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「真珠湾攻撃作戦立案」山本五十六・平和を希求した悲劇の将軍の生涯

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NHK その時歴史が動いた真珠湾への道~(前編)
真珠湾攻撃作戦立案」 山本五十六・平和を希求した悲劇の将軍の生涯

昭和16年12月8日 午前3時25分 ハワイ上空に突如183機の日本海軍航空隊が出現、アメリカ海軍基地に襲いかかりました・・真珠湾攻撃です。この攻撃によりアメリカ太平洋艦隊は壊滅的打撃を受けます・・太平洋戦争の火蓋が切られたのです。

この作戦を立案し実行したのが連合艦隊司令長官山本五十六です・・しかし山本には真珠湾攻撃指揮官とは、まったく別の側面がありました。・・それは山本若き日、渡米して見たものはアメリカの巨大な国力でした・・日本がとてもかなう相手では無い事をいち早く確信したのです。

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山本五十六 「日米戦争は一大凶事なり」 ・・世界情勢に通じた山本は以後、一貫してアメリカとの戦争に反対を唱えます。

明治38年5月27日 日露戦争の帰趨を決する戦い日本海海戦が行われました。日本連合艦隊は無敵を誇るロシアバルチック艦隊に立ち向かいます。・・その時、伝令係の少尉候補生として22歳の山本五十六巡洋艦 「日進」 に搭乗していました。

日本はバルチック艦隊を撃破、日本海軍はこの成功から大鑑巨砲主義へとのめり込んで行くのです。

大正8年5月 36歳の山本は駐米武官としてアメリカの国情視察に渡米、立ち並ぶビル群、豊かな消費を享受する人々、山本が見たのはアメリカの想像を超える繁栄ぶりでした。

山本は、2年間の滞在中、その豊かさの根源を探ります。
自動車生産、米国200万台、日本2万台・・テキサスなどの油田では日本の150倍の石油を産出、アメリカは豊富な資源を持った日本とは比較にならない産業大国だと言う事を知るのです。

昭和6(1931)年9月18日 満州事変勃発・・国内世論も軍備増強へと傾いて行きます。
昭和9(1934)年10月 イギリスで行われる軍縮条約予備交渉全権代表に海軍少将になった山本が選ばれます。
首主力艦保有比率
アメリカ5
イギリス5
日本3

「不平等が是正されなければ破棄すべし」 というのが政府の方針です。しかし山本は、「この条約があるから差を付けられなくてすんでいる」 と考え条約堅持で会議に臨みます。

山本五十六 「条約は、日本が3に縛られているのではない・・米英を5に縛っているのだ。条約が消え無制限の建艦競争が始まれば国力の差から5対3どころか10対1に引き離される」

山本の多少不平等でも条約堅持を日本政府に何度も打診するも聞き入れられません・・交渉開始から2カ月、山本の元に日本政府から交渉打切りの指示が届くのです。・・結局、日本はこの条約を破棄、日本は果てしなきアメリカとの軍拡競争へと突き進んでいったのです。

昭和10(1935)年10月 イギリスから帰国し対米戦回避を訴え続ける山本は、海軍本流から外れ航空部門へ・・当時の航空機は偵察を任務とする補助的存在、事実上の左遷人事です。

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昭和12(1937)年7月7日 日中戦争勃発・・米国は中国を支援、海軍は危機感を強めます・・アメリカとの戦争は太平洋が主戦場、つまり海軍が矢面に立つ事になるからです。

この状況下、対米協調を主張していた山本を飛び戻し海軍次官に就任させます・・しかしそんなおり、アメリカとの関係を決定的に悪化させるドイツ、イタリア、日本での三国同盟の話が持ち上がります・・日本はドイツと組む事でアメリカと対抗しようとしたのです。

山本はこの三国同盟に猛然と反対を唱えます・・山本は三国同盟によってアメリカとの開戦が避けられなくなる事をマスコミを通して世論に訴えかけます。・・そして山本のもとには毎日、急進的な政治団体が押し寄せるようになるのです。

山本が海軍次官になった年、陸軍青年将校による2.26事件が起こります・・山本も暗殺の標的にされました・・暗殺リストに山本の名が挙げられていたのです。

昭和14(1939)年8月23日 独ソ不可侵条約締結、ドイツが日本の敵国だったソ連と手を結んだ為、山本が命を賭けて反対した三国同盟が寸前で立ち消えとなったのです。・・そしてこの不成立を見届けた後、山本は海軍次官を辞任したのです。

昭和14(1939)年9月1日 山本五十六55歳 退役前の任期2年のお定まりポストとして就任したのが連合艦隊司令長官でした・・しかしこの日にドイツがポーランドに侵攻、第二次世界大戦が勃発したのです。

その後ドイツはヨーロッパ各地の戦線で快進撃を続けます・・その圧倒的な強さが日本に再び三国同盟待望論を呼び起こすのです。

昭和15(1940)年9月15日 三国同盟に対する方針を決める会議に海軍首脳が集められました・・会議冒頭 伏見宮軍令部総長が 「ここまで来たらしかたないね」 と切り出し大勢は決します・・しかしその時、声を上げたのが連合艦隊司令長官の山本です。
三国同盟が成立すれば現状でも兵力が不足しているうえに米英からの資材は来なくなる。一体これをどうするつもりなのか」・・しかし山本の声は聞き入れられませんでした。

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昭和15(1940)年9月27日 日独伊三国同盟締結・・即座にアメリカは鉄鋼の輸出禁止などの対日経済制裁を発動・・さらに対日戦争に備え西海岸にあった海軍の主力艦隊基地を日本に近いハワイ真珠湾へと移動させました。

これだけ米国との戦争に反対していた山本なのに開戦へのカウントダウンを奇しくも連合艦隊司令長官として迎える事になったのです。

開戦の準備を始めた山本のもとには、軍令部から作戦が下りてきました ”漸減邀撃作戦” です・・日本に近い海でアメリカ艦隊を待ち受け、順次戦艦で迎え討つという作戦です。

海軍は艦隊決戦に備え軍艦の建造を急ぎます・・その最新鋭が戦艦大和です・・山本は、この大鑑巨砲主義のシンボルにも反対しています。
山本「巨艦を造っても不沈はありえない・・今後の戦闘で戦艦は無用の長物となる・・飛行機の攻撃力が非常なる攻撃力を増大させる」

山本は海軍の航空機部門に左遷されていた時、その技術開発に取組んでおり、開発した97式艦上攻撃機は当時の世界水準を超えるものでした。

97式艦上攻撃機:最高速度 378キロ、航続距離 1281キロ、爆弾や魚雷も搭載可能

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山本は自ら育てたこの世界トップレベルに押し上げた航空機を対米戦の切り札として考えていたのです・・山本は密かに演習を始めます・・航空機から魚雷を発射し軍艦を攻撃するというもの・・実戦ではほとんど行われてない攻撃です。

演習を見ていた山本はつぶやきました 「あれで真珠湾をやれないか」 と。

昭和16(1941)年1月7日 山本は対米戦の作戦案を提出 真珠湾攻撃
開戦直後にアメリカ艦隊に大打撃を与え相手の戦意を喪失させる・・それによって戦争を早期に終息させる事に山本は日本が生き残る一縷の希望を見出しました。

日本海軍史上初の航空兵力を用いた敵艦隊への攻撃作戦・・アメリカとの戦争に一貫して反対ながら苦肉にもその最前線の指揮官になった山本五十六、彼が下した苦渋の結論でした。

山本五十六
「私が長官である限り、真珠湾攻撃は必ずやる・・そしてやる限りは全力を尽くす」