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外交敗戦 孤立への道 日本人はなぜ戦争へと向かったのか(1)

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NHKスペシャル 日本人はなぜ戦争へと向かったのか(1) 外交敗戦 孤立への道

あなたは日本がアメリカと戦争をした理由を知っていますか?
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ある程度知っている 37%
まったく知らない 16%
無回答 2%

なぜ日本人は戦争へと向かったのか国立国会図書館・憲政資料室にその疑問を解き明かす貴重な手掛かりが残されています。

上記写真は、戦争への重大な決定へ係った当事者に戦後研究者らが聞き取りを行った資料です・・政府の閣僚から軍の幹部まで総勢100人、未発表の肉


声が大量に見つかりました。

外務大臣 有田八郎
「日本人というのは自分の国は強いと・・進んでおると、それでつけあがってるんですよ」

企画院総裁 鈴木貞一
「戦争をしなくちゃいかんということを考えておった人は陸海軍と言えどもいないんだな・・本当に計算してやれば戦争なんかできないんですよ」

内大臣 木戸幸一
「誰だって戦争をやろうと思っている奴はいない。不思議なんだよ・・どうしてああいうことになったのかね」

陸軍軍務局長 佐藤賢了
「私はよく東条さんにも言うたんですが船はまるでナイアガラの瀑布の上まで来てしもうたんだから右にも左にも舵が切れないですよ・・滝壺の中に飛びこむ他にしょうがなかったんだと」

70年前、なぜか戦争への道を選んだ日本、その理由を発見された新たな資料とともに明らかにして行きます。

第1回 ”外交敗戦” 孤立への道
国際連盟からの脱退、あたかも名誉の孤立と言われていたこの脱退劇ですが実際にはそうではなかったのです・・日本はなんとか連盟から脱退しないようにしないようにと心を砕いていました・・しかし結果として脱退してしまった・・ここに日本が繰り返してきた過ちの原形をみる事が出来ます。

1931年9月18日 瀋陽郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路が爆破されました(満州事変)・・これを中国側のしわざとして関東軍は武力による攻撃を開始、5ヶ月でほぼ満州全域を制圧し、翌年には傀儡国家の満州国を独立させました。

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1932年12月、日本の行為は国際法違反だと非難が起こる中、ジュネーブ国際連盟総会が行われました・・松岡洋右を全権とする日本代表団、審議の末、名誉の孤立とする連盟脱退を演じます。

しかしそれは既定の方針ではなく、当初の使命は手を尽くして国際連盟に残る事でした・・それを裏付ける証言が見つかりました。

新聞記者 楠山義太郎(肉声のテープ)
「これは御上(天皇)からと言ってもいいくらいね・・満州問題の上に支障なき限り連盟内に留まってくれと言われてきてるんだ・・少々連盟で悪口を言われても話をまとめて帰らなきゃいけないんだと」

証言に基づき当時を再現します…1932年12月6日 国際連盟総会
アイルランド シーン・レスター代表
満州国は日本の明白な国際条約違反である」

スイス ジュゼッペ・モッタ代表
「外国だからと言って力を好きに行使していいはずがない」

スペイン サルバドール・マダリアガ代表
「この侵略を黙認すれば連盟の威信は地に落ちる」

加盟国の多くは連盟の理念を守る事を強調した・・一方、イギリスなどの列強は、露骨な日本批判をひかえていた・・演説に立った松岡は日本には非はないと主張・・その強気の裏に列強への強い期待があった。

新聞記者 楠山義太郎(肉声のテープ)
「松岡もイギリスとフランスは大体話はわかってくれると思うという・・松岡の得意の言葉で『頬かぶり主義』で行くしかしょうがない」

この時点までは日本は完全に孤立したわけではなかった事が明らかになってきました・・実は列強各国も揺れていたのです。

当時のイギリス政府の意外な考え方を示す資料がイギリス国立公文書館で見つかりました・・国際政治の大物だったイギリスのジョン・サイモン外相、満州事変後の閣議で「日本には融和姿勢で臨む、制裁はしない」 との方針を示していました。

逆に中国には「連盟に頼らず自分で交渉すべき」 と距離をおいていました。

当時世界は国際協調に基づく、脱帝国主義的な外交のあり方を模索し始めたところでした・・しかしそれは現実には徹底されづ欧米の列強は植民地や権益を手放してはいませんでした。

英国:インド・エジプト・マレーシア
仏国:アルジェリアベトナム
米国:フィリピン・パナマキューバ

とくに1929年の大恐慌以降、列強は時刻の権益に固執する姿勢を見せていたのです・・関東軍の行動はそうした情勢をみて起こしたものでした。

日本政府もまた世界をそう認識、満州を実質的に支配下に置きます・・今回の証言テープから伝わって来るのは、「自分たちの行動は特別ではない」 という日本側当事者の楽観です。

関東軍参謀 片倉衷
「当時の列強は大体そんなもんなんですよ・・どこの国も・・みんなやってるんですから」

陸軍省 幹部 鈴木貞一
「兵隊を動かす事を満州だけに限定するなれば国際的にはそう心配する事は無い・・国際連盟というものは言論でワーワー騒ぐのであって力をもってやってくるような事は無い」

しかしこうした希望的解釈は後の戦争へと繋がる国家の判断に大きく影響して行きます。・・決定的な分岐点はすぐに訪れました・・審議4日目、イギリスのサイモン外相が秘密裏に妥協案を提示してきたのです。

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1932年12月10日 日本代表・サイモン会談
イギリス ジョン・サイモン外相
「そろそろ事態の終息をはかったらいかがかな」

サイモンの提案は中国に直接利害を持つ国で委員会を作り、建前論を超えて話し合おうと言うものでした・・この時、妥協点としてサイモンの念頭にあったのが1932年に行ったリットン調査団の報告でした。

これは『満州国を認めない』など日本に極めて厳しい内容だったと思われていますが・・実は、満州を国際管理としてそこに日本人顧問も起用するなど日本に配慮する提言でもあったのです。

一方、予想より厳しい連盟の空気に接した松岡らは強気で押し通す事に限界を感じていた。

松岡洋右 全権
「この際、私は、イギリスの提案に応じる方が得策ではないかと思う」

協議の末、松岡は本国へ打診した…
「日本側も考え直し、むしろ提案を快諾すべしと確信す」(外相あて松岡電文より 1932年12月14日)

しかし外務大臣内田康哉はその妥協案を拒絶します・・当時、日本の政党は国民の支持を失っており、政府は民意を取り戻す事に汲々としていました。

日本の世論は満州国誕生に熱狂、政府はこの国内世論を優先するあまり、イギリスの提案すらかえりみる事はなかったのです。

そこに更にやっかいな問題が持ち上がりました・・関東軍が新たな軍事作戦の許可を求めてきたのです・・長城の先、北京に隣接する熱河地方でした・・この時の現地軍の状況を当時の参謀が証言しています。

関東軍参謀 中野良次(肉声テープ)
「戦をやっておる者が途中でやめると命にかかわる問題、軍の運命に関わる問題ですから途中でやめるわけにはいかないんです・・東京が許さんからと言って見殺しにするわけにもいかないわけです」

1933年1月13日 政府閣議・・年明け政府は対応を迫られた…
陸相 荒木貞夫
関東軍が許可を求めている熱河作戦ですが行動は満州国の内部、すなわち長城の東側に限定するよう言明しております」

政府は関東軍の要求をはねつける事が出来なかった・・長城を超えないならばという条件で作戦を許可した。

有田八郎 外務次官「関東軍が動けば連盟の交渉に差し障りがでますよ」
内田康哉 外相 「そういっても熱河は満州国の中だ説明すれば連盟もわかってくれるだろう」

それはまたしても希望的判断だった・・満洲国内の治安活動なら国際問題にならないだろう・・軍との摩擦を避け、内側の事情を優先した選択だったのです。

その一方、世界のでかたに対しては更にあまく見ていた・・全権団に送った指示は…
「連盟に事態を静観させこのまま満州問題から手を引かせよ」(ジュネーブあて内田外相電報)
…連盟の一方的譲歩を求めるものだったのです。

ロンドン大学 日英外交史 アントニー・ベスト教授
「日本はイギリスなどの列強の政治の潮流を読み誤ったと思います・・帝国主義から民主的な政策へ重心は移りつつありました・・日本政府はまだ列強が古い通念に留まっていると考えたのでしょう」

松岡の怒りの電報が届いた
「国家の前途を思い率直に申し上げる・・ものは8分目でこらえるのが良い・・一切のいきがかりも残さず連盟に手を引かせるなど出来ない事は最初から政府も承知のはずである」(外相あて松岡電文より 1933年1月30日)

国際連盟脱退の真相は最近になって明らかになってきました・・2月初め連盟が対日勧告の作成に入ったところから事態は急展開します。

外務省は重大な誤算が生じた事に気づきます・・連盟の勧告が出るタイミングで日本側が挑発的な行動をとった場合、日本は規定により、経済制裁を科される恐れが出てくるのです。

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ところが関東軍閣議の了承と天皇の裁可を得てすでに動き出していました・・この行動と勧告の時期が重なってしまったのです・・経済制裁は恐慌から立ち直っていない日本には致命的です・・にもかかわらず誰も関東軍に作戦を撤回させようとしません。

むしろその代わりに外務省が場当たり的に持ち出したのが『連盟脱退論』でした・・。

学習院大学 政治外交史 井上寿一 教授
「日本が脱退しますと言えば脱退して行く国に対してわざわざ経済制裁することはないので、逆説的ですけど経済制裁を避ける奇策に頼ってしまったわけです」

窮余の策に飛び付いた政府は松岡らに連盟脱退の方針を伝えました・・連盟残留を目標としてきた松岡、政府の場当たり主義に激しい失望を覚えました。

1933年2月24日 リットン案より更に厳しい勧告案が国際連盟総会に提出されました・・
イーマン議長
「勧告案は採択されました」

松岡洋右 全権
「日本は断じてこの勧告の受諾を拒否する」

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日本が真の孤立、そしてその先の戦争への道に向け、大きく踏み出した瞬間でした。

この時、日本は何を誤ったか・・こ時の行動原理が内側を向いていたという事です・・内部の対立を避けて「あれくらいはだいじょうぶだろう」 という ”希望的判断” に終始してそれが甘い幻想だとわかると ”急場しのぎ” に奔走する・・国家としての ”戦略の欠如” から事が起こると小手先の予防策に走ってしまう事になったのです。

そしてもう一つ深刻な問題が顕在化してきました・・大恐慌のあった1929年から6年の間に7人の首相が変わっています・・つまり政党が民意の指示を得られづ内閣が求心力を失ってゆく・・軍部をはじめ各組織がバラバラに自分の政策や外交を展開して行く事になる。

そうした中で思わぬ形で始まったのが1936年、ナチスドイツへの接近でした・・。

孤立する日本の行く末に影を落とす物がありました・・軍による外交への介入です・・防衛省で世界の暗号や情報戦の研究をしている小谷調査官、日本軍のしらぜらる暗号解読力を明らかにし軍が外交介入へと至った背景を浮かび上がらせました。

戦前の日本軍の暗号解読力は世界トップレベル・・米・英・ソ、など年間数万通の電文を読み通していました・・中国に関しては軍事暗号まで殆んど解読、高度の情報収集によって現地軍は独自の対中感を持ち始めていました。

1933年、蔣介石の国民政府は日本との停戦協議に応じ妥協姿勢に転換していました・・しかし軍はこれを全く信用していませんでした。

たとえば現地軍が掴んだ国民政府№2の極秘発言です。
「我が政府は満州を放棄するつもりはなく満州国の存在も黙認しない・・強盗が室内に侵入しこの家の住人が力及ばず屋外に追われたからと言って家が強盗のものにならないのと同じ事である」

こうした情報を軍は外務省側に伝えませんでした・・そして国民政府の妥協姿勢を偽装と決めつけ一方的な敵視を強めていったのです。

1935年5月、現地の陸軍は思わぬ行動に出ました・・対ソ防衛を理由として国民政府を相手に中国北部からの退去を要求するという外交上の越権行為に出たのです。

現地軍の行動は政府にとって寝耳に水でした・・外務省は軍とは逆に国民政府への支持を軸に日中関係を改善し、国際的孤立を回避しようと考えていたからです。

外相秘書官 安東義良(肉声テープ)
「政府としても外務省としても国際的孤立を脱しようとしたわけです・・中日関係を良くしようとそれが主眼でした・・もう他の中国領土へ手出しをするなんてことは厳禁だという気持ちが非常に強かった」

軍と外務省、一つの国家にまったく相いれない外交方針が平存する二重外交が生じていました。

防衛省 情報外交史 小谷賢 調査官
「陸軍は、そういった中国の反抗姿勢を強調して捉えすぎた・・逆に外務省は弱い中国というか日本と協力したがっている中国のイメージで情報を読んでしまって、どんどん陸海軍・外務省の縦割が進んでしまって情報共有というのがまったくできなくなってしまった」

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なぜこの時期に外交の分裂が生じてしまったのか・・かつて日露戦争の頃は、対外情報を総合的に判断する組織や外交方針をまとめて各組織に従わせるリーダーが存在していました。

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1930年代には、その役割を政党内閣が担うはずでしたが政党の不人気や相次ぐテロなどで政党は弱体化、独自の行動を求める軍を統一した方針の下に従わせる事が出来なくなっていたのです・・特に中国大陸では、陸軍の独断行動が顕著でした。

1935年6月27日 外務省会議・・対中国外交の矛盾をどうするか外務省の緊急会議で思いもよらぬ案が飛び出した…
重光葵 外務次官
「陸軍が中国に出した要求は、日本と中国が共同でソビエトに備えるためと説明してはどうか」

重光次官がひねり出したのは、国家を超えて共産主義に対抗する『防共協定』というアイデアだった・・当時、共産主義の拡大は各国首脳にとって大きな懸念となっていました。

特に中国では国民政府と共産党の内戦が激化する様相を見せていました・・共産主義に対抗するという名目で蔣介石に連帯を呼びかけようとしたのです。

新たな国家戦略として急浮上した『防共外交』その中心を担った人物の遺族、外交官・有田八郎の孫の山村宗光さんです。

有田八郎は、1936年春に外務大臣となり、防共外交を協力に推し進めた人物です・・今回、有田家から膨大な資料が見つかりました。

日本の要は日中関係にあると考えた有田は、国民政府に防共協定の働きかけを強めました・・有田の防共外交は中国を手始めに更には世界へと広がって行きました。

ポーランド国立近代文書館に日本の防共外交の痕跡が残されていました・・有田がポーランドに防共協定の参加を呼びかけた資料が発見されました・・他にもオランダ・ベルギーなど日本が懸命に孤立脱出を模索した実態がわかってきました。

外務大臣 有田八郎(肉声テープ)
「一カ国でも多く防共協定に参加しておる方がよろしいというその気持ちもあって・・あの当時の政府におる者はね・・陸軍にしても海軍にしてもまた外務省にしても孤立化を何とかしないとだんだん悪い方向にいってしまうと思っていた」

有田の構想は、すでに働きかけている中国に加え、様々な国に対ソ防共の連帯を呼びかけ孤立脱出の足がかりにしようとする大がかりなものでした。

この時期、外務省と別の外交工作がドイツの片隅で一人の男によって進められていました・・日本の戦争への決定的なターニングポイントとなったとされるナチスドイツへの接近です。

ベルリン駐在陸軍武官・大島浩ヒトラーや大作曲家R.シュトラウスなどと交流し日独接近の立役者となりました・・世界がまだ大恐慌の後遺症に苦しむ中、もっとも見事な経済回復を成し遂げていた国がドイツでした。

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ヒトラーの下で猛烈な軍拡を進めるドイツは、激しい緊張を周囲にもたらしていました・・大島は陸軍中央の了解を得てドイツとの軍事的同盟を模索し始めました。

駐在陸軍武官 大島浩(肉声テープ)
「ドイツの方でもロシアを対象としてどこか仲間になる相手が欲しい・・これを利用したらどうかということを私は考えたのです・・陸軍からは、『具体化するまで黙っていてくれ』言われたので政府には報告しませんでした」

またしても生じた外交分裂、1936年の初め陸軍の動きを知った外務省は危機感を覚えます・・ドイツへの安易な接近は欧米諸国の反発を招き、日本を更に孤立させる恐れがあったからです。

外相秘書官 安東義良(肉声テープ)
「これは日本の外交体制としては最重点になる・・うっかり陸軍のいいような風にばかり考えていたらとんでもない事になってしまう」

しかし有田らは陸軍を止めるのではなくある国と手を結ぶ事で対処しようとします。

外務大臣 有田八郎(肉声テープ)
「ドイツだけじゃいかん・・ことにイギリスというのは同じようでなければ外務省は承諾しないと・・陸軍は反対したんだけどそれを押し切ってですね・・同時にスタートさせようと」

反ドイツの急先鋒だったイギリス、外務省はここを味方に引き入れる行動に出ました・・有田の意を受けイギリスの説得に当たったのは、駐英大使・吉田茂です。

1936年7月30日 イギリス外相 吉田茂 会談
吉田は、イーデン外相に対し防共外交への協力要請をこう切り出した…
駐英大使 吉田茂
「日本と力を合わせるよう中国にはあなた方の口添えをいただきたいのです」

アンシニー・イーデン外相
「失礼ですが中国側もこの事は了解しているのですか」

吉田の提案は10項目にも及んだ・・「イギリスは中国に防共への参加を説得して欲しい・・ゆくゆくはイギリスにも参加して欲しい」・・しかしイーデン外相は簡単に吉田の誘いには乗らなかった。

アンシニー・イーデン外相
「一つ間違えばこの協定は世界を割ってしまう事はないでしょうか」

防共外交は迷走を始めました・・ベルリンの大島は、早い段階からイギリスが防共協定に消極的な事を掴んでいました。

ヒトラーの腹心、リッベントロップがすでにイギリスとの連携を模索し失敗していたからです。

駐在陸軍武官 大島浩(肉声テープ)
「リッベントロップも私にはイギリスが到底、友にならんということをしっかり報告しようと言っていましたよ・・どうも総統はイギリス贔屓だから」

またしてもこの大島が掴んだ情報は、吉田ら外務省側には伝えられませんでした・・一方、吉田もイギリスとの交渉を独自の考えで進め出しました。

東京の意向を確認せずイギリスに中国の共同経済開発を打診したのです。

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外務大臣 有田八郎(肉声テープ)
「吉田君がシナ問題に関してイギリスと一緒にやろうとプロポーズしたと・・ところが日本の政府はそうは思ってなかった・・そこでイギリス側は違いがわかってきた」

イギリス側は戸惑いました・・ベルリンの大島らの動きも監視していたイギリスは、全てがちぐはぐな日本側の真意を疑い次第に不信感を募らせてゆきます。

「今日も吉田がやってきたが日本側の本当の意図がわからない」
「まともに彼らを相手にする必要はない・・このまま遊んでやればよい」

世界をまたにかけ、何とか孤立を回避しようとした防共外交の試み・・しかし自らを統制できない日本外交の現実は、かえって日本への信頼を失わせていました。

最初に防共協定を持ちかけた中国でも日本のまとまりの無さが影を落としていました・・1936年10月、蔣介石と川越茂大使の間で防共協定をめぐる交渉が大詰めをむかえます。

1936年10月8日 日中国交交渉・蔣介石と川越茂大使会談、だがこの時点で中国側が日本政府の提案に応じる可能性は無かった。

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1936年の暮れまでに中国が日本を見限り、ソビエトとの関係強化に踏み出していた事がソ連側の資料で初めて確かめられました。

更に最近公開された資料を詳細に読み説いた鹿教授は、この時期の蔣介石の心理を新たに明らかにしました。

大東文化大学 日本外交史 鹿錫俊 教授
「10/18日、日ソの軽重を考える・・」

日本の出方を注意深く見守っていた蔣介石・・日本が外交方針を統一できないと見るやついに決心を固めました。

大東文化大学 日本外交史 鹿錫俊 教授
「11/15日、ソ連と提携に傾く・・日本はまとまりがない・・外交は外務省がやっているのか陸軍がやっているのか・・何回も日本にやられると外務省が軍の意見を隠すための姿勢だけのものではないかという意見が中国の対日認識の中心になりつつあった」

イギリスやポーランドとの交渉も進展は無く日本側の思惑はカラ回りしていた・・その中で避けたかったドイツとの交渉が着々と進んでいった。

ロンドン大学 日英外交史 アントニー・ベスト教授
「日本のやり方には何か無理があったのだと思います・・外から見れば日本内部の混乱こそが信頼感を失わせていたのです」

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1936年11月25日、日独防共協定成立・・協定はソビエトはもちろん欧米各国の猛反発を引き起こしました・・この世界の反応に関しては大島ら陸軍側も読み違いを犯していました。

駐在陸軍武官 大島浩(肉声テープ)
「イギリスがあんなにドイツに反対するとは思っていなかった・・共産主義化というところをどこの国も警戒しているだろうと・・イギリスあたりも協定に対して非常な反感は持つまいと考えていました」

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1937年7月7日 日中戦争・・孤立した日本は翌年、中国との全面戦争に突入します・・世界との関係を回復しようとした日本は気がつけばドイツ以外の世界中を敵に回していました。

なぜ日本は孤立化への道を歩んだのか・・それはその時代の選択の一つ一つがきちんとした長期的な計画の下に行われていたのでは無かったという事です。

むしろ見えてきたのはハッキリとした国家戦略を持たずに甘い想定のもとに次から次へと起こる事態の対応に汲々とする姿でした。

いったい誰が情報を取りまとめ・・いったい誰が方針を決めるのか・・そして一旦決まった事がなぜ覆るのか・・そういった事が何も見えない日本は、やがて世界の信用を失ってゆく事になるのです。

方針も情報も一本化できずに内向きの都合のいい現実だけを見続けた果てに日本は太平洋戦争を迎えます・・外交敗戦とも言うべき国家の誤算は、海戦に至るその日まで繰り返されたのです。

欧米との対立が激化した1940年、かつての国際連盟 全権・松岡洋右外務大臣に就任しました・・この時、松岡が事態打開の切り札と期待した日独伊三国同盟(1940年9月27日)は、いよいよ日本を太平洋戦争へと追い込んで行きます。

外務次官 大橋忠一(肉声テープ)
「松岡氏は戦争のための条約じゃないんだ・・戦争を防ぐための条約なんだからとアメリカとの戦争を常に恐れていました・・アルマゲドンとか何遍聞いたかしらん・・大変な事になってしまう・・もう藁でも掴むんで仕方がない」

企画院総裁 鈴木貞一
「日本には計画的なものは一つもない・・これは今でもそうだ・・その時に起こってくる現象に沿うていろいろな事をやっているわけだ・・だから日独同盟を結んで・・そして日独同盟の力でアメリカに対抗しなきゃ・・それが結局裏目に出たんだな」