NHK 歴史秘話ヒストリア
あなたを助けたい ~女医第1号 荻野吟子の恋~
年下男性と恋に落ちた
明治のキャリアウーマン!?
episode1
どうして私が…
寛永4(1851)年、黒船が来航する2年前、荻野吟子は、埼玉県熊谷市俵瀬の代々村をまとめていた名主の家に生まれました。
教育熱心な父親は、近所の男の子を自宅に集め、有名な儒学者を呼んで勉強させていました…吟子も兄の隣で一緒に学んでいました。
吟子の物覚えの良さは、周囲の大人たちを驚かせたほどです…美少女で才色兼備だった吟子の噂は、やがて村を越えて広がります。
慶応4(1868)年 吟子18歳、少し離れた村の更に裕福な家に嫁ぐ事が決まりました…相手は世間でも評判の好青年、まさに玉の輿でした。
しかしこの喜ばしい結婚が、その後の吟子の人生を大きく狂わせます。
女医 荻野吟子
どん底の日々…
明治3(1870)年 吟子20歳、嫁いでから2年後、吟子は実家に戻ってきます…嫁ぎ先で原因のわからない下腹部の激痛に襲われ、実家での静養を余儀なくされたのです。
吟子が患っていたのは 『淋病』 という性病でした…抗生物質の無かった当時、淋病は進行すると子宮の内膜や卵巣・卵管にまで感染する恐ろしい病だったのです。
順天堂大学名誉教授(医史学) 酒井シズ
「夫が吉原などに行ってうつされてきて、奥さんにうつすという事が多かった…吟子のケースも夫からうつされたものです。妊娠できなくなるという、子孫にも影響を与える病気だったんです。」
吟子の病状は進行し、子供が望めない体になってしまいました…そして幸せだった結婚は離縁に終わったのです。
明治3(1870)年 吟子20歳、一向に改善する兆しが無い中、東京で治療を受ける事となります。
吟子が入院したのは、大学東校(現 東京大学医学部)…ここでは最も進んだ西洋医学の治療を受ける事が出来ました。
医者と研修医3人が病室に入ってきます…
吟子:「よろしくお願いします」
医者:「では横になって足を開きなさい」
吟子:「…、…」
医者:「足を広げて」
診察とはいえ、陰部を男性に見られるというのは過酷な事、吟子にとって耐えがたい事でした。
入院している間、毎日泣いて過ごしていた…吟子はそう語っています。
明治4(1871)年 吟子21歳、病状が進んでいた為、吟子の入院は半年に及びました…その間に吟子は同じように性病で苦しむ多くの女性の姿を目にします。
患者:「男の人にあんなふうに診察されるのがつろうございます」
患者:「診察のある日は、朝からご飯も喉を通りません」
…苦しんでいる事は、皆同じでした。
どれだけたくさんの性病患者が
男の医者に看られる事を嫌って
症状を悪化させ
亡くなっているのでしょうか
どれだけの女性が不妊症になって
無情にも離婚の口実と
されてしまっているのでしょうか
(『女学雑誌』より)
そして吟子は決意します…
誰かがこの不幸な女性たちを救うため
立ち上がらなければなりません
隗より始めよ
まず私が医者になってみせましょう
(『女学雑誌』より)
荻野吟子、21歳、第2の人生に向けて立ち上がりました。
episode2
私は負けない!
明治6(1873)年 吟子23歳、淋病の症状が治まり退院した吟子は再び上京します…男に出来て私に出来ないはずがない、袴に高下駄という男装で町を闊歩したといわれます。
吟子が医学を志した明治の初め、近代化のため、日本の医療制度が大きく変わりました。
特に資格もなく、誰でも医者になれていたものが、国が実施する 『医術開業試験』 に合格しないと医師として認められない事となったのです。
この試験は、合格率が数パーセントという極めて難しい試験でした。
難関の医術開業試験を突破するため、吟子は塾に入り、必死に勉学に励みます…回りは男子ばかり、しかし吟子はひるむことなく医者になる夢に邁進しました。
小柄で美しい女性である吟子は、教室では紅一点、皆の注目の的でした…生徒はもちろん先生も吟子のとりことなり、プロポーズまでされたといいます。
しかし一心不乱に勉強していた吟子、恋愛などには目もくれなかったそうです。
医者になって女性を助けたい…そう心に決めて10年以上勉強を続けた吟子、いよいよ医術開業試験に臨む時がやってきます。
しかしここで予期せぬ障害にぶつかります…
明治15(1882)年 吟子32歳、医術開業試験の申し込みにゆきます。
しかし… 「かつての日本に女性の医者は一人もおらず、医術開業試験の制度が始まってからも女で受験した者がいない」 …という理由で受験できないと役人が受け付けてくれないのです。
吟子はその後何度も願書を提出しますが役所は、 ”女性は医者になった前例はない” の一点張り、らちが明きません。
願書はまた却下されてしまいました
私の人生で
これほどまでに苦しい事は初めてです
10年余りの間
苦労を味わい尽くしてきたのに
世の中は
まだ私を受け入れてくれません
心は怒りで高ぶるばかりです。
(『女学雑誌』より)
役人との交渉が2年に及んだ頃、吟子は、ふと次のような疑問にぶつかります。 ”本当に女性が医者になった前例はないのか?” …吟子は、古今の文献を片っ端から調べ始めました。
そして吟子はついに見つけます…奈良時代に作られた古代の法律の注釈書 『令義解』 1000年以上前のこの書物の第8巻に女医に関する記述を見つけたのです。
(令義解)
「15歳25歳までの者で素質の優れた女を30人選び、ひとところに集め、安産術や小外科、鍼灸術を教える」(『令義解』より)
そこには女医の育成に関する規則があり、かつての日本には女性の医者がいたことがハッキリと記されていたのです。
吟子はすぐさま役所を訪れ、その事実を突きつけます。…この吟子の発見が一つのキッカケとなり、医術開業試験の扉は、ようやく女性に開かれたのです。
明治17(1884)年9月 吟子34歳、およそ1000人の男性に交じって医学開業試験に挑みます。
これからの女子教育
そして日本婦女子の将来は
私の合否に
かかっているのです
(『女学雑誌』より)
女医 荻野吟子
初の女性医師誕生!
明治18(1885)年 吟子35歳、2次にわたる試験を突破し見事合格、吟子は国家資格を持つ女性の医師、第1号となったのです。
そして東京・本郷に診療所を開いたのです…この場所を選んだのは近くに歓楽街があったためです。
すると吟子が予想した通り、性病を患った大勢の女性たちが、女の医者を頼って押し寄せてきたのです。
患者たちは、男性の医者には恥ずかしくて打ち明けられない症状や夫の女遊びに関する悩みも、女性の吟子ならではと口にする事が出来ました。
吟子が願ってきた女性による女性のための医療、それがついに実現したのです。
新聞や雑誌では、日本初の女性医師として、吟子の活躍ぶりを紹介する特集記事が組まれます。吟子は社会的な地位を確立して行きました。
しかし、 ”女性は医者に向いていない” という偏見は根強いものがありました…理由は、
・女は妊娠すると診療を休んでしまう
・体力が無い
・生意気だ
…対して吟子は、 「女性が妊娠で休む事は一時的な事、男の医者の中にも病弱、大酒飲みなど素行が良くない人も多いのは周知の事実」 …と言いくるめます。
その後、吟子の後を追って続々と女医が誕生します。…5年後には5人、10年経つと37人にもなりました。
堂々とした吟子の姿に多くの女性が勇気づけられたといいます。
episode3
あなたとともに…
明治23(1890)年 吟子40歳、しかし医師になって5年目のある日の事、運命の出会いが訪れます。志方之善という27歳の青年。
志方は新島襄の教えを受けたクリスチャンでした…伝道のために東京からやって来た志方は、知人から吟子を紹介され、少しの間宿泊させてもらう事になったのです。
そんな中、志方は自分の夢を語り始めます…「北海道にキリスト教の信者だけの理想郷を作りたい」 と…。
当時の日本は、富国強兵の一環として広大な原野の広がる北海道の開拓を急いでいました。志方はこの開拓に自らも加わり、そこに理想郷を建設しようとしたのです。
志方の話に吟子も共感を覚え、やがて自らも同じ理想を抱くようになります。
(志方之善)
出会ってから僅か数ヶ月で二人は結婚を誓います…40歳と27歳、当時としては常識外れの年の差カップル。
明治27(1894)年 吟子44歳、東京の診療所っをたたみ、周囲の反対を押し切って北海道へ旅立ちます。
女医 荻野吟子
試練の北海道開拓
志方と吟子が理想郷を夢見て入植した北海道今金町神丘(インマヌエル)、この地に志方に共感した人々が集まり、理想郷の建設が始まった、しかし開拓は困難を極めます。
次々と病に倒れて行く入植者たち、そんな人たちを吟子は親身に治療し、看病する事で懸命に志方を支えました。
そんな中、吟子に新たな家族が出来ます…吟子46歳、志方の姉の子・トミを養女としたのです。
そんなやさきの事、開拓を始めて4年、インマヌエルを含む地域に役所の検査が入り、開墾の進んでいな土地の没収が決まったのです。
その結果、開拓作業が難航していた志方たちは、土地のほとんどを手放さざるを得なかったのです。
明治29(1896)年 吟子46歳、理想郷建設の夢を打ち砕かれた志方と吟子は、インマヌエルを去りました。
その後、吟子と志方は、北海道南部の港町、せたな町に移り住みます…志方は北海道の地で牧師としてキリスト教を広める活動を始めます。
(荻野吟子 開業跡地の石碑)
吟子は、家族3人の生活費はもちろん、志方の活動資金を得るため、再び、「せたな」 の地で診療所を開いたのです。
吟子は、ここでも夫から病気を移されて思い悩んでいた女性たちの治療に熱心に当たっていたといわれます。
郷土史家 弦巻淳
「吟子は、支払いが出来ない人は、お金は取らず。野菜、魚などの現物で受け取ったりもしていたといわれます」
明治38(1905)年9月 吟子55歳、…13歳年下の夫、志方之善 死去(享年42)
吟子は、志方のために墓を立てました…インマヌエルを望む丘でした。
大正2(1913)年 夫を亡くして8年後 荻野吟子 死去(享年63) …養女のトミに見守られながら、静かに息を引き取りました。
試練を恐れず自らを必要な人のため、愛する人のために、捧げた一生でした。
男尊女卑の風潮は
夫人が職を持たないで経済的に自立せず
そこに安住していることに
原因があるのではないでしょうか
もし自分たちの本当の力を知ったなら
女性も自らの価値を
悟る事が出来るでしょう
(『荻野吟子の教え』より)