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ゼロ戦・設計者がみた悲劇・・太平洋戦争の戦局を支え続け、日本と運命を共にしたゼロ戦

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NHKその時歴史は動いた
太平洋戦争の戦局を支え続け、日本と運命を共にしたゼロ戦・・その悲劇に迫る!

昭和16(1941)年12月8日 日本は真珠湾攻撃によって未曾有の戦争に突入しました。
日本の主力戦闘機は、零式艦上戦闘機ゼロ戦です・・当時、圧倒的なスピードと抜群の運動能力を誇る世界水準を超えた戦闘機でした・・ゼロ戦の性能は、敵のパイロットにとって大きな脅威です。

しかし・・その後、向かえた昭和19(1944)年6月19日・・日米は太平洋戦争の帰趨を賭けた航空決戦、マリアナ沖海戦に臨みます。両国が総力を注いだこの戦いでゼロ戦は壊滅的な敗北を喫するのです。

「なぜゼロ戦は敗れ去ったのか」 を追います。

その謎に迫る資料が残されていました・・開発の記録を克明に綴った設計者のノートです・・そこにゼロ戦に致命的な欠陥があると記されていました・・隠された弱点の数々です。

設計者たちは、ゼロ戦の欠陥を解決する為に奔走しました・・しかし、そこに立ちはだかったのは海軍という組織の壁でした。・・様々な問題が未解決のまま先送りにされていたのです。


昭和13年1月 ゼロ戦の設計スタート

三菱重工業技術者の曽根嘉年、堀越二郎の二人を中心として開発がすすめられましたが海軍から提示さてた条件は、
1.運動性能
2.スピード
3.航続距離
・・の 「全てを世界水準以上にせよ」でした。

日本のエンジンは950馬力、世界最先端のエンジンに比べると8割程度、非力なエンジンを使って海軍の厳しい要求を満たさなければならない・・徹底して行ったのが軽量化です。
機体の骨組には、軽量化の為、いたるところに穴が開けられています・・翼や胴体を覆うアルミ合金は厚さ1ミリ以下まで削られました。

昭和16(1941)年12月8日 午前6時、攻撃隊183機は空母を発進、長い航続力を活かした奇襲が目的です・・ゼロ戦は、ハワイ上空でアメリカ軍戦闘機と交戦、抜群の運動性能で圧倒します・・真珠湾攻撃の後、ゼロ戦アメリカ軍に対して大きな脅威となるのです。

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昭和17(1942)年8月7日 アメリカ軍 ガダルカナル島上陸
たちまち日本軍が築いた飛行場を占領します・・ガダルカナル奪還に向かったのは、ラバウル島の海軍航空部隊でした・・従来の一号ゼロ戦を改良した最新の二号ゼロ戦が配備されていました・・新型ゼロ戦の数は4割に達しています。

二号ゼロ戦には海軍の命令で新型エンジンを搭載、大型エンジン1100馬力、更なるスピード向上が見込まれていました。
従来の一号ゼロ戦は、空母に搭載する為、翼を折りたためる構造でしたが・・新型の二号ゼロ戦は、翼を切り落としてしまう事により、製造工程を単純化し量産を目指したのです。

しかしこの海軍の決定に曽根達、開発者は懸念を抱いていました・・翼の切り口が四角いのです。
「これでは航続距離に支障がでる・・丸くしなければ」
しかし海軍は、そのまま量産に踏み切ります・・ガダルカナル奪還作戦開始から1週間、海軍司令部に一通の報告書が届きます。

「二号ゼロ戦に致命的欠陥あり」

航続距離の減少です・・ラバウルガダルカナルは1000キロ、航続距離の落ちた二号ゼロ戦は、ガダルカナルの戦いに参加できなかったのです。

航続距離減少の原因

1.燃料タンクの減少、エンジンが大型化したため燃料が半分しか積めません。
2.翼の先端が四角い為、翼の空気抵抗が著しく悪化
これにより、新型二号ゼロ戦は、400キロも航続距離が落ちていたのです。

一号ゼロ戦のみで戦い・・数に劣る日本軍は、制空権を失います・・輸送船をアメリカ軍航空機に沈められガダルカナル島日本兵は飢えと病に次々と倒れてゆきます。・・そして、昭和17年12月31日 日本はガダルカナル島奪還を断念します。

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昭和17年夏のアリューシャン列島、ここにほぼ無傷の状態でゼロ戦が不時着しているという情報がアメリカ軍に入ります・・アメリカ軍の技術情報部隊は狂喜します。・・アメリカ本土に持ち帰られたゼロ戦は、徹底的に調査分析されたのです。
1.機体の強度不足
2.パイロット、燃料タンクを守る防弾装置が一切ない
3.高速の急降下に機体が耐えられない

※つまり 「背後につかれたら急降下して逃げよ」 って事です。ゼロ戦は追って来れないのです・・ゼロ戦の弱点が暴かれました。

ゼロ戦の分析と並行してアメリカでは新型戦闘機F6F(グラマンF6Fヘルキャット)を開発、ゼロ戦の2倍の2000馬力エンジンを搭載、最高速度時速600キロ・・機体の強度を高めた事により急降下速度は900キロまで耐えられます・・もうゼロ戦は追いつけません。

ゼロ戦がF6Fと対戦したのは、昭和18年10月です・・ゼロ戦は、いつもの通りF6Fに格闘戦を挑みます・・これに対してF6Fは、急降下で逃げます・・ゼロ戦はついて行けません。

ゼロ戦の攻撃をかわしたF6Fは、反撃に移ります・・ゼロ戦より高い高度に上がり急降下しながら攻撃してきます・・ゼロ戦は、防弾装備のないタンクや操縦席を狙い撃ちにされ次々と撃墜されてつきました。

昭和18年夏 ゼロ戦の改良について話し合う会議が海軍で行われました・・すでに防御を研究していた技術者の曽根も出席、ここでのテーマは前線でパイロットから多くの要望があった防弾です。

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この時、会議の流れを決定したのは、軍令部 源田実實 中佐でした。
「みんなの意見を聞いているとどうも情けない・・大和魂で突貫しなくちゃいかん・・うんと軽くして良い飛行機を作ってもらって我々は訓練を重ねて腕を磨きこの戦争を勝ち抜こうじゃないか」・・結局、ゼロ戦の防弾は、却下されたのです。

そして機銃の数を増やして速度を上げた52型(零式艦上戦闘機52型)を誕生させます・・攻撃力は強化されたましたが防弾や機体強化はされませんでした。

昭和19(1944)年6月15日 午前5時42分 アメリカ軍の猛烈な艦砲射撃でサイパン島上陸作戦が開始されました。

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そして連合艦隊アメリカ軍撃滅の為、サイパンに向かいます。
連合艦隊主力は、大和、武蔵など世界最大級の戦艦5隻、空母は、最新鋭の大鳳、翔鶴、瑞鶴など9隻を投入・・・

日米の戦力比較
日本 艦船73 航空機473
米国 艦船112 航空機956

まさに日本海軍の総力を挙げての決戦です。・・それでもこの戦力差。

昭和19(1944)年6月19日
午前06時30分 連合艦隊に 「アメリカ機動部隊発見」 の知らせ入る 

午前07時25分 第一次攻撃隊242機が出撃 アメリカ空母部隊を目指します。
しかしこの時すでにアメリカのレーダーが280キロ先の日本攻撃隊をキャッチしていました・・日本攻撃隊の高度、勢力(機数)までもが・・ただちに450機のF6Fが迎撃に向かいます。

午前09時35分 上空で高度をとり万全の態勢で待ち伏せしたF6Fは、眼下のゼロ戦めがけ急降下攻撃・・日本攻撃隊は大混乱、原因は防弾の不備からベテランパイロットを失っていた事により、攻撃隊のパイロットの多数が新人だった事です。
更に250キロ爆弾を抱えていた事も大きなハンディとなりゼロ戦は次々と撃墜されていったのです。

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F6Fの攻撃を辛くも逃げ切ったゼロ戦は、米空母上空に到達しました・・しかしここでゼロ戦を迎え討ったのは、凄まじい対空砲火でした・・防弾のないゼロ戦は、操縦席や燃料タンクに被弾して次々と火を噴き墜落して行きました。

この戦いでゼロ戦の被害は8割、190機・・制空権を失った日本軍に勝ち目はありません・・主力空母3隻を喪失、日本の航空戦力は、事実上壊滅しました。

攻撃のみを重視し、設計者やパイロットの声に耳を傾けなかった海軍、マリアナ沖海戦の敗北は、ゼロ戦開発を推し進めた海軍という組織の体質を浮かび上がらせたのです。

マリアナ沖海戦の敗北によって本土防衛の最終ラインは崩れ去りました。・・サイパン島を占領したアメリカ軍は、ここを基地としてB29爆撃機の大編隊を日本に向かわせます・・以後、日本はB29の本土爆撃という脅威にさらされるのです。

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昭和19(1944)年10月25日 神風特別攻撃隊第一陣出撃
追いつめられた海軍がとった最後の手段でした・・特攻機として選ばれたのがゼロ戦でした・・その胴体には250キロ爆弾がくくりつけられました。

ゼロ戦が特攻に用いられた事は設計者に大きな衝撃を与えました・・特攻は終戦まで続きました。・・体当たりに使われた航空機の数2400機、ゼロ戦は多くの若い命を載せて太平洋に散って行きました。

昭和20(1945)年8月15日 戦争の終結が国民に知らされます・・進駐してきた占領軍によって日本軍の武装解除が行われました・・ゼロ戦を初めとする軍用機には焼却命令が下ります。
4年に渡って戦局を支え続けたゼロ戦の最期でした。

ゼロ電の設計主任を務めた堀越二郎は、戦後次の言葉を残しています。

ゼロ戦を通じて我が国の過去を顧みる時
自らの有する武器が優秀なればなるほど
それを統御するより高い道義心と科学精神とを
必要とする事を教えているように思われる。」