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織田信長の天下布武~民衆、寺社、公家との戦い~

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NHK高校講座 日本史 

織田信長天下布武~民衆、

寺社、公家との戦い~
織田信長の「天下布武」。信長といえば、「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」で有名ですが、実際、信長はどんな人物だったのでしょうか。

日本史の中で、現代の日本人の好きな人物ということでは織田信長は人気が高い方ですが、それは「天下布武」という目的を自己のスローガンとして、49年の生涯をさっそうと生き抜いたからかもしれません。

天下布武」とは、寺家つまり寺社勢力でもなく、公家つまり朝廷でもなく、武家つまり自分こそが天下の権を握る、という意味です。今日は、信長の人物像と信長が掲げたスローガン「天下布武」を、民衆、寺家、公家との戦いから考えたいと思います。まず、信長の生涯をたどってみましょう。

 

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信長の生涯
織田信長は、尾張守護代の家臣だった織田信秀の跡継ぎとして1534年に生まれ、18歳で家督を継ぎます。
1560年には、駿河から三河を押さえた強大な大名、今川義元桶狭間の戦いで破ります。
1567年、美濃の斎藤氏を倒し、岐阜を本拠として濃尾平野一帯を支配しました。このころ「天下布武」という四文字を刻んだ印判を用い始め、いよいよ京の都をめざして動き出します。

1568年、足利将軍家の義昭を擁して京都に入り、15代将軍に立てますが、1573年には、自分と対立するようになった義昭を追放し、室町幕府を事実上滅ぼしました。

同じ年、近江の浅井(あざい)氏と越前の朝倉氏を滅ぼし、北陸へも勢力を広げます。一方、越後・上杉謙信とは、一時は同盟を結びました。戦国最強と恐れられた武田氏に立ち向かうためです。

 

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狩野永徳が描いたとされる洛中洛外図屏風は、室町幕府の13代将軍・足利義輝上杉謙信に贈るために作ったものを信長が手に入れ、改めて謙信に同盟の印として贈ったと伝えられます。

そして1575年には、長篠・設楽原の戦いで、武田勝頼率いる騎馬軍団を、鉄砲を駆使して大敗させました。武田氏はこの後、勢力を回復できないまま滅んでゆきます。

1576年、天下統一の拠点とするため、近江に壮大な安土城を築き始めました。天主と石垣を具えた、新しい形の城でした。そして、中国地方を押える毛利氏との戦いに乗り出します。

しかしその最中、1582年に家臣の明智光秀が謀反。本能寺の変によって、天下統一半ばで49歳の生涯を閉じたのです。

 

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3つのポイント~ポイント

(1)国一揆との戦い
信長は各地の戦国大名と争い、全国統一をめざしましたが、相手なく、天下布武をめぐって他にも対立する相手がいました…それでは今日のポイントです。

(1)国一揆との戦い
国一揆とは、国全体の人々がまとまる一揆、つまり同盟のことです。信長がそれをどう破ったか、伊賀惣国一揆を例に見ていきます。

(2)寺家との戦い
自分に敵対する宗教勢力との抗争を、比叡山延暦寺本願寺を例にたどります。

(3)対朝廷政策
信長が朝廷をどう位置づけ、それまでの天皇の権限をどう自分のものにしようとしたのかを、馬揃、暦、譲位を例に考えます。


では、まずポイント(1)「国一揆との戦い―伊賀惣国一揆など」です。
「足利将軍」の回で国人一揆について学びました。その国人一揆の中で、特に国レベルの広がりを持ち、農民などの民衆も巻き込んで外部勢力を排除しようとしたものを、国一揆あるいは惣国一揆と呼んでいます。

国一揆は、戦国大名に支配されることを嫌い、自治を維持していました。その一つが、伊賀の国の惣国一揆です。伊賀とは今の三重県の一部です。伊賀の惣国一揆とは、どのようなものだったのか、そして、信長はそれをどう倒したのか、まとめていきましょう。


天正伊賀の乱
三重県西部の伊賀盆地には、あちこちに土塁で囲まれた家があります。この土塁は、中世に国人つまり地域の武士たちが防衛用に築いたものです。彼らは互いに同盟を結び、話し合いによって国を運営していました。それが「伊賀惣国一揆」です。

「万一敵が攻めてきたら鐘の音を合図にすること」「17歳から50歳までの者は陣に集まること」などを取り決めていました。そして、伊賀の国人の代表たちが伊賀国を治めたのです。都周辺の地域が次々と信長の勢力下に入る中、伊賀はあくまで独立を守っていました。

1578年、信長の二男・信雄(のぶかつ)は、伊賀国を制圧するために、まず拠点として丸山城を築いた(あるいはかつてあった城を再び整備した)と伝えられます。しかし、この城は、伊賀惣国一揆から先制攻撃を受けて焼き払われてしまいます。

翌年、信雄は軍勢を率いて伊賀を攻撃しました。ところが、伊勢から山を越えて伊賀に入ったところで、伊賀勢から集中攻撃を浴びます。織田側は多数の戦死者を出し、信雄はかろうじて伊勢に逃げました。第一次天正伊賀の乱です。

当時京にいてこの知らせをきいた信長は、「言語道断。とんでもないことだ。親子であっても許せない」と激怒しました。

 

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2年後の1581年9月、信長はついに、伊賀を徹底的に征服する作戦に出ます。信雄を総大将に、数万の大軍を周囲の6つの経路から一斉に攻め込ませました。迎え撃つ伊賀勢はわずか9千。あっという間に伊賀各地の城や砦は焼き払われ、女性や子どもも殺されて、伊賀の惣国一揆は壊滅してゆきました。

生き残った者は、最後の砦・柏原城に立てこもりましたが、ついには降伏、ここに第二次天正の乱は、信長の勝利で幕を閉じたのです。

 

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ポイント(2)寺家との戦い、比叡山焼き打ち
これは伊賀の方から信長を攻撃したわけではありません。
信長の掲げたスローガン、天下の権を武家つまり自分が一手に握るという「天下布武」の考え方からすると、伊賀国のような、上の権力を認めず合議制社会である惣国一揆の存在を認めるわけにはいきませんでした。まさに天下布武のための、民衆との戦いだったわけです。

次はポイント(2)「寺家との戦い、比叡山焼き打ち、石山合戦」です。
天正伊賀の乱は1581年で、信長の「天下布武」の戦いの大詰めのころのことですが、それに至るまで、他の敵対勢力との争いがありました。中世の社会は、公家・寺家・武家という3つの権門が、お互いに補完し合いながら、国つまり政権を作り上げていました。

信長は、武家こそが権を握る「天下布武」達成のために、他の権門、特に寺家勢力との壮絶な戦いを行なったのです。

その背景としては、信長が都に入った後の1570年代前半、その信長に対して作られた包囲網がありました。

将軍義昭は信長のおかげで将軍になれましたが、実権を信長に握られたことから信長との関係が悪化してゆきます。さらに、戦国大名の近江の浅井氏、越前の朝倉氏、甲斐の武田信玄、大和の松永久秀三好三人衆と呼ばれる勢力、そして寺家の比叡山延暦寺などが連携して、反信長包囲網をしいたのです。

反信長包囲網に対する信長は、まさに八方塞がりの状態。信長にとって、生涯で最大の危機をむかえていました。そこで、比叡山との戦いを進めてゆくことになります。これに関しても一緒に見ていきましょう。


比叡山焼き打ち
比叡山延暦寺は、平安時代最澄が興した天台宗の総本山で、中世の日本では強大な勢力をほこっていました。1570年、信長と対立していた浅井・朝倉連合軍が、比叡山に立てこもりました。信長は比叡山に中立を求めますが、比叡山からは回答がありません。

追い込まれた信長は、足利将軍や正親町(おおぎまち)天皇の仲介を得て、ようやく浅井・朝倉、比叡山と講和しました。

しかし、翌年の1571年、信長は突然比叡山に攻め込みます。浅井・朝倉連合軍が引き上げて手薄になった比叡山の伽藍や、門前町・坂本、日吉神社などを、信長軍は一方的に焼きつくしました。いわゆる比叡山の焼き打ちです。この焼き打ちによって、比叡山は火の海となり、多くの人々が殺されたといわれています。

この焼き打ちは、前年、比叡山が、浅井・朝倉軍が立てこもることを許し、その後も反信長勢力を支援する立場を取っていることに対しての行動だったといえます。

いきなり不意打ちをかけたようにいわれていますが、実はそうではありません…比叡山に、浅井・朝倉軍が立てこもったとき、信長から比叡山に対し、次のように申し入れたと伝えられています。

「自分に味方するなら比叡山の領地を保証する、味方が無理なら中立を守ってほしい。そして、断るなら、伽藍などを焼き払う。」

こう通告していましたが、比叡山側はこれを無視しました。そこで翌年、軍事的に手薄になったときをねらって焼き打ちとなったのです。信長にとっては、比叡山という“寺”を攻めるということではなく、軍事拠点となった比叡山という“城”を攻めるという感覚だったのではないかと思われます。

また、当時近江のほとんどの地域に荘園を持っていたのが比叡山延暦寺で、近江支配を目指す信長にとって邪魔な存在でもありました。事実、焼き打ち後、比叡山の領地は没収され、家臣の明智光秀柴田勝家らに分配されました。

 

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信長の宗教勢力との戦い、次が石山合戦です。
石山とは、当時大坂にあった浄土真宗本願寺のことです。浄土真宗本願寺の教団は一向宗とも呼ばれ、戦国時代、各地で一向一揆を起こしました。一向一揆は、どんな罪人であっても阿弥陀仏の力で救われる、と説く教えをより所に、信者たちが一揆つまり同盟を結んで武力で蜂起し、戦国大名の支配に反抗しました。

大坂の本願寺のトップである顕如は、加賀、伊勢長島、越前、紀州雑賀、三河など各地の一揆に支えられていました。信長と本願寺との鋭い対立を「石山合戦」と呼びますが、その発端は、1570年9月のことでした。

この時点では、信長と将軍足利義昭はまだ協力関係にあります。三好三人衆という反信長勢力が、阿波、今の徳島県から摂津、今の大阪に攻め上ってきて陣を構えました。信長・義昭の軍がそれを攻めにいったところ、本願寺が突然、信長軍を攻撃したのです。

何故突然、信長軍を攻撃したのかですが、三好三人衆に対した信長軍の布陣が、結果として本願寺を囲む形となったため、顕如本願寺)は、信長が本願寺をつぶそうとしていると見たという説があります。石山合戦は、この発端から10年に及び、その間、幾度かの戦闘がありました。その経過を見てみましょう。

 

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石山合戦 
当時の本願寺は現在の大阪城の場所にあり、寺を中心に独立した街を作っていました。中央の巨大な伽藍の周りには堀がめぐらされ、要塞となっていました。街には2千戸もの家があり、本願寺に保護されて商業が栄えていました。

写真は一向一揆が掲げた旗印です。本願寺は各地の一向一揆と連携して信長に立ち向かいましたが、信長はそれらを厳しく弾圧してゆきました。

1574年、尾張に近い伊勢長島の一向一揆との戦いでは、降伏した門徒たちが城から退去したところを攻撃するなどして、多くの死者を出しました。また、朝倉氏を滅ぼして手に入れた越前で1574年に一揆が起こると、翌年信長自ら制圧しました。

本願寺顕如は1576年、越後の上杉謙信、甲斐の武田勝頼、安芸の毛利輝元らと2度目の信長包囲網をつくり、戦いに立ち上がりました。信長は、本願寺の鉄砲隊に苦しめられながらも、次々に砦を築き寺を包囲、兵糧攻めにしました。また、本願寺に支援物資を運び込む毛利氏の水軍を打ち破るため、鉄板を張った燃えない船を作らせました。

そして1580年、抵抗を続けられなくなった本願寺は遂に、天皇の命令という形で信長と和議を結びます。条件は、顕如が大阪を退去する代わりに本願寺を許し、教団の存続を認めるというものでした。信長は、10年間に及ぶ争いの末に、本願寺一向一揆勢力を屈伏させたのです。

 

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ポイント(3)朝廷との戦い 
10年もかけて信長が戦った理由ですが、大きくは4つ考えられると思います。
1つは、本願寺が瀬戸内海と都とを結ぶ重要な場所にあり、そこを自分の支配下におきたかったということです。

2つめは、本願寺に加賀一国の年貢が送られていて、加賀が本願寺の領国のようになっていました。信長としては、大名と同じような力を持つ勢力を残しておくわけにはいかなかったということです。

第三に、支配者として、一向一揆のような自力救済=自分たちの権利は自分たちの実力で守るという考え方を認めるわけにはいかなかったということです。

4つめに、本願寺にしても比叡山延暦寺にしても、信長と対立する大名と同盟し、反信長包囲網を担ったという側面がありました。これらが、本願寺と戦った大きな理由だと考えられます。

先ほど2度目の信長包囲網をつくったとありましたが、1576年には、本願寺が西の毛利、東の上杉、武田らと結んで、信長包囲網の核・中心になっていました。

信長に随っていた荒木村重が摂津で反逆、また、足利義昭紀州から備後=今の広島県に移って、西から反信長を呼びかけていました。しかし、それに応えて救援物資を送る毛利の水軍を鉄張り軍船で破り、10年かけた「石山合戦」は終わりました。

ただ、ここで注意しておかなければいけない点は、信長は寺家を抹殺しようと考えていたわけではなかったということです。自分も神社に寄進したりしています。

信長の戦いは、寺社勢力の世俗的な権力を奪い、武家による全国支配を実現するための行動であり、まさに「天下布武」の一環だったといえるのです。


対朝廷政策
そして3つめのポイント=対朝廷政策ですが、信長の次のターゲットは公家でした。
当時、天皇家も公家も、荘園からの収入が減り、力が弱まっていました。信長は、朝廷に寄付を行なって、その見返りに朝廷の権威を利用していきます。

例えば、比叡山との講和、本願寺との講和はいずれも、天皇の仲介・命令という形、つまり天皇の権威を借りて行なわれたものです。そして、敵対勢力を次々と倒す中で、「天下布武」を打ち出す信長は、朝廷とそのトップである天皇に対しても何らかの形で手をつけずにおけない事態となっていきます。

信長は、天皇を何でも自分の意のままになる天皇に交代させようと考えたと思われます。具体的には、まず1つは正親町天皇が譲位すること、誠仁(さねひと)親王が即位すること、を要求しました。次に1581年、京都の皇居横で馬揃(うまぞろえ)が行なわれています。

馬揃えというのは信長軍団の威容を示す軍事パレードのことですが、この馬揃えを、信長は2月28日と3月5日、あまり日をおかず行なっています。

信長公記」には、「2月28日、京都周辺の大名や武士たちを集め、優れた馬を集めてパレードを行なった。正親町天皇もこれを見てたいへん喜び、信長は面目を施た。そして、3月5日、朝廷側からのアンコールでもう一度行なった」と書いてあります。

ただ「信長公記」にはそう書いていますが、実際はおそらくそうではないと思います。軍事力を見せつけることで、正親町天皇に対して譲位要求の圧力をかけたと考えられるのです。

しかし、正親町天皇はその圧力をかわしました。信長の意のままになる天皇の出現を何とか阻止したいという思いがあったからです。

 

信長はさらに朝廷に圧力をかけていきます。暦問題です。
もともと元号決定と暦に関することがらは、天皇に決定する権限がありました。天皇は、国土・人・時を支配しているという形だからです。

当時、全国的には朝廷の定めた京暦が使われていました。しかし、地方ごとに独自の暦も存在しており、信長の出身地の尾張にも、尾張暦がありました。

信長は、朝廷に京暦ではなく、尾張暦を使うようにと主張したのです。これは、要するに無理難題を押し付けたのであり、時を支配する天皇の大権を信長が侵しはじめたということになります。

朝廷及び天皇は、天皇の権威が低くなることを恐れました。信長と交渉した朝廷からの使い(勧修寺晴豊)は、「これ信長むりなる事候」と日記に記しています。

信長の譲位の要求は、いわば「治天の君」として日本の頂点に立つことへの布石でした。一切の官職につかず、天皇より上になることであったと考えられるわけです。
そしてその現れではないかと考えられているのが、安土城の構造です。

写真は、安土城の古図ですが、信長がいるのは天主の上の方です。一方本丸には、天皇行幸してきたときに迎える御所=御幸の間が建てられました。これは、天主が御幸の間を見下ろす形となっているのです。上下関係が誰の目にも明らかになります。

正親町天皇は、信長の「治天の君」になるという野望を何とか阻止しようとし続けました。まさにそうした中、さきほどの暦事件の直後に本能寺の変が起こります。本能寺の変がなければ、天皇はいつまで信長の要求を拒み続けられたかはわかりません。

明智光秀の謀反は、絶妙なタイミングだったといっても過言ではないのです。