてこう語っています。

元陸軍中将 鈴木貞一(肉声テープ)
「ああ大きいね・・これは非常に大きいですよ・・あれが殺されなければ日本の姿がよほど変わっていた・・あるいは大東亜戦争も避けられたかもしれない」

エリート集団の陸軍の中でもとりわけ将来を嘱望された若手の軍官僚が世界の潮流に乗り遅れまいと改革に乗り出しました・・しかしこの運動は満州事変などの過激な軍事行動を可能にし、それは結果として陸軍のそれまでの組織の秩序を破壊する事にもなってしまったのです。

永田鉄山暗殺の翌年には2.26事件が起こります・・その1年後に日中戦争が始まる・・組織の秩序の崩壊というのは戦争への歩みを速めてしまうという結果になりました。

それでは日中戦争です・・泥沼とも言われた戦争に突入し、そこから抜け出せなくなった過程からも巨大組織が持つ問題点が浮かび上がってきます。

1932年9月、民衆の圧倒的な歓声に迎えられ帰国した軍人たちがいました・・満州事変を引き起こした関東軍の責任者たちです。

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組織の統制を乱し、処罰の対象であるはずの彼らを陸軍中央はむしろ表彰・・世論も熱狂し今さら事変が謀略とは表ざたに出来なくなっていたのです。

この頃から現地では、独自の中国政策を立案し、その成果を競い合うようになります・・たとえば中国人とのトラブルが多発した天津・・その天津軍の参謀長・酒井隆は自らの計画で手柄を上げる機会をうかがっていました。

「酒井参謀長はかねてから断固として特殊工作を自分の手でやる事を決意していた・・同僚の中でただ一人これまで勲章にありついていなかった」(重光葵 回想録)

1935年5月29・30日、北京市内:酒井ら天津軍は装甲車と機関銃部隊を展開、中国政府を威嚇し、北京周辺からの撤退を要求した・・陸軍中央から無断の独断行動だった。

天津軍参謀長 酒井隆
「今日は相談ではなく我が軍の決意を通告しに来た」

酒井はこの事件後、帰国し少将に昇進した・・隣の関東軍も刺激されます。

やはり中央に無断で満州を超え、華北地域へ進出を繰り返しました・・この時、関東軍の指導者は満州事変の首謀者、板垣征四郎・・満州国境の安定という独自構想から北京近くに傀儡政府を樹立します。(冀東防共自治政府成立1935年12月)

中央はこれも追認・・満州事変を不問に伏した事で、その後の暴走も認めざる得なくなっていたのです。

京都大学 助教 森靖夫
「陸軍というのは今の官僚組織とまったく同じです・・一度、慣例が成立してしまうとそれが前例となり、同じ行動をとっても罰せられないし許されてしまう」

国際日本文化研究センター教授 戸部良一
「『結果さえよければ良い』という話が非常に多くなる・・結果的に陸軍のためになる、結果的に自分の立身出世にもなる・・そういう発想が非常に強くなった」

中央が現地軍にいかにものを言えなくなっていたか・・それを裏付ける機密資料が見つかりました・・そこには陸軍中央が関東軍を抑えるために隣の天津軍を増強するという手まで使った事が記されていました。

元陸軍中佐 稲葉正夫
「『軍事工作をやめろと』それでも関東軍は聞かないわけですよ・・北支進出とか領域を侵すわけですよ・・それを何とか抑えようとしたのがこの手なんです・・北支(天津軍)を大きくすれば関東軍は次第に出なくなる・・要するに関東軍の北支進出を抑えるためなんですよ」

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天津軍は3倍に増強、関東軍の南下は止まりました・・しかしこれが誤算の連鎖を生みます。

1936年 抗日運動:中国に説明なく進む急激な天津軍の増強に現地では反日運動が激化、瞬く間に全国に広がりました。

誤算は続きます・・一夕会の強硬派として知られる牟田口大佐が天津軍連隊長に就任、派閥人事で転出後、再起を狙っていました。

天津軍は連日、国民党軍の精鋭部隊がいる盧溝橋の近くで演習を繰り返します・・そして…

1937年7月7日(昭和12年)発砲事件が発生、牟田口はこれは国民党軍からの挑発だとし独断で攻撃を許可します・・これが日中戦争の始まりでした。(日中戦争 1937年-1945年)

成果を競い暴走する出先に曖昧な対応しかできない中央・・その関係が多大な犠牲者を出す戦争へと陸軍を引き込んで行きました。

では何故、日中戦争アメリカとの戦争に発展していったのか・・そのカギを握る人物の遺族が熊本県菊陽町にいます。

一夕会メンバーで太平洋戦争開戦時、陸軍省軍務局長に就いていた陸軍中将・武藤章です・・そのポストにあったことからA級戦犯として処刑されました。

これまで武藤は一貫して戦争に積極的な強硬派と言われてきました・・しかし戦後、巣鴨拘置所から家族に宛てられた手紙には意外な事実が綴られていました。

「軍務局長就任以来、シナ事変を急速に解決する事を主眼に他敵国とは絶対に事を構えてはならなぬと考えて一切の事をやってきた・・」

シナ事変の急速な解決・・軍務局長となった武藤が組織の肥大化に悩まされていた事実が浮かび上がってきました。

 

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組織の肥大化
日中戦争が始まって2年、大陸に派遣された兵士の数は、20万人⇒100万人に増加してゆきました・・組織の拡大に伴い、現地には新たに11の軍を組織・・20を超す司令官や参謀長クラスのポストが新設され、これが大臣を経験した大物軍人などの格好の移動先となります。

しかし組織の膨張に戦費は逼迫、更には侵略戦争だと非難するアメリカからの撤退要求・・軍務局は危機感からついに派遣軍の縮小を検討し始めます。

その交渉の矢面に立たされたのが西浦進中佐、陸軍省入省後、予算畑を歩いてきたエリートです・・西浦たちは早速、現地軍を取りまとめる参謀本部に提案します。

元陸軍大佐 西浦進(肉声テープ)
支那派遣軍の兵力を減らしてもらわないと困る・・それを1年に10万から15万減らす・・2年目にはどれだけ減らす・・覚書を作ってこれをやったらこれだけの軍備充実しましょうと・・私は下心は何も言わずドンドン人で詰め出したのです」

それは参謀本部が切望する軍備の近代化と引きかえに段階的な現地軍の縮小を飲ませる作戦でした・・しかし一斉に反発の声が上がります。

現地中国大陸の司令官たちでした・・最前線の第11軍の司令官に就任していた一夕会創設メンバー岡村寧次が意見書を送りつけました。

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「積極的な武力攻撃こそが戦争の早期解決に絶大の効果を発揮する」(岡村寧次 意見書 1939年11月)

実力司令官として多くの部下を取り仕切る彼らにとって人員削減は受け入れられない措置でした。

1939年11月 東京参謀本部:現地からの強力な抵抗を受け、参謀本部から西浦への圧力は日増しに高まっていった・・参謀次長は日曜日にもかかわらず西浦を呼び出した。

第一、第二、第三部長も同様に西浦に激しく詰め寄った。

参謀本部
「戦況を考えて兵力縮小計画を緩和しろ」

しかし西浦は、がんとして譲らなかった…

ついに現地軍の大物も動き出します・・陸軍大臣も経験した支那派遣軍総参謀長・板垣征四郎が帰国、縮小どころか増派を訴えました。

慶応義塾大学教授 菊澤研宗
「陸軍全体にとっては明らかにこちらが効率的な資源配分になるというのがわかっていたとしても・・実際にそのセクションの長になったら組織全体の事ではなく、セクションの最大化を担うのは自分だと考えるようになるのです」

縮小反対の大合唱・・一方、アメリカは中国からの撤兵が進まない事を理由に通商条約破棄を通告してきます。

軍務局長の武藤は追込まれます…

1940年2月上旬 参謀長会議:会議の席上、中国から帰国した一人の参謀が突然武藤に言い放った。

支那派遣軍参謀副長 鈴木宗作
「うかがえば現地の兵力を減らし、軍備充実を実行する計画があるようだが・・これは困難であり、むしろ不可能である」

そして提案を突き付けた…

支那派遣軍参謀副長 鈴木宗作
「この秋まで極力予算を増やし、秋以降に圧縮するというのはどうか」

現地軍が春先に計画している軍事作戦を念頭に置いての先送り案だった・・武藤が口を開いた

軍務局長 武藤章
参謀本部と相談してご意見の通りといたしたい」

現地軍との妥協だった・・矢面に立たされ最後は梯子を外された西浦・・しかし武藤の決定に黙って従った。

武藤が妥協したわけ・・それを知るカギが人事の記録です。

この頃、陸軍省の権威は完全に崩壊・・戦場と東京とが目まぐるしく入れ替わる人事が行われていました・・この時の陸軍大臣・畑俊六、更に軍務局長の武藤も就任直前まで戦場で積極作戦を展開していました。

そうした軍歴が逆に彼らの足枷になっていたのです。

京都大学 助教 森靖夫
「人事のシステムがおかしくなっているというのが一つの問題点・・過去に現地軍で戦果を挙げた人が陸軍中央に帰ってきて、現地陸軍を統制してほしいと言われると逆に今度は出来なくなってしまう」

陸軍省で穏健だった人が現地軍に行くと今度は強硬になったりと・・もうグチャグチャな状態になってしまってますね」

1940年5月1日 宜昌作戦:支那派遣軍は、予算削減がうやむやになった1月後、総攻撃を実行します・・縮小反対を根拠とした作戦、一撃を加えて和平に持ち込むという算段でした。

しかしそれが日本を更なるゲリラ戦へと引き込む事になります・・現地では政治に関心の無かった若者たちが次々と抗日へと駆り立てられてゆきます。

攻撃を強めるほどに高まる中国のナショナリズムに和平交渉は頓挫、国際的な非難も一気に噴き上がります・・この事態を西浦は茫然と見守るだけでした。

元陸軍大佐 西浦進(肉声テープ)
「なんだか黒い嫌な空気が肩に掛かってきたような気がしました・・本当にアメリカと戦をしなければいかんのじゃないかと押し詰められたような気になりました」


まわりの人や所属する組織が間違った方向に向かっていると感じた場合、自分が反論出来ると思いますか?
反論できる 40.4%
反論できない 49.2%
わからない・無回答 10.4%

自分たちが過去にした事に縛られて曖昧な処罰しか与えられない中央・・出先は出先で組織全体の利益より、今、自分たちがいるそのセクションの利益だけを考える。

この巨大組織、陸軍の中で中央と出先のこういう行動が繰り返されるうちにドンドン事態は悪化して戦争は泥沼化していったのです。

その結果、日中双方に多数の犠牲者を出し、それがその後の太平洋戦争への道を選ばざる得なかった事を私たちは忘れてはいけません。

この陸軍の中枢にいる軍人たち彼らは当時の日本の知性を集めた極めて優秀な・・国のために存在するエリートでありました。

その国のために存在するエリートが最終的には、国の利益よりも自分たちが存在する組織の論理を優先したという事実、これこそまさに組織というものが持つ病理なのでしょうか。

アメリカから繰り返し付きつけられる中国からの撤兵、1941年9月、御前会議で天皇も日米開戦への危惧をほのめかしていました。

しかしその矢先の事でした…

1941年10月14日(昭和16年)近衛内閣 閣議陸軍大臣 東条英機が突然懐からメモを取り出し演説を始めた。

陸軍大臣 東条英機
「日米交渉はどん詰まりである・・撤兵問題は心臓だ・・アメリカの主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ・・満洲国をも危うくする・・駐兵により事変の成果を決定づける事は当然であって世界に対し何ら遠慮する必要はない」 

組織の面目にこだわる陸軍の態度で内閣は総辞職した…

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1941年10月18日 東条内閣成立:その直後、東条は首相に就任、かつての一夕会のメンバーが皮肉なタイミングで権力の頂点に上りつめました。

その内閣の企画院総裁として入閣したのがやはり一夕会の同士、鈴木貞一でした・・陸軍が中国から引けなくなった理由について語っています。

企画院総裁 鈴木貞一
「私も満州から帰ってきた時に靖国神社に行ったんです・・そうするとずっと遺族が並んでるんだ・・それを見て『ああこんなに人が死んでいるのか』と思うと『これはなんとかしなければいかん』という気持ちになります・・申し訳ないという気持ちにね」

「従来の軍の性格からいってだね・・自分らは自分たちのやった成果に対して言い訳の立つだけのことはしなければいかんと・・そういう気持ちになりますよ」

自分たちのやってきた成果へのこだわり・・それを守るためには更なる拡大を必要としました・・その先に一夕会のメンバーを待ち受けていたのは、彼らの想像をはるかに超える犠牲者を出す太平洋戦争の開戦でした。