NHK さかのぼり日本史
藤原氏はなぜ権力を持ち続けたのか 第3回
藤原氏権力独占への道、その犠牲になった菅原道真
学問の神様で知られる菅原道真、…道真は当時の政界のトップ、藤原時平に左遷されます。…時平は、時の上皇に愛され、破格の出世を遂げた道真を恐れ、無実の罪を着せたのです。
平安時代中期、藤原氏はライバルたちを陰謀によって次々と政界から葬り去りました…道真もその犠牲となったのです。
政敵を巧みに排除する事で政権独占への道を切り開いた藤原氏、その過程をさぐります。
同志社女子大学名誉教授 朧谷寿さん
「藤原氏のお家芸、他氏排斥…他の士族を排斥してしまう菅原道真も犠牲になります。…でも道真自身は排斥されるような有力な貴族ではなかったんですが時の天皇、宇多天皇が藤原氏の影響力を排除しようとして道真は抜擢され異例の出世を遂げるのです…天皇と道真がくっつき力を持つ事を藤原氏は嫌ったのです」
宇多天皇が藤原氏を疎んじる
きっかけとなった事件とは?
平安遷都からおよそ100年、藤原氏は代々の天皇と姻戚関係を結ぶ事で着々と政権内部での地位を固めて行きました。
中でも藤原鎌足の子・不比等の次男が開いた北家の子孫が隆盛を極め、幼少期の天皇の政務を代行する摂政を務めるようになります。
一方、菅原道真は代々学者を輩出してきた中級貴族の出身、政界の頂点など望むべくもない立場にありました。
仁和3(887)年、道真の運命を大きく変える事件が起こります…この年、即位した宇多天皇は、成人した天皇を補佐する関白の職を新たに設け、藤原氏の長・藤原基経をその職に任命しました。
ところが任命書に書かれていたある言葉が基経を激怒させます…「よろしく阿衡の任をもって卿の任と無すべし」、阿衡とは関白の地位を古代中国の位に置き換えた言葉です…しかし、名誉職という意味も含まれていました。
基経は、名誉職では政治を見る意味はないと家にこもってしまいます。…基経の態度に驚いた宇多天皇は、勅を撤回しますが基経の怒りが解けないまま時が過ぎて行きました。
この聞きに動いたのが当時、讃岐の国守を務めていた菅原道真です…基経と親交のあった道真は、手紙を送り、基経の徳を讃えた上でその態度を諌めました。
「阿衡を引用したのは古代中国に先例があるからで言葉尻をとらえるべきではない、このままでは藤原氏の名を汚してしまう」…と説いたのです。
道真の訴えが通じたのか基経は鉾を収めます…そして1年ぶりに朝廷に出仕したのです。
同志社女子大学名誉教授 朧谷寿さん
「9世紀後半の時点ですでに天皇を困らせるほど藤原氏の力は大きくなっていたのです…国政に参加できる上級貴族の公卿16人の内、7人を藤原氏が占めています」
「道真は文章博士というトップクラスの学者で基経は道真の文章力を学力に対して敬意を表していた…天皇にもお灸を据えた事だし、そろそろというタイミングでその道真から手紙が来た事で基経は鉾を収めたのです」
菅原道真
栄華と孤立
寛平3(891)年、藤原基経が亡くなると宇多天皇は、関白を置かず自ら政治を行うようになります…この時、天皇が頼りにしたのが都に戻っていた菅原道真でした。
道真は、基経の子・藤原時平のすぐ後を追うように昇進を重ね、僅か6年で政界トップの座を分けあうようになりました…中級貴族としては破格の出世でした。
寛平9(897)年、宇多天皇は譲位に際し、息子の醍醐天皇に道真とともに政治を行うようにと伝えます。
「道真は、大学者であり、政事を深く知っている…以前、あなたを皇太子に立てるとき私は、道真ただ一人と相談し、これを決めた…道真は私の忠臣というだけでなく、あなたの功臣である…その功を忘れずによく相談して政治に取り組みなさい」(『寛平御遣誡』より)
しかし道真へのあからさまな優遇は、公卿たち上級貴族の反発を生みます…道真によく相談せよとの言葉を政治は道真だけに任せればいいと受け止めた公卿たちは、出仕拒否という手段に出ます。
困った道真は宇多上皇に相談、上皇のとりなしで公卿たちはようやく出仕するようになります…道真への反発は公卿たち上級貴族だけに収まりません。
道真が右大臣に昇進した翌年の昌泰3(900)年、同じ中級貴族の学者から引退勧告が届いたのです。
「あなたは学者の家の出ながら天皇の愛しみにより、大臣の位まで上った…身の程をわきまえ職を辞するなら後世の人も貴方を称賛するであろう」(『奉菅右相府書』より)
破格の昇進を遂げた道真、しかし回りは敵だらけだったのです。
同志社女子大学名誉教授 朧谷寿さん
「道真が藤原氏の影響力をそごうとしている宇多上皇と結び付くのを当時の藤原一門トップの時平が恐れるようになったのです」
菅原道真
ついに大宰府へ左遷
昌泰4(901)年1月、醍醐天皇が道真を大宰府へ左遷する勅を出します。
「寒門(権力の無い家柄)の出ながら大臣に取り立てられたのに満足する事を知らず、権力を我が物にしようとしている」
黒幕として動いたのは政界の頂点に立つ藤原時平です…北野天満宮に伝わる北野天神縁起には、時平が道真の事を讒言したと記されています。
その罪状は、道真が醍醐天皇を排し自らの娘を嫁がせた宇多上皇の皇子・斉世親王を皇位につけようと謀反を企てたというものでした。
当時、大臣の位にあったものが大宰府に左遷される事は、流罪を意味しました…この事を知った宇多上皇は、急遽、醍醐天皇を訪ね考えを改めるよう説得しようとしますが宮中の門は堅く閉じられ会う事はかなわなかったと伝えられています。
2月、都を去るに当たり道真は、自らの思いを歌に残しました。
「東風ふかば にほいをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ」…東の風が吹いたなら梅の花よ、どうか私の元まで匂いを届けてくれ…主がいないからといって春を忘れないでくれ。
2年後、道真は都に帰る事がかなわぬまま失意のうちに生涯を閉じました…藤原道真 死去(享年55)
同志社女子大学名誉教授 朧谷寿さん
「当初、醍醐天皇も道真を重用していましたが父の宇多上皇が政治に影響を持つようになる…そうすると上皇のブレーンである道真が邪魔になったのです」
「道真の左遷は、藤原氏の力を貴族たちに知らしめた事件です…完全に見せしめです…道真は冤罪で流刑にあった…気の毒だと言わざるを得ないですね」
他氏排斥の藤原氏
政敵を巧みに排除する事で政権独占
その後も藤原氏は、政敵を次々と排除して行きます…安和の変(969年)で当時政界トップの左大臣・源高明が大宰府に左遷されます。
源高明は藤原氏と友好関係にあったにも関わらず排除される…安和の変直後、公卿18人中11人が藤原氏となります。
次々と政敵を排除した藤原氏はついに藤原氏の完全な独占を実現させます。…藤原氏と勢力を争うような他の氏族はいなくなり、ついに藤原氏同士の同族間の争い…兄弟間、伯父、甥、骨肉の争いです。
そういう同族間の争いがしばらく続いた中で藤原道長が登場してみんなを抑えて独走態勢を築くのです。
藤原氏は、他氏排斥を進める事で政権の中枢、そして摂政、関白の座を独占し続けたのです。