NHKスペシャル 「圓の戦争」
66年前の戦争の負の遺産が思わぬ場所に刻まれていた。東京・霞ヶ関の財務省・・戦争で使われた膨大な費用の一部が今も借入金として記載されている・・その額、414億円、終戦時の国家予算を超える巨額の借金がなぜ残されたままなのか・・。
日本人だけで314万人もの犠牲者を出した日本の戦争、日本は中国やアメリカを相手に8年にも及ぶ戦いを続けた・・戦線はアジア・太平洋に拡大、長期化した戦争は国力を遥かに超えるものだった。
天文学的に上った戦費、しかしそれがどのように賄われたのか詳しい事はわかっていませんでした・・今、日本軍と深く結びついていた銀行の極秘資料が次々と見つかっている。
日本軍が占領地で国内では見た事も無い通貨『圓』を作りだしていた実態・・国を破滅へと導いて行った戦争、日本軍の陰に常に存在していた通貨『圓』知られざる圓の戦争を見つめました。
昭和6(1931年)年9月 満州事変が勃発、日本の関東軍が中国東北部を武力で制圧、そこに傀儡国家を作った・・計画したのは関東軍高級参謀・板垣征四郎 大佐、戦後A級戦犯として死刑となった。
そして作戦主任参謀・石原莞爾 中佐・・国の不拡大方針を無視して行われた満州事変、現地軍の独走を支えた戦費はどう賄われたのか・・本来戦争に必要な戦費は国から支給される・・しかし石原中佐には、「戦争を持って戦争を養う」 という思想があった。
戦争に必要な物資を戦争によって自ら賄ってゆくというものだった・・関東軍の現地での資金調達、その実態が初めて浮かび上がってきました。
関東軍と深く係わりがある国策銀行の内部資料が存在しました・・当時、日本の植民地だった朝鮮半島に作られた朝鮮銀行、戦争に加担したとして戦後GHQ連合国軍総司令部に解体された。
戦後散逸していた資料を集め研究してきた多田井喜生氏・・多田井氏は戦後、朝鮮銀行の資産を引き継いだ日本債券信用銀行の常務を務めた・・銀行が戦争にどのように加担したのかを調べてきました。
「朝鮮銀行券は朝鮮・満洲に留まらず熱河の聖戦の際にも軍事の支払いに多大な便益をあたえてきた」(朝鮮銀行が関東軍に資金を提供していたとする極秘文書)
昭和8(1933)年 熱河作戦・・熱河省での作戦など満州事変による関東軍の軍事行動を支えたのが朝鮮銀行の圓だった・・戦争を支える自らを事変銀行と自負していた朝鮮銀行、しかし関東軍への協力はしばしば政府の意向を踏まえず独断で行われた。
なぜそのような事が可能だったのか・・当時日本は異なる3つの円を発行していた…
日本銀行券:本土
台湾銀行券:植民地の台湾
朝鮮銀行券:植民地の挑戦
それぞれが同じ価値で交換できた・・万一植民地の経済が悪化した場合、本土から切り離すためにあえて別々に発行していた。
自由に圓が発行出来た事が朝鮮銀行の独断での資金提供を可能にしていた…
元日本債券信用銀行 多田井喜生さん
「事変がある度に朝鮮銀行券というのが陸軍の軍事支出を支える銀行としていろいろな面で活躍、利用されてゆく・・朝鮮銀行券は、関東州から満鉄付属地から満州全体へと通貨圏を広げて行くわけです」
軍と朝鮮銀行には朝鮮半島から中国大陸に影響力を拡大するという共通の狙いがあった…
大蔵大臣を2度務めるなど戦前の経済界の重鎮だった勝田主計・朝鮮銀行元総裁・・満州事変後、陸軍の幹部が毎日のように訪れていた・・中国における経済や金融において意見を求められていた。
朝鮮銀行元総裁・勝田主計の日記
「昭和8(1933)年4月4日、鈴木貞一中佐来る」
大陸強硬派で陸軍の中国政策に強い影響力を持っていた陸軍省軍務局・鈴木貞一中佐・・後にA級戦犯として終身刑を受けた。
朝鮮銀行元総裁・勝田主計の日記
「昭和9(1934)年12月6日、板垣少将、来訪」
満州事変を首謀した板垣少将も訪れていた・・自らの経済的な思想を伝えていた勝田総裁、中国に圓の経済圏を作るという壮大な構想があった・・満州事変の3年前に書かれた未発表の原稿にこう書かれている。
「経済力の強い国の貨幣が他の国で使われる事は自然な状況である」・・強い通貨こそが経済の弱い国を支配すべきという持論だった。
日本が海外国家満州国を作った当時、中国には南京に国民政府があったものの地方では軍閥が割拠、それぞれが独自の通貨を発行し経済はバラバラの状態だった。
そこを圓で統一し日本の一大経済圏を作るというのが勝田総裁の考えである・・しかしそれは一歩間違えば経済的侵略にもつながりかねない思想だった。
元日本債券信用銀行 多田井喜生さん
「勝田(朝鮮銀行総裁)の持っている思想というものは、軍人側にとっては利用しやすいもの・・軍の大陸侵攻の方向と朝鮮銀行の『圓』の方向は合致するわけですね」
関東軍は更に中国の懐深くに狙いを定めた・・中国・国民政府の支配下に合った華北地域を狙っていた・・しかしそこには古くから権益を持つヨーロッパの列強や北から共産主義の拡大を図るソビエトの存在もあった。
軍は武力ではなく政治経済的な工作を進めた・・昭和10(1935)年11月、軍は国民政府の不満分子を担ぎ出し傀儡政府を打ち立てる(冀東防共自治政府)緊張はにわかに高まっていった。
日本政府は強い危機感を抱いていた・・現地軍の独走や朝鮮銀行の戦費の支払いを政府は追認させられる形になっていた。
大蔵大臣・高橋是清は軍事費の増額を求める軍部と激しく対立していた…
大蔵大臣・高橋是清
「軍事予算の膨張は、いたずらに外国の警戒心を刺激し国民経済の均衡を破る事になる」(昭和9年、5相会議での発言)
高橋蔵相は現地軍と結びついていた朝鮮銀行から通貨の発行権をも取り上げる事を視野に入れていた…
大蔵大臣・高橋是清
「今まで国家に迷惑をかけた原因は、発行権があるため金が自由になりすぎる点にある・・朝鮮銀行に『圓』を発行させず日本銀行券に統一したい」(昭和10年2月、衆議院議会での発言)
金融経済界にはこういう考えを支持する人たちがいた・・かつて高橋蔵相が頭取を務めていた横浜正金銀行・・日銀とともに日本を代表する銀行として国際金融を一手に担っていた・・国際協調を重視する金融のエリートだった…
横浜正金銀行 元行員 小原正弘さん(99歳)
「僕ら悲痛のものにはあの時代は暗かったね・・嫌な空気でしたよ今思えば」
昭和11(1936)年2月26日、ニ・二六事件が勃発・・陸軍の青年将校が高橋蔵相ら重臣たちを暗殺した・・その日、小原氏は横浜正金銀行の本店で事件の一報を聞いた。
横浜正金銀行 元行員 小原正弘さん(99歳)
「なんでああいう人を殺したのかと思いましたね・・ああいう人がいないとね陸軍の思うようになってしまうと思いましたね」
軍部と対峙し軍事費を抑えていた高橋是清・・もはや止めるものは誰もいなかった…
昭和12(1937)年7月 ニ・二六事件の翌年、日中戦争が勃発・・日本軍の侵攻とともに一大経済圏を作るための圓の戦争が本格化して行く。
華北に展開する第5師団の板垣中将、関東軍の東条英機中将・・2人は満州国に隣接する地域に進軍、3つの傀儡政権が作られた。
関東軍の極秘文書に関東軍の東条中将が極秘で出した通貨に関する支持が残されていました・・「幣制及び金融機構の一元的統一、研究を進むべし」・・傀儡政権に圓の影響力を進めるべく指示していたのです。
現地軍の意向を受けて朝鮮銀行員は前線深くまで従軍して行く・・リュックに大量の朝鮮銀行券を詰めて同行、占領とともに現地に出張所を開設していった。
朝鮮銀行員は現地の通貨を回収し、圓への切り替えを図った・・しかし外国の通貨への反発は想像よりも強く朝鮮銀行券は浸透しなかった。
そこで日本軍は朝鮮銀行券に代わる新たな圓を作りだす・・華北を占領した日本軍が打ち立てた傀儡政権・中華民国臨時政府(昭和12年12月)・・この傀儡政権が発行した中国聯合準備銀行券・・この連銀券には、人々に受け入れられるよう中国という文字が入っていた。
聯銀券を浸透させるため強引な手法が取られていた・・聯銀券を使わなかった市民は最高で無期懲役という厳しい罰を科せられていた。
陸軍省経理局の極秘資料には強制的に連銀券を使わせるための方策がこうじられていた・・小麦粉や石油などの必要物資を連銀券でしか買えないようにしていた・・更にアヘンという記述・・当時中国には麻薬であるアヘンの中毒者が溢れていた。
中毒者に対してもアヘンを連銀券で売るよう指示していた・・日本軍は華北を抑えたもののあくまで点と点に過ぎなかった・・周辺ではゲリラ戦が頻発し長期戦の様相を呈してゆく。
現地では膨らみ続ける戦費を賄うための手段が求められていた・・連銀券を利用して資金を生みだすカラクリが編み出された。
『中国聯合準備銀行との預け合い契約で調達する』この預け合いという仕組みにカギがあった・・それまで華北では朝鮮銀行が自ら発行する圓を戦費として渡していた・・その戦費は国の臨時軍事費から賄われた。
しかしその額は急激に膨らんでいた・・戦費の大部分は戦時国際による国民からの借金で賄っていたがその事が国の経済を脅かしていた。
朝鮮銀行が編み出した『預け合い』とは傀儡銀行の中国聯合銀行に無制限に金を発行させる方法だった・・しかし通貨は何の裏打ちも無く発行できない。
その為、朝鮮銀行が傀儡銀行と預け合い契約を結ぶ日本から送金された圓を裏打ちとし傀儡銀行は通貨を発行し現地軍に渡す・・そして日本の軍事費に借金として計上される。
しかし裏打ちである圓を傀儡銀行は引き出す事が出来ず国庫に戻される・・日本の懐を痛める事なく無尽蔵に生み出される戦費、それは戦争のツケを将来に先送りしているに過ぎなかった。
元日本債券信用銀行 多田井喜生さん
「国力がない日本としてはよく考えた知恵だと思います・・極端に言えば中国での戦争は全く日本円は使わないで済んでいるって事です」
預け合いによって膨大な聯銀券が溢れ占領地の経済は混乱した・・当時、横浜正金銀行から中国聯合銀行へ出向した小原さんが目の当たりにしたのは日本の圓のもろさだった。
中国聯合銀行(横浜正金銀行から出向) 元行員 小原正弘さん(99歳)
「日本軍・日本政府がバックにあるお札が出回っていて日が暮れると法幣(中国の通貨・元)の世界だと言われていましたけど武力で押し切っているうちは保つでしょう・・表面的には・・でもそれが弱ってきたら値打ちはガタ減りでしょうね」
日本の占領地で広がっていたのが中国の元だった・・中国国民政府を率いていた蔣介石は日中戦争の始まる前にある政策を打ち出した。
「昭和10(1935)年11月4日、新貨幣制度を実施」・・蔣介石は法幣ともいわれる元を生みだしたのです。
国民政府の他に共産党など数々の軍閥が割拠し、それぞれが通貨を発行していた中国、通貨の種類は1000を超えていた。
そこに登場したのが統一通貨『元』・・蔣介石にとって元は、中国を一つに束ねると同時に日本と対峙して行く有力な手段となった。
台湾国史館 卓遵宏 研究員
「『元』は蔣介石にとって抗日戦に打って出る重要な要素となりました・・元は武器よりも強い殺傷力があったかもしれない経済的基盤がなければ勝てないからです」
新たに誕生した元の背後に中国に権益を持つイギリスやアメリカの存在もあったのです・・日本軍の侵攻を食い止めるためイギリスとアメリカは、多額のドルとポンドを提供して元を支えていた。
欧米の支援を受け、元は瞬く間に中国全土に浸透した・・
「もし日本との戦いが『元』誕生より前に発生したならば中国は速く敗れ、あるいは恥を忍んで和平を求めていたかもしれない・・現在は幸いにして元が存在し、これによって極めて厳しい局面でも長期戦の基礎を固める事が出来る」(蔣介石の日記より)
日本と中国の戦争は泥沼化していった・・圓の戦争はその舞台を更に広げていった・日本からアメリカへ金塊が頻繁に送られるようになっていたのです。
鉄や石油などの戦略物資をアメリカに依存していた日本にはすでに外貨が底をつき金塊で支払っていたのです。
最大で100万を超す兵力を送っていた陸軍、軍事費はついに国家予算の7割を超えた・・アメリカは、日本の軍資金欠乏を掴んでいました・・日中戦争をもう継続できないと判断していたのです。
ところがアメリカも気付かなかった資金の動きが発覚したのです・・昭和15(1940)年8月、横浜正金銀行ニューヨーク支店の口座で1200万ドルもの金が動いていた事がFRBの調査で発覚したのです。
日本がアメリカに送った金を売る時、相場によって差額が生じその差額を横浜正金銀行の隠し口座に入れていたのです・・その額、2年半で1億4000万ドル・・戦争継続に欠かせない石油3年分を賄える額だった。
アメリカは衝撃を受けます・・日本が中国との戦争を長期間続ける事が出来るからです・・その矢先、日独伊三国同盟成立(昭和15年9月)・・日米関係は悪化…
昭和16(1941)年12月 真珠湾攻撃、日本軍はアメリカとの全面戦争に突入した・・欧米から資金や戦略物資を調達し、それによって資金や戦略物資を調達し戦争を賄ってきた日本、孤立した日本にもはや頼れる国は無かったのです。
日中戦争勃発時に33億円だった戦費、昭和19年には740億円にまで達した・・国家予算の8割を超える額だった。
昭和18年(1943)3月、東条内閣はある決定を下す・・「大陸の戦線で生じる戦費は全て現地の銀行に『預け合い』で調達させる」・・かつて華北で朝鮮銀行が編み出した錬金術でした・・戦争を持って戦争を養うという現地軍のやり方が国家方針となった。
華北 朝鮮銀行
華中・華南 横浜正金銀行
東南アジア 南方開発金庫
南京で日本が作った傀儡政権の新たな通貨・儲備銀券・・横浜正金銀行が担当する華中・華南で使われた。
正金金銀行は、傀儡銀行と預け合い契約を結び膨大な儲備銀券を発行した・・上海に展開した第13軍経理部長 原田佐次郎 陸軍少将の手記には、当時中国に展開した100万もの兵力をどう維持していたのか内実が記されていた。
「横浜正金銀行を通じ儲備銀行と相談して極秘のうちに儲備銀券を軍の手で印刷した・・戦時中に中国からどれだけの戦時物資を調達していたかを暴露したらその天文学的数字に度肝を抜かれるに違いない」
正金銀行が終戦までに預け合いによって生み出した金は、2800億円を超えた・・日中戦争が始まった時の国家予算の60倍だ・・・。
中国聯合銀行(横浜正金銀行から出向) 元行員 小原正弘さん(99歳)
「預け合いはあくまでその場しのぎに過ぎず戦争が終われば全て日本の借金として重くのしかかってくるのです・・いつまでこんな事を続けるのかと思っていました・・破たんしますよ・・いつかは必ず破たんします」
占領地の経済はかつて無い状況に追い込まれた・・儲備銀券を発行すれば発行するほどその価値は、紙切れ同然となっていった。
上海では日中戦争勃発時の3万倍というハイパーインフレ・・戦争末期には圓だけに留まらず東南アジアから持ち込まれた通貨や軍票と呼ばれる軍用通貨など様々な紙幣が日本軍によって中国各地にばら撒かれていった。
日中戦争から終戦までの8年間、戦費はわかっているだけで7559億円、現在の価値で300兆円を超える・・少なくともその4割が預け合いによって賄われていた。
現地から収奪した金で戦争が続けられ更に多くの兵士や民間人の命が奪われていった・・それでも軍部は終戦間際まで本土決戦を叫び経済的破綻から目をそ向け続けたのです。
元日本債券信用銀行 多田井喜生さん
「日本が大国相手に戦争をするそんな事は不可能なんです・・『預け合い』の仕組みがあったからあれだけの戦争を継続できた」
終戦から66年、日本の圓の戦争は人々の記憶から忘れ去られた・・しかし国の一般会計、東京・霞ヶ関の財務省には、預け合いによる戦費の一部が積み残されている。
旧臨時軍事費借入金、414億円・・戦費調達を担った銀行は消滅、借入金はそのままになっている。
・・・消す事の出来ない日本の戦争の刻印である。