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調所笑左衛門 維新回天の資金を作った薩摩男

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調所笑左衛門広郷(1776-1848)

THEナンバー2 歴史を動かした陰の主役たち
第48回 調所笑左衛門 維新回天の資金を作った薩摩男

天保時代、薩摩藩は莫大な借金を抱えていた…その額500万両、現在の貨幣で1兆2500億円にも及び再建見込みのない状態にあった。

資金が無ければ到底、歴史の転換点である明治維新には参加できない…維新まで30年、一人の男が藩財政再建に乗り出した…調所笑左衛門広郷、無高、無禄の下級武士、茶坊主上がりの財政官僚である。

天保元年、藩政を取り仕切っていたのは、第8代藩主・島津重豪(1745-1833)…重豪は笑左衛門に一通の朱印状を渡した…そこには、「1.借用証文を取り返せ、2.50万両を備蓄せよ、3、非常用の手当てを準備せよ」 の3ヶ条が書かれていた。

つまり、薩摩藩主・重豪は笑左衛門に破綻寸前の藩財政改革を任せたのです。


薩摩藩
借金500万両の軌跡

江戸時代の薩摩藩は、幅広く領土を領有していた…現在でいえば鹿児島県全域~沖縄県までの島、海と宮崎県の1/3と広大なものでした。

77万石の雄藩であったにも関わらず莫大な借金が出来た理由として
1.参勤交代:江戸への往復費用、国元との2重生活が支出を増やしていった。
2.手伝普請:宝暦3(1758)年、幕府は薩摩藩に命じて木曽川治水工事を行わせた。

この時点で藩の借金は66万両であったが工事費が嵩んで宝暦5年には借金90万両まで積み上がってしまった。

実は、薩摩藩の77万石というのは籾高の計算であり、他の藩のように精米すると35万石程度だったと言われている。

時の藩主は島津重豪…借金を抱えていたにも関わらず、藩の地位向上の為、藩校、医学院の設立、天文学の研究を行うなど多岐にわたる教育機関を設立した。

また積極的な婚姻政策も行い、娘の茂姫は一橋豊千代、後の11代将軍徳川家斉と縁組させるなど幕閣へのルートを作った。…幕府との関係維持の為には金がかかるのだ。

この他、桜島の噴火による田畑の損失や藩邸火災など度重なる災害により、金は出て行くばかり…ついに借金は100万両を超えてしまった。

 

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薩摩藩
財政再建に取り掛かるも…

天明7(1787)年、重豪は家督を息子の斉宣に譲った…重豪、隠居して3年後そこに一人の男が仕えるようになった…この男こそ薩摩の財政再建をやり遂げる調所笑左衛門である。

寛政10(1798)年、笑左衛門は隠居する重豪のもとへ出布、茶坊主として重豪を世話する事になる…無高、無禄の貧しい家柄の笑左衛門、茶坊主となれば扶持米4石が支給される…生きて行くにはこの道しかなかった。(茶坊主とは武士身分の接待係)

享和元(1801)年、薩摩藩天明8年に炎上した皇居の再建費、20万両を幕府に上納、借金は121万両に達した。利息を引き下げるなど対策を打つも文化4(1807)年、借金は126万両に達する。

当主の島津斉宣は、仲間を集め近思録党を結成
1.参勤交代の15年間の免除
2.幕府からの15万両の借入
3.中国貿易の拡大
などの改革に乗り出すが急激な拡大が更に負債を生み失敗、重豪により失脚させられる…世に言う近思録崩れである。…重豪は斉宣を隠居させ孫の斉興を藩主とさせた。

文化10(1813)年、笑左衛門は重豪の世話係、小納戸に登用される…更に…

重豪:「借金ばかりで何も笑えることが無い…よし!おぬし今日から笑左衛門と名を改めよ」…その表情がいつも笑っているかのように見えた事から改名を命じられたのだ。

藩の財政を心配する重豪は、孫の斉興の後見となり再び藩政を取り仕切る…そして重豪の返済案、「むこう10年利子は払わん!」 でした。…利子の踏み倒しに怒った両替屋たちは一切の融資をストップ薩摩藩は自ら金融の道を塞いでしまった。

作家 井沢元彦
「幕府にとって薩摩藩は、関ヶ原以来の潜在敵国なのです…非常に強い恐ろしい存在、だから木曽川の手伝普請などでお金を使わせて力を弱める必要があったのです」

 

 

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調所笑左衛門
ついに財政改革に登場する

両替屋からの融資がストップしたことにより、野たれ死に寸前の薩摩藩、江戸の藩邸の壁は剥げ落ち夏にもなると草は伸び放題、衣服や金目の物は売り尽くされ、藩士は擦り切れた服を着ていた。

米による年貢収入が急激に伸びることは不可能、あとは唐物貿易を増やすしかない…その為には幕府から認められていた中国からの輸入品の種類を増やす必要があった。

文政7(1824)年、笑左衛門は、重豪より、続料係に命じられる…使命は「幕府筆頭家老・水野忠成に働きかけ貿易品目の品数増加を取ってこい」 でした。

続料係とは、斉宣、重豪、両隠居の生活費を調達する係りの事、この時点で藩の借金は164万両、これまで幕府から品数の増加は許されてきたが利子の踏み倒し宣言後は、重豪が働きかけようとも家臣が働きかけようとも幕府の動きは鈍かった。

だが笑左衛門のアプローチは違った…島津家と婚姻関係にあった将軍・家斉の側近・水野忠成の元家老・土方縫殿助のに注目した。

笑左衛門は、水野忠成への直接アプローチではなく、家臣から落として水野へ上申してもらおうと考えたのです…土方縫殿助の要求(島津家のコネクションで朝廷に働きかけ将軍の父の官位を上げる)と笑左衛門の願いが上手くギブアンドテイクの関係になったのです。

そして笑左衛門も要求通り、貿易品目を10品目追加され、16品目までの増加を幕府から勝ち取るのである。

志學館大学 人間関係学部 原口泉 教授
「16品目まで拡大したって事は、密貿易の抜荷がやりやすくなるわけです…6品目から16品目に増えたわけですから幕府も管理出来ませんよ…利益は大きかったと思いますよ」

文政8(1825)年 笑左衛門、側用人に昇進する…笑左衛門は密貿易によって膨大な利益を薩摩藩にもたらしたのです。…しかし膨大に膨れ上がった藩の借金を減らすまでにはならなかった。

重豪は、いよいよ決断する ”借金の踏み倒し” だ…その為のは、1年分のつなぎ資金を集めなければならないが実行できる人間として笑左衛門に白羽の矢が当たる。

そして笑左衛門は両替屋を歩き回った…そして大阪の両替屋・出雲屋孫兵衛と出合う…孫兵衛は笑左衛門の姿に共感し、黒砂糖での商取引の専売を条件に融資団を結成して2万両を融資を行った。

ここに財政改革の基盤が整ったのだ…。

 


調所笑左衛門
前代未聞の財政改革を実行する

薩摩の生産物、砂糖の専売…甘かった管理体制を整え、徹底的に流通の合理化を図った…砂糖は薩摩のドル箱となる。…他に唐箕を導入し米の生産性を上げ、菜種などの梱包を改善、大阪市場での薩摩ブランドが確立する。

天保3(1832)年 笑左衛門、家老格・側詰勤に昇進
天保4(1833)年 島津重豪 死去(享年89)

天保6(1835)年 笑左衛門の努力にも関わらず借金は、ついに500万両に達した…そしていよいよ笑左衛門による改革が断行される。

それは、…『250年かけ借金を返済する』 でした…実質的な借金踏み倒しである。

しかし同じ踏み倒しでも笑左衛門が行ったのは、薩摩藩を整理会社とし借金を凍結させたのだ…。

志學館大学 人間関係学部 原口泉 教授
「債務返済計画の有る無しが決定的に違います…通常は、『もう払わない、ない事にする』ですが笑左衛門が行ったのは、債権者の権利は認めたのです。」

元金は僅かながらも返済され続けられます…商人としては250年かかろうと返済されるわけですから島津家はお客さん…縁を切るわけにはいかない…実際に返済は続けられているのです。

弘化元(1844)年、笑左衛門はついに重豪と約束した50万両の備蓄を達成するのです。


調所笑左衛門
絶頂期で迎える悲劇

笑左衛門は、薩摩藩の借金問題も解決し、50万両という途方もない資金の備蓄にも成功した。…しかしこの後、大きな問題が忍び寄るのです。

同時期、琉球(沖縄)にフランス艦が来航、布教、貿易を要求…これに素早く反応したのが藩主・斉興の長男・斉彬だった…薩摩の富国強兵を目論む斉彬は、金をかけて西欧の科学技術を導入し、家督を継ごうとする。

斉彬に家督を継がせると財政は破たんする…家督を譲りたくない斉興は、側室・由良との子・久光に藩政を任せようとした。

 

そんな時、薩摩藩の密貿易を幕府の老中・安部正弘が追求する…驚く事にこれは早く家督を継ぎたい斉彬によるリークだった。

そして悲劇が起きる…斉彬に苦労して貯めた金を使わせたくない…斉興を隠居させるわけにはいかない…笑左衛門は自分一人で密貿易の責任を取ったのです。…服毒死。

嘉永元(1848)年 調所笑左衛門 死去(享年73)

笑左衛門の死後、斉興、斉彬の対立は深まり、嘉永2年、お由良騒動が勃発、藩主は斉彬となった…財政再建を行い薩摩を再建させた男は、皮肉にもお家騒動に巻き込まれ死を遂げた。

この死をキッカケに薩摩は、維新に向け大きく舵を切る…。


薩摩藩
明治維新に向け始動

作家 井沢元彦
「笑左衛門の死は、幕末最大の悲劇の一つです…斉彬は間違いなく日本を明治維新に導いた基礎を作った名君です…斉彬が幕末に大きな仕事をするには、藩主となり、笑左衛門が備蓄した50万両が必要だったのです…笑左衛門は立派な事をした…斉彬も立派な事をしようとした…どちらも悪くないのです」

笑左衛門の備蓄により富を蓄えた薩摩藩は、幕末動乱の中心的な役割を担い新たな時代を引き寄せる事になります。

笑左衛門が重豪から命じられた50万両の備蓄は、結果100万両を超えたという…藩主となった斉彬は備蓄金を使い、反射炉溶鉱炉の建設、大砲や軍艦の製造につぎ込み財政は逼迫する。

しかし富国強兵、近代国家の建設と言う情熱は、西郷隆盛大久保利通らを魅了し、維新へ向け大きく貢献した。

だが彼らにとって政敵である笑左衛門の苦労がなければ維新回天の事業は達成できなかった…500万両の借金は、小松帯刀が引き継ぎ、廃藩置県が行われるまで毎年、2万両づつ返済が続いた。