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キュリー婦人と放射能の時代 人は原子の力とどう出会ったのか?

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NHK BS歴史館
キュリー婦人と放射能の時代
人は原子の力とどう出会ったのか? 

放射能という言葉の名付け親、ノーベル賞を受賞した最初の女性、マリー・キュリー(1867-1934)…キュリー婦人です。

今から113年前、キュリー婦人は、夫のピエールとともにラジウムという未知の放射性物質をを発見…特定の物質が放射線というエネルギーを出す現象を放射能、フランス語でラジオアクティビテ(radio-activite)と名付けました。

歴史的な発見のスタートは、意外なキッカケからでした…それは、駆け出しのママさん科学者だったキュリー婦人が博士号を取るために選んだ研究テーマだったのです。

牧歌的な研究からたどり着いた発見は、科学会に衝撃を与えました…放射能の発見は、世界の成り立ち、原子の概念を根底から引っくり返してしまったのです。

今回のBS歴史館は、キュリー婦人の人生を通して放射能の時代幕開けから半世紀を辿っていきます…果たして人類は、科学とどう向き合ってゆくべきなのでしょうか。


パリ(France)
花の都パリ、キュリー夫人は、今もこの街に生き続けています…『ピエール&マリー・キュリー通り』、『ピエール&マリー・キュリー大学』、『マリー・キュリー公園』、『マリー・キュリー駐車場』まであります…今でもパリの街の人に愛されているのです。

20世紀の初め女性科学者の草分けだったキュリー婦人は、研究に邁進しながら夫を支え、2人の子供を育て上げ、ノーベル賞一家を作り上げました。

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1903年 放射能の研究によって夫ピエールとノーベル物理学賞を受賞
1911年 単独でノーベル科学賞を受賞
1935年 人口放射能の発見医より、長女イレーヌとその夫フレデリックがノーベル科学賞を受賞
ノーベル賞のメダルを親子で5つも獲得しているのです。

フランスでは原子力の扉を開いた人物として尊敬を集めています…1995年には、優れた文化人が眠るパンテオンにその亡骸が収められました。

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自らの業績でここに祀られた女性は、キュリー婦人が初めてです…フランスの誇り、キュリー婦人…その故郷は、実はフランスではありません。

キュリー婦人が生まれやのは、ポーランドワルシャワ…1867年、物理学の教師を務める父親の元、5人兄弟の末っ子として生を受けました。

本名マリア・スクォドフスカ、幼い頃から神童と呼ばれ、数学や科学がめっぽう得意な少女でした…当時ポーランドは独立した国ではありませんでした。少女時代のキュリー夫人はロシアの統治下で育ち生活様式もロシア式を強制されていたのです。

祖国の独立、ポーランドの悲願実現のために彼女は、自らの能力を活かす道を必死に探していました…ワルシャワに暮らしていた頃こんな言葉を残しています。

「自分が人の役に立っている…私はそう実感したいだけなの…」(兄ユゼフへの手紙より)

そして24歳の時、アルバイトで貯めたお金を叩いてポーランドからフランスへと留学、自分の得意な科学の道で身を立てようという決意でした。(1891年11月)

当時、女性の社会進出は困難でしたがパリのソルボンヌ大学がその状況に風穴を空け、女性の入学を認めていたのです。この頃(1894年)、マリーは運命の人と出会います…生涯の伴侶となるピエール、当時は物理学の教官でマリーの良き相談相手でした。

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1895年、知り合って1年あまりで結婚、出会いの瞬間から2人とも宿命的な予感を感じていたと言われます。

キュリー博物館 ロナウド・ウィン館長
「ピエールは女性など研究の邪魔だと一生結婚はしないと宣言していましたが、マリーと出会い考えを改めました…この若くて知的なポーランド女性は、どんな難しい議論にもやすやすとついてくる…突出した才能に惚れ込んだのです…マリーもピエールの高い才能を眩しく見ていました…彼女の目に映るピエールは時代の先を行く、斬新な視点の科学者だったのです」

進化論のダーウィン、遺伝の法則のメンデルなどキュリー婦人が登場した19世紀は、身近な疑問から物事の本質に迫る画期的な発見がいくつも生まれた時代でした。

19世紀の終わり、ウランという物質に目を付けた物理学者が現れます…フランスのアンリ・ベクレル放射線の単位、ベクレルの由来となった人物です。

ベクレルはウランを研究するために鉱石を細かく砕いていきました…ある日、ベクレル博士は研究中のウランの粉末を机の引き出しにしまいます…その時、引き出しには写真乾板(今でいうフィルム)と一緒に…それを後で取り出したらビックリ!…袋の中にしまった写真乾板が何故か感光していたのだった。

つまり、光が当たっていた状態になっていたのです…ウランの鉱石は外の光がなくとも鉱石そのものから光りのような見えないエネルギーを出しているのが明らかになりました…この結果に満足し、ベクレルは研究を終了、その諦めの速さがキュリー婦人に幸運をもたらすことになるのです…キュリー夫人この時、29歳。

1897年、結婚から2年が経ち長女、長女イレーヌが生まれた年でした…キュリー夫人は、ベクレル博士のウランの研究で博士号に挑戦する事を決めたのです。

1987年12月、駆け出しの科学者だったキュリー夫人、博士号を取得するためにベクレルが目を付けた見えないエネルギーの謎を更に深く追求していくことにしました。…その研究が放射能の発見に結びつくとは知る由もありませんでした。

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ソルボンヌ大学の一画…ジャガイモ小屋と家畜小屋を足して2で割ったようだな(~研究室を訪れた友人の言葉)訪れた友人も呆れるボロ小屋でキュリー夫人の研究は始まったのです。

研究テーマは、写真乾板を感光された「見えないエネルギー」の謎です…何もしていないのにエネルギーを放射し続ける物質、現在は放射性物質と呼ばれるものですが当時はその正体がまったく分かっていなかったのです。

キュリー婦人は、まず何トンもの鉱石を研究室に運び込み、ハンマーで砕いて、そこからウランを分離していきました…そしてウランが出しているエネルギーの大きさを一つ一つ図っていったのです。

見えないエネルギーの大きさを図るときに使ったのが下記の画像の機械です。

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ピエールが発明したピエゾ電流計です…細かく裁断したウラン鉱石は微弱な電流を発します…それをこの機械で図ることが出来るのです。

見えないエネルギーの大きさを、キュリー婦人は電流に置き換えて図っていきました…来る日も来る日も、ただひたすらに研究を初めて数ヶ月経った頃ある異変が…ウランに比べてずっと大きなエネルギーを出す物質が見つかったのです。

それは未知の放射性物質でした…新しい物質の発見、キュリー夫人は沸き上がる喜びをその名前に込めました。ポロニウム(Poloniumu)祖国ポーランドにちなんだ思い入れの強い名前でした。

見えないエネルギーは光線のように外に向かって広がっている…この独特の性質にもキュリー夫人は名前を付けました。ラジオアクティビテ(radio-activite)と…。

1898年7月、今から113年前にフランス語のラジオアクティビテ(radio-activite)放射能という言葉が生まれました…1898年12月、その5ヵ月後に発見した放射性物質には、ラジウム(Radium)と命名します。

キュリー夫人放射能発見、ここから人類の科学は劇的に進化することになります…放射能は全ての物質の元、「原子」の概念さえガラリと変えてしまいました。

原子の概念が生まれたのは、今から2400年以上前の古代ギリシャ時代の事、原子を表すギリシャ語のアトム(Atom)とは、それ以上、分割できないという意味…あらゆる物体を細かく分割していくと最後どうやっても割れない粒子が残る、それが物質の最小単位、原子だと思われていました。

「原子は絶対変化しない」それは古代ギリシャから19世紀まで変わらない常識だったのです。

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見えないエネルギーも原子以外から出ていると考えるのが当然でした…ではどこから?
キュリー夫人はいくつかの仮説を立てます。

1.鏡のように外の光を反射している?
2.周りで他の物質が化学反応している?

2つの仮説は、実証されません…そして出した結論は、誰もが耳を疑うものでした…「源となるものが他にはない」…”原子そのものが変化しエネルギーを発している”というものでした。

原子は変わらないという当時の常識を完全に否定する主張、科学界に激震が走りました。

キュリー博物館 ロナウド・ウィン館長
「原子が変化できるということは、この世界が神が作った姿のままではなく、変わり続けていくということになります。ダーウィンが進化論を発表した時と同じようにキュリー夫妻の放射能の発見は、神や宗教に関する考え方の根本を大きく揺るがしてしまったのです」

放射能の発見と、そこから導かれた価値観の大転換、その功績に対し、1903年、第3回ノーベル物理学賞がキュリー夫妻に送られたのです。

ある日、ピエールが試しに放射線を皮膚に当て火傷を負いました…これは細胞が破壊された状態の放射線障害です…症状が進めば死に至ります。しかし、当時は誰にもそんな知識はなく、放射線が持つプラスの面だけに目が向けられました。

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こうして始まったのが医療への応用、皮膚を火傷にする力で体内の悪い細胞を退治しようという試みでした…1920年代頬に皮膚癌のある男性をラジウム放射線で治療した時の様子です。

条件によっては、かなりの治療効果が認められました…現在ではそのメカニズムも明らかになっています。癌細胞は正常な細胞に比べ異常に細胞分裂が早く、放射線の影響を受けやすいという特徴があります。

そのため放射線を当てると正常な細胞より、ガン細胞の方がより大きなダメージを受けるのです…放射線の量を調節すれば正常な細胞は残し、がん細胞だけを死滅させることが可能なのです。

現在、癌の有効な治療方法として認められる放射線治療は、キュリー夫妻や同時代の科学者によってその礎が築かれたのです。…使い方一つで善にも悪にもなる放射能

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しかし、そのマイナスの側面には目が向けられないまま時代は、思わぬ方向に進んでいきます…上記写真は、20世紀前半に出版された『ラジウムで健康になる手引き』です…そこには、こんな言葉が書かれています…「放射能は魔法の力、あなたもその力を試してみよう」…。

放射能が魔法の力を持つという何の根拠もない幻想が一気に広まってしまったのです…当時の状況を伝える資料がフランス東南部の小さな村に集められていました。(「放射能展」会場)

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放射能展・広報担当 ドミニク・メールさん
「こちらのポスターをご覧ください…ちょっとビックリするような製品に放射能が使われていたんです…放射性物質配合の美容クリーム、美白効果、しわ取りに有効なんて書かれています…タバコ、オーデコロン、浄水器

放射能のエネルギーはどんなものでもパワーアップしてくれる…科学的根拠のないそのイメージに産業界が飛びつきました。そして放射能で機能を強化したと謳う製品が街に溢れたのです…放射能で美しく健康になるという幻想に多くの人が浸っていたのです。

放射能を商売に使う人に対してキュリー夫人は否定的でした…自分は科学を人の幸せに役立てたい…その思いが第一次世界大戦(1914-1918)の時、彼女を突き動かしました。

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放射能の専門家として戦場の最前線に立ち、傷ついた兵士をX線で診断したのです。診察用の機材を積んだクルマは、小さなキュリー、プチ・キュリー号の名で親しまれました。

キュリー夫人が行なったのは、弾丸など体内に残った異物をX線で見つける事、現代の医師もその行動力を高く評価します。

放射線・検査医 ヤニック・ラルヴォール博士
「レントゲンで体内の異物を見つけようという彼女の発想は、放射線医療の可能性を広げました…医学の世界に貢献したいという思いがあったんだと思います」

その一方で産業界の熱狂は、放射能の危険性を理解していない人たちの手で増幅されていき、1940年代初めまで続きました…研究成果が科学者の手を離れ、産業と結びついていく、科学の世紀はその危うさを浮き彫りにした時代でもありました。

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1914年、放射能の危険性もメカニズムもまだ分かっていなかった時代、驚くべく小説が発表されました…イギリスの作家、H.G.ウェルズ著『開放された世界』その物語のなかでは、原子爆弾の誕生が予言されていたのです。

小説での設定は1956年…
いったん爆発すると、
それはエネルギーが尽きるまで
近づくこともコントロールすることもできない
戦争そのものに
”決定的な一撃”を与える
究極の爆発物であった

放射能には莫大なエネルギーが眠っている…そのイメージを膨らませ作者ウェルズは、想像力だけで原子爆弾を生み出したのです…ウェルズの作り出した空想の世界を追いかけるように現実は、動いていきました。

1914年、小説発表の直後に始まった第一次世界大戦…この戦争では、飛行機や戦車、毒ガスなど殺傷力の高い近代兵器が投入されました。

科学技術が戦争の勝敗を左右する時代がやってきたのです…科学者の純粋な探究心も国家の思惑の中で翻弄されてゆくことになりました。

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キュリー婦人が設立したラジウム研究所では第一次世界大戦後、キュリー夫人の長女・イレーヌと夫・フレデリックを中心に放射能の研究が進められました。

その最大のライバルがアーネスト・ラザフォード率いるイギリスのケンブリッジ大学・キャヴィンディッシュ研究所チームでした…揺れ動く時代と研究者たちの競争は、原子の謎の解明という目標を恐るべきスピードで実現させていきます。

1932年には、イギリスでついに原子の中の構造が明らかにされました…それまで知られていた電子と陽子に加えもう一つ、中性子という小さな粒子が原子の中にあったことが分かったのです。

原子の中がどうなっているかがわかった事で次に科学者の興味は、原子の中をどうにかできないかという事に大きく軸足を動かしました。

1934年、僅か2年後、フランスで実を結びます…キュリー夫人の長女・イレーヌと夫・フレデリック放射性物質を人工的に作ることに成功したのです。

2人は本来、放射性物質ではないアルミニウムの原子に人工的に放射線をぶつけてみました…するとアルミニウムが放射線を出す物質、放射性アルミニウムに変わったのです…人類が自ら放射能を作り出すことでその新たな利用への道が開かれました。

その年、娘夫婦の新発見を見届けてキュリー夫人は66歳で亡くなりました。

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1938年、そして4年後、ドイツの科学者、オットー・ハーンが放射能から巨大なエネルギーを取り出す原理にたどり着きます。

原子核分裂の発見です…放射性物質の一つウラン原子に中性子をぶつけると原子核が2つに分裂、その時、同時に巨大なエネルギーが放出される事がわかりました…この原理を実現できる技術さえあれば原子爆弾の製造が可能となります。

ヒトラーが支配するドイツでの核分裂発見のニュースは、世界を恐怖に陥れました。

1939年、その翌年、第二次世界大戦に突入…ドイツより先に原子爆弾を作り出さなければならない…アメリカは国家を上げて原爆開発に乗り出しました。

マンハッタン計画、世界から集めた一流の研究者の手で技術は恐るべきスピードで進化し、僅か3年あまりで原子爆弾が完成してしまうのです。

1945年、そして小説『開放された世界』の予言より、11年も早く…

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人類初の原爆実験1945年7月16日

キュリー婦人の夫ピエールは、ノーベル賞を受賞した後、こんな言葉を残しています。
自然の秘密を知ることは
本当に人類の利益に
なるのだろうか

人類にはそれを
有効利用する用意が
あるのだろうか

その知識が
人類に害をもたらす
ことはないのだろうか

しかし私は人類が
こうした新発見から
害悪よりも利益を引き出すと
信じる者の一人です
ピエール・キュリー ノーベル賞受賞記念講演より 1905年)

■キュリー夫妻が扉を開けた放射能の時代…この先にどんな未来が待っているのでしょうか?