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予ノ判断ハ外レタリ ~ソ連対日参戦の衝撃~

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NHK その時歴史が動いた
予ノ判断ハ外レタリ ~ソ連対日参戦の衝撃~

中国東北部吉林省の中心都市・長春、昭和の初めこの都市は日本が事実上支配下に置いていた満州国の首都でした。

昭和6(1931)年9月、日本軍は鉄道爆破事件を口実に軍事行動を開始します…満州事変です。

昭和7(1932)年3月、満州のほぼ全域を制圧した日本は清朝最後の皇帝・溥儀に満州国建国を宣言させました…政府と軍部は農業移民政策を推し進めてゆきます…満州は希望に満ちた新天地であると宣伝されました。

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満州に渡った人々の数は敗戦までに30万人を超えました…その他、商工業者や政府の役人などを合わせ100万人を超える人々が居留民として暮らすようになりました。

満州国に駐屯していた日本陸軍関東軍と呼ばれ、現在の長春に総司令部を置いていました…当初、日露戦争で得た権益を守るために置かれた関東軍満州頭変の後、兵力を増強してゆきます…最大兵力70万、泣く子も黙る関東軍と呼ばれていました。

満州国建国以来、関東軍はその国境付近でソ連軍との間に度々紛争を起すようになりました。

昭和14(1939)年5月、満州国北西部の国境地帯で日本軍とソ連軍が衝突、ノモンハン事件が起こります…ソ連軍は戦車や航空部隊など近代的な兵器を備えていました。日本軍は大敗北を喫し、1万8000人を超える死傷者を出しました…9月、停戦協定を結びます…関東軍ソ連軍の実力を思い知らされました。

ノモンハン事件の一年後、日本軍は東南アジアへの進出を本格化、この地域に権益を持つ、アメリカやイギリスとの対立を深めて行きます。一方のソ連は、ヨーロッパで領土拡大を図るナチス・ドイツを強く警戒するようになっていました…日本とソ連は互いに衝突を避けたい状況にあったのです。

昭和16(1941)年4月13日、日本とソ連は中立友好と領土不可侵を約束する日ソ中立条約を結びます。東南アジアへの進出を図るためソ連の脅威を取り除いておきたい日本、予想されるドイツとの戦いに備え、極東での不安を解消しておきたいソ連、この時点で両国の利害は一致していました…有効期間は5年間と定められました。

昭和16(1941)年6月、ナチス・ドイツは突如ソ連領内へ侵攻、ドイツとソ連との間に戦争が始まりました。日本との中立条約はソ連に有利に働きます。ソ連軍は対日戦に備え満州国境に配備していた100万人を超える兵力をドイツとの戦いに送り込んだのです。

昭和16(1941)年12月8日、一方日本は、その半年後、ハワイの真珠湾を奇襲、アメリカ、イギリスに宣戦布告し、太平洋全体に戦線を拡大してゆきます。

その直後、ヨーロッパではモスクワに迫ったドイツ軍をソ連軍が撃退します…3年後の昭和19年にはソ連軍は対ドイツ戦の勝利をほぼ確実なものにしていました。

昭和19(1944)年11月、ソ連革命記念日の席上、ソ連首相スターリンは公然と日本を敵と見なす演説を行います。

「この先、我がソ連が日本から攻撃を受ける可能性は否定できない。しかし、我々はすでに迎え撃つ準備は出来ている…偉大なる祖国万歳」(『スターリンの演説』より)

この時、すでにスターリンは日本との戦争を決意していました…ソ連対日参戦まであと9ヶ月の事でした。


ルーズベルトスターリンの密約

昭和20(1945)年2月、クリミヤ半島のヤルタでアメリカ、イギリス、ソ連の3カ国は首脳会談を開きました。この会議の最中、アメリカ大統領ルーズベルトソ連首相スターリンは秘密協定を結びました。

その協定は、ドイツ降伏の後、2、3ヶ月を経てソ連も日本との戦争に参加するというものでした…参戦の見返りとしてスターリンが求めたのは極東での領土拡大でした。スターリンルーズベルト南樺太の返還と千島列島の譲渡を約束させます…この秘密協定の存在を日本は知ることが出来ませんでした。

この頃、太平洋の島々ではアメリカと日本が激しい戦いを繰り広げていました…圧倒的な戦力を持つアメリカ軍に対して日本軍は絶望的な戦いを続けていました。しかし日本軍の頑強な抵抗に手をやいていたアメリカはソ連の参戦を必要としていたのです。

戦争遂行の最高統帥機関、大本営大本営アメリカとの戦いの不利を補うため、満州を防衛するために駐屯させていた関東軍を太平洋の激戦地に派遣し始めていました。

兵力の派遣が本格化したのは昭和19年、7月には戦車部隊がフィリピンのルソン島へ送られるなど、おびただしい武器とともに30万にのぼる兵士たちが太平洋戦線に送り込まれてゆきました。

更に昭和20年3月には、本土防衛のために10万人以上の兵士が九州、四国などに送られました…かつて無敵を誇った関東軍の精鋭部隊は殆どいなくなりました。当時関東軍参謀の草地貞吾さんは、このままでは関東軍ソ連と戦えないという懸念を強めていました。

関東軍参謀 草地貞吾さん
「将棋で金銀の駒があるから戦もできる。なくなったらお手上げ、同じように『虎の子関東軍』は、金銀飛車角ほとんど持っていかれた」

大本営は戦力の不足を開拓団や居留民などの人々を動員することで補おうとします…妻と4人の子供と暮らしていた中島清一さんも召集された一人です。中島さんは招集されて始めて関東軍の実態を目の当たりにしました。

中島清一さん
「無敵関東軍だと信頼していたわけなんです。入隊して初めてろくな兵器はないし、兵隊も訓練を受けていないので大丈夫かなと思いましたよ」

やがて “根こそぎ動員” とも言われる徹底した召集が行われてゆきます…動員された人々の数は25万人にのぼりました。しかし動員された人々に与えられる武器は殆どありませんでした。

この頃、ソ連軍はベルリンの目前まで迫り、ドイツに対する勝利を確かなものにしていました。

昭和20(1945)年4月5日、モスクワのソ連大使・佐藤尚武はソ連外務大臣モロトフに呼び出されました…モロトフは日ソ中立条約を破棄するという衝撃的な通告を行いました。この一方的な通告、理由は、“もはやソ連と日本を取り巻く状況は根本的に変わったのだ” というものでした。

この時点で中立条約の有効期限は翌年の4月までで1年残されていたのです。すでにソ連軍はヨーロッパにいた軍隊をシベリア鉄道満州国境へと移し始めていました。

満州東北部の国境の町・虎頭、関東軍の前線基地がありました…ここで兵士たちは満州国境へのソ連軍の集結を目撃していました。後藤守さんは当時、国境守備隊でソ連の動向を監視していました。

後藤守さん
「これ見よがしにカバーもしない無蓋車という貨車でですね、砲を並べてどんどん南へ送られた。ほとんどが軍需物資、特に兵器を送っていました」

ソ連軍が満州国境に移動しているとの報告は、東京の大本営陸軍部にももたらされました…しかし大本営の参謀たちの対ソ連認識は甘いものでした。大本営陸軍部参謀次長・河辺虎四郎中将は、日誌にこう書き記しています。

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ソ連邦が東部に軍を輸送するの確報至る…スターリン氏ついに意を決したるか」…ソ連軍の移動を知りながらも河辺中将はソ連が参戦するとは考えませんでした。

「予はスターリンが東洋に新しき戦場を求むるの決意あるを信じえず。これただ予の希望のみか」…ソ連の対日参戦4ヶ月前の事でした。

 

和平交渉への頼りはソ連

昭和20(1945)年5月7日、ドイツはアメリカ、イギリス、ソ連などの連合国に対して無条件降伏します…日本はただ一国で連合国との戦いを続けていました。ヤルタの秘密協定の当事者スターリンは対日参戦に向けソ連軍の満州国境への移動に全力をあげるよう命じます。

昭和20(1945)年4月~6月、この頃、沖縄ではアメリカ軍との激しい戦闘が続いていました…6月までに日本軍の守備隊は全滅、10万人を超える非戦闘員の犠牲者を出しました。追いつめられた日本にとってこの上、ソ連が参戦することは絶対に避けなければならないことでした。

6月22日、天皇の出席の元、国家の重大な問題を話し合う御前会議が開かれました…この会議ではソ連の参戦を避けるためにすでに破棄通告を受けた日ソ中立条約の延長を求めることが確認されました。

更にこの会議では戦争終結の方法も模索されました…それはアメリカなど連合国との和平を出来るだけ有利な条件で取りまとめてくれるようソ連に依頼することでした。

7月12日、モスクワ…この日モスクワの日本大使館佐藤尚武大使のもとへ東京の外務省から電報が届けられました。内容は、アメリカ、イギリスなど連合国との和平の仲介をソ連に依頼するために外交使節を送りたい。大至急ソ連側の了解をとってほしいというものでした。

佐藤大使は直ちにクレムリン宮殿に向かいます…しかし外務大臣モロトフ佐藤大使とは会おうとせず、求めていた回答は得られませんでした。この時モロトフは5日後に迫ったソ連アメリカ、イギリスの3巨頭会談の準備の最中でした。

7月17日、ドイツ・ベルリン郊外のポツダムでヨーロッパの戦後処理と日本との戦争の方針を決める会談が開かれました。ルーズベルトに変わりアメリカ大統領になったトルーマンはこの会談でソ連に対する強硬姿勢をとり続けます。

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アジアでのソ連の勢力拡大を警戒していたトルーマンは、ソ連の対日戦の参戦は不必要だと考えるようになっていました。

7月16日、会談の前日、アメリカは原爆実験に成功していました…アメリカにとってもはやソ連の力は必要ありませんでした。原爆実験成功を知ったスターリンは対日参戦を急ぐことを決意します。スターリントルーマンにヤルタでの秘密協定の通り、対日参戦を速やかに実行すると言いました。

7月18日、モスクワの佐藤大使のもとにソ連からの回答が届きます…回答は、「日本からの使節の受け入れを拒否する」というものでした。一週間後、佐藤大使はクレムリン宮殿を訪ね再び使節の受け入れを申し入れます。日本はなおもソ連による和平の仲介に望みをつないでいたのでした。

7月26日、アメリカはソ連に事前に相談することなく、ポツダム宣言を発表します…アメリカ、イギリス、中国の3カ国の名によるこの宣言は、日本の戦後処理方針を示し、日本の軍隊の無条件降伏を勧告するものでした。

7月27日、宮中ではポツダム宣言を受け入れるか否かについて会議が開かれました…政府首脳たちはソ連が宣言に参加していないことに注目します。…ソ連は和平交渉の仲介を受け入れる気持ちがあるのではないかという期待を抱いたのです。

結局、ソ連の態度を見極めてからポツダム宣言への回答を決定する事になりました…翌日政府はポツダム宣言を黙殺と発表、アメリカはこれを事実上の拒否と受け取りました。

10日後の8月6日、広島に原子爆弾が投下されました…あくる7日、スターリンは日本への参戦の期日を当初の予定より早めるよう命令します。

「8月9日朝、満州との国境を越え攻撃を開始すべし」…この時、満州国境に集結していたソ連軍は170万に膨れ上がっていました。ソ連対日参戦まであと2日の事でした。


そしてその時、ソ連参戦!

昭和20年8月8日、東京では昼間アメリカ軍の空襲がありました…大本営陸軍部参謀次長・河辺虎四郎中将は日誌にこう記しました。

「久しぶりの空襲、B29約100機」…8月以降、河辺中将の日誌にはソ連軍への警戒を窺わせる記述はありませんでした。この日、満州に暮らす100万を越える居留民は平穏な一日を過ごしていました。男たちを動員された開拓民の村々では、残された女性と子供たちが留守を守っていました。

8月8日午後5時(モスクワ時間)、日本大使・佐藤尚武はクレムリンに呼ばれます…和平仲介の申し入れに対する回答を期待していた佐藤大使にソ連外務大臣モロトフは、こう伝えます。

ソ連は戦争を早く終わらせ日本人民の苦しみを減らすため、日本へ宣戦布告する」…宣戦布告の文書に記された戦闘開始の日時は8月9日、この時、日本時間は8日午後11時、戦争状態突入の9日まであと1時間しか残されていませんでした。

大使館に戻った佐藤大使は、ただちにこの報せを東京に伝えようとします…しかしこの時、すでに全ての電話線は切断されていました。

満州東部の国境にある虎頭(ことう)、かつて1万人の兵士が駐屯していた虎頭にはこの頃、1400人の守備隊が残るだけでした。ソ連国境の監視にあたっていた後藤守さんはこの夜のことを鮮明に覚えています。

後藤守さん
「真っ暗い晩でした…あの時、部下の本田君が “こんな暗い晩に敵が来てもわかりゃせんな” と言ったので私が “そうじゃな” と言ったんです」

8月9日午前0時すぎ、ソ連軍は全面攻撃を開始しました。

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後藤守さん
「すごいもんですよ…もう何十条という光の帯です。これは間違いない。全面的な戦争だと…もう終わりだという感じがしました」

ソ連参戦の報せが東京の大本営に届いたのは8月9日の早朝の事でした…午前6時、参謀次長・河辺虎四郎中将は大本営からの電話でソ連参戦を知りました。その日、8月9日の日記に河辺中将はこう記しています…「ソは遂ニ起チタリ、予ノ判断ハ外レタリ」

奇襲に成功したソ連軍は、ほとんど日本軍の抵抗を受けることなく満州国になだれ込みました…虎頭の戦闘状況報告書には最前線の部隊が次々と崩壊してゆく様子が記されています。

「午前2時、国境の監視にあたっていた部隊は、ソ連軍の包囲を受け隊長以下全て全滅」…戦力に劣る日本軍は圧倒的なソ連軍の前に壊滅してゆきます。

8月9日午前11時、東京では政府軍部首脳たちの会議が開かれました…議論はポツダム宣言を受け入れるか否かについて紛糾していました。

午後4時、会議の席に長崎への原爆投下の報せが届きます…広島に続く2度目の原爆投下です。

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8月10日午前2時、政府と軍首脳部は御前会議の席上、天皇の裁断によりポツダム宣言を受け入れることを決定します。

満州ではソ連軍の進撃が続き、日本軍は退却を続けていました…前線には何の防備を持たない女性と子供たちが取り残されました…人々を襲ったのは、略奪、暴行、虐殺の恐怖でした。戦闘に巻き込まれ3万人が命を落とし、避難生活の中で21万人が亡くなりました。生き残った人も厳しい苦難を味わいます。

夫を招集されていた益子フミエさんは、3人の幼い子供を連れてソ連軍から逃げました…益子さんは貨車に乗り、南を目指しました。外は雨、貨車には覆いはありません。益子さんはまだ2歳だったトシオちゃんを栄養失調で亡くしました。

益子フミエさん
「批難したらお乳は出ないし、食べ物もないし、子どもたちはお腹すいたと言うし、本当に辛かったです。栄養失調で膨れちゃって死んじゃったんだから…地獄…地獄見てきた…地獄を見てきました」

8月15日、ソ連参戦から6日後、ポツダム宣言の受け入れが国民に伝えられました。

8月19日、停戦協定が結ばれ、満州で戦っていた日本軍はソ連軍に武装解除されました…捕虜となった57万人の人々は、その後、ソ連領内に連行され強制労働に従事させられました。


終戦後の満州、シベリア

ソ連軍の捕虜となった人々が連行されたのは、シベリアなどの極寒の大地でした…いわゆるシベリア抑留です。森林の伐採や鉄道建設などを命じられた人々は、寒さと飢えに苦しみました。連行された57万人の人々のうち6万人が帰らぬ人となりました。最期の抑留者が帰国したのは、昭和31年、ソ連対日参戦から11年後の事でした。

昭和31(1956)年、日ソ共同宣言により国交が正常化されました…平成3(1991)年、ソ連は解体し、ロシア連邦が誕生、しかし領土問題の存在などから日本とロシアはいま尚、平和条約を締結していません。

中国東北部満州国を作り上げた日本が中国との国交を正常化したのは、昭和47(1972)年でした。この時、日本政府は中国政府に対してかつて満州に暮らし中国に取り残された人々の一時帰国と身元調査を申し入れました。

ソ連軍が満州に侵攻した時、やむを得ず中国の人たちに託された子供たちは、この時からようやく祖国の土を踏むことができるようになりました。

これまでに厚生省の集団訪日調査で身元が確認されたのは660人余り、いまだに多くの人々が肉親との再会を果たせないままになっています。