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日露戦争勝利の立役者 明石元二郎・・ロシア革命に火をつけた日本人

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司馬遼太郎 著「坂の上の雲」 の中でも日露戦争勝利の立役者の重要な一人として描かれているのが明石元二郎です。

世界初の社会主義国であるソビエト社会主義共和国連邦ソ連)を誕生させたロシア革命は、世界史上の大事件と記憶されています。そのロシア革命の先駆的運動を扇動・支援し、重要な役割を果たした日本人が陸軍軍人・明石元二郎です。

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元冶1年(1864) 福岡藩に生まれた明石は、陸軍士官学校を卒業して明治16年(1883)に少尉となり、明治29年(1896)以降は参謀本部に所属してフィリピン、清(中国)、フランスなどに派遣され、その後、明治35年(1902)に帝政ロシアの日本公使館に配属され、明治37年(1904)に日露戦争を迎えている。

開戦を受け、スウェーデンの首都ストックホルムに移動した明石は、ロシア帝国に支配されていた東ヨーロッパ諸国に渦巻く反ロシア感情を実感、日本大使館勤務中に労働者達の困窮ぶりを目の当たりにしていた彼は、国内外の反ロシア勢力を扇動して革命を起こす事でロシア帝国を内部から崩壊させるという着想を得た。・・そこで明石は日本陸軍に対し、革命扇動、破壊活動、情報収集に充てる工作資金を要求したのです。

当時、陸軍参謀総長として日露戦争を主導していた山県有朋は、・・2度にわたって首相を務めた超大物の時の首相である桂太郎陸軍大臣寺内正毅らに多大な影響力を持っていました。
その山県が明石の申出に全面的な理解を示し決断を下したのです。

日露戦争の戦費が増大して国家財政が窮状を極める中、工作資金100万円を明石に託したのです。
国家予算が2億3000万円(現85兆円)の時代の100万円は、現在の価値にして400億円です。・・こうして潤沢な工作資金を手にした明石は、すぐに活発な活動を開始します。

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後に明石本人が著した「落下流水」によれば、1900年にスイスに亡命し、政治新聞「イスクラ」を発表するなどしてロシアの労働者達に社会主義活動を呼び掛けていた革命家ウラジミール・レーニンとも会談。・・革命資金の援助を申し出たところ、対戦国である日本から援助を受けるのは、祖国に対する裏切り行為だと主張したレーニンに対し、「ロマノフ王朝を倒すために日本の力を借りたからといって、何が裏切りなのか」 と説得したという。

更に明石は、1904年に発生したロシアの内務大臣ヴィチャスラフ・プレーヴェ暗殺事件、ロシア革命の引き金となった1905年1月の「血の日曜日事件」、同年6月に起こった「戦艦ポチョムキンの反乱」 などに深く関与したとされ、この1年間で工作資金100万円のうち73万円を消費している。

後に革命を達成したレーニンは、「日本の明石には深く感謝している。感謝状を出したいほどである」 と述べ、第一次世界大戦でロシアと戦ったドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は明石の活動を知り 「明石1人で日本軍20万人に匹敵する戦果を挙げた」 と賞賛。

日露戦争に勝利した日本陸軍参謀本部の長岡外史次長は、「明石の活動は陸軍10個師団に相当する」 とその功績を評価したという逸話が残されています。

こうしてロシア革命に火をつけ、ロシア帝国を崩壊に導いた明石は、日露戦争後に帰国。参謀次長、第六師団長、陸軍大将、台湾総監などの要職を歴任し、次期首相という呼び声も高かったが大正8年(1919)に病に倒れ56歳という若さでこの世を去っています。

■ 凄い日本人がいたもんですね・・・。