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旅行会社の元社員が書く旅日記です…観光情報、現地の楽しみ方、穴場スポットなどを紹介します。

東北に輝け!黄金都市 ~平泉、奥州藤原氏100年の夢~

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NHK 歴史秘話ヒストリア
東北に輝け!黄金都市 ~平泉、奥州藤原氏100年の夢~

2011年、新たに世界文化遺産が生まれました…平泉です。東北地方での初めての登録…平泉は岩手県南部にある人口8500人の小さな町、しかし、ここは平安時代の終わり東北の中心地として繁栄を極めていました。

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その時代に築かれた黄金に輝く、中尊寺金色堂や平安の雅を伝える毛越寺の庭園などの文化的価値が評価されたのです。…こうした繁栄を築いたのが奥州藤原氏と呼ばれる一族です。

奥州藤原氏は、平泉を拠点に100年に渡り、広大な東北を一つにまとめ高度な文化を花開かせました…およそ900年前、東北の地に都をもしのぐ輝きを放った幻の黄金都市でした。

奥州藤原氏100年の繁栄は、藤原三代と言われる…初代清衡、2代基衡、3代秀衡の3人の繁栄です…その平泉繁栄の礎を築いたのが初代清衡です。

清衡は、なぜ中尊寺を建立したのか、その思いを伝える文書が残されています。…「東北では、数多くの人々の血が流された…罪なき人々の魂を浄土へ導きたい」…金色堂に込められた清衡の願い、それは壮絶な前半生から生まれたものでした。

episode 1
そして誰もいなくなった
金色堂 涙の誕生秘話~

平安時代東北は、陸奥と出羽に分かれ、京都から派遣された役人、陸奥守・出羽守に支配されていました…地元の人たちは、辺境の民・蝦夷、征服された人たちという意味の俘囚などと呼ばれ、偏見や差別を受けていました。

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天喜4(1056)年、奥州藤原氏 初代・清衡生まれる…父は陸奥守に仕える役人、藤原経清…一方、母は陸奥の豪族・安倍氏の娘、この生い立ちが清衡の悲劇の始まりでした。

都の横暴さに反発した阿部氏と陸奥守の間で戦いが始まります…清衡の父は上役の陸奥守に従います…しかし、やがてその横暴さに反発、家臣を連れて妻の実家の安倍氏の側び寝返ります。

戦いは安倍氏有利に進みます…このまま行けば都の支配を離れられるのですが陸奥守は、別の豪族・清原氏口説き安倍氏を攻めさせます。

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陸奥守の策略で東北の人々同士が争う悲惨な戦いとなったのです…清原氏の参戦で安倍氏は滅亡、…東北の自立を求めた戦いは敗北に終わったのです。(1062年)…清衡の父も捕えられ殺されました。

この時、清衡7歳…父と母の一族を同時に失うのです。…そんな清衡に更に数奇な運命が…身寄りを無くした母が敵として戦った地元豪族・清原氏に嫁ぐ事になったのです。…清衡も母とともに引き取られます。

そして父を滅ぼした敵の家で血のつながらない兄と母が再婚後に産んだ弟と生きてゆく事になるのです。


平泉 初代・清衡
繰り返される悲劇

永保3(1083)年 清衡28歳 およそ20年の月日が経ちました…この頃、血のつながらない兄が清原氏の当主になります。しかし、その強権的な振る舞いが元で3兄弟の間で争いが起こります。

この争い初めは、いわば兄弟げんか…しかし、ここでまた都から来た役人・陸奥守が介入してきます。…内紛に付け込み東北での自分の影響力を強めようと狙ったのです。

陸奥守の介入によって争いは長引き、東北全体へと広がっていきます…戦いの中で数多くの東北の人々が犠牲になります。(後三年合戦)

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陸奥守率いる軍勢は、兵士だけでなく女性や子供までも容赦なく虐殺しました…清衡の妻と子も館に火をかけられて焼き殺されてしまいます。…そして兄も弟も命を落としました。

寛治元(1087)年 清衡32歳 4年に渡る戦いによって東北最大の豪族、清原氏は清衡一人を残して事実上、滅亡します。…ただ一人生き残った清衡は、東北の再建という重い使命を背負う事になったのです。

東北芸術工科大学 教授 入間田宣夫さん
「戦争に次ぐ戦争、被害を受け、被害を与え、もう手が血でまみれている…清衡の周りには、恨みつらみを持った人が非常にたくさんいた…そして、またいつ戦争が繰り返されるか…そういった人々の怨念、恨みの気持を消し去りたい」

後に清衡が東北再建の要として建立したのが中尊寺です…20年を超える歳月をかけ、造り上げたお堂や仏像、戦いで命を落とした人々の鎮魂の願いが込められていました。

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清衡の思いを伝える言葉です。…「古来東北では、数多くの人々の命が奪われてきた…罪なく命を奪われた者たちの魂を慰め浄土へと導きたい」(中尊寺建立供養願文)…極楽浄土を地上に表わしたといわれる金色堂、その輝きの影には清衡の深い悲しみと苦悩が隠されていたのです。

 

 

 

 

 

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NHK 歴史秘話ヒストリア

藤原清衡の時代より前、平安時代の初め頃にも朝廷と東北の人々との間で大きな戦いがありました…それを表わした絵巻には、…朝廷側の総大将は坂上田村麻呂、凛々しい騎馬武者姿です…一方、田村麻呂に責められる東北の軍勢「蝦夷」の姿は、大きな鼻、頭にはツノまで…。

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この絵巻は実際の戦いから遥か後の時代に京都の絵師がイメージで描いたものです。

東北芸術工科大学 教授 入間田宣夫さん
「古代国家は、自分たちこそ文明人で、それに従わない北の辺境の人々は、人種的にも劣った『野蛮人』だといって差別するのです…時代が違うとはいえ、こうした絵は、都の人が東北に抱いていた根深い偏見の名残だったのです」

清衡によって開かれた平泉の町、12世紀、平泉には壮麗な寺院が立ち並び京都に次ぐほどの繁栄を誇っていました。…一説によると最盛期には、10万人もの人々が暮らしたと言われています。


episode 2
立ち上がれ!東北
~清衡 黄金のミッション~

相次ぐ戦いを経て東北を率いるリーダーとなった清衡、彼の願いは二度とあんな無残な殺し合いを起こさない事でした。

東北に平和で自立した国を!…清衡の後半生を懸けたミッションが始まります。

MISSION-1
都の干渉を排除せよ!
前の2つの大戦では、都から来た役人、陸奥守の介入が争いを大きくする原因となりました…東北に平和をもたらすには都からの干渉を排除する事、そこで清衡がとった作戦は・・。

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清衡が都で権力を握る関白に馬を献上したという記録があります…当時東北は名馬の産地として知られていました。…清衡は、東北の名産品を権力者に送る事で都との間に独自の外交ルートを築こうとしました。

盛岡大学教授 大矢邦宣さん
「都の人たちが欲しい特産物は、私に任せておけば、きちんと集めて欲しいだけ都に送ってあげるから…これを清衡は最大限に利用したのです」

この贈物作戦で特に大きな力を発揮したものが黄金です…当時日本の金の殆んどは東北で産出されていました。更に都ではこの頃、大量の金を必要とする事態が起きていました。

末法と言われ仏教が衰退し、世が乱れるという時代が来たと信じられていたのです…貴族たちは救いを求め競うように仏像を作らせたのです。ある天皇は、なんと生涯に6000体以上の仏像を作らせたといわれます。

光る輝く仏の姿を表わすため、仏像造りには大量の黄金が必要でした…このため東北の金へのニーズが一気に高まったのです。

清衡は、有力者に金を送り届ける事で都に東北の見方を増やして行きました。巧みな外交戦術によって都からの干渉を抑え込み東北が自立する下地を築いていったのです。


MOSSION-2
東北をひとつに!

先の戦いが大きくなったもう一つの原因、それは東北の中での対立や争いでした。同じ過ちを繰り返さないために東北の人々を一つにまとめなければなりません。

その為には各地の行き来を便利にし、人々の交流を活発にしよう。…そこで清衡が取り組んだのが東北全域をつなぐ幹線道路の整備でした。その道筋は現在の東北の大動脈、東北自動車道と同じようなルートだと考えられています。

東北を南北に貫く500キロにも及ぶ道は、奥大道と呼ばれています…これにより広大な東北が一つにつながったのです。更に清衡は、奥大道のほぼ真ん中に東北の都ともいえる新たな都市を築きます…それが平泉です。平泉は奥大道だけでなく、水運の大動脈である北上川に面した交通の要衝でした。


MISSION-3
文化の力で都を超えろ!

都の貴族たちは、東北を都より遅れた土地とみなし根深い偏見を持っていました…この偏見こそ都との対等な関係を築く上での大きな生涯でした。

ならば東北に都に負けない高い文化を築いてみせる…その為に清衡が建立したのが中尊寺です。…金色堂からは清衡の狙いが読みとれます。…金色堂は光に満ちた極楽浄土に住む阿弥陀如来を祀る御堂です。

当時、阿弥陀如来の御堂は都でも数多く造られました…しかし、光輝く浄土の姿をここまで忠実に表現した例は都にもありません。…清衡は当時最高の技術と素材を惜しげもなくつぎこみ、都にも出来ない高度な仏教文化を築いたのです。

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そして清衡が中尊寺に治めた経典、『紺紙金銀字交書一切経』(国宝)は紺色に染めた紙に金と銀を一行ごとに交互に用いてお経が書かれています。…このようなお経は、日本では他に例がありません…当時の先進国、中国のスタイルをとりいれたといわれています。

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清衡は都を凌ぐ最先端の文化をとりいれ、東北の実力を示してみせたのです。

盛岡大学教授 大矢邦宣さん
「決してそれは、都のモノマネではなく、更にその上…独創的・先進的なものを目指した。都からも一定の評価を得た…都からの偏見・差別を乗り越えるものを示したのです。

清衡が中尊寺完成に合わせて書かせた『中尊寺建立供養願文』、そこには中尊寺を建立したもう一つの願いが記されています。

「この寺の鐘の音は全世界に響き渡り、あらゆる者の苦しみを、みな平等に取り除く…仏教を尊ぶならば東北も都も等しく浄土である」

清衡は、都から差別を受け続けた東北の平和と自立を高らかに歌い上げたのです。

大治3(1128)年 中尊寺の完成から僅か2年後、藤原清衡 死去(享年73)…清衡の思いは奥州藤原氏の後継者(二代・基衡、三代・秀衡)たちに受け継がれていくのです。

金色堂に守られた平泉の街は、清衡の孫・秀衡の時代、人口10万といわれる大都市へ発展します…町の中心には、幅30mの大通り、通り沿いの建物には交易でもたらされた貴重な品々が収められていました。

壮麗な寺院がいくつも築かれ、東北の平和と繁栄への祈りがささげられたのです。…奥州藤原氏の下で東北は、まさに黄金時代を迎えたのです。

 

 

 

 

 

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NHK 歴史秘話ヒストリア
東北に輝け!幻の黄金都市 ~平泉 奥州藤原氏100年の夢~

歌舞伎の人気演目、勧進帳源義経が弁慶らとともに平泉に落ちのびる途中の一場面を描いています。…数々の文学や芸能に取り上げられてきた日本史きってのスーパースター源義経

義経は、源平の合戦で大きな功績を上げながら、兄・頼朝との対立から都を追われ、平泉に逃れてきます。…この義経の存在が平泉と奥州藤原氏の運命に暗い影を落とす事になります。

平和を守るか、自立の為に戦うか…3代目・秀衡が迫られた究極の選択とは!


episode 3
平和か?自立か?
~平泉・運命の選択~

平安時代も終わりに近づいた12世紀後半、平泉では清衡の孫・秀衡が当主を務めていました…この頃、都では平清盛ひき入る平家が栄華を誇っていました。

しかし大きな時代の変化が訪れます…治承4(1180)年、源頼朝が平家打倒を掲げて挙兵したのです。…頼朝は、鎌倉を拠点に関東の武士たちを束ねます…源氏の勢力は、一気に拡大しました。

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源氏の台頭に恐れをなした平家のリーダー平清盛は、東北の秀衡に頼朝への攻撃を要請します。…しかし秀衡は動きません。

東北は、これまで中央での争いに距離をおく事で平和を保ってきました…秀衡はその方針を貫いたのです。

しかし情勢は、秀衡の思惑を超える速さで変わって行きます…源氏の軍勢は、頼朝の弟・義経の大活躍もあり平家を圧倒、頼朝の挙兵から僅か5年で栄華を誇った平家を滅亡へ追い込みました。

平家を滅びした頼朝は、関東から西日本にいたる武士たちを束ねる総大将となります…圧倒的な武力によって権力を握る新しい時代のリーダーが誕生したのです。

そして頼朝は、最後に残った東北に狙いを定めました…間もなく秀衡の元に頼朝からの手紙が届きます…頼朝は、藤原氏が京都に送る黄金や馬を今後は、鎌倉を通して送るよう要求してきたのです。

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これは、奥州藤原氏が東北の自立の為に築いてきた都とのパイプが断ち切られる事を意味していました。…秀衡は東北を手中に納めようとする頼朝の野心をハッキリと思い知らされたのです。

東北の平和と自立を守るためにどんな道をたどるべきか秀衡は思い悩みます…まさにその頃、思わぬ人物が平泉を訪れました。…頼朝の弟・源義経です。

義経は平家との戦いで大活躍しましたがその後、頼朝と対立、追手をかけられ平泉に逃れてきたのです…義経を受け入れれば頼朝との対決は避けられません。

秀衡は究極の選択に迫られます…義経を受入れるか、それとも拒絶するか…秀衡の決断は、義経の受入れでした。…頼朝に服従するのではなく、義経とともに頼朝と対決する道を選んだのです。

東北芸術工科大学 教授 入間田宣夫さん
義経も頼朝と同じ、武家の名門である源氏の御曹司…義経を立てて金看板ににて頼朝と対抗する意志はは明確だったと考えます」

戦えば平和を失うかもしれません…しかし秀衡には、17万ともいわれる軍勢があります。…源氏の名高い武将・義経を立てて頼朝と戦い東北の自立を守り抜こうとしたのです。

文治3(1187)年、ところが奥州藤原氏の当主・秀衡は、病に倒れ帰らぬ人となります。藤原秀衡 死去…。

東北は、頼朝との戦いを前に絶対的な指導者を失ってしまったのです。…秀衡を失った東北に頼朝の脅威を跳ね返す力は、もはや残っていませんでした。

秀衡の死から2年後、頼朝の率いる大軍勢の襲撃を受け、平泉は1月たらずで陥落します。…平和で自立した東北を目指した奥州藤原氏、その100年に渡る夢は、武力が支配する時代の訪れによって幕を閉じたのでした。

平泉に入った源頼朝は、中尊寺をはじめとする寺院の壮麗さに目を奪われます…頼朝は、勝利に勇み立つ武士たちに平泉のお寺には決して手を出すなと厳しく命じました…更には家臣に命じ、お寺の修理までさせています。

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やがて江戸時代には、平泉は伊達家の領地となりますが伊達正宗以下、代々の仙台藩主も平泉の寺院を手厚く保護しました。

奥州藤原氏は滅亡しましたが、彼らが築いた平泉の文化は、いつの時代も東北の精神的な柱として大切にされ続けたのです。

そして奥州藤原氏の滅亡からおよそ800年、平成23(2011)年6月、平泉が世界遺産に登録、それは大震災で傷ついた東北を励ます出来事でした。…2011年7月、世界遺産登録を記念し、東関東大震災の犠牲者を悼む法要が催されたのです。