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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

マンハッタン計画の陰(実行編)…「広島の黒い太陽」

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NHKスペシャル
マンハッタン計画・・「広島の黒い太陽」

1933年10月、ドイツの物理学者がアメリカに移民しプリンストン高等化学研究所に着任しようとしていた・・ナチスドイツの手を逃れてきたアルバート・アインシュタイン(54歳)です。

ヒトラーがが権力を掌握して以来、ヨーロッパの物理学者の絆は分断されてしまった。

1933年 ベルギー・ブリュッセル、世界の指導的物理学者が一堂に集まった最後の機会・・参加者は
フランス マリー・キュリー
デンマーク ニールス・ボア
イタリア エンリコ・フェルミ
アメリカのアーネスト・ロレンスは、新しい装置、サイクロトロンを使って研究を進めていました・・この装置は原子を構成する中性子をウランなどに射撃し核分裂を可能にするものです。

1939年3月、ドイツ軍はチェコスロバキアを併合・・それはヨーロッパ随一のウラン鉱山、つまり原子爆弾の原料がナチスの手に落ちた事を意味していた。

1939年9月、ナチスドイツがポーランドに侵攻、戦争は軍と科学が一体となって展開して行く・・しかしアメリカの世論はヨーロッパの戦争に巻き込まれるのは反対でした。

ルーズベルト大統領の立場は微妙だった・・彼は選挙民を尊重しつつも来るべく戦争をにおわす。

1939年9月3日 ルーズベルト大統領
アメリカは中立国としてとどまるだろう・・しかし全ての国民に中立を支持するよう求める事は出来ない」

ナチスに追われた物理学者の危機感は高まった・・アインシュタインは原爆開発レースに後れを取ってはならないと合衆国大統領に警告する。

「ここ4カ月の間にフランスのマリー・キュリーアメリカのフェルミ、シラードの研究によって大量のウランに核連鎖反応を起こし巨大な力とウランに似た新しい元素を出す事が可能となるかもしれない・・それは爆弾の製造にも適用されるだろう・・この爆弾は船で港に持ち込んだとすれば一発で港の全てを破壊するでしょう」(アインシュタインの大統領宛ての手紙 1939年8月2日)

アインシュタインと大統領の共通の友人である資産家がホワイトハウスに手紙を届けた・・ルーズベルトの反応は・・「つまり君はナチスに我々を爆破させたくないのだね」

手紙が届いた10日後、ルーズベルトは科学者と軍人からなる諮問委員会を作り、ウランと核分裂の可能性を探る。

その頃、ホワイトハウスの科学顧問でカーネギー研究所の総長であったバーネバー・ブッシュはアメリカの科学と産業の力を結集しようとしていた・・指導的科学者たちをワシントンに招集し、軍産学共同の組織づくりを強く主張した。

1941年 バーネバー・ブッシュ
「戦争は激しい戦いになる・・それは高度に技術的な戦闘になる・・しかし我々は準備が出来ていない・・軍の組織は今のままでは新たな手段を満足に作りだす事はできない・・それが最も深刻だった」

物理学の分野で最先端を歩んでいたのはイギリスでした・・ドイツをはじめヨーロッパ各地からナチスの手を逃れてきた研究者が力を発揮した。

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チャーチル原子爆弾が3年で開発可能との報告を受けていた・・しかし1940年夏以降、イギリスはヒトラーと対峙する唯一の国となる。

ドイツ軍の電撃作戦の前にベルギー、フランスは6週間と耐えられなかった・・1940年6月 パリ陥落、シャンゼリゼ通りをドイツ軍が闊歩する。

1940年9月、ロンドン大空襲・・対ドイツ戦に孤軍奮闘するイギリスには原子兵器を秘密裏に開発する余力はもはやなかった。

イギリス政府は、友好国アメリカにこれまで研究してきた成果を託すという決断をする・・ワシントンの政府中枢にモードレポートという名の報告書が届けられた。

「我々はウラン爆弾を作る事が可能だという結論に達した・・25ポンドほどの核物質を含むその爆弾はTNT火薬1800トンに匹敵する破壊力を持つ・・また大量の放射性物質を放出し長期間爆破地域を汚染するであろう」(モード委員会の報告 1941年7月15日)

モードレポートは原爆へとホワイトハウスを突き動かした・・ルーズベルト核兵器の開発にGOサインを出す・・大統領直轄の極秘計画だった。

1941年10月19日 ルーズベルト 核開発計画を許可・・以後、アメリカの核開発は議会に図る事無く政府中枢の一部が知るプロジェクトとして進んで行く。

核物理学に関しては軍の検閲が開始された・・科学雑誌は核物理の進歩を伝える役目を放棄する。

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1941年12月 ハワイ真珠湾、日本の奇襲攻撃はアメリカの厭戦気分を吹き飛ばした・・日本はアメリカを世界大戦の戦場へ引きずり込みルーズベルトは遂に連合国と合流した。

戦火は世界5大陸に拡大した・・この時期、原爆開発を担う面々の顔が見えてくる・・1942年9月、レスリー・グローブス将軍が開発計画トップに任命される。

彼はまず原爆開発と産業界を結ぶ事に奔走した・・本部はニューヨークのマンハッタンに置かれ以後、核開発計画はマンハッタン計画と呼ばれる。

グローブスは現実主義者だった・・彼はまず原爆の材料確保に不安をつのらせた。

「私の不安の一つは原材料の確保だった・・ベルギー領・コンゴの鉱山に豊かなウラン原石があるのは知っている・・その所有者はベルギー企業、ユニオンミニエール社でコンゴ鉱山の差配人、エドガー・サンギエがカギを握っていた」(グローブス回想録より)

サンギエは1940年にベルギーがドイツに占領されるとコンゴにその手が及ぶ前に全てのウラン原石を運び出していた・・その行き先はマンハッタン島向かいの波止場の倉庫だった。

開発初期のウラン1250トンは確保された・・ユニオンミニエール社は向こう3年間で4億ドルの代金を受け取る・・第2の課題は多くの科学者の研究成果を統合できる人物の選定だった。

グローブスはカルフォルニア大学バークレー校の理論物理学ロバート・オッペンハイマーを選んだ・・研究者の中でのカリスマ性と野心を買ったのです。

「彼は天才だ・・そうオッペンハイマーは何でもわかっている・・どんな問題を持ち出しても彼なら話が出来る・・正確に言うと彼にもわからない事が少しはあると思う・・彼はスポーツの事は知らないな」(グローブス回想録より)

オッペンハイマーには原爆開発での自由な裁量が与えられた…

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「結果が早く出るなら方法は問わない・・可能性さえあれば、あれかこれか迷わず2つ共に実行せよ」(グローブス回想録より)

予算に制約は無かった・・求められたのは結果だけだった・・2カ月後、大都市シカゴの真ん中でイタリア移民のエンリコ・フェルミが世界初の原子炉のテストにかかろうとしていた。

シカゴ大学の屋内競技場は、グラファイトとウランを結合させた大きな塊に占領された・・積み上がった塊の重さは350トン、プロトタオプCP1である。

もちろん軍事機密、大学・学生・市民と誰ひとり知らされていない・・1942年12月2日、フェルミが十数人の科学者と核分裂を連鎖させる実験を行った。

もしコントロールに成功すれば放出するエネルギーは1W程度にとどまるがコントロールに失敗すれば爆発する・・目に見える兆候は何もない・・しかしそこにいる人は何が起こったか理解した。

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「劇的な事は何も起こらなかった棒が戻されカチカチ音が途絶えた時、ほっと気が緩んだ・・実験の成功を予想していたとはいえ実際に成功した事は強い衝撃を与えた・・我々は間もなく大きな扉の鍵をまさに開けるところまで来たのだ」(物理学者 ユージン・ウィグナーの回想)

人類はこの時初めて核エネルギーを支配した・・この実験に特別に立ちあった人物がいた・・日誌ではこの新しいエネルギーが人体に与える影響について言及していた。

「室内の中性子線のレベルは認可されている量を上回った・・ガンマ放射線が24時間単位の人体への許容限度をやや超えていた・・実験結果は期待以上のものだった・・スリリングな体験だった」(1842年12月2日に日誌)

この日誌は1989年まで軍事機密として扱われた…日誌を書いたのは、化学工業・デュポン社の技術主任だったクロフォード・グリーンウォルト・・デュポン社は1935年にナイロンを発明したアメリカ有数の大企業である。

そのナイロンの発明以前、南北戦争時代から第1次世界大戦までアメリカ第一の弾薬供給企業だった・・マンハッタン計画責任者のグローブス将軍は原爆開発を実用レベルに進めるため機密を守れる大企業を探していた。

ウラン・プルトニウムといった高い放射性物質を扱うには危機管理もしっかりできるコングロマイット・・複合企業体が必要だった。

企業にとっては巨額の契約ではあるがリスクも大きい・・グリーンウォルトはためらった・・彼は放射線が人体にあたえる影響を知ろうとロバート・ストーン医師をた訪ねる・・ストーンは癌の新しい治療を方を探るためサイクロトロンを使って癌患者に中性子を当てる実験を行い注目されていた。

グリーンウォルトはストーンから放射線の許容限度を聞いた…

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「現在実験はネズミやサルなどの動物を使って行っている・・人間が耐えうる放射線は1日0.1レントゲンが限度といえるそうだ」(グリーンウォルトの日誌)

今日の基準では数日の被曝で人体に有害とされる値である…

グリーンウォルトはデュポン社が危険な領域に足を踏み入れる事を理解し危険に対する補償を要求した・・グローブスはデュポン社の核兵器参入の交換条件としてその要求を受け入れた。

デュポン社の社員が死亡した場合、1000万ドル・・障害が残った場合は50万ドルを上限として政府が支払うという巨額な保険契約が交わされた。

こうしてデュポン社は秘密の製品の工場建設に着手した・・利益僅か1ドルの契約になった。

アメリカ西海岸のシアトルから350キロ南に位置するハンフォード・・デュポン社は1500k㎡の土地にプルトニウムの製造と精製施設を建てた・・8万5000人が働き3基の原子炉と100万人に水を供給できるほど巨大な浄水場を作った。

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一方、テネシー州のオーク・リッジではウラン235やその他の爆弾原料を生産した・・コダックモンサント・GEが施設を運営する。

1グラムの核燃料を精製するのに数トンのウランが必要であった・・ベッドタウンとして建設されたオークリッジの町に住む作業員の数は数万人、皆、秘密保持の誓約書にサインした作業工程は分割され・・多くの人は終戦後に初めて自分が何を作っているかを知った。

グローブスはマンハッタン計画の司令部をニューヨークからこの町に移した・・ストーン医師はグローブスにオーク・リッジの住民たちに定期的な医療検査を行い追跡調査するよう忠告する。

「職員の臨床研究は大規模な実験になる・・これほど沢山の人間がこれほどの放射能に晒されるのは史上初なのだから」(ストーン医師 1934年)

ストーンはジョゼフ・ハミルトン医師の参加を求めた・・ストーンと同様、将来放射性物質を医学に利用できるという考えの持ち主だった。

ハミルトンは1939年から動物に対する放射線テストを行っていた・・放射線による治療効果を信じて疑わなかった。

放射線要素の溶液を飲ませガイガーカウンター放射線が人体内部に広がって行く様子を調べる実験などを行った・・しかし彼は放射性物質が軍事利用できるとも考え始めていた。

「航空機から放射性物質をばら撒けば一つの都市に匹敵する範囲を汚染する事が出来る・・飲料水に混ぜる、井戸を汚染する、食物に入れる・・これらの可能性も検討に値する」(1943年 ハミルトン医師)

これに対しオッペンハイマーは殺傷能力の面で不確実だと考えていた。

放射性物質食物汚染についてあなたと話したいと思います・・この件はもう少し深く生理学的な側面についてハミルトンと一緒に検討するつもりです・・彼はストロンチュームについていくつかの極めて有効な研究を行っています・・しかし計画を遅らせた方が良いというのが私の意見です・・50万人殺せる食べ物を汚染できない場合は計画を試みるべきではないと考えます」(1943年5月25日 オッペンハイマーの手紙)

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原爆開発が最優先され放射線物質の軍事利用は研究課題とされた・・1942年の夏、ドイツは大きく方向転換していた連合国側は知るよしもなかったがドイツは核開発を諦めていた・・就任したばかりの軍需生産の大臣アルベルト・シュペーアは当時の様子をこう記している。

ヒトラーは時々私に原子爆弾の事で話しかけてきたがその概念は明らかに彼の知的要領を超えたものだった・・また核物理学の革命性を把握する事も出来なかった・・再度科学者たちに問いただし3、4年間は何も期待できないと聞かされその後、彼らの進言に基ずき我々は原子爆弾開発を断念した」(アルベルト・シュペーア 戦後回顧録

ナチス政権にとってはソビエト戦線の維持が気がかりであった・・ウランより重要不可欠な資源、石油を確保すべくコウカサス地方、そしてイランまで視野に入れていた。

ニューメキシコ州、岩の多い丘稜と砂漠に囲まれたロスアラモス・・1943年春、オッペンハイマーの提案によりこの地に原爆製造のための実験設備と研究所が建てられた。

砂漠によって周囲から隔絶された秘密軍事基地、容易に近づく事も出来ない・・ここは今もなお重要な軍事研究施設となっている。

1945年までに2000人を超える科学者がここで日夜、世界初の核兵器製造を目指した・・原爆開発は競争相手の姿が見えないままやみくもに走る科学の耐久レースでもあった。

砂漠地帯に突如生まれた小さな町、研究者・エンジニア、技術者の平均年齢は30歳以下・・家族とともに塹壕を巡らせた施設内で外部との接触を断って暮らしていた。

オッペンハイマーの指揮の下、より効果的な爆弾の研究に集中した…

1943年、戦況に変化が現れる・・ヨーロッパではドイツ軍の侵攻がスターリングラードで食い止められた・・ロシアの冬に疲れたドイツ第6軍は、遂にソビエト軍に降伏する。

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その年の夏、カナダのケベックチャーチルルーズベルトが会談する・・イギリス・アメリカ・カナダはマンハッタン計画の実現に向け結束を固めた。

カナダにはウラン鉱山があり、3年間でアメリカに1000トンを超える鉱石を供給する事になる・・イギリスからは20人の科学者がロスアラモス研究所に合流する・・このケベック協定で原爆開発の国際的な協力体制が築かれた。

1944年夏、原爆材料の製造と精製がフル回転で行われた・・ハンアフォードではプルトニウム・・オークリッジではウラン、まだ原爆を作るのに必要な量は得られていない。

デュポン、モンサント・ゼネラルエレクトリックの工場では放射線の人体への影響が今だよくわからないまま作業員は日常的に放射線に晒され続けていた。

8月1日、ロスアラモスの実験室で事故が起こる・・23歳の若い科学者、ドナルド・マスティック・・彼が実験中、試験管の中でプルトニウムが反応を起こし試験官が割れ飛び散った溶液が口の中に入った・・ヘンプルマン医師が直ちに診察しオッペンハイマーに報告した。

「実験室でマスティックを直撃したプルトニウム10ミリグラムの内、どれだけの量が体に入ったかわからない状況が不安をあおっているようです・・以下3点の質問が化学部門から寄せられました」

「1.事故の折り消化器系に吸収されたプルトニウムの量はどれほどか 2.その何倍になると危険レベルなのか 3.マスティックを実験室の仕事に復帰させても安全なのか」(ヘンペルマン医師の報告)

ヘンプルマン医師は放射線物質の研究プログラムを拡大するよう提案する…

「どんな予防措置をしてもこの手の事故はまた起こると思います・・その時のためにこの方面の研究を続ける意義はあると思います」(ヘンペルマン医師の報告)

グローブスも危険防止のためプログラムに好意的な姿勢を見せる…

「最も急を要した問題は、我々の使う物質の毒性を判定する事であった・・まずウラン化合物、ラジウム、ボロニウムなどこれらの物質が人体に入りこむ経路の研究が必要となった」(グローブスの回想録)

テンプルマン医師は放射線物質の体内被曝について調べ始める・・職員には内容を知らせず極秘調査だった。

放射線の生理学的研究を動物や人体を使って開始する意義はあるだろうな・・ロスアラモスではなくどこか別の施設でやってほしい」(1944年 オッペンハイマーの返書)


事故にあったマスティックには医療検査が行われたがその結果は、研究者たちの不安に何の答えをもたらさなかった・・オッペンハイマーと研究チームはマンハッタン計画司令部に手紙を書く。

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ロチェスターの病院で患者を選び10マイクログラムの放射性物質を注射し、その後の分析は我々の実験室で行うというのが良いと思います」(1945年 ストーン医師)

体内に放射性物質が入った時、どの程度の量までなら許容出来るのか・・その許容量を研究する事が急務だった。

1945年春、ヘンプルマン医師はほかの患者たちに実験を拡大する為のGOサインを得る…

「ついに最初の人体実験を行う日が来た・・これで我々の試験法を正確に評価できるようになるのだ」(1945年4月 ヘンプラマン医師)

様々な健康状態の患者がロチェスター・シカゴ・オークリッジ・バークレーの病院んで選ばれた・・およそ5ミリグラムのプルトニウムの投与には特別に鉛で覆った注射器を使用した。

初期3回の人体実験で早々と動物実験との比較結果が裏付けられた・・プルトニウムラジウムより30倍も有害で強力な発ガン性を持っていた・・後にヘンプルマンはこう打ち明ける…

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「患者には注射器の中身を知らせないという方針がなされた・・」(1994年 公聴会 ヘンプルマン医師)

1944年夏、ソビエト軍ポーランドに侵攻した・・連合軍はノルマンディー上陸を果たしヨーロッパの戦争の終わりは、もはや疑いの余地がなかった。

太平洋ではアメリカ軍が苦戦しながらも日本に向けて前進していた・・12万8000人のアメリカ兵がサイパン島を奪回する・・そこに東京を爆撃圏内にするB29爆撃機の出撃基地を設置した。

1944年9月18日 ハイドパーク会談、チャーチルルーズベルトニューヨーク州ハイドパークで再開・・何が何でもマンハッタン計画を成功に導くべきだと確認する。

「原爆の件では世界に知らされるべきだとの提案は受け入れられない・・今後とも最高機密とされるべきである・・しかしこの爆弾が使用可能となればおそらく熟慮の後、日本人に対して使用され、降伏するまで繰り返されるだろうと警告すべきである」(ハイドパーク協定より)

ルーズベルトチャーチルは1944年の時点ですでに世界初の原子爆弾の標的国を指名していた・・その国は日本。

1944年秋、グローブス将軍に組織された特別部隊がフランス東部ストラスブールで重大な発見をする・・病院に置かれたドイツ軍の研究室で残された書類を点検したところドイツの核開発プログラムが2年前に中断されていた事をついに突き止めたのです。

こうしてマンハッタン計画を推進する原動力であったナチスの脅威は泡と消えさる…

1945年2月 ヤルタ会談スターリンはドイツ降伏後の90日後に対日参戦することを約束した・・どちらが先に日本列島を占領するのか日本の運命はまだ決まっていなかった。

ソビエト軍はドイツ戦線に手を焼き、アメリカ軍は太平洋で日本の猛烈な抵抗に立ち向かっていた。

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硫黄島の攻略により、アメリカ空軍B29が自由に日本上空を飛べるようになり、日本列島の破壊が進んだ・・東京を含む大半の大都市が集中的に爆撃を浴びる・・空襲で30の都市の中心地が50%以上も破壊され800万人の人々が疎開した。

1945年3月10日 東京大空襲焼夷弾が一夜にして日本の首都を火の海にし10万人の死者を出した・・国中が飢え、食料だけでなく燃料、弾薬も不足していた。

海軍も壊滅状態、帰りの燃料も無い間に合わせの飛行機で特攻隊員が最後まで戦った。

1945年4月12日 ルーズベルト大統領 死去・・副大統領だったハリー・トルーマンにすらマンハッタン計画は隠されていた。

1945年 トルーマン 大統領に就任・・大統領に就任したトルーマンに陸軍長官スティムソンが重大な秘密を告げる…

「スティムソンは私に進行中の巨大プロジェクトについて知っておいてもらいたい・・それは信じられないような破壊力を持った新しい爆弾の開発を目指すものだと言った・・それが原子爆弾について知った最初の情報だった」(トルーマンの日記)

外交を任せたのはルーズベルトの側近であったジェイムズ・バーンズ・・彼は原子爆弾によって合衆国が国際戦略上、信じられないほど優位に立てるであろう事を語る。

「バーンズは言った・・新兵器の威力は桁外れで都市を丸ごと消滅させ空前の規模で人を殺すだけの能力がある・・また原爆によって終戦時には自分たちの思う通りに事を進められるようになるだろうと」(トルーマンの日記)

バーンズは更に大統領就任演説の原稿を書き、トルーマンはその中で和平交渉を拒否するアメリカの姿勢を再確認する。

1945年4月16日、トルーマン大統領就任演説
「ドイツと日本に告ぐアメリカはあらゆる軍事抵抗がなくなるまで自由のために戦い続ける・・我々の要求は変わらない無条件降伏のみである」

アメリカは無条件降伏が天皇制を保持したい日本にとって受け入れがたい事をよく知っていた。

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1945年5月8日 ドイツ軍降伏のニュースが世界に流れた・・ヤルタ会談の秘密協定に従い、スターリンソビエト軍の対日参戦の準備を始めまず満州に部隊を結集させる。

ヨーロッパでは戦後が始まった・・チャーチルスターリンの東ヨーロッパへの介入に歯止めをかけるためトルーマン英米ソ3大国の首脳会談を提案する。

「この問題を手紙でやりとりするのは難しい・・一刻も早く3者会談を実現すべきです・・それまではソ連に対する譲歩は決してしないように」(チャーチルの電報)

ところがトルーマンは…

「3大国の首脳会談が望ましいという貴下の意見に同意します・・しかし時期については私が会計年度末6月30日前にワシントンを離れるのは極めて困難に思えます」(トルーマンの返信電報)

腰を上げないトルーマンに驚いたチャーチルは執拗に主張を繰り返す…

「あなたが望む場所で可能な限り早く6月中に行うべきだ・・会計年度が延長されないよう祈ります」(チャーチルの電報)

トルーマンは時間を稼ごうとするモスクワにいる外交顧問の仲介でスターリンに7月半ばの会談を提案した・・チャーチルは憤り…

「もい一度言う7月15日では対処しなきゃならない問題の緊急性からいって遅すぎる。。私は6月15日にすべきだと提案している・・7月の前の月である6月だ・・しかしそれが駄目だとしてなぜ7月1日、2日、3日ではまずいのか」

結局トルーマンは自らの意志を通した・・会談はベルリンの近くポツダムで7月15日に行われる・・実はその日、初の核実験が行われる予定だったのです。

実験の場所はニューメキシコ州アラモゴルド、この砂漠でマンハッタン計画3年間の成果が問われる・・トルーマンはこの日の結果を手にしてからポツダム会談に臨むつもりだったのです。

アラモゴルドでは毎日研究者や技術者が休みなく12時間作業をしていた・・オッペンハイマーはこう語る。

「ドイツ降伏の後の時期、そして実戦使用の前ほど時間との競争を意識した事はなかった・・ポツダム会談前に間に合わせなければという事で精神的重圧は想像を絶するものだった」(オッペンハイマー回想)

もはや問題は原爆を日本へ使うかどうかではなく、使うのはいつどのようにであった…

「爆弾の効果を十分に発揮するには、既に爆撃され破壊された都市は避けるべきだ・・山で囲まれた適度な大きさの都市が良い・・それによって爆弾の威力がより見極められるだろう」(ターゲット委員会)

しかしこの条件を満たす都市は少なかった・・原爆投下の候補に挙がったのは新潟、小倉、広島・・いづれも工業と港の町で特に広島はマンハッタン計画の責任者グローブス将軍が自ら押していた。

「この地は規模からいって理想的だ・・都市の大部分が被害を受けるだろう・・周りを囲む丘が丁度被害を市街地で止める・・それにより破壊の規模をハッキリと見る事ができる」(グローブスの回顧録

日本人に原爆投下を予告すべきかどうか・・シカゴの科学者グループは意見を表明した…

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「日本に対し予告なしに核爆弾を使用する事は賢明ではない・・もし合衆国がこの新しい無差別な破壊手段を人類に対して初めて使用する事になれば世界中の支持を失うだろう」(フランク・リポート)

シカゴの科学者の一人、レオ・シラードはワシントンに一人乗り込み国務長官と面会する・・しかし国務長官バーンズの反応は厳しかった。

「我々はこの爆弾の開発に20億ドルを費やしてきた・・議会はその金で何が得られたかを知りたがるだろう・・すでに使った金の結果を見せないでどうやって原子力研究に予算を付けてもらう気かね」(レオ・シラードの回想)

この時期、連邦議会は膨大な使途不明金に関心を持ち始めていた・・マンハッタン計画はいずれ国民に説明しなければならない・・爆弾は標的に対して使われない限り、目には見えず無用なものとなる。

「事前にいかなるデモンストレーションをしても戦争を終わらせる事は出来ない・・直接の軍事使用以外に選択肢は無い」(暫定委員会科学顧問団 見解)

6月1日、陸軍長官ヘンリー・スティムソンは、科学者と産業界代表団との会議に臨んだ・・アメリカは戦後を睨んだ核開発計画を立案し、すでに大枠をまとめていた。

マンハッタン計画は戦後も引き続き継続されるべきである・・施設を無傷のままに保ち軍事目的ばかりではなく産業、技術ようにも相当規模の原料を備蓄する・・そして産業開発に門戸を開く」(戦後の核開発計画)

1945年6月末には、アメリカ軍が沖縄本島を占領する・・太平洋戦争で最も激烈な戦場だった・・1万2000のアメリカ兵と10万の日本兵が死にそれ以上の市民が犠牲となった。

沖縄は日本本土を守る最後の砦だった・・東京では天皇を犠牲にせず戦争を終わらせる交渉手段を模索し、外交官がソビエトに仲介を求めモスクワとの接触を試みていた。

7月7日トルーマンとバーンズは巡洋艦オーガスタに搭乗しポツダム会談に向かう・・大西洋を航海するさ中、アメリカ海軍諜報部は日本の外務大臣のモスクワ宛て緊急メッセージを傍受する。

「日本人が戦争を終わらせたがっているという証拠が初めて手に入った・・我々が傍受した東郷外相からモスクワの佐藤大使に宛てた電文によると出来れば3大国の会談に出発する前にそれが無理なら会談直後に外相モロトフと会って戦争を終結させたいという天皇の強い意志を伝えるよう指示している」

「更に連合国の無条件降伏要求が戦争終結を妨げている唯一の障害であり、その要求に連合国がこだわるなら日本は最後まで戦わざるえないと言っている」(フォレスタル海軍長官の日記)

ニューメキシコの砂漠では初の核実験のその時が刻一刻と迫っていた・・準備は整いオッペンハイマーは実験をトリニティー(三位一体)と命名した。

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爆弾はガジェット(からくり)と呼ばれた・・芯はテニスボールより少し大きい6キログラムのプルトニウム・・この鉄の塊の想像に延べ15万人もの労力がかけられたのだ。

1945年7月16日 ニューメキシコ州アラモゴルド 世界初の核実験・・この瞬間に立ち会ったのは許された僅かな人々だった・・ある者は自然を征服したと感じ、またある者は何か異常な事態が起きたと感じていた。

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だがかつて手にした事の無い新たな力を得た事だけは確かだった・・新兵器を手にした優越感、この優越感が以後、アメリカと世界を変えて行く。

同じ日、トルーマンとバーンズはポツダムに着いた・・核実験の成功はグローブスからの暗号電報で入って来た…

「今朝、実行された診断はまだ完了してないが結果は満足できるものだ・・すでに予想を超えている」(グローブスからの暗号文)

トルーマンに会ったスターリンは、ヤルタ会談での対日参戦の合意を確認する・・ソビエトは8月15日から日本へ攻撃を開始する予定であった・・しかしニューメキシコから次々に届く暗号文が情勢を変える。

チャーチルはたちまちアメリカの首脳陣の態度の変化に気づく・・しかしその理由がわかったのはグローブスの詳しい報告を読んだ後の事だった。

「昨日、トルーマンに何があったのかやっとわかった・・この報告を読んだ後に会談にやって来た彼はまったく別人だった・・とにかくロシア人に対してああしろ、こうしろと指図し、初めから終わりまで会議を取り仕切っていた」(チャーチルの回想)

それを国務長官バーンズが裏付ける…

「大統領も私も核実験の成功を知ってからは、彼らを参戦させる事はどうでもよくなった」(バーンズの回想)

原子爆弾トルーマンの切り札となった・・この日の日記…

原子爆弾ヒトラースターリンの仲間が発明しなかったのは世界にとって確かに良い事だった・・最も恐ろしい物のようだが、最も有用なものにする事も出来る」(トルーマンの日記)

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もはやトルーマンには原爆がある・・対日戦にソビエトの介入は不要なばかりか戦後に求められる報酬は払いたくない・・2日後、グローブスから新たに暗号電報が届いた。

「患者の準備の状態と気象条件次第で8月1日以降、いつでも手術は可能になるだろう」」(グローブスからの暗号文)

原爆投下への秒読みが開始された・・投下命令は、7月25日、太平洋戦略航空軍の司令官に発令された・・トルーマンポツダム宣言の起草を急ぎ、チャーチル、蔣介石に署名を求めた。

ソビエトはその間のプロセスから完全に外された・・ポツダム宣言13条では、日本に対し無条件降伏を要求した上で原爆投下を臭わせた。

「右以外の日本国の選択は、迅速かつ完全なる壊滅あるのみとす」(ポツダム宣言13条、末文)

テニアン島の飛行場では、1月前から原爆投下の準備が始まっていた・・広島に落とす原爆リトルボーイは4.4トンのウラン型爆弾でロスアラモスで部品が製造されテニアン島で組み立てられた。

爆撃機はB29エノラゲイ・・爆弾は高度9000メートルの地点から投下、40秒後(1945年8月6日、午前8時15分)、広島の上空600mで爆発・・核爆発により火の玉ができその温度は摂氏100万度に達する・・火の玉は音速を超える速度で周囲の空気を焼きながら広がった。

それはまるで地球の表面に生まれつつある太陽のようであった・・

広島原爆投下の2日後、ソビエト連邦は対日宣戦布告を行った・・ただちに150万人のソ連兵が満州の国境を超えて侵攻、日本軍は敗走した。

テニアン島では2発目の準備が完了した・・ファットマンは初の核実験に使われたものと同じプルトニウム爆弾である。

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1945年8月9日午前11時2分、観察する科学者を乗せたB29から長崎上空に上るキノコ雲を撮影した・・戻ってきた科学者たちは、爆撃機を『ネセサリー・イーグル』(必要悪)と新たに命名する。

・・・・・こうして原爆は必要悪になったのです。

爆発の瞬間、熱線が襲い物体はその姿を影として残し焼失した・・爆心の周囲200mでは人体は蒸発するか真っ黒に炭化した・・それより遠くにいたものあるいはコンクリートの壁に守られた人だけが生き残った。

広島では、蜂谷医師が生存者の救護に当たっていた・・

「8月9日 火傷、外傷の有無と無関係に皆一様に訴える症状があるのがわかった・・被災者は全て食欲不振がある・・その内吐き気、嘔吐を訴えるものがかなり多く入院患者の過半数はこれらの症状が揃っている」

脳炎か脳膜炎か脳症状を呈して死んだ者もいる・・つまり患者の症状は様々で一定の症状がない・・火傷や外傷の無い者で全身に出血斑が現れ口内炎をおこし重体に陥った者がある・・次から次へ変わった症状が現れるので私の頭は混乱した」

「18日、頭の髪の薄くなった者が出始めた皆血色が悪く顔につやがない・・顕微鏡さえあれば血球計算してみるのにと思った」

20日、待ちわびていた顕微鏡が東京から到着した・・我々の部屋の6人は、申し合わせたように白血球が3000前後であった・・正常人の白血球は6000~8000だ・・中には500しかないものもある・・瀕死の重傷患者は僅か200しかなかった・・その患者は採決後、間もなく死んだ」(蜂谷道彦『ヒロシマ日記』より)

写真9
日本人にとって原子爆弾放射線の影響は未知のものであった・・広島と長崎はかつて経験した事の無い兵器によって全壊した・・生き残っても原因不明の症状を呈して次々と亡くなっていった。

日本列島北部へとソ連軍の部隊が迫っていた・・アメリカは日本との和平交渉を急いだ・・バーンズはトルーマン天皇の今後をひとまず未決定にする事を提案した。

1945年8月15日 日本国民は始めて聞く天皇の声で戦争に敗れた事を知る…

1945年9月2日 戦艦ミズーリ号の艦上で全権代表団により降伏文書に調印された・・原爆投下から1カ月後、マッカーサーとその部隊が日本にやって来た。

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まずはじめに広島と長崎に向かったのは記者達であった・・ミルフレット・バーチェットは原爆を生き延びた人たちが奇妙な症状に苦しむ様子を目にしたのだった。

「広島では最初の原子爆弾が都市を破壊した30日後、かの傘下で怪我を受けていない人であっても未だに不可解、かつ悲惨にも死亡し続けている・・それは原爆病としか言いようの無い未知の何かだ」(9月5日 イギリス デイリー・エクスプレス)