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日本の転換点 明治維新、東京遷都 マル秘 大作戦

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NHK BS歴史館
日本の転換点 明治維新、東京遷都 マル秘 大作戦

神田外語大学 専任講師 町田明広
「実は東京がいつ首都になったかわからないのです…平安遷都の時のような詔も出ていません…ですから知らないうちにいつの間にか東京に遷都され、東京が首都になったんです」

京都大学大学院 教授 伊藤之雄
天皇が近代天皇として変わらなければ維新は上手くいかない…天皇を変えるにはどうしたらいいのか…それは都を代えるしかないということです」

徳島文理大学大学院 教授 八幡和郎
「大きな改革をする時には、引っ越しをしないとダメなんです。…明治維新は、京都を離れられれば、別にどこでもよかったのです」

まだ戊辰戦争は続いている時期、新政府を維持するには、 ”遷都が不可欠” と声を上げたのが薩摩藩士・大久保利通でした。新たな地で思い切った近代化を推し進めようというのです。


なぜ近代化に遷都は
必要だったのでしょう?

宮中では左大臣、右大臣といった平安時代から続く朝廷が幅を利かせていました…それは政治判断にも弊害を及ぼしていたのです。

それは、たとえ現状がどうあろうと前例に沿うのが朝廷の仕来たり、しかもこうした会議に大久保たちの参加は認められていません。

”古い習慣の残る京都から離れなければ近代化は出来ない” …大久保はそう考えたのです。それでは候補地は…
1.大阪(大久保案)
2.伏見桃山
3.奈良
…しかし、千年の都・京都を去るという遷都論に公家は猛反対、激怒、…大久保の大阪遷都の提案は一蹴されたのです。


東京遷都、マル秘大作戦
幻の大阪遷都計画

ここで大久保は、一計を案じます… 「まずは天皇が京都を離れる実績を作ろう」 と…大久保は天皇の大阪行幸(大阪旅行)を画策します。

大久保は維新を共に推し進めてきた公家・岩倉具視に話を持ちかけます…岩倉は下級公家、朝廷内の発言力はありません。かれもまた近代化への朝廷改革を目論んでいました。

一ヵ月後、岩倉の工作で天皇の大阪行幸が決定、総勢1700人の大行列でした。

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天皇大阪城で諸藩の兵士の訓練を閲兵
・大阪湾で海軍の演習を視察
…軍をも統帥する天皇が演出されたのです…天皇行幸は錦絵にも描かれ、庶民たち庶民たちも目にする事に、…新しい時代の君主像が広がります。

天皇自身にも変化がありました…自ら政治情勢について問い始めたのです。
・大久保は大阪行幸の時、初めて天皇への拝謁が許される
・岩倉は天皇を補佐する ”補相” に抜擢
…下級藩士、下級公家が政務の最高官職に就任したのです。

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東京遷都、マル秘大作戦
前島密の 『江戸遷都論』

1868年3月、遷都の議論に大きな衝撃を与える事件が起きます。勝海舟西郷隆盛による江戸無血開城の決定です。

江戸の町は無傷で新政府に明け渡されました…これを境に新たな遷都先として江戸が急浮上したのです。

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後に郵便制度を敷いた幕臣前島密も江戸遷都論者の一人、…
1.蝦夷地の開発が進んでいる現在、地理的に日本の中心は江戸である
2.これからは西洋式大型船の時代、湾が深い江戸がふさわしい
3.江戸は道幅が広い、車、馬の往来に適している
4.風景も雄大で首都にふさわしい
…インフラ整備に重点を置き、近代の都市計画の視点で書かれた遷都論、それはまさに、これからの日本はどうあるべきかという国の形を具体的に示したものでした。


東京遷都、マル秘大作戦
二つの都を作る!?

この頃、大久保利通岩倉具視木戸孝允三条実美の4人を中心として江戸遷都推進の方向が固まりました。

強固に反対する公家たちをかわすため遷都推進派は、都を2つにする案をひねり出します…京都には手を付けず、江戸を東の京、東京とするというのです。

しかしこれは表向きの話し、裏では東京を事実的、首都にすべく密かに天皇も政府も京都から移してしまおうと、前代未聞の東京遷都マル秘作戦でした。

1868年7月17日、岩倉の草案を基に明治天皇による詔が発表されます…「江戸を自ら統治するに当たり、江戸を東京と改称する。そして東京と京都を同格の都とする」

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この二つの都の宣言を経て東京遷都マル秘大作戦は、更なる段階に入ります…。

京都大学大学院 教授 伊藤之雄
「なぜ東京かというと…一番反乱を起こしやすそうな所へ首都を置くというのが政治的に安定するというのは、世界史の常識です。東日本の武士たちを抑えるには、東京遷都は非常に有効だったのです」


東京遷都、マル秘大作戦
第2弾 東京行幸

東京行幸には、無位無官の藩士たちからも意見を聞いています。注目すべきは伊藤博文です。…
「今日、財政が困窮している上に大費を出しては国家が自滅してしまう。天皇の東京行幸は、巨費を要する陸路ではなく、大阪から軍艦で行くべきだ」

京都大学大学院 教授 伊藤之雄
「…一見、伊藤博文の言っている事はもっともそうに聞こえますが、伊藤はまだ20代の後半で西洋知識はあるんですが、権力とはどう統治するかを分かっていません。

伊藤もまだ未熟な時代です…この時点では、岩倉、大久保、木戸にはかないません…天皇が陸路、大行列をつくって江戸まで行く、それを庶民が見る、これは大変な政治的な効果があるのです。…」

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1868年9月20日、東京行幸出発、人々に親しみやすい天皇をアピールする必要があったのです。天皇は道中、長寿、地域に貢献した人など村人に金品を与えました。

慈悲深い天皇であることをが示されます…具体例を数例挙げますと…

・土山宿(滋賀県甲賀市)で天皇は16歳の誕生日を迎える…住民には、酒三石、スルメ1500枚が配られました…土山宿の住民はともに祝ったのです。

・9月27日、名古屋入り、稲刈りの天覧、天皇と民衆が一緒の場所にいる…そして3000個の特製饅頭が配られました。

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・10月13日、東京入り、岩倉の発案で庶民を驚かそうと公家たちは、正装に衣服を改め、雅楽の演奏に先導されながら江戸城に向かったのです。

…そして江戸城は東京城と改められます。二つの都と言いながら、天皇も政府も東京に移す…天皇の東京行きの既成事実が作られたのです。

 

東京遷都、マル秘大作戦
京都の町衆

1868年12月8日、東京に滞在して1カ月後、天皇は京都へ戻ります。皇后を迎える予定がありました…しかし何より、一旦戻って京都の人々を安心させる事が重要です。

遷都推進派の次なる作戦は、天皇の住まいを東京に移す事実上の東京遷都です。しかし、一ヵ月たっても御所から天皇が動く気配がありません…。

当時、東京に残っていた大久保利通が京都の岩倉に送った手紙が残っています…「人心に疑惑が生じています。政府の権威も危ういです。天皇が東京にいらっしゃるよう早急に布告してください。」(『大久保利通の手紙』)

実は、大久保たちは東京遷都後を見据え、土地と人民を各藩から天皇に返す 『版籍奉還』 の準備を進めていました。ところが天皇が東京に戻らない事で藩主たちの間で疑心と同様が広まりつつあったのです。

しかし岩倉には、素早く動けない理由がありました…岩倉が配慮していたのが京都の町衆、…京都で老舗駄菓子店を営む、川端家は東京行幸の当日の朝まで330年に渡り、天皇の朝食用の餅を献上、天皇の戻ってくるという言葉を信じ、京都に残りました。

当主 川端知嘉子さん
明治4年と6年に12代が東京にこれを持って行って、絵描きさんに写してもらい、餅の作り方、盛り方を全部、お教えして、また京都に帰ってくるという言葉を信じて、この原本は持ち帰って来たのです。」

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そもそも川端家が御所と関わりを持ったのは戦国時代…御所が財政難に陥り、食事にも事欠く様子を見かね餅を献上したのが始まりです。

御所の修繕も町衆で行う事が多かったと言います…長きに渡る京都の町衆の支援を知っていたからこそ、近代化を急ぐ岩倉でさえ配慮せざる得なかったのです。


東京遷都、マル秘大作戦
事実上の東京遷都

1869年3月7日、天皇は再び東京行幸に出発しました…今回の行幸は各藩の藩主が国境まで出迎えに参上するスタイルが取られました。

自分の藩の殿様が頭を下げる存在、…天皇が中央集権国家のトップたる事を民衆に知らしめる意図があったのです。

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3月28日、東京到着、東京城天皇の住まいと政務をとり行う皇城となりました…そして行政機関も次々と作られてゆきます。

これにより東京遷都マル秘大作戦は完了、天皇の下、中央集権国家が形作られてゆきます。

そしてついに東京遷都が宣言されぬまま、145年が経ちました…しかし、大久保や岩倉たちの遷都の目的である近代国家建設は、着実に東京を中心に実現されていったのです。

 

東京遷都、マル秘大作戦
今、私たちが学ぶべきこと…

司会 渡辺真理
「実際に大久保が大阪遷都建白書を出し、既成事実として東京遷都がなされるまで1年2カ月、このスピードというのは、いかがでしょう?」

神田外語大学 専任講師 町田明広
「…速いですよ…この間、戊辰戦争をやっています。一方で軍事力を発動していて、一方では政治を動かしている…そしていろんな地域の民心に心を配りながら、いろんな事を同時並行で進めているにも関わらず、たったこれだけの期間で成し遂げたというのは、まさに ”人がいた” ということでしょうね。

日本は明治維新になった時、お金、物が無かった…しかし、人がいた、人材がいて…ここから先も早いです。明治2年版籍奉還明治4年には廃藩置県、この時期に明治の発展の礎が出来たといえます。…」

京都大学大学院 教授 伊藤之雄
「そうです…ここでモタモタしていたら独立国日本は無かった…そういう意味では、よくこれだけの時間でこれだけやったと評価します」

徳島文理大学大学院 教授 八幡和郎
「… これは一気にやったから出来た事でです。 ”大きな改革は時間をかけたら絶対に上手くゆかない” …たとえば小選挙区、いろいろありますが細川内閣が出来てすぐやったから出来たんです。

あれを2年とかかけたらアウトですよ…だから今の日本が中々上手くいかないというのは、時間を全てにわたってかけすぎです。…」

 

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司会 渡辺真理
神田外語大学 専任講師 町田明広
京都大学大学院 教授 伊藤之雄
徳島文理大学大学院 教授 八幡和郎