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”至宝”の外交史 「モナリザはなぜ海をわたったのか?」

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 BS歴史館 ”至宝”の外交史
モナリザはなぜ海をわたったのか?」

1962年12月14日 今から50年前の冬、まだ夜も明けないうちに一枚の絵が芸術の都、パリから持ち出されようとしていました。

永遠の微笑を称えたフランスの宝、門外不出の名画がこの日、ルーブル美術館の壁から外されたのです・・向かったのは遥か大西洋のかなたアメリカ・・モナリザは、アメリカ大統領、ジョン・F・ケネディーから熱烈なラブコールに応え史上初めて海を渡りました。

モナリザの微笑みにアメリカ市民は湧きかえり、2カ月で170万人もの人を集める空前の記録を打ち立てました・・でもこの時、世界は危機的状況にあった事をご存知でしょうか。

1962年といえば東西冷戦の衝撃的な事件、キューバ危機の起こった年・・核戦争の緊張が高まる中、フランスはいったいなぜ国の宝であるモナリザアメリカへ送り出したのでしょうか。

近年、このモナリザの渡米が単なるアメリカとフランスの文化交流では無かった事が明らかになってきました。

前代未聞、モナリザに海を渡らせたフランス大統領シャルル・ドゴール・・その狙いはなんだったのか・・フランスがモナリザに託した驚くべき外交戦略があったのです。


1961年5月31日 モナリザ渡米のその発端は、1961年の初夏に遡ります・・その日、フランスは一人の男を待っていました。

アメリカ大統領ジョン・F・ケネディー・・アメリカ大統領として初めてフランスを訪れた若きリーダーを市民は熱狂的に歓迎、その姿を一目見ようと沿道には50万人もの人々が詰めかけました。

しかしそんなケネディーブームとは裏腹にフランス大統領、シャルル・ドゴールとケネディーは話し合いの場で激しく衝突していました。

その争点は、核兵器・・フランスは1960年2月に核実験を強行し核兵器保有への道を模索していたのです・・アメリカとソビエト二つの核保有大国の冷戦の真っただ中、ケネディーは核兵器の拡散で核の均衡が崩れる事を何よりも恐れていたのです。

それでもあえてドゴールが核兵器保有にこだわったのは、国際社会でフランスが発言権を失ってしまう事を懸念したからです・・核兵器を持たなければアメリカやソビエトと対等に渡り合う事が出来ないと考えていたのです。

元々軍人だったドゴールは第二次世界大戦の時、ナチスドイツによるフランスの占領を体験しています・・軍事力が無ければ国家の独立は保てないという事を身を持って知っていたのです。

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両首脳は核問題についてまったく妥協点を見出す事が出来ませんでした・・ケネディーは記者団に対し 「フランスがこれ以上核実験を強行するなら国際社会に訴える」 とまで発言、話し合いは物別れの様相を呈しました。

しかしドゴールには、この事態を打開する為の切り札がありました・・それは文化と芸術、ドゴールにはフランスが誇る芸術作品の数々が強力な外交カードになるゆるという確信があったのです。

その為、一人の男を閣僚に抜擢していました・・文化大臣アンドレ・マルロー、彼は若い頃から世界を巡り、各地の文化や芸術に精通した世界的な作家、ドゴールはこのマルローに密かに特命を下しました。

それはアメリカのファーストレディーへの接近、大統領夫人ジャクリーンに狙いを定めたのです・・ジュ・ド・ポーム国立美術館、当時、印象派絵画の聖地として名をはせた場所です・・ケネディーのフランス訪問3日目、首脳会談のさなかマルローはここにジャクリーンを案内しました。

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ルノアールやモネの絵は、ジャクリーンのお気に入り、マルローは得意のユーモアを交えた解説で彼女を楽しませました。・・そんなマルローが醸し出す独特な存在感をジャクリーンは、「知的な恋をしたようだった」 と後に語っています。

したたかにジャクリーンの心をつかんだマルロー、しかし実は深い悲しみに耐えながらの任務遂行でした・・1週間前に2人の息子を交通事故で無くしていたんです。

ドゴールはすぐに夫婦でマルローの自宅を訪問して弔問し彼を慰めました・・そしてドゴールは、マルローに語りかけます。
「マルロー君の悲しみを私は十分理解している・・だがもし国の事を思うならどうか休まずケネディー大統領夫妻の相手をして欲しい・・これは重要な任務なんだ」
それほどドゴールとマルローはケネディーとの会談に懸けていたのです。

フランスの未来を思うドゴールの強い意志を汲みマルローは、パリ滞在のジャクリーンをもてなす事に全力を注ぎました。

その後も手紙のやり取りが続きます・・ジャクリーンは知的でハンサムなマルローに出会ってすっかり彼のとりこになってしまったんです・・そしてジャクリーンはマルローをアメリカに呼ぶ招待状を送るのです。

1962年5月10日、マルローはフランス文化大臣としてアメリカを公式訪問したのです・・マルローはアメリカの至宝が並ぶ国立美術館でジャクリーンに迎えられます・・パリでの初めての出会いから一年ぶりの再会でした。

晩さん会ではマルローの好みに合わせた数々の料理が用意されました・・その一品一品をジャクリーン自ら吟味するという異例のもてなしでした・・そして宴が終わりに近づいたころジャクリーンの口から一枚の絵の事がジャクリーンの口を衝いて出ました。
「是非、私どもにルーブルにあるフランスの傑作を貸して下さいませんか・・私、もい一度、モナリザを見たいのです・・もちろんアメリカ国民の為にも」

マルロー帰国後、報告を聞いたドゴール大統領は、直ちにモナリザを渡米させる事を決断・・その安全な輸送方法について具体的な検討に入るようマルローに指示したのです。

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しかし世界を震撼させる事件が起こるのです・・1962年10月、キューバ危機の勃発です・・米ソによる核戦争を予感させる未曾有の事態、誰もがモナリザ渡米が白紙に戻ると考えました。

しかしドゴールは意外な行動に出ます・・いち早くアメリカ支持を表明、更にマルローにはこう伝えました・・「モナリザ計画の中止は無い」 と。

キューバ危機にも揺るがなかったドゴールの堅い決意、しかしモナリザ渡米の最大の難関はこの後に待っていました・・フランス国民の猛反対、フランスの宝を外国に送るという前代未聞の計画に多くの市民が異を唱えたのです。

巻き起こる反対運動・・しかしドゴールは、そんな国民の声に直面してもモナリザを送る決定を覆しませんでした・・核を巡って対立を繰り返していたフランスとアメリカですがドゴールにはそんな両国の関係にこそモナリザが有効だと言う確信があったのです。

1962年12月14日 午前5時30分、ついにその時がやってきました・・モナリザルーブル美術館の壁から外されたのです・・厳重に温度、湿度を管理した特殊ケースに入れられ護衛を伴い船の待つルアーブル港へ向かいます。

この船旅に用意されたのは、豪華客船フランス号のスイートルーム・・まさにフランスが誇る至宝の大輸送作戦です。

1962年12月19日 モナリザは無事アメリカに到着
1963年1月8日 アメリ国立美術館モナリザの公開を祝うセレモニーが盛大に開かれました・・会場に集まった2000人の観衆に向かってケネディー大統領は喜びを伝えます。
「フランスが世界に誇る芸術の力を我が国に向かえる事が出来て嬉しく思う・・私はこの作品を目にして知りました。この作品がいかにフランス国民から愛され大事にされてきたという事を・・今日ここで偉大な絵画を前にして我々がフランスとともに歩んできた自由の歴史を改めて確かめよう」

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湧きあがる喝采、それを静かに見守っていたのがアンドレ・マルローでした・・こうして実現したアメリカでのモナリザ公開、2カ月で170万人を動員した一大イベントは今でもワシントンの街で語り草になっています。

その様子を海の向こうから静かに見つめていた男、ドゴール・・彼は公開から6日後、急遽記者会見を開き世界へ向けて演説を行いました。
「今やアメリカの核戦力は世界平和を保障するものになっている・・しかしこの核戦力がヨーロッパとフランスの危機に必ず迅速に使われる保証はない・・それゆえにフランスは独自の核戦力を持つ事をここに宣言する」

フランスはその後、アメリカの黙認のもと核保有国の仲間入りを果たし世界に確固たる発言力を持つ事になりました。

美の殿堂ルーブル美術館、そこに並ぶ芸術品の数々は、今も世界中の人々を引き付けてやみません・・もちろんあの微笑みも・・。